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2005年01月31日

テスト動画

テスト動画です。正月ボケを直そうと始めてみたら、3週間くらいかかってしまいました。とにかく絵が動くってのは難しい。そして面白い。


(追記)
会社のMacで見たところ、MacのIEでは「Play」の画面で止まってくれないようです。ただし、何も無いように見えてちゃんと「Play」ボタンは生きておりますので、真ん中あたりをクリックして頂ければ再生されます。

Posted by Syun Osawa at 01:18

2005年01月29日

ハウルの動く城

監督・宮崎駿/製作・スタジオジブリ

ハウルの動く城この作品、本当に宮崎駿監督作品なのだろうか? 宮崎駿の作品というよりは、『猫の恩返し』とか『茄子 アンダルシアの夏』あたりのジブリ作品っぽさが強く出ていた気がする。この微妙な変色は宮崎駿の作家性が変質したからなのか、それとも単に老いたからなのか。僕には女性天皇容認問題以上にジブリの跡継ぎ問題が深刻に映っている。

例えば、老婆になったソフィーが丘を登る途中で木に埋もれたカカシを助けるシーン。昔の作品ならば絶対にカカシが起き上がった瞬間に、ソフィーは反動で逆方向に倒れ込んでいたはずだ。オーバーな動きがない。微妙なところだけど、他にも風の使い方とか、動物との戯れ方などの細かな動きの積み重ねにどこか違和感を感じてしまった。

宮崎駿作品ということをひとまずおいて、ジブリ作品として感想を述べるならば、ネットで書かれているほど悪い印象は受けなかった。キムタクの台詞についても、そもそもこの作品自体が新劇調の台詞回しを軸に作られていたので、あんなもんだろうと思うし、ヤングアダルト作品として捉えれば、状況のめまぐるしい変化と(宮崎駿作品にはあまり見られない)「男」を匂わすようなハウルのキャラはかなり上質だと思う。そして火の悪魔もよく出来ている。なお、同映画で一番好きだったシーンは王宮へ向かう大階段のシーン。ソフィーと魔女がただ階段を上るだけの場面なんけど、苦しそうに上りながら、いつしか二人が人間的に打ち解けあうという素晴らしい展開を見せている。台詞なしでこういう描写に挑戦するスタジオはジブリ以外にはないだろう。

しかしながら残念だった部分もある。背景美術に感動しなかったこと(理由は不明)。物語を通して人間の成長を描かなかったこと(毎度こればっかりなで、あえてやらなかったのかも)。展開を急いだこと(これでソフィーの人間性の大部分がカットされたのではないだろうか)。これら全てが、僕が宮崎アニメの好きだった部分であり、ジブリ作品で食傷気味だった部分でもある。宮崎駿の名を借りた新生ジブリ映画という雰囲気はこんなところからきているのだろう。

うーむ。ダメだな。宮崎アニメとひとくちに言って、何でも横軸で宮崎界隈のアニメを考えるのは。時代というのがあるのだし、縦軸(時間軸)も含めて立体的に見なければいかんな。何でも『ラピュタ』に帰着させて、並列で考えるのは悪い癖だ。少なくとも実写版デビルマンよりはデビルマンらしかったし、そこで思考停止して、この映画を観る前に購入していた『宮崎駿の世界』(竹書房)を読み始めることにしよう。

Posted by Syun Osawa at 16:18

2005年01月27日

懺悔録

梶原一騎/幻冬舎

懺悔録move on web. の自己紹介画像が梶原一騎に似ているのは、この本を読み終えた直後に描かれたからに他ならない。この本は数々の有名女優と浮名を流した思い出と、半生を綴ったエッセイである。梶原一騎といえば漫画原作者として有名なのだが、本書の中では作家としての部分はちょこっと触れているだけ、ほとんどは女優との思い出話なのである。これが凄い。

あの厳つい顔で、ケンカが強く、女好き。しかもよくできた嫁がいて、その嫁に愛想つかされて実家に帰られて、その後に台湾の歌手と偽装結婚して、大きな病気をやって、最後に最初に連れ添った嫁と再婚するという本当に漫画のような人生だ。そして、その嫁と再婚する際、うん十歳の花嫁にウエディングドレスを着せて結婚式をやったという逸話を読んで、世の中というものは終わりよければすべてが許されてしまうのだという何かしらの本質を見た気がした。僕はこういう人間論的なものにとっても弱い。

梶原一騎といえば『あしたのジョー』のオープニングシーンにあるような東京のドヤ街で暴れていた不良少年というイメージがある。しかし実は、青山大学附属小学校で学んでいたことは意外に知られていない。つまりボブ・ディランと同じなのである。

僕のような阿呆が彼の作品に触れると、たとえば『あしたのジョー』を見た後にボクシングをしたくなったり、『愛と誠』を見たときに清く正しい情熱的な恋愛をしたいと思うようになる。これは決して読者を突き放したりしない生々しい彼の生き方が、ダイレクトに僕の人生へ語りかけるからに違いないと興奮するからだが、しかしそこには発信者と受信者の間に微妙な温度差があったのだ。早く銀座へ行きたいと思いつつ、ラーメンを食べながら原稿をササッと書き上げる。実は梶原一騎という男はかなり冷静な視点で物事を捉えていたのだと、この本を読んで気づかされた。まぁ、当然といえば当然の話なのだが。

古本屋で購入したものの未読になっている『続・カラテ地獄変』(全10巻)の束を眺めながら、「人間を描く」ためには作家自身も人間らしく生きなければいけないのだと、とっても当たり前のことを当たり前に思った。その答えは「シンプルに考える、シンプルに判断する」に尽くされるのだが、それがいまの世の中、なかなか難しいんだよなぁ。

Posted by Syun Osawa at 19:40

2005年01月25日

She Felt

(4:44s/mp3/192kbps/6.51mb) download
by Dub Jay

Dub Jay - Mai EPDub Jayがネットレーベル KiKAPU からリリースした『Mai EP』の一曲目。ベタなメロディが昔のMODみたいで良いです。まさにドリ〜ムな感じ。イントロから続くピアノは、素直なメロディで哀愁っぷりがよく出ています。

とはいえ、打ち込みですから。情感がこもってないような音は、僕の上司に言わせれば「どうでもいい音」らしいですが、味気ないリフというのは僕はそれほど嫌いじゃない。展開もかなりベタにズンズン入ってきて、正確に立体的に膨らんでいく展開に安心感があります。メロディをホーン系のシンセ音で取るのもMODライクだし、まったりドリ〜ムは相変わらずツボですな。

次回から4回にわたりxerxesの曲をダラッと紹介します。

Posted by Syun Osawa at 23:59

2005年01月23日

宇多田ヒカル偽史 ver.1

なるものを作ろうと思ったけど、面倒臭くなって断念。僕は宇多田ヒカルには成功して欲しかった。少なくともコロンビア大学は卒業して欲しかった。という本人にとっては「大きなお世話」な事を、アイドルオタクが願った夢の跡です。

2000年9月  コロンビア大学入学。
2001年8月  恋人とビーチで過ごしているところをパパラッチされる。本人、所属事務所ともにコメントなし。
2002年1月  友人らと組んだバンドで作った曲がコロンビア大学の放送局WKCRでパワープレイされる。日本の週刊誌が記事として取り上げ、デモ音源がネットに流出する騒ぎに。後に音源はいたずらと判明。
2002年2月  大学の友人達とバンドを結成。地元のナイトクラブで初ライブを行なう。事前告知がなかったにも関わらず、日本人留学生、日本のマスコミが殺到。地元テレビ局でニュースとして取り上げられる。
2002年3月  WKCRでパワープレイされていたデモ音源がロバート・ジョン“マット”ラングの目にとまる。しかし東芝EMIとの契約および学業専念のため全米デビューを断念。
2003年8月  女性誌「VOGUE」に登場。日本のマスコミに正式に姿をあらわすのは約2年半ぶり。恋愛は「今は卒業することで頭がいっぱい」、歌手活動再開については「わからない」と語る。
2004年2月  女優のクリスティン・クルックと友人だった縁で、彼女の出演する映画『Eurotrip』のサントラに自作の曲「Stay」が収録される。
2004年6月  2004年06月付けのビルボードで1位を記録する。
2004年9月  コロンビア大学卒業。
2004年12月  NHK紅白歌合戦にて歌手活動を再開。

『Eurotrip』と『リアリティ・バイツ』じゃえらい違いですね…(Kristin Kreukは最高ですけど)。僕は今でも、彼女がアメリカで成功する唯一の方法は映画のサントラだったんじゃないかと思ってます。さて『Eurotrip』見るか。

Posted by Syun Osawa at 19:05

2005年01月21日

性的人間

大江健三郎/新潮社

性的人間表題作「性的人間」は、文学座あたりの新劇の芝居や日活の古い邦画みたいでなかなか新鮮だった。物語の前半が港町の高台にある一軒家だったせいで、妙に立体感のある会話劇がとても印象に残っている。性に対する考え方はさすがに時代が違うから何とも言い難い。後半の痴漢電車は今的な問題も含んでいて悪くない。ただ、反社会的な性という時代感覚はもはやないので、巷に溢れる性小説の歴史教科書の一編という感じにしか映らなかった。

「セブンティーン」はかなり強力な短編。オナニーばっかりしてるダメ少年が右翼になる話。シンプルな構造の物語なので今的問題にも置き換え可能だ。少し前なら世間の非難を浴び続けるカルト教団に入信する17歳。今なら「2ちゃんねる」で暴力&差別的な発言を繰り返す「ネット右翼」になる17歳といったところか。明快な物語は時代を超えるのだな。とても面白く読んだ。機会があれば続編の「政治少年死す」も読んでみたい。

妄想に突っ走る「共同生活」もなかなか偏差値の高い短編。妄想の中に登場する猿や虫は、『殺し屋イチ』の山本英夫の世界に通じるものを感じる。本書の解説にこの短編は「人間の裸の存在とはなにか」というサルトルの実存の問題を主題にしていると書いてある。なるほどそうか。現代っ子(自称)の僕なんかは虚構の中に自分の存在価値を求めがちだけど、ちゃんと現実の中で煩悶と生きる姿が描かれているあたり、キュビズムの絵を見るような古き良き新鮮さを感じた。

とはいえ、全体的には今の自分達が共有する問題と大きくは変わっていない。そこがなんとも空しい。「俺達に明日がない」というような絶望をビシビシやりながら、書いてる本人しっかり長生きしてるし。

Posted by Syun Osawa at 00:10

2005年01月18日

廃墟と雨

(5:04s/mp3/128kbps/4.6mb) download
by asha

「名前をつけて保存」で。asha さんが2005年一発目にリリースした曲です。彼の得意とするオリエンタルなNewAge系chilloutを踏襲しつつも、『廃墟と雨』にはそれを超えたフィールドが提示されているように思えます。シンセアルペのクリアな音の響きと美しいメロディには難解さはなく、ひたすらにシンプルです。

Thinner系の音楽が好きな僕としては、アルペジェーターで重ねまくる2:58あたりからの展開が最高です。最近リリースされた曲の中では、一番のお気に入りとなりました。音楽を作れる人は素晴らしいです。はい。

Posted by Syun Osawa at 20:51

2005年01月16日

章説・トキワ荘・春

石ノ森章太郎/風塵社

章説・トキワ荘・春トキワ荘関連の書籍はたくさん出ている。あれだけの数の有名漫画家を輩出したわけだから当然といえば当然だろう。この本の初出は1981年。文庫化された後、別の出版社から再販という経緯をたどっている。

本書は、トキワ荘関連で一番有名な本である藤子不二雄A著『まんが道』以後の世界を中心に構成されている。「なろうなろう明日なろう、明日は檜になろう」と夢を誓い合ったあの日以降の世界だ(ちなみに現在、藤子不二雄A氏も『まんが道』の続編を描いている)。また、仲の良かった赤塚不二夫との思い出が色濃く出ており、『まんが道』とは少し違ったトキワ荘の一面を覗かせている。石ノ森はトキワ荘時代、少女漫画畑で活躍していたから、たくさんの女の子が石ノ森の元を訪れていたらしい。その中に池田理代子、里中満智子もいたそうだ。あと、毎週遊びに来てたという高橋瑠美子はあの高橋留美子だろうか(つげ義春なんかもいたそうな)。凄い話だ。

この本の中で僕が一番心を動かされたのは、若い才能がぞくぞくとトキワ荘に集まってくる場面ではなく、彼らが売れて一人また一人とトキワ荘を去っていく様子が書かれている場面だ。その昔、高円寺という町がロックミュージシャンの住む町として栄えた時代があった(ブルーハーツの甲本ヒロトがいた時代だ)。その時代を見つめた音楽雑誌の編集者が高円寺で発行されているフリーペーパー上で「売れたらみんな高円寺を去っていった」と書いていたが、こうした同時代性を内包したモラトリアムな空間から立ち去ることで、少年は真に大人になっていくのであろうか。

トキワ荘見取り図一人、また一人とトキワ荘を去っていく。売れて去るもの、漫画家を諦めて去るもの。赤塚のように結婚してもトキワ荘を離れられず、トキワ荘の向かいの鉄筋のアパートで暮らすもの。そして、トキワグループの中で最年少だった石ノ森は、トキワ荘を出て行く最後のマンガ家になる。トキワ荘時代はみんな子どもだったと石ノ森は認めている(性的な意味も含め)。トキワ荘がいつまでも語られるのは、大人がビジネスのためにシリコンバレーを築いたからではなく、大人になれない子どもが未来について煩悶としながら子どもの城を築いたからであろう。

また、石ノ森は若くして天才と呼ばれた自分におごることなく、彼らトキワグループの量産体制や漫画の在り方が古い漫画家たちを追い出している事実をちゃんと受け止めている。この頃を境に、漫画が子どもの遊び場ではなくなり、出版業界の機軸に変わっていく。人気商売になっていく。彼は自分自身がそのトップランナーとなっていることを冷静に見つめている。絶望もしている。だから救いがある。

石ノ森は漫画の魅力とは、未完成品の魅力であると言っている。言い換えればそれは子どもの作り出す青臭い物。だから漫画には法則など存在せず、常に熱気溢れる未完成の作品が生み出されたのだと言う。僕なんぞはそのずっとずっと後に生まれた世代だから、残念ながらそれをそのまま受け止めることはできない。受け止めたくても、現実がそれを許さない。でも、だからこそ僕は先人の言葉を信じたいと思う。彼が最後に記した「マンガは青春」という言葉に。

PS.
この文章を書いている時点ではまだ藤子不二雄氏の『二人で少年漫画ばかり描いてきた』も名著『トキワ荘青春物語』も読んでいない(先日、古本屋で手に入れたが未読)。

Posted by Syun Osawa at 22:27

2005年01月15日

move on web.が見る夢のつづき

move on web. 公式サイト

作者近影2005年1月に心斎橋アップルストアでmove on web.主催の動画イベントが行なわれました。たくさんの方が来場されたそうです。フリーの動画家(勝手に命名)が個々に作品を持ち寄って行なう「move on web.」のようなイベントが大阪で生まれたというのは、フランスと大阪が似ているという空間的な要素を考えても大いに納得できます。行けなくて本当に残念。

「move on web.」とは何ぞや? という素朴な質問は公式サイトで見ていただくとして、個人的な印象だけちょこっと述べておきます。僕はヨーロッパに根付いているデモパーティーなんじゃないかと思っています。デモパーティーとはコンピューターを使用したアート作品を個人から数名のチームで作り上げるというコンベンションのことで、80年代からヨーロッパ各地で開催されてきました(詳しくは、scene.orgdemo99 へ)。僕はこのイベントがこういう地に足の着いたイベントの一つとなり、クリエイティブな活動が展開されていることを心より願っています。

実はこの動きに僕も加えて頂いておりまして、現在新作を製作中です。

PS.
このイベントとは関係ありませんが、ヴェネチア・ビエンナーレの「おたく展」が日本でも開催されるようです。場所は東京都写真美術館、日時は2月5日(土)〜3月13日(日)、料金は300円です。こういうのって逆輸入されると急に美大系の連中が我がもの顔でやってきますからね。負けていられません。

Posted by Syun Osawa at 20:34

2005年01月13日

美少女ゲームの臨界点+1

波状言論編集部編/波状ブックス

美少女ゲームの臨界点+1コミケ67で買った同人誌。『美少女ゲームの臨界点』が高かったので、安かった新刊『+1』を購入。DTPを含めかなりレベルの高い本に仕上がっていてちょっと驚いた(当たり前か)。

僕の美少女ゲーム体験といえば、『闘神都市』『同級生』あたりから『雫』『痕』『ONE』『アトラクナクア』までといった風なので、それ以外は名前くらいしか知らない。そして自分がプレイしたゲームの記憶もほとんどない。なぜなら本書で表現されるところの「掛け合い漫才」が苦ですぐに投げ出してしまったからだ(エロシーンを除いては)。ただし『雫』と『痕』はエロ以外のところに引かれ最後までプレイした(そしてビジュアルゲームを自分で作ってみたりもした)。

その当時は、たしかにネットで熱い議論がされていたし、SS(二次創作小説)の投稿がブームとなっていた。だが、これほど批評の対象となるような要素(本書ではメタ的と書かれている)のある代物だとは思っていなかったし、ぶっちゃけこの本を読むまでは無理やりに批評の対象にしているのだと思っていた。でもどうやらそうでもないらしい。そして東浩紀は本当に美少女ゲームが好きらしい。

ちょっと気にかかる点もあった。美少女ゲームがわからないので、ただ読んだだけの印象論であることを断っておくが、例えば前島賢氏の言葉。

「二次元のキャラクターは、その魅力がわからない人間には不気味なものにしか見えない。だから私達は、つねに、オタクをやめるか、オタクとして社会から排除されるか、あるいは、――現在のオタクたちが無意識に欲望し始めているように――この社会全体をオタク化してしまうか、という選択を迫られている。」

オタクが動物的に「欲求」していたら、知らぬ間に社会がオタク化していたというのではなく、美少女ゲームの価値観を会社の上司、異性の同僚、地元の友達、恋人なんかと共有できたらいいのになぁとオタクが主体的に欲望し始めているという事なのだろうか。そしてその選択がお前らオタクに迫られているんだと(ちょっとマッチョに)。そうかなぁ。

東浩紀=北一輝ではないにせよ、彼が「僕たちは、作品世界の外側=現実に生きるというその条件を変えないまま、虚構に生きるキャラクターたちとともに歩んでいくことができる。」という形の感情移入を肯定することにより、一部の熱狂した若者たちはその思想を支えに美少女ゲーム革命を夢みているような空気をどこか感じる。歴史を捏造してでも…というような妙なヤツが現れたりして。

でも、オタクって本当にそんなことを望んでいるのかな? ニトロプラスのシナリオライター虚淵玄氏は本書のインタビューの中でこんなことを言っている。

「自分がいま、ものを書き上げてる原動力というのは、『うわ、恥ずかしいことしてる! ウヒー!』みたいな、その気持ちよさではないかと思うときがあるんです。」

この自虐性はすんごく共感できる。僕はこのあたりの気持ちよさがオタクの大多数を(主張はしないが実際には)占めているんじゃないかと思っている。これは、スパイスガールズがイギリスで売れていた時、ブリティッシュアワードか何かで「どうして誰もスパイスガールズを好きだといわないのに、こんなにCDが売れてるんだ?」と言っていたのとちょっと似ている。ただしインタビューの中では、虚淵玄個人の問題として片付けられてしまった(うーむ)。

唐突なまとめ。僕はアダルトビデオのコーナーの一角にあったエロアニメのスペースが少し大きくなって、おっさんが「家庭教師」「人妻」「フェチ」なんかの選択肢の一つに加える、とった程度の進展が一番健康にいい結果だと思う。そしてたまに世の中に繋がる及川奈央みたいなスーパースターが登場したりすれば、それで十分でしょう。

Posted by Syun Osawa at 20:41

2005年01月11日

Free At Least

(6:13s/mp3/160kbps/7.1mb) download
by Bliss

今年は規則正しくネット音楽のお気に入りを紹介します。基本的には「ベタな曲」中心です。つまりそれは、エイベックスがハードコア路線でメロディのキャッチな曲を漁って行ったように、エレクトロニカから派生するラインでひたすらキャッチなもの。そして、インディーズシーンでエレクトリカルラバーズの路線に誰も乗っていかなかったことに食傷気味だった人、今はなきelectraum.comが好だった人向きかなと思われます。もしくは、Thomas BrinkmannがMixした企画物、謎の女子高生HRKが歌う『Love World (Ulrich Schnauss Remixes)』(試聴)の方向性で模索してるヨーロピアンといった風で。

さて本題。ネットレーベルmonotonikのBlissの作品です。Blissの曲はどれも大好きです。理由はわかりやすいから。この曲は2003年の8月に公開されたEP『It's Not The Sweetness.. EP』の2曲目に収録されております。

安いリズムですね。そして安いシンセです。もちろん肝は「フリー!」とオッサンが声を被せていくところ。それまでの安っぽいポコアポコとしたダラしないリズムと、うるさいスネアがハモンド系のシンセなんかと絡んできて、それなりに抑揚が出てきた後、メロウな展開で一気に泣かせにかかります。元ネタはわかりません。一曲の構成を眺めれば1曲目の「Transportation Is Bliss」方が好きなんですが、パンチ力は若干こちらの方が上かなと。個人的には後半はちょっと作り過ぎな印象があり、音はもうちょっと丸みがあるほうが好きだったりします。

Posted by Syun Osawa at 21:52

2005年01月10日

手は伸びず、足は動く

高校サッカー決勝今週末の話。日本オタク大賞はパス。アニドウ上映会は参加。たくさんのアニメを見る。モブの動きが尋常じゃない。3Dの技術で補おうにもこればっかりは補えない(今の段階では)。大塚康生氏が 高畑勲氏とのトークショウ で「描いて描いて描きまくれ」と檄を飛ばしていたように、やはり描きまくるしかないのか。そーいや、英語の先生も「一日に単語を一つ覚えれば、一年間で365の単語を覚えられる」とか言ってたな。フジテレビでやってた『少林サッカー』の放送で、また趙薇(Zhao Wei)の人気が出そう。はぁ。

月曜日。国立競技場で市立船橋と鹿児島実業による高校サッカー決勝を観戦。たかだか高校生の試合だって言うのにチケットが完売したそうな。写真にあるとおり超満員だった。何故? W-indsが歌ってた。ノーリアクションな客を見つめながら、数年前まではあれほど好きだったラグビー観戦に最近全然行ってないことに気づく。アニドウも満員。サッカーも満員。商品に手は伸びなくとも、足は動く傾向にあるのかな。

Posted by Syun Osawa at 23:47

2005年01月08日

Blue

(DivX/23:34s/238mb)  web
by Christopher Mullins

Blue2003年9月に公式リリースされアニメ系の賞レースで多くの賞を受賞した『Blue』が、2004年12月にWebで公開された。2002年からチェックしていたサイトだったので、感慨もひとしおだ。

動画の属性は正統派3D系ロボットアニメーション。3Dはまだまだ人間の表現には弱いようだが、メカ物はもはや個人だろうが企業だろうがかなり安定感のある作品を作り出せるようだ。内容はいたってシンプル。台詞がないかわりに、音楽をきっちりと動画にあてている。そのためロボットの感情が音楽で上手に表現されており、台詞がなくても感情移入しやすい。また、台割を丁寧に作っているためか、23分の中でキッチリと物語が抑揚し、執着しているのは見事。そして何よりキャラクターがいい。動きがコミカルで愛らしい。時よりぎこちない動きはあるものの、番犬ロボットの迫力のある動きには製作者の意欲を感じた。

興味深いのは、3人の製作者の国籍はそれぞれバラバラで、製作途中のデータはインターネット経由でやりとしていたという点だ。テクノの世界でもAmil Khan(香港)とCharles Siegling(パリ)のTechnasiaというユニットがネットを経由して音楽製作を行なっているが、こういう国際的な交流の中で紡がれていく芸術というのは、一体全体どういう未来を僕達に見せてくれるのだろうか。

Posted by Syun Osawa at 14:23

2005年01月06日

山ん中の獅見朋成雄

舞城王太郎/講談社

山ん中の獅見朋成雄若い(?)作家さんの中で、乙一と舞城王太郎だけは次を読みたくなる。サラッと読めるし、何となく健康にいい。

雑感中の雑感を羅列すると、とにかくこの人ってQ&A形式な印象がある。数学で言えば、文章問題があって、解き方がなくていきなり答えがある感じ。だから「どうして?」が終わらない。そして解き方がわからないままに次の問題へ。そりゃもう横へ横へ。全部の問題が終了し、答えは全部明らかになった。でも解法は一つもわからないまま。でも心地いい。答えが全部わかってるから。

料理で言うならこうか。コンビニある素材を集めてきて、ミキサーで混ぜたら上手かった。産地がどうとか、調理法とかはなくて、コンビニある素材はその時点である意味で完成されていて、それをさらに攪拌して別のものを作り出す。そんなことやったら不味いものしかできないんだけど、なぜか美味い。ボクシングの畑山が山本“KID”徳郁について「当て感が抜群に良い」と評したが、舞城王太郎にもその言葉がピッタリ当てはまる。

本書を読んで真っ先に頭に浮かぶのはおそらく『千と千尋の神隠し』だろう。『群像』に発表された時期を考えても狙って書いた印象が強い。だが、それだってたまたまコンビニに置いてあったDVDをミキサーに突っ込んだ程度の素材に過ぎないのではいか。そりゃムチャな擬音も出るわな。女体盛りも出まんがな。ちなみに僕がこの本を読んで、真っ先に頭に浮かんだのは宗田理の「ぼくら」シリーズ(どの巻だったかは忘れました)だった。

純文学がどうとか、ミステリーがどうとか、同書に対するそうした評価に僕はまったく興味が無くて、もっと単純で薄っぺらな皮膚の裏側にただただ共感できるのだ。この物語は別に難しくない。いたってシンプルで、明快なストーリーがあるだけだ。だから僕は乙一を読むように心地よく読めるのだと思う。結果論としてそうだとしか言えない。

Posted by Syun Osawa at 22:23

2005年01月04日

フリーメーソン

リュック・ヌフォンテーヌ/創元社

フリーメーソンアメリカの大統領選を戦ったブッシュとケリーが、エール大学時代に「スカル&ボーンズ」という秘密結社に入っていたことが以前テレビで話題になった。よーするにこれがフリーメーソンらしいのだ。アメリカやイギリスではフリーメーソンはオカルト集団ではなく、学校の敷地内に堂々と集会所を設けている(その時点で秘密結社とは名ばかりであることがわかる)。

とはいえ日本でのフリーメーソンという言葉の響きはあまりよろしくない。僕だけかもしれないが、たとえば参入儀礼の「イニシエーション」なる言葉をオウム真理教が用いていたり、過去にナチスが流布したとされる「フリーメーソン=ユダヤ陰謀説」の影響で、神を恐れぬ悪魔集団的なイメージを抱く傾向が強いように思う。たしかに「フリーメーソン」という言葉の響きは何だか怪しげで、ゴシック系オタクのカルトな集団のイメージがスムーズに頭に上がってくる。映画で言うならば、キューブリックの遺作『アイズ・ワイズ・シャット』の秘密集会といったところか。本書を読んでも、外面のイメージはそれほど外れていない。しかし、その中身(本質)はもっと奥深く、豊かだった。

「フリーメーソン」の歴史は宗教(特にカトリック)との戦いの歴史でもあった。彼らの信仰は〈宇宙の偉大なる建築師〉に向かっている。これはフリーメーソンの発祥が、大工、石工などの職人達の組合であることに由来しているからだ。そして特定の神様に寄りかからない道徳心や社会のあり方を探求するのである。だからといってキリスト教などの宗教そのものを、彼らは否定しているわけではない。彼らが否定したのは宗教が権力を持つという教権主義である。

どんなポジションかをわかりやすく説明した文章を本書の中から引用すると、彼らの立ち位置は「宗教のない左翼」らしい。右翼と左翼の位置づけは相対的であるため、明快にどうとは言えないが、結果として彼らはその立ち位置と秘密主義ゆえ、保守からも共産党勢力からも支持されず迫害された。ちなみに旧社会主義勢力の権力者でフリーメーソンを支持したのはカストロ議長だけだったという話は何だか興味深い(プーシキンもフリーメーソンだったらしい)。

フリーメーソンは王政の時代から信じられないほど進歩的で、民主的な組織であった。にも関わらず古い参入儀礼であったり、偶像崇拝であったり、女人禁制であったりを守り続けている。ここが面白い。これらの古めかしい装いは一見不必要に思うし、歴史の中でも不要論が何度も飛び出しているのだけれど、この不要な部分こそが権威などへの憧れに対する「ガス抜き」として上手く作用しているのだ。一流企業の重役が秘密のパーティーで女装したり、SMクラブに通ったりという話とも肉体的にはやや似ている。

こういう怪しげなものがなくなって、もしもフリーメーソンがひどく真っ当な組織になったとしたら、おそらくここまでの歴史はなかっただろう。これは日本の伝統文化にも同じ部分があるような気がする。何でも正しくて民主的であることがいいわけではない。もちろんその方がいいのだけど、人間は機械じゃないし、そういう正当性だけの世の中では生きられないことをフリーメーソンは昔から知っていたのかもしれない。それは中国の伝統医学が科学的に効用が確認される事例ともよく似ている。

フリーメーソンは、参入儀礼とか、前掛けのデザインとか、階級などのディティールの話の方が面白いのだが、大枠の部分と根底に流れる思想にたいそう感心したのでそこだけの感想文にて了。

Posted by Syun Osawa at 21:09

乙一、爆笑問題のススメに登場

自分に才能が一つだけあるとすれば、こういう事件を見逃さないことくらいでしょうか。若者の心を捉えてる理由と自分の内側の問題とは無関係でないという、実にまっとうなポジションに乙一はいる。『GOTH』の続き書いて欲しいなぁ…。

Posted by Syun Osawa at 01:10

2005年01月02日

チェチェンやめられない戦争

アンナ・ポリトコフスカヤ/NHK出版

チェチェンやめられない戦争2004年度に僕が書店で見かけた本、手にとった本の中で一番好きだった装丁の本。それが『チェチェンやめられない戦争』だ。コントラストの効いたモノクロの配色と、アクセントとして配置された赤と山吹色のロシア語のバランスがいい。使用されている写真も戦争で破壊されたグローズヌイの美術館である。

チェチェンで起こっている問題を明確に把握することは難しい。林克明著『 カフカスの小さな国 』を以前に読んだが、戦争の根源的問題について多くを知ることはできなかった。誰が悪者で、誰が正者なのか? そういった短絡的な問いかけでは到底解決できない闇が、チェチェンの地に横たわっていることを、著者は一般人の目線から浮き彫りにしている。戦争は人の気持ちを荒廃させ、要領の悪い人間は死んでゆく。

現在起きているチェチェン戦争は、一見するとプーチンの強硬な姿勢が一方的にチェチェンを苦しめているように映る。あるいはアルカイーダの組織するテロリストとチェチェン人が手を組みロシア人を無差別に殺していると映っているかもしれない。しかし事はそれほど単純ではない。混乱を楽しんでいるヤツがいるのではないか。そいつらが相互依存し合っているのではないか。別冊宝島『同和利権の真相』のごとく、その混乱を継続させながら利益を得ている人間が蠢いているのではないか。そんな疑問が突きつけられている。そして、日々繰り返されるレイプ、略奪、処刑。こうした蛮行を双方が行ない、その狭間で多くの罪のない人々が死んでいく。アンナ自身も何度も危険な目に遭い、この本が日本で発売された2004年にも毒殺されかけた。

不思議で仕方がない。なぜアンナは、いつロシア軍部によって暗殺されるかもわからない恐るべき状況下で、これだけ真実に迫った文章を書けるのだろうか? ここにジャーナリストという職業の中にある二つの大きな人種を見つける。知的な欲求に突き動かされるジャーナリストと、生活の延長上にある問題に対して突き動かされるジャーナリストだ。僕はこの両者の間に決定的な根性の違いを見ないわけにはいかない。

Posted by Syun Osawa at 18:48