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2005年03月31日

アニメーション作画法 −実践編−

湖川友謙/創芸社/書籍

アニメーション作画法ひたすらに正確なデッサンを求め、それに基づく基本的なアニメーション作画をできるようになるために書かれた教本。かなり古い本ですが、勉強になります。

正確なデッサンを身につけないと自分の動かせるものに限界がくるので、やっぱりこういう本が教える基礎的な技術は必要なのかもしれない。そもそも描く対象を立体で捉えていないと空間を描くことはできないし、それを躍動感を持って動かそうとすればカメラアングルなどのセンスも要求されてくる。僕にはセンスという名の才能が無いので、地道にこういうのを読みつつ基礎を積み上げるしかない。はぁ。

この本は、生徒が描いた絵に対して赤字を入れて指導をするという形式で作られている。一見すると、生徒の絵も大変に上手でどこがダメなのかわからない。そして赤字の修正を見て「なるほど」と思うのだ。例えばそれは、顔と首と体の関係であったり、影の落ち方であったり、立体を演出するための一本の重要な選の指摘であったりするのだが、これらのとっても些細なことが立体を正確に捉えるためにはとても重要だという事が実践的に記されている。立体、立体、立体。この日から会社の行きと帰りの電車でやたら人の首筋とかをジロジロ見るヤツになってしまった。観察はホント大事。

これまで人の作品に対して、気安く「神の作画」とか「神の動画」とか言ってたことをちょっと反省。会社の帰りに、本書同様に教本として有名なアニメ6人の会の『アニメーションの本』とルーミスの『やさしい人物画』を買った。もっと上手くなりたい。それだけ。

Posted by Syun Osawa at 22:03

2005年03月28日

人形峠大殺戮

さいとう・たかを/リイド社/漫画

人形峠大殺戮さいとう・たかをの古い短編集。リイド社が出している劇画座招待席というシリーズの中の1冊。なんとこのシリーズ全70巻も出ているそうな。全部読めるかなぁ。

「人形峠大殺戮」
タイトルからしてそそられる。そして導入の言葉もいい。こんな感じ。

おまえが“核”をもつなら、殺戮は意のままだろう… だが、お前の持つ“核”もおれたちの魂まで焼き尽くすことはできない―

人形峠にまつわるエピソード、原子力発電所と爆弾、エリートとアナーキスト、そして男と女。どれもいいなぁ。新聞記者がクーデターを狙うアナーキスト集団に入り、天才物理学者の技術を盗もうとするというストーリーを軸にしつつ、その裏側で新聞記者と天才物理学者が恋のバトルを繰り広げる。うーむ、物語が爆発してますねぇ。アナーキスト集団がみんな旧時代の軍服を着ていて、リーダー格の男が強面のスキンヘッドのオヤジだったりするのがなんとも妙です。

「尻むけの宿」
これもタイトルが素晴らしい。寂れた温泉宿を舞台にした浪人同士の戦い。僕もやりがちな「とりあえず戦ってる」という戦いではない。なぜ戦うのか? この問いをつねに自分自身に突きつけている。極道者の兄貴と官職に就く弟という王道の人間関係をここまでしっかりやれるなんて羨ましいです。

「悲願剣」
これもすごい(こればっか)。恋人の敵に処女を奪われた女が、最後に恋人の前で自殺するシーンは圧巻。それまでの複線とあいまってフェードアウトする雪景色の悲恋さが、まさに王道の悲劇という感じ。こういうのを僕もやりたくて『小池一夫のキャラクター原論』(全3巻)を買ったはずなのに、少しも近づけず。はぁ。

「突き破る七人」
どちらかというとバカ漫画の部類に入るだろうか。『七人の侍』を珍道中に変えたらこうなったっていう話なんだけど、後半が妙にバタ臭くて最後は『うる星やつら』並みにメチャメチャになる。ただし、最後だけちゃんと漢(おとこ)を演出して終わるところがさいとう流かな。

Posted by Syun Osawa at 01:09

2005年03月26日

週刊アニメ雑感 05.03.26

例のごとくニュースサイトさんなどから拾い集めた情報の中から、感銘を受けた作品の雑感など。今回は3DアニメとFLASHアニメで相当凄いのがあった。短編のお手本のような作品と商業アニメを超えるFLASHアニメ。あと古いアニメ関係では『トムとジェリー』シリーズを久しぶりに見て、かなりの衝撃を受ける。僕の技術が今後どれだけ向上しても絶対にたどり着けないクオリティ。はぁ…憂鬱。とはいえこれは全話見返せねば…。

The Little Ninjai 第12話

(flash/16.8mb) web
by Ninjai Gang

The Little Ninjai『The Little Ninjai』は僕がFLASHアニメを作り始めた直接の動機であり、一番の先生でもある。その先生が今もってなお世界で最高峰のFLASHアニメを作っている事、それが嬉しい。今回は鳥と化け物の追いかけ合いのアニメーションが秀逸。鳥の動画の多くは使いまわしているんだろうけど、背景を上手く組み合わせることによって、スピード感が極まっている。あと珍しく背景も回してるし、水への映り込みとか芸がかなり細かい。

深夜に放映されているテレビアニメが会話劇を中心にして、少しだけアニメを加えるという地味な方向で成り立っている中、『The Little Ninjai』は目を引くようなアニメーションがいくつも登場する。本当に愛すべきアニメ。最近の数話はボスキャラがあまりに弱すぎて、逆に感情移入しちゃってますw

DELIVERY

(div-x/08:43s/95.8mb) web
by Till Nowak

ヤラれた〜! 僕が8月のイベントに出品する作品でやろうと思っていたネタにかなり近いところを、とってもシンプルに気持ちよくまとめています。僕が最近よく妄想している「アニメのことはアニメで」という思想を最もよく体現している作品。映像は雄弁です。デンマークにも凄いショートフィルムを作るヤツがいるんだなぁ…。

BV-01 //Running

(mpg/04:29s/69.7mb) web
by Alessandro Pacciani

ある意味で古典と化している実写と3Dアニメーションとの融合モノ。イントロから荘厳な雰囲気で期待感が膨らむんだけど、プロっぽい映画的な演出とは裏腹に内容はかなりお粗末。街の中をさまようロボット(このあたりのプラプラ感はなかなか新鮮ですがw)が銃撃戦の末に壊れ、再生するという話。どの程度のインフラでこれを作ってるんだろうか…。

サーカスの仔象

マニー・ディビス(テリートーン)/1951年

ちょっと『トムとジェリー』っぽい。象の子どもがある民家に迷い込んで、そこに暮らす番犬3匹と退治するという王道の展開。犬3匹の中でいつもそんな役回りを担わされるヤツがいて、そいつが逃げても逃げても逃げられないループが上手。このへんはアニメーションの基本という気がする。最近全然見かけないけど。

ジェリーとジャンボ

『トムとジェリー』より/ハナ・バーベラ/1953年

小学生の頃に何気なく見ていた『トムとジェリー』がこんなにも素晴らしいアニメだとは思わなかった。いや、思ってたんだとは思う。でもここまでショートショートとしての完成度の高い展開を見せるとは…いやはや。こちらもサーカスの仔象がジェリーの家に迷い込む話で『サーカスの仔象』に似ている。展開もかなりそっくり。パクリじゃないよね? でもこちらの方がエンターテイメントしてる。『トムとジェリー』はシリーズをちゃんと見返さねば。

スーパーマン 恐怖のサーカス

ディヴ・フライシャー/1942年

昔のスーパーマン物。フライシャー兄弟の作るスーパーマンはとっても社会派で、テーマもいいので、今のエンタメ爆裂作品とは少し異なる。僕の趣味としてはフライシャー作品の方が好きかな。この話でもスーパーマンに変身するのがサーカス場の物置だったり非常に人間味が溢れてる。

キツツキのサーカス

ウォルター・ランツ/年代不明

日本でもお馴染みのマスコットキャラ、ウッディー・ウッドペッカーの作品。ウッディーとサーカス主の追いかけ合い。何故ゆえにか知らんけど、とにかく1950年代頃までの作品には追いかけ合いの作品が多い気がする。ところで今、流通しているマスコットキャラの多くって、ずいぶん昔に作られたものだったりするのでは? 日本も含めて。

サーカス嬢を救え(仮)

『マイティ・マウス』より/ポール・テリー/1948年

ミッキー・マウスではなくて、マイティ・マウスです。これも追いかけ合いの連鎖モノ。美女を追うオオカミ、そのオオカミをマイティ・マウス。王道ですね。

曲馬団のベティ

『ベティ・ブープ』より/ディヴ・フライシャー/1932年

『ベティ・ブープ』は散見ばかりでまとめてお目にかかっていない。ビデオ借りてどこかでちゃんと見なければいかん。相変わらず色っぽい動きをします。何が凄いって脇の処理をしているシーンがあるのが凄い。これでヤラれました。

Mのサーカス

『ミッキー・マウス』より/ベン・シャープスティン/1936年

『ダンボ』の作者として知られるシャープスティンの作品。モブがありえない。自分でも多くのキャラクターが一度に多彩な動きをするシーンを描きたいけれど、なかなか出来るものじゃない。パソコンに頼りきりの現代人とは根性の入り方が違いますな。

Posted by Syun Osawa at 12:15

2005年03月24日

comic新現実 問題外増刊みたいな

comic新現実編集部/角川書店/フリーペーパー

新現実 問題外増刊みたいな…2005年1月ごろ、全国的に配布されていた販促用フリーペーパー。しかも72ページの大ボリューム。版面のクオリティは『bounce』や『JUNGLE★LIFE』には遠く及ばないとはいえ、「大塚英志」というキーワードだけでこんなフリーペーパーを作ってしまえるのは凄いなぁ。費用は宣伝広告費から捻出されているんだろうけど、実際のところどれくらいかかってるんだろう?

この本の見所は、なんと言っても大塚英志が描いた漫画と、自身による著作群の解説。解説の方はまぁ、誰も書かないから自分で書いてるんだろうからいいとして、漫画の方は予想以上(失礼)に絵が上手く、内容も面白かったことに驚いた。あと今の大塚英志を構成するキーワードをいくつか読み取れる気がした。例えばこんな感じ。

1)パターン化された絵
2)政治的なネタ
3)一定基準を満たした完成度

20歳の頃に才能はしっかり出来上がってるんですね。それは実感。一方、自身による著作群の解説は相変わらずの大塚節。一番のヒット作である『多重人格探偵サイコ』を〈吾妻ひでおさんから「最近、一巻だけ読んだ」と言われた。〉とだけ書くところが僕には寒く感じられるけど、こういうのは世代のノリというやつだから仕方ないのかな? とりあえず『多重人格サイコ』の続編なんかやらないで、『東京事件』をきっちり盛り上げて欲しいもんです。

こういうフリーペーパーを通してつくづく感じるのは大塚英志の力(角川と大塚の力関係という意味も含め)。竹熊健太郎じゃ無理だもんね。大塚英志の強みは、出発点が漫画家であり、その後編集者を経由し、漫画原作者としてヒット作を出しているというところにあることは間違いない。彼の本の中にもそれを匂わす文章はたびたび登場するし(そこが嫌味なんだけど)。ただ事実と思い出話というのはどんな人でも微妙に食い違うもので、例えば本誌に掲載されたみなもと太郎(大塚の師匠)のインタビューで語られている話と大塚が思い出として語る話が、基本的に同じであるにも関わらずちょっと違う。

それは「『平凡パンチ』の連載を断ってマンガ家活動を終えた大塚英志」というような感じの事実の抽出であったりするのだけれど、こういうのって全部「政治」であって作品についての話では全然ない。だって「トマト暗殺団」からは真っ当な漫画家だった事実が読み取れないじゃないか。「東大卒」とか「○○賞受賞」みたいな権威付けをされているみたいでどうにも嫌な感じ。大塚英志はそういうのを評論ではメッタ斬りにするし、僕はそういう彼の文章は大好きなんだけどなぁ。ところが自分も同じことをメインフィールド(マンガやアニメの業界)ではやるんだよなぁ。自覚的だからとか「あえて」とかそーいう問題なのかしら。

この両刀使いっぷりから、突如「大塚英志=前田日明」説が登場する。先日、某掲示板に書き込みをしたがあまり反応なかったので消沈しているんだけど、やっぱり彼の村上隆や森川嘉一郎に対する苛立ちは、前田が築いてきたものを横からPRIDEに奪われていかれる様に似ている気がする。とはいえPRIDEがどれだけ興行的に成功しても前田の名前は消えない。それと同じところに行くような気がする。つーか、そういうイメージで若いライターさんは彼の精神史なんてものをもの凄いスピードで置いてけぼりにせんといかんはずなのだが…。

(追記)

本屋で『小説トリッパー』の中の対談「大塚英志×斎藤環 −ライトノベルをめぐる言説について」を立ち読み。彼の舞城や佐藤に対する厳しい立場は素晴らしい。親父が親父としての本分(責任)を発揮してます。「君は君のままでいいんだよ」と言ってしまわない大塚のあの辺の態度はとっても好きです。で、そこを越えていくのが親父越えであり、子どもの本分なんだと思います。

Posted by Syun Osawa at 23:27

4月4日、銀座でmove on web.を開催☆

詳しくはこちらまで

move on web.

場所は ここ です。アップルストアの2階です。斜め前の三越デパートでバイトしていたので、店長に遭遇したりしないかと心配なんですが、いそいそ参加します。ちなみに司会は ルンパロ さん。

また、3月31日から4月3日に開催される東京アニメフェアでは、 artistgoods.com さんのブースで『突破人』を流してもらえるそうです。よろしくお願いします。

そろそろ8月のイベントにむけて、新作を作り始めました。制作報告は move on web. のブログ にて。

Posted by Syun Osawa at 00:49

2005年03月19日

オンラインレーベルの夕べ

ネットストック開催中

名前はちょっとダサいですけど、やろうとしていることはとっても先鋭的で美しいです。こういう試みを世界規模で行なえるわけですから面白いですね。放送されているネットラジオのクオリティも44.1kHzの128kbpsで問題なし。日本の人もたくさん聴いてるといいなぁ。

Posted by Syun Osawa at 22:30

XYLOにて『突破人』掲載中

見せ方が僕のサイトより良いですね☆XYLO

XYLOさんのテンプレを真似して、僕のサイトの動画も近々こういう形にすることを決めました。ちなみに『 突破人ダイジェスト 』は他所でも流れる予定です。ああ、猛烈に作り直したい…;;

Posted by Syun Osawa at 22:09

週刊アニメ雑感 05.03.19

今回はプラネット映画祭で観た『カクレンボ』をはじめ、海外3Dアニメと予告動画の新しい可能性一本。

カクレンボ

YAMATOWORKS/アニメ

カクレンボとにかく鬼のキャラクターが素晴らしい。そのひと言に尽きる。モデリングの技術うんぬんはわからんんけれども、こういう造形のアイデアとかセンスというのは持って生まれたものだろうね。この時点ですっかりやられてます。しかもあの個性的な鬼達を動かしてしまうんだから、3Dアニメというのはとてつもない世界だよなまったく。

セル風3Dアニメは僕の好きな領域なので、その時点で僕の気持ちは満たされている。あえて弱点を挙げるとすればキャラクターの顔をお面で隠したことで感情移入ができなかったことか。顔を隠すというのは、表情を作るのが難しいとかいう技術的な問題もあったのかもしれない。あと、鬼が子どもを食べるという最もグロテスクな部分をすべてカットしてしまったこと。そうしたシーンを観客の想像に委ねるような手法は使い過ぎると物語りそのものが見え難くなる。実際、子供たちが鬼から逃げ、最後の一人が4体の鬼に追い詰められるクライマックスまでの素晴らしい展開のわりに、緊迫感というか心のドキドキ感が欠けていたように思った。

これは演出の問題というよりは、今の3Dが抱える技術的限界なのかもしれない。でもロマノフ比嘉氏の数年前の作品『SOMETHING』では3Dで緊迫感を表現することに成功していたし、商業ベースではもっと前に『バイオハザード』で成功しているから、やっぱり演出の問題かも。エンディングを眺めながら、3Dも着実に歴史を刻んでるなぁ…と、しみじみ。

In The Rough

(mov/04:50s/36mb) web
by Blur Studio

In The Rough3Dアニメーションについて技術的なことがわからないので、クオリティが高いとか低いとかは言わないことにする。途中までは、『はじめ人間ギャートルズ』ってやっぱり偉大だったんだなぁと思いながら、心ココにあらずで見ていた。

後半グイグイ引き込まれる。地形を利用したギャグって王道のわりに、日本製のアニメではなかなかお目にかかれないので妙に新鮮な感じ。あとアクションシーンの愛嬌タップリの動きが素晴らしいし、泥の表現などもいい。こうなると自分も3Dを手に取りたくなる。とりあえず手元のアニマスから始めるしかないか…。

Constantine

(mov/04:50s/33mb) download

この作品は映画『Constantine』の予告動画なのですが、ミュージッククリップとして完成しているところがユニークですね。『 A Scanner Darkly 』といい、本作品といいキアヌとCGの親和性は非常に高いです。天国のリヴァー・フェニックスは今の彼の状況をどんな風に見つめてるかな?

Posted by Syun Osawa at 21:20

2005年03月14日

ACOWOで紹介☆

ネットレーベル-NのVAがACOWOに紹介されました

デザインの才能なんつーものは全て姉に持っていかれて、僕にはオタクな要素しか残ってないはずなんですけど、こうやってネットレーベルの連なりで僕の作ったカバーを眺めると、これはこれでなかなかではないかと自分で自分を褒めてますw

日本のネットレーベルで海外のネットレーベルとガチンコの交流を持ってるところって少ないですからね。新生ネットレーベル -N をよろしくお願いします。明日はxerxesの曲紹介、第三弾をお送りします。久しぶりにdiskUnionに行ったらShpongleが中古で売ってて何となく購入。

Posted by Syun Osawa at 23:50

2005年03月12日

おたく:人格=空間=都市

グローバルメディア2005/東京都写真美術館

おたく展本当は森川嘉一郎の講演を聞くのがメインだったんだけど仕事で参加できず、日をあらため「おたく展」の方だけ観に行った。いろいろな方がブログで書いていた通りの大盛況でちょっとビックリ。2年前の グローバルメディア 2003 の閑散ぶりから考えてもこれは異常な事態でしょ。おたく恐るべし。

で、内容はというと、これがいたって普通の展示会。コミッショナーの森川嘉一郎氏は、おたくのプライベートな空間と都市空間の関わりを秋葉原やコミケのイメージを通して提示したかったようだ。そうは言っても、観客はウィンドウの中の「リカヴィネ」などのフィギュアやポスターそのものに興味があるように映ったし、その点では『 ワラッテイイトモ、 』と何ら変わらないような気がする。展示物のメインに据えられていた「レンタルショウケース」そのものは秋葉原駅を降りて100メートルも歩かないうちに見ることができるわけだし、ただそれを違う場所で普段そういうものを観ない人が見て驚いたってだけの話のような気が…。

とはいえ「おたく展」というだけあって、おたくのイメージそのものに興味がある人が来ていたのも事実。ヨコタ村上孝之(大阪大学助教授)も「オタクはアイデンティティーではなく他者からのイメージ」であると言ってるし。では一体、オタクのイメージに興味を持つ他者ってどんな人たちなんだろだろ?

強引にテクノミュージックで考えてみる。

日本には「テクノが好き」というよりはむしろ「石野卓球が好き」という軍団が結構な人数を占めている。そして「石野卓球が好き」なんだけど、実は音楽そのものはほとんど聴いてなくて、「電気グルーヴにまつわるピコピコしたイメージに何となく興味がある」というのが外側にある。この外野な軍団は結局のところ、石野でも小山田でも良いし、もっというならフリッパーズギターでもいいわけだ。こういう層が「おたく展」を支えているんだろうか。うーむ。

このイベントを通しての唯一の発見は、メインキャラクター「新横浜ありな」のフィギュアを見て不覚にも「可愛い」と思ってしまった事。フィギュア付カタログが猛烈に欲しくなって売店に走ったら、余裕で売り切れていた(当たり前)。僕的にはあのフィギュアを作った大嶋優木の個人展の方がよっぽどハマったかも。多分そのときには「テクノが好き」の中でもより細分化されたジャンルの人しか来ないと思うけど。

新横浜ありな

帰りに本屋で森川嘉一郎の『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』を立ち読み。「アマチュア・スターの出現」というところで個人製作のアニメに触れていた。彼は個人がアニメを作ること自体が凄いのではなく、そうした個人製作のアニメに多くの批評やメディアミックス的手法が用いられる事が新しいと書いていた。さらに作家達はプロ(会社員)からアマ(個人作家)としての道を選んでいると。また、メジャーを先に見据える音楽業界のインディーズとは決定的に違うというようなことも書いていたな。うーん。僕はここで書かれていた内容は、音楽業界とアニメ業界でまったく逆だと思うけどな。このへんは僕もちょっと考えてみよう。

Posted by Syun Osawa at 23:46

2005年03月10日

宮崎駿の世界

斉藤環、上野俊哉ほか/竹書房/書籍

宮崎駿の世界もっとも読まなくていい部類の本。特に宮崎駿ファンにとっては必要のない本かも。心から面白いと思えたのは、元スタジオジブリスタッフによる座談会と、押井守と上野俊哉の対談(ただし押井の発言のみ)だけ。

みんな宗教、社会、性、オタク、少女なんかを持ち出して、宮崎駿を自分のフィールドに引き入れて語るんだけどね。そのわかったようなわからんような話が誰に向かって投げかけられているのか、僕には皆目検討がつかなかった。少なくとも宮崎アニメを楽しんでるアニメファンでないことは間違いない。ファンを公言する石井克人や山本直樹のひれ伏した文章は少なくともそちらの方向を向いていたようだけど。それでもやっぱり「ふーん(という感想)」ばかりが増殖する。そして、精神科医だろうが批評家だろうが、宮崎駿を解明しようとする輩を見ると反射的にカッとなる。そこだけはもう自動反応らしいw

そもそも僕の中の宮崎駿ってのは、「アニメーション」を抜いて語ってはいけない存在になっている。さらに宮崎駿自身のキャラも強く、長島茂雄と同じ匂いがある。例えばアニメーターの座談会なんかでは、必ず宮崎駿自身のキャラクターの話が中心になり、そこから作品の話になり、アニメーターとしての技術の話になる。それは彼がアニメーターとしてトップクラスの技術をもちながら、なおかつ監督になったからで、プレイヤーとしての憧れが常にある。そこに論理性や批評性があるかどうかは知らないけど(たぶんない)、彼のダイナミックな有り様に僕などはただただひれ伏してしまうのだ。

そういうファン意識もあって、宮崎駿を「少女」をキーワードで語る多くの批評は虚しいんだよな。特に宮崎駿の人間像から遠く離れたところで展開される評論は特に。そういうのだったら、彼の思想の変遷から語った紙屋研究所の「 『風の谷のナウシカ』を批判する 」なんかの方がよっぽど面白いと思う。宮崎駿の問題に肉薄してる感じがするから。

ただ、こういうサイトも含めて、ギターを弾かないヤツがギター語っちゃってるような説得力のなさがどうしてもついてまわる。その辺りの印象は僕の頭の悪さが原因だって事は十分承知しているけれど、例えば同書の中で、上野俊哉が大学教授の分際でこんなことを言っている。

宮崎駿に次はどうせなら歴史家カルロ・ギンズブルグのネタでアニメを作ってもらいたい。ベナンダンディの魔女話でも、「チーズとうじ虫」の異端審問ネタでもいい。いっそかるろの母ナタリアのリアリズも小説に魔法や魔女、サバトやファシズムをからませてもいい。ハリウッドばりのグローバルな「市場商品」にはなりにくいかもしれないけれど、「戦中」の処し方としては、断然「あり」だと思うのだ。

僕などは自動反応でムカッ! ときてしまう。批評家が無自覚にこういうことを語るのがどうにも好かん。だったら自分で作るべき。恥かいてでも。そうすることで、もう一歩踏み込んだ批評だってできると思う。テレビに出る料理評論家が料理を作ったことがないとしたら、あなたはその人の言葉をどのように聞きますか? 僕にはどうしてもTVチャンピオンの言葉としか聞けません。

ここでふと、古館伊知郎が局アナ時代に「実況をしている時にプロレスラーが次に出す技を先んじて言う事があって、その通りの展開になると気持ちいいんです」と言ってたのを思い出した。彼はもちろんプロレスラーではない。だけど、プロレスにとっての実況は観客(プロレスファン)にとって大きな役割を担っているので、料理評論家の話はちょっと保留(でもクラプトンのギターを聴いて、自分の手がギターに伸びないヤツの音楽論なんて全然聞きたくないなぁ)。それはさておき、少なくとも同書のような宮崎アニメ批評はアニメファンにとって大きな意味も持っていない。今のところは。

究極のところ、文学と文芸批評は同じ文章で行なわれているから、『存在論的、郵便的』の東浩紀が言うところの「その言葉は誰に届いているのか?」という意味で、同じ読者を巻き込んでの相互の影響も可能だと思うけど、アニメの批評なんてものは「評論を読むのが好きでアニメにちょっと関心のある人」にしか影響を与えていない。これはマンガ論も同様だ。それだけならいいんだけど、問題なのは、そこで語られることがアニメ文化の大枠を勝手に形作っていく事である。これは「平等に届いていない」という意味で実に不公平だと思う。暴論を言い切ってしまうと、マンガの批評は当然マンガでなされるべきだし、アニメの批評はアニメでなされるべきだと思う。そういう意味で伊藤剛には期待していたんだけど、今だ本は出ず。しかも結構高尚な語りばかりしててちょっと微妙だったり…。はは。この文章、すべて支離滅裂。かなり電波な意見ですな。賛同は得られません;

そんなわけで、僕にとっては、制作の苦しみや喜びを知っている人の視点から語られるほうが気持ちよく、ビシバシ影響を受けてしまう。例えば本書ならジブリのアニメーターによる座談会だったり、押井の皮肉だったりするわけだ。ちなみに「アニメーション」というキーワードだけで見るならば『 アニメーション宝箱 』の五味さんの方がまっとうに語りえていると思う。

Posted by Syun Osawa at 22:46

2005年03月08日

名画とあそぶ法

江國滋/朝日新聞社/書籍

名画とあそぶ法文筆家が面白おかしく名画を語ってやろうという趣旨の本。絵の見方なんてそもそも自由なんだから、誰に何を断って語っているんだろうと思ったら、最初のところに美大の教授や研究家の人は読まないでなんてことが書いてあった。その遠慮、一体何?

作家の人となりと合わせて面白おかしく絵を見ていこうという雰囲気は感じられたし、裸婦系の絵を自分の股間に正直に語っているのも好感が持てる。しかも文章が丁寧でわかりやすいからエッセイとしては気持ちよく読んだ。とはいえ、そこは常識人ですわ。あまり深い突っ込みも無いし、普通のおっさんの冗談を聞かされてるみたいでなんとも…。これで3000円は高くないかい?

唯一のヒットは、ミケランジェロの『最後の審判』(以下に引用)についてのエッセイ。もともとこの絵に描かれた人間はみんな全裸だったのだそうだ。ところが、法王パウス四世という人が「聖なる祭壇にちんぼこはいかがなものか」ということで、ミケランジェロの死後に複数の画家に命じてふんどしを描かせたそうな。ふんどしを描いた画家は「ふんどし画家」と呼ばれ差別されたらしい。このエピソードはいいw

ふんどし画家大活躍の『最後の審判』

最後の審判

ちなみに著者は江國香織の父である。これが一番ビックリかも。

Posted by Syun Osawa at 22:56

2005年03月06日

吼えろペン(全13巻)

島本和彦/小学館/漫画

吼えろペン前作『燃えろペン』(全1巻)の続編。前作を買ったのが中学のときで、それから自分でも漫画を描き始めて、挫折して、そして続編を読んだので何とも妙な気分になってしまった。

本作では、主人公の炎はすっかり職業漫画家になっている。相変わらず熱い人ではある。ただし自分の彼女が描いた(凄く手の込んだ)背景に何度もリテイク(描き直し)を出すようなことはもうない。さらに前作と同じように漫画業界の裏側を舞台にしているものの、今回は怪獣も出れば殺し屋も出てくるので色合いはかなり異なっている。本来ならこの時点でこの漫画を読むのを辞めているんだけど、島本和彦は前作にあった「熱い思い」をヒーローという新人アシスタントに託している気がして、その一点のために僕は最後まで読みきった。

「アシスタントは長くやるもんじゃない。」

漫画のアシスタントをやっている人はよくこんなことを言う。どこぞの漫画家のアシスタントになって、自分の描いた背景やモブ(群集)が雑誌に掲載されても、所詮それは人の作品であって、自分の作品じゃない。技術の習得をするためにアシスタントになるのはいいが、それ以上のものは望めない。という意味の言葉である。

炎プロのアシスタントは3人。ヒーローは新人だが、あとの二人は専業アシスタントとして仕事をしている。専業アシスタントの二人は自分の漫画を描かないが、ヒーローはアシスタントの仕事と自分の作品との間で悩み続ける。なぜならヒーローは漫画家になるためにアシスタントをしているのだから。島本和彦はこの点を執拗に描いている。

例えば『吼えろペン』(7巻)にこんな話がある。

ヒーローが卒業した漫画専門学校の同窓会に、売れっ子となった高城将がやってきて「えー本当は「メカアクションもの」が描きたいのに、日和ってラブコメ描いたら大うけで―やめられなくなった高城将です。」と挨拶をする。そして、高城とヒーローが顔をあわせたとき、今だデビューさえも果たせないヒーローは高城に向かってこう言うのだ。

〈正直言って二つある。ひとつはうらやましい! そしてもうひとつはうらやましくない!〉

この苦しみが『吼えろペン』の核なんだと思う。ヒーローはこの後、高城の好意によってデビューのチャンスが与えられる。何が何でもデビューしたいヒーローは高城のように自分の本意ではない美少女モノを描くが、それが自分の本当に描きたいものではないとして、最終的に自らデビューのチャンスを断ってしまう。正直ではあるが、はっきり言って要領の悪い態度だ。炎なら絶対にそうはしなかっただろう。炎=作者はそうしないのに、ヒーローという若者にそうさせているところに、島本和彦の現在を見つめる冷静な視線があると思う。

最終巻の最終話で、ヒーローはいよいよデビューを果たす。しかもそれは、出版社間のゴタゴタに便乗してのかなり強引なものだった。そして彼の漫画は低迷する人気漫画を尻目に読者アンケートで1位を獲得してしまう。ところが雑誌の都合で突然連載が打ち切られ、今度はメディアミックスによる版権モノの漫画を描いてくれと依頼される。版権モノの作品は、自分の描きたい漫画ではなかったが、ヒーローはもう迷わない。彼はその依頼を快諾する。そう、彼はプロの漫画家になったのだ。

『吼えろペン』はヒーローにとってあまりにも悲しい結末を迎える。結末だけじゃない。彼のデビューを巡る話はとても不幸である。だがよく考えてみれば、漫画家になりたいと願ってもそのほとんどが漫画家になれるわけではない。そういう意味ではこの「不幸」は珍しいものではない。だからこそ、そこを執拗に描き続けた本作には「人生の真理」めいた何かを感じるのだ。これは島本和彦作品のすべてに共通していることだが、「危険な道と安全な道があれば、迷わず安全な道を選べ」と言いながら、その一方で「心はそうじゃないんだぞ」と訴える彼の作品群は、閉塞社会を上手に生きることのできない僕の胸に鋭く突き刺さる。

PS.
『吼えろペン』は基本的にドタバタコメディなので、暗い話ではないです(怪獣も殺し屋もいろいろ登場するし)。ヒーローに関する話にこそ、ボクは作者の思いを感じるので、強引に引っ張って感想を書いてみました。

Posted by Syun Osawa at 00:27

2005年03月01日

マンガと「戦争」

夏目房之助/講談社/書籍

マンガと「戦争」著者本人があとがきで「相当恣意的な文脈にならざるをえなかった」と書いている通り、かなり強引な本だった。彼の提唱する〈マンガ表現史〉というのを僕はよく理解していないのでたいしたことは言えないけれど、例えば

〈『イガグリくん』にしても白土忍法にしても、マンガ表現史としてみれば、手塚の開発した手法の上にはじめて成り立ったということだろう。〉

ってどうなの? これ以外にも「宮崎駿は手塚の継承者」とか、典型的な「何でも手塚」の手合いに映ってしまう。戦争マンガを時代と対応させて論じていくという試みはとっても面白いと思ったし、そこで語られる60年代、70年代はそれなりに読めた。だけど、彼が「内向していく」と語った80年代以降のマンガと「戦争」のイメージは、恐らく団塊の世代やそれ以前の人たちが「こうにちがいない」と思っている一方的なイメージの押し付けという気がする。どうもこう、目から鱗が落ちたという風にはならない。

また「戦争中の翼賛的なマンガ」というくだりだって、『 まぼろしの戦争漫画の世界 』を読むと戦争マンガが多く刊行されたのは戦中ではなく戦前(もちろん何をもって戦中というのかは判断の分かれるところだが…)だし、そのほとんどが(中国やアメリカを連想させるとしても)虚構の戦争を扱っていたわけで、プロパガンダ一本で押し通すのはやや苦しい。

あと何とかならんもんかな、欧米に対する自虐意識。このヘタれた意識を世代の話に持ち込むのは嫌だけど、欧米への憧れが人格形成に決定的な人たちは、悲しいくらい欧米と日本を相対化し続ける。それはもうこの本を読んでも間違いないみたい。ただ、それはあなた達の世代だけが共有している意識だという事にしてほしい。困ったもんだ。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 22:18