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2005年11月29日

Rendez-vous 2005 映像×音楽 その2

前回のつづき

FANTASTIC

by Patrick Volve, Arno & Cale(2004年)

アメコミ風(正確にはフランスのBD風か)の漫画を3D処理で奥行きを持たせながら展開させていく。この作品はmellowのPVで、曲もなかなか僕好みでした。検索してみると2004年にはトルネード竜巻と対バンやってたりするのね。ふーん。

動きという意味ではアニメーションらしさは少ない。ただ物語の展開はとても上手いと思う。最初に実写でカラー漫画(BD)が描かれていき(これがまた上手なんだな)、そこで描かれたキャラクター達が、あるところを境にして奥行きを持ってアニメーションになるという素敵な展開。井端義秀『 夏と空と僕らの未来 』のような漫画内アニメーションという力技ではなく、実写で漫画が描かれていく様子も踏まえた抑えた演出。あるところを境にして3Dになり、漫画の外側の問題を最後に物語の中に持ち込んでいる。

途中で画面が黒に侵食されはじめ、やがて物語は曲とともに終焉を迎える。画面を埋め尽くした「黒」は何か? この悲しい結末は手描きで漫画を描いたことのある人なら、一度は経験したことのある悲劇だろう。

how about that

by Vincent Patar & Ste'phane Aubier(2005年)

パペット・アニメーション。videos.antville.org をチェックしている人なら感じていることだと思うが、実はミュージック・クリップに人形アニメを使うケースは少なくない。もしかしたら客層が近いのかも。ゆるい曲にテンポのあるコミカルな動きの人形たち。しかし、ほのぼの人形アニメ=シルバニアファミリーの世界観と勝手に決め付けている僕の狭い心には物足りない。僕はきっと日本の伝統であるキン消し(キン肉マン消しゴム)の世界観でないと満足できないヤツなのだ。

駅ニテ

by 喜田夏記(2004年)

制作者の喜田さんはデパペペのPVなども作っている人らしい。トークショーでの話によると、この作品は絵を描いて、その絵をふくらませてアニメーションに仕上げたとの事。トークショーではいい作品の部類に並べられていたが、僕は birdの二番煎じみたいな曲 をおいしく消化しきれなかったため、そこから先はミュージック・クリップとしては見てない。幻想的な背景の上に外国人モデル(?)の実写切り抜きアニメが重なる姿と、この曲の間に親和性を見つけることは、男子(特に僕のような腐オタ)にはちょっと難しかったようだ。

-SAI-(前編)/廻る、巡るその核へ

by 西郡勲(2004年)

3Dの表現力を舐めてたことに反省。とんでもない作品で、帰りにすぐにTSUTAYAに走ったほど。ACIDMANの曲も素晴らしく、ここまで曲とアニメーションが対になって作品へと昇華しているものを僕は知らない。

ゴーギャンを見たときのような、色の破壊力。黒く抑えられたトーンの中で鮮やかに照らされる花火。荒廃した街を彷徨うカラスが、花火の中に飛び込む。それが『-SAI-(前編)』。

そして『廻る、巡るその核へ』。一転して闇の中、並列に並ぶ個性のない死んだ森。その中央から花たちが色を持って出現する。やがて木にも色がつき、木々の合間から動物たちが甦る。色が色を生み、核爆弾のように凄まじいスピードで闇を飲み込んでいく。カメラがパーンして世界観を映し出したとき。そこに見えたものは「色のドグマ」だった。淵に動物を配した円環の中央からあのカラスが飛んでくる。カラスに色はない。白いカラスはどこへ飛び立つのか…。

トークショーの中で制作者の西郡さんは「ストーリーはない。」と話されていた。さらに、単純にドラムの音に合わせて映像を作っていくのではなく、ギターの間に合わせるなど、曲の抑揚や展開を考えながら作っていったそうだ。

ありふれた3D作品はいくら絵が綺麗だったとしても、観客から見るとどこかよそよそしく、人間味のない作品に感じられることが多い。しかしこの作品は違う。荒々しく、生命力みなぎった映像を3Dで表現している。ストーリーではなく映像のインパクトで引っ張っていったことで、曲がバックミュージックに押し込まれることもなく、曲と映像が50×50の関係をギリギリの緊張感で保っている。まさに、本イベント「映像×音楽」にふさわしい作品だった。

最後に制作者の西郡さんが「好きな曲で映像(PV)を作れることは稀だ。しかし、いい曲には必ずいい映像がついている」と話されていたのがとても印象的だった。

Posted by Syun Osawa at 23:34

2005年11月28日

Rendez-vous 2005 映像×音楽 その1

2005年11月23日/主催:openArt/FANTASTIC THEATER

openArt film fest「Rendez-vous」2005ぶっちゃけACIDMANのショートフィルムしか記憶に残ってない。他がダメなんじゃなくて、これが凄すぎた。

「日欧短編映画フェス」「short film fest」「openArt」「Rendez-vous」といろんな言葉が胡散臭く並んでいますが、ようするに openArt で紹介されている短編を中心とした上映会ってことでしょうか。このイベントは短編の上映に加え、上映後にトークショウがセットされており、なんと11月29日にはエミ・エレオノーラが出演してたのだ! 何故だ??

上映内容も毎日テーマの異なる短編を上映していてバラエティに富んでいる。例えば11月24日には『 スーパー変態ハネムーン 花婿はヘンな人 』のビル・プリンプトンの新作が流れたりしたようだ。羨ましい。僕は熟考の結果「映像×音楽」とういうミュージッククリップ中心の短編アニメ上映会に参加。エレオノーラが見れなかったのは非常に残念だったけど、作品的には素敵なものをたくさん見れて大満足。以下、雑感などをツラツラと。ミュージッククリップなので音楽の趣味ももちろん重要な要素。

Loop Pool

by 鮎澤大輝

第二回インディーズアニメフェスタ参照

TOWN

by TACOROOM

6人くらいのチームで作っているそうな。学生さん。彩色の色の感じは凄いんですが、この後で西郡さんの作品を見てしまったということもあり…盛り上げる部分でネオン管に光をともすだけでは、街の華やかさを演出するには若干弱いかと。ネオンの光が網羅した後、カメラが引いて全体を映したときのTOWNの様子はかなりインパクトあり。

Electronic Performers

by Arnaud, Laurent, Je'ro^me (c)Machine molle/Revolvair 2004

モノクロのミニマルな映像。3Dモデリングのテカテカした部分を活かしつつ、水面の波紋のようなやわらかな動きを表現している。フランスのバンド“AIR”の曲もアニメーションとの親和性が高い。ハイハットの一音といった単位で細かな部分で映像をシンクロさせており、まさにTomilandの PV「At maaste bli anorlunda」(曲:Hoirthoy's minimalistic)と双璧をなすような高い仕上がりとなっていた。

同じフランスのバンド“PLEYMO”の Marc Maggiori もアニメ作っているそうだし(パクリ疑惑はスルーで)、音楽とアニメの在り方がいい感じに絡み合っていて、NHKの「みんなのうた」に食傷気味な僕としては、ちょっと嬉しい流れ。

Chalkdust

by 6nin

5、6人のチームで作られているそうな。制作者の一人が制作過程について、まず映像を先に作り、それに合わせて曲を乗せていくと話されていた。この作品も色調を抑えた渋い絵作りとヘタ上手でポップなキャラクターが目を引く。この作品の中の肝は何といっても顔のない人間の「像」だろう。消え入りそうな影のような人間の像が、まるで心を持たない「モノ」であるかのように存在感なく都会を行き来している。その先に起こったファンタジー(生命を持った花たち)は社会を暖かなものにしてくれただろうか…。

掘る。

by 藤井史朗

瞬発力あり。人間を切り抜いてコマアニメにし、それを音楽にあわせていくというわかりやすい制作スタイル。これをカッコ良くやると、PVにありがちなものとして記憶から消え入ってしまいがちだが、シンプルに笑えるわかりやすい作品に仕上げていたので強く印象に残った。この作品は DoGA CGアニメコンテスト とかに出しても、会場で喜ばれるでしょうね。

STEREOLOVE

by Daniel Klein & Jocelyne Auzende(2003年)

DJアゴリアという人のPVらしい。高速道路のインターチェンジの中のレストラン(?)が舞台。高速道路が崩れ、そこを走る車が落下していく中で、レストランの中の2人はのんきに料理を食べている。室内の二人の様子と窓の外に見える世界崩壊の様子が対照的。そんなキャラクターの一人は骸骨の姿をしている。フランス人は皮肉屋ですね。

つづく

Posted by Syun Osawa at 21:48

2005年11月26日

ワンダフルデイズ

監督:キム・ムンセン/2003年/韓国/アニメ

ワンダフルデイズ韓国の人は男女の悲恋が好きですねぇ。

物語は1割の勝組(エコバン)と9割の負組(マール)を軸に描かれる。エネルギー戦争後の荒廃した世界で、マールの抵抗組織とエコバンの守備隊の攻防が続いているという設定。観客を引き込むために国家間の大きな対立を展開しつつ、元エコバンの主人公スハ(現・マール)とエコバンの守備隊に所属する元恋人のジェイ、その二人の関係をよく思わないシモンの三角関係を丁寧に描いている。ようするにメインは純愛。

日本だとこの手の真っ直ぐな設定の作品はあまり見かけないように思うがどうだろうか。一方、韓国の映画ではわりとよく目にする気もする。そしてこの手の展開の場合、韓国のアニメは破壊力があり、まどろっこしい言い方をすると「ベタの強度」が強い。

本作の一番の感動はなんと言っても、背景がすべてミニチュアで制作されていることだろう。予備知識なしで見たので、僕はてっきり質のいい3Dで作られていたのだと思っていた。背景をミニチュア、乗り物や小物などを3D、人物を2Dで描いている。ミニチュアは重量感、3Dは金属の質感、2Dは表情という風にそれぞれに明確なテーマを与えて制作されているため、一見するとバラバラで違和感がある。GONZOの昔の作品でもこういう試みは多く見られたが、2Dと3Dが折衷する過渡期という感じがして、そういう点では興味深い。おそらく10年もすれば落ち着くべきところに落ち着いてしまって、こういうギラギラした作品はお目にかかれない可能性もあるので、そういう意味でも貴重な作品だと思う。

ちなみに、映像特典でついていた予告動画を見ると、日本と韓国では明かに異なる。韓国はミニマルで渋く、日本は説明が多くケバい。作られる作品とは反対の傾向。この差はなんだろうか?

Posted by Syun Osawa at 23:53

2005年11月25日

ぎりぎり合格への論文マニュアル

山内志朗/平凡社

ぎりぎり合格への論文マニュアルイーブックオフで買い物したときに、送料を無料にしたくて買った本。先日、飯田橋の文鳥堂でも平積みされてたので、2001年初版発行の本ながらまだまだ需要があるらしい。基本は大学生に、そして僕のような理由で買われる本なんでしょう。

僕の場合大学生でも何でもないので論文なんてものとは無縁なんですけど、「第四章 論文を書いている間の作業」は記号の使い方がわかりやすく説明されていて勉強になります。正しい引用の方法や、もっともらしい文章に置き換えるフレーズ集なんかも紹介されていて、新書サイズなのに実用向け。著者本人が『サルまん』に対抗して「ブタでも書ける論文入門」だと言っるだけあって、平易で凡人に向けた手引書と言えるでしょう(まさに僕のための本か!)。学生時代に出会っていたら、もう少しマシな論文がかけたかも…。

さっそく実践へ。老婆心ながら脱字を見つけたので、本書のやり方にならってちょっとだけ引用してみる。

→「〜については、後で述べることにする。(中略)〜については前に説明しておいたが」〔前と後が同じページだとすバレる。数ページあいていると分かりにくい。ただし、ていねいに読む人にはバレる〕
(山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』、平凡社、2001年、p.186)

「すバレる」は「すぐバレる」でしょうね。ちなみに引用する書籍のページ数は絶対に小文字で「p.」とするんだそうな。ほんまかいな。

Posted by Syun Osawa at 20:02

2005年11月23日

続アニメーション*スリー

坂本サク、加藤久仁生、坂井治
/2005年11月18日−11月30日/目白オープンギャラリー

続アニメーション*スリー何年か前にチャリンコで立ち寄った アニメーション*スリー が再び開催されていた。参加メンバーは坂本サクさん、坂井治さん、加藤久仁生さんと変わらず。展示方法も前回と変わらず半分が原画の展示、半分が上映スペースだった。

原画の展示では3人のアニメーションの下地の捉え方が三者三様で興味深かった。坂井さんはアクリル絵の具できっちり原画を描いている。絵本まで出してるわけなので納得。坂本さんはアクリルで描かれた3D用のテクスチャが展示されていた。新作の背景画は商業アニメの背景画のようだった。加藤さんは一番特徴的で、すべてが鉛筆で描かれている(これがまたいい雰囲気なんだな)。それをスキャナでパソコンに取り込み、パソコン上で着色しているのだろう。ただし、前回 紹介されていた「マスク抜き」の技法は、今回上映されていた『或る旅人の日記「赤い実」』では使用されていないと思う。

また展示ブースでは、3人のショートショート作品を集めたDVDが30部限定で予約販売されていた。これはレア。そして僕はレアものに弱い。以下、初見の主だった作品の雑感などをツラツラと…。

脚の生えた魚 告知用

by 坂本サク

イントゥ・アニメーション4 で公開された『脚の生えた魚(パイロット版)』に新たなシーンが追加されていた。中でも夕日がキラキラと反射する並みの表現が凄まじく、『フィッシャーマン』で描かなかった水の表現(あっちは水が枯れてんだけど)に対する作者の挑戦が見てとれる。3D表現も健在で、船、恐竜の化石、魚は3Dにアクリル絵画のテクスチャを貼って作っている模様。

坂本さんの作品は、アートアニメーションという意味不明な表現で括られている作品群と俗にいう商業アニメの間に位置しているように思える。人間と猿をつなぐ何とやらという感じ。そのどっちつかずな不安定感が少し気にかかっていたんだけど、そのもやもやはCM『JBCクラシック/JBCスプリント』というモノクロの作品を見て吹き飛んでしまった。完全に手描き一本だろうか。それとも実写と3Dモデルからトレースしてるんだろうか。いずれにせよナイスな腕前。

ひらひら

by 坂井治

今回見た作品の中で最も刺激を受けた作品。木漏れ日のアニメーションと言えばよいか。今年の DoGAアニメーションコンテスト で入選した宍戸幸次郎さんの『 かがみのげんおん 』という作品でも光に対する挑戦が見られたが、本作では実写の木漏れ日を単純にアニメ化するというのを超えて、さらにもう一歩進めた形で光を表現しようとしているように感じられた。具象から抽象へ。

木漏れ日の隙間からときおり登場する擬人化された木々や風であったり、緑と白で大胆に構成された背景(それは木であり風であり光でもある)の変化はかなり素敵。作品集出て欲しいなぁ…。

或る旅人の日記「赤い実」

by 加藤久仁生

JAWACON 2005 の3階展示ブースでも上映されていたらしい。2004年の作品ながら今回が初見。まず、これまで見た同シリーズとの画面の違いに違和感を感じる(タッチも違う?)。悪い意味ではない。今回の作品では画面がクリアになってることもあって、空気感が増した印象。

とにかくよく動く。こういったタッチの絵でここまで素敵な動きを見せる作品を僕はあまり知らない。立体表現にも積極的で多重スクロール(まさか3Dではないと思うが…)を多用しており、空気感に加えて立体感も増していた。失われたのは絵の持っていたやわらかさ。絵からアニメに重点が置かれた結果ということかも。

エンドロールを見ると、アニメーションは6人前後で作られたようだ。そして、アニメーション制作のチーフには森川耕平さん(『NATUNAL』を作った人)の名前があった。いろいろ納得。

雑感

3人の作品はどれもシンプル、そして誠実。まっすぐに自分の作品世界を構築している。こういう素敵な作品群が、どのように消費されていくのか。実はそちらについても興味があったりする。

10月に日仏会館で、フランスの学生が作った卒業制作作品を見た。その多くは3D(3Dの学校だから当然ですが)であり、どれも視線がPixerに向いていた。こちらの視線の先には需要があり、市場があるのだろう。

それに比べると、日本はわりと多くの制作者が2Dと3Dを横断した作り方をしているように思える。もはや2Dも3Dも実写もミニチュアも映像の細部に過ぎないという事でしょうかね。今回のイベントでも3人の手法はバラバラ。ただ共通しているのはどの作品もアナログ感が漂っていたこと。僕はそれが何より嬉しかった。

Posted by Syun Osawa at 23:39

2005年11月22日

トルネード竜巻『ふれるときこえ』

ボーカル名嘉さんの語尾までハッキリ歌うところが好印象。ループ中。

『文藝春秋』12月号で塩野七生さんが素敵なこと言ってます。
立ち読み必須。

以上、今日の素敵なこと。

Posted by Syun Osawa at 23:05

遊就館「常設展」&「日露戦争百年展」

遊就館/靖国神社

遊就館「常設展」&「日露戦争百年展」戦争画を求めて靖国神社の遊就館へ。遊就館にはロケット特攻機「桜花」とか人間魚雷「回天」とか艦上爆撃機「彗星」とかがデーンと展示されていて、宗教施設の中にあるとは思えないド迫力。イギリスの帝国戦争博物館が教会の脇にあったらビビるのと同じ。

常設展では『私達は忘れない!』というドキュメント映画が上映されていて、その内容のエモーショナルっぷりが凄かった。安倍晋三さんを連想させて、何とも何ともって感じ。歴史に対する印象ってのはその語り方によっていろいろ違うもんですねぇ。神戸製鋼が根性一辺倒のラグビー界に新風をもたらしたのもそうだし、『 ドキュメント戦争広告代理店 』なんかでも言及されているとおり、今の時代は感情のもっと上のところで何やらがおきてるのかなと思う。

武器&兵器だらけの常設展なので、さぞかし戦争画もたくさんあるだろうと思ったら、有名なのは日露戦争百年展にあった東城鉦太郎《三笠艦橋の図》くらい。あと、常設展のほうで田村孝之介《佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す》の一部が拡大されて名前も付されずに紹介されていた。藤田嗣治も宮本三郎も中村研一も小磯良平も向井潤吉も清水登之ない。残念。現物を見ることができたのは以下の作品。

【常設展】
作者不明《ハルハ河畔敵戦車郡を激撃する機動九〇野砲》
佐藤幹児《「ヒ八六船団」は還らず》
作者不明《陸軍海上挺進戦隊の活躍》
山崎文夫《遺恨の旆旗焼》
深沢省三《蒙古軍民協和の図》
齋藤文人《日米空中戦の図》
藤瀬韶國《Z旗を掲げる空母大鳳》
藤瀬韶國《特攻機米韓突入図》
清水多嘉示《重慶夜間爆撃行》
藤瀬韶國《航空戦艦伊勢》
古島松之助《半壁山の戦》

【日露戦争百年展】
辛島一誓《永沼挺進隊奮戦の図》
武藤夜舟《近衛歩兵第三聯隊日露戦役藩家台附近戦闘図》
満谷國四郎《軍人の妻》
今村《鴨緑江渡河》

全部知らない作品。常設展の作品は戦後描かれたものも多いのかな? 清水多嘉示《重慶夜間爆撃行》には「紀元二千六百年奉祝美術展出品」と書かれているので当時のものなんでしょう。気に入った作品は今村《鴨緑江渡河》という日露戦争の作品。朝もやの中で日本軍がゾロゾロ歩いていて、河の向こう側で何かが燃えている。漂う雰囲気がいい。あと、武藤夜舟《近衛歩兵第三聯隊日露戦役藩家台附近戦闘図》は珍しく日本画で、川端龍子さんの戦争画を思わせる格調高さみたいなものがあった。ただ全体的には印象薄。売店に置かれていた軍艦や戦闘機のプラモデルの表紙に描かれている絵の方が僕的にはインパクトがあって、そちらの方に気持ちは持っていかれた。タミヤとか大日本絵画あたり。

関係ないけど、最も多くの戦争画を保有している東京国立近代美術館は、常設展で戦争画を毎回2、3点ずつ小出しに公開していてる。これが気に入らない。しかもわざわざ「今回がはじめての出品です」と書いてたりする。アジアへの配慮というのを盾にした高度な営業戦略の一つですよ、これは…。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:21

2005年11月19日

炎の筆魂

島本和彦/朝日ソノラマ/漫画

炎の筆魂歴史に残る短編集かも。

島本和彦的なハイテンション漫画にもブームがあって、長くやっていれば当然浮き沈みがある。数年のスパンでメジャー誌とマイナー誌を行き来する彼の漫画人生の中で、この作品はおそらく浮いている時期の作品ではないだろう(憶測です)。

でも、こういう作品群だからこそ採用されているような実験的な演出がたくさん見られて、漫画表現の枠を広げつつそれをエンターテイメントに消化しようとしている作家の心意気が感じとれた。また本作には『燃えよペン』と『 吼えろペン 』の間に描かれた「燃えよペン 第2部」という作品が収録されており、燃えペンファンとしては二重の喜びがあった。

根性戦隊ガッツマン

根性を笑った何ともいえない作品。「根性」だけを拠り所に戦隊モノを作ってしまうなど、誰が考えるだろうか? 最後の「イヤと言うほど根性を見せつけられ、もう平和になるしかなかった」という言葉が妙に深い。

ちょっとだけUターン

無茶な設定によって自然発生した素敵なシーンを発見。ヒロインの女の子が「わたしってなんのためにこの世にいるのかななんて――思ったりしてさ!! コジローくんはなんのために生きてると思う?」と言う台詞に対して「君のためにだよ…」と心の台詞で語りつつも実際には言わない。この台詞のために書かれる恋愛小説と比べ、本作品の設定はあまりに無茶苦茶。そして無茶苦茶がゆえに心に引っかかる。

アカデミ−

この作品も凄い。『逆境ナイン』の冒頭も相当なもんだが、こちらはもっと凄い。最初の13ページに出てくる台詞は「東京」「タクヤ!?」「あああ!!」「だめだっ!!!」「絵にならねぇ……」だけ。恐るべし。ラストの戦いもやたらとテンションだけ高くて、何となく正しいものを見たような気にさせられる(確実に間違ってます)。

燃えよペン 第2部

炎尾燃が漫画家の卵だった頃の話。3ページ目、原稿を持ち込んだ炎尾に対して放つ編集者の言葉で掴まれる。

編集者の格ってのはね! 何人の新人作家をつぶしたかで決まるのよっ
ついてこれない新人はバシバシ切っていくのよ私は!!

このあたりの展開だけなら『燃えよペン』にも『吼えろペン』にもある。この作品は短編という特性もあって、上記に作品よりも革新的な技法をサラッと用いている。それは漫画の中で描かれる漫画がそのまま大枠の漫画(ネーム画)になるという凄い展開を見せているところ。

また、ふだん熱く能書きをたれる炎尾燃は若い頃、どんな思いで漫画に立ち向かっていたか。その一端も見えるので、『吼えろペン』ファンにとっては、この作品を読むだけでも価値がある。

あしたのガンダム

『ガンダム』を『あしたのジョー』アレンジでパロッた作品。しかもアニメの原画風(つーか絵コンテ?)に描いていて、画面の効果や影の付け方などがわざわざ鉛筆で記されていたりする。パロってるのは『ガンダム』だけじゃなくて、セルアニメそのものをパロっているのだ。スゲェ!

Posted by Syun Osawa at 23:49

2005年11月17日

井上円了の民具コレクション展

2005年10月4日−11月27日/中野区立歴史民族資料館

中野区にも当然歴史があって、住んでるものとしては昔この場所がどんなところであったか少なからず気になるもの。今回は、井上円了の民具コレクション展、山崎家の茶室公開、そして民族資料館の常設展にて中野の歴史をちょっとだけ堪能した。

井上円了の民具コレクション展

井上円了は東洋大学の創立者で、哲学堂の創設者でもある偉い人。この人が収集した民具の中に伊豆半島で採集した「コックリさん」の道具があった。うーん。どうやって使うんだろ? 僕は小学校のとき、キューピッドさんしかやった記憶がない。そしてインチキ(友達の好きな奴をひたすらバラす)した記憶しかない。

中野区立歴史民族資料館

左上の写真はいかにも公共事業の民族資料館って感じの常設展の様子。徳川綱吉が「生類憐みの令」を出したときに使っていた犬を入れる道具が展示されていた。なんでも中野区には28万坪にも及ぶ野犬用の収容施設があったそうな。ある意味で日本最古のサファリパークと言えなくもない。右上の写真は山崎家の茶室と庭園。松戸の戸定邸 と比べるとはるかにショボかった(しかも中に入れないし…)。

Posted by Syun Osawa at 23:05

2005年11月15日

ブリューゲル(アート・ライブラリー)

キース・ロバーツ/訳:幸福輝/西村書店

ブリューゲル森アーツセンターギャラリーに『 レオナルド・ダ・ヴィンチ展 』を見にいったとき、その下階のギャラリーショップでブリューゲルとヒエロニムス・ボスの絵画に登場するキャラクターのフィギュアが売られているのを見た。これがかなり可愛い。そんなつながりで画集など…。

非現実的なキャラクターともっさりした田舎臭い風景が実にいい味を出してます。今から500年も前にこんな凄い絵を描いていた人がいたんですねぇ。一人一人のキャラクターの動きが個性的で、500年前の田舎の人間模様がとても生々しく感じられます。

彼が生きた時代は、宗教改革でルター派やらカルヴァン派やらイギリス国教会やらが出てきた時代。守旧派のローマ教会も一段と粛清を厳しくするなど魔女狩りが花盛りで、人が簡単に処刑されていた。ブリューゲルの住んでいたフランドルの村はスペインの占領下で、ローマ教皇派による異端審問が凄惨さを増していた。彼はその頃の様子を、スペイン軍が幼児を殺している《嬰児虐殺》などは当時の人間の愚かさを田舎の村にある日常の風景として描いている。

《嬰児虐殺》(C)ブリューゲル(1565-1567年)
《嬰児虐殺》(C)ブリューゲル(1565-1567年)

ビデオ『世界の美術 ブリューゲル』(日経映像/テレビ東京)を見ると、その頃の魔女狩り的な粛清の事を憶えている人は今も多いようだ。地元の人はブリューゲルを、その時代の苦しい農民達の様子を描く抵抗の画家と捉えられているようで、今でもブリュッセルでは毎年ブリューゲル祭りが開催されているそうな。

ブリューゲルは田舎の美しい風景の中に見え隠れする、動乱の余韻をヒエロニムス・ボス的な寓意に託したり、また俯瞰した背景の一部として描いている。キャラクターの可愛らしさとは裏腹に、その内側に託した社会に対する思いは冷静だ。このあたりは僕の中ではわりと重要で、厭世気分を「辛いよ!辛いよ!」とダイレクトに表してるわけではないところがいい。この絵に描かれている戦争画は当然のことながら、プロパガンダではあり得ない。

ちなみに《雪中の狩人》を見ると、凍った田んぼの上で村人達がスケートを楽しんでいる。その中にカーリングをしている子供達がいる。カーリングは15世紀にスコットランドで始まったそうなので、普通の遊びだったんでしょうね。

あと、彼は1569年のある日、世界を逆さに見ようとして、股の間から覗こうとした時に、心臓発作かなんかで死んだと言われている。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 21:48

2005年11月13日

ドキュメント戦争広告代理店 ― 情報操作とボスニア紛争

高木徹/講談社

ドキュメント戦争広告代理店もしも太平洋戦争時に描かれた『戦争画』に戦争責任を見つけるとするならば、戦争の正当性を国民に植え付けるプロパガンダとしての役割を担ってい事がそれに該当するんでしょう。その点を『 音楽・美術の戦争責任 』ではチクチクやってる。感情の面ではわからなくはないが、『戦争広告代理店』を読んだ今となっては、そういうものが全部ちっぽけなものに思えてしまう。それは毛沢東のプロパガンダ絵画でさえも同様。現代のプロパガンダは、ステルス戦闘機のように高度な技術を携えて、僕達のはるか上空を静かに飛びまわっているのだ。

この本を読もうと思ったきっかけは『 モンスターの眠り 』(エンキ・ビラル/河出書房新社)の物語の裏側に描かれていたボスニアの悲劇を読み込めなかったから。冷戦後のユーゴスラビア紛争についてほとんど知識の無い僕にとっては、クロアチアもボスニアもコソボもごっちゃになっていて、何がなんだかわからない。そこで情報を上手に操って、“悪と正義”というの小学生でもわかる対立軸に置き換えてゆく人達。それがこの本の主人公であるアメリカのPR会社なんですね。

本の中には戦争の悲劇などはまったく描かれておらず、ひたすらにメディアを使ったプロパガンダの高度な戦略が紹介されている。ボスニアの外相にテレビのニュースの尺に合わせて短く象徴的な言葉(民族浄化など)を選んで話をさせたり、国民の関心を引くためのお涙頂戴のエピソードをでっちあげたり。イラク戦争で話題になったジェシカ・リンチなんかも、こういう会社の力によるところが大きいのかもしれんなぁ。あと、チェチェン などはロシアのプロパガンダが効き過ぎて、チェチェンが悪者に仕立て上げられている。

このプロパガンダ戦略そのものに対して否定的な立場をとっても、残念ながらこの流れは変わらない。著者が文庫版のあとがきで、本の中に登場したPR会社の社員と再開したときのエピソードを紹介している。彼は日本の官庁には立ち寄らず、中国のクライアントと接触しているのだ。

先日、この本の主人公、PRエキスパートのジム・ハーフが初来日した。といっても、行き先は東京ではない。北京である。(中略)ハーフは、中国では政財界の様々な有力者と面会し、彼らがいまや資本主義者のように語ることに驚き、圧倒された、そして多くの熱心なオファーを得て興奮していると熱っぽく語った。(中略)翌朝、七十キロ先にある都心に立ち寄ることはせず、ハーフはそのままワシントンへ帰っていった。

首相の靖国神社参拝問題などは、まさにメディアの情報戦が左右しているのではないでしょうかね。僕は平民なのですぐに感情的になりますが、少なくとも政治の場にいる人は右翼左翼に関わらず、冷静に情勢を見極めて、戦略を練ってほしいなぁと思います。

ちなみにこの本を読んでもユーゴ紛争の実態についてはほとんどわかりませんでした。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 23:15

2005年11月11日

宇多田ヒカルはダウナー系?

『ミュージックステーション』で、宇多田ヒカルさんがアカペラ風(伴奏はチェロのみ)に歌っていた。大正琴をフルカスタムして西洋の楽器に仕立てたような声だった。

この人って、これまでアッパー系だと思ってたけど、もしかして実はダウナー系なんだろうか? いろんな意味で(歌詞は関係ない)。鬼束ちひろさんがダウナー系で、小谷美紗子さんがアッパー系という勝手なものさしの中での解釈ですが…。

(参考)『消えたマンガ家(全3巻)』(大泉実成/太田出版)
(関連)宇多田ヒカル偽史 ver.1

Posted by Syun Osawa at 20:53

2005年11月09日

絵かきが語る近代美術 ― 高橋由一からフジタまで

菊畑茂久馬/弦書房

絵かきが語る近代美術昔、こういうじいちゃんから戦争の話とか聞いてたっけ。家から5分の病院の前にある家で…懐かしい。近代美術を取り巻く環境とか人間模様をおじいちゃんが面白おかしく語っています。画家だけあって、絵を中心に据えた語り口が新鮮。時代を中心に据えて絵を語る学者の話とかはアホな僕にはチンプンカンプン(これも死語か!)なことが多いので、菊畑さんの文章はわかりやすくてよかった。

この手の本を読む目的は「戦争画」にあるんですけど、近代美術の成り立ちそのものも面白いので、最近はそっちに引っ張られがち。菊畑さんの言葉の中にも明治から昭和初期にかけての激動の時代を体験できなかった悔しさみたいなのが滲み出てます。もちろんその裏側にはベッタリと戦争が張り付いている。時代に翻弄されながら生きている人間像。登場人物がキラキラ輝いて見えるんだからしょーがない。高橋由一も岡倉天心もフェノロサもみんな公務員みたいな人生送ってないんですね。

そんな中でも今回のひっかかりは黒田清輝の名言、夏目漱石の美術評、《アッツ島玉砕》とアナーキズムの3点。

法律を勉強しにパリに渡った秀才の黒田清輝が、悪いヤツら(画家たち)に影響されて画家を目指すことを決意する。その胸のうちをパリから父に宛てて手紙を送るんですが、画家を目指すいいわけをひとしきり書いた後の決めゼリフ。

貧富は只一世、死後の名に目を附るこそ男子なりと奉存候

カッコいいですね。僕みたいな無能の貧乏人が言ってるわけではなく、金持ちの秀才が言うからカッコいいんですね。もちろん金出してる父は激怒するわけですけど(当然です)。

もう一つ、夏目漱石がたった一度だけ美術批評を書いていたそうな。そしてこれがかなり素敵な内容らしい。ここにも名言がある。

芸術は自己の表現に始まって自己の表現に終わるものである。

彼自身、絵をたくさん描いていたそうで、そういう意味でもこの批評文は読んでみたいですね。

最後に藤田嗣治の名作《アッツ島玉砕》について。この死闘図の右下に描かれたヒメエゾコザクラと、戦前のアナーキズム詩人・秋山清の「白い花」という詩に登場するヒメエゾコザクラの奇妙な一致を指摘しています。

「白い花」 秋山清(1944年)

アッツの酷寒は
私らの想像のむこうにある。
アッツの悪天候は
私らの想像のさらにむこうにある。
ツンドラに
みじかい春がきて
草が萌え
ヒメエゾコザクラの花がさき
その五弁の白に見入って
妻と子や
故郷の思いを
君はひそめていた。
やがて十倍の敵に突入し
兵として
心のこりなくたたかいつくしたと
わたしはかたくそう思う。
君の名を誰もしらない。
わたしは十一月になって君のことを知った。
君の区民葬の日であった。

《アッツ島玉砕》は軍部に委託されて描かれた戦争記録画です。だから本来は記録だけしてれば良い。でも藤田はそうはしない。なぜなら彼は画家だから。この絵は戦争によって噴出した激情が良いも悪いも取り込んで表現されている。なぜだかわからない。

「ワーッ」と声を上げながら銃剣を持って突入する日本兵のあり様は、アメリカ人から見れば異様で、戦術的な面からはあまりに稚拙だった。それを意識していた兵士も多いだろう。しかし彼らは突入する。突入した兵隊たちは、ボロボロの背中に故郷を守りたいという強い思いを背負っていたからだ。《アッツ島玉砕》はその激しく複雑な感情がない交ぜになって、当時の戦争の様子を見事に表現している絵だと思う。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 23:11

2005年11月07日

宮本三郎展 ― 従軍の記録 そして生の讃歌へ

2005年10月−11月/世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館

宮本三郎展 ― 従軍の記録 そして生の讃歌へ宮本三郎さんは《山下・パーシバル両司令官会見図》(1942年)という有名な戦争画を描いた人。この絵は『美術の窓 1991年8月号』(生活の友社)の「特集・戦争画を考える」の中で実施された学芸員・評論家・ジャーナリスト58人を対象に行なわれたアンケートで、太平洋戦争の戦争画としてベスト1に選ばれた作品です。僕も東京国立近代美術館で実物を見ましたが、たしかに迫力満点で決意の強さみたいなものが滲み出てます。ただ、僕的にはベスト1じゃない(写真のまんまなので…)。

それはそれとして、今回の展示の僕的目玉は《飢渇》という作品でした。左腕を負傷した兵士が這いずりながら前進しようとするとき、その悲壮感漂う顔が水溜りに映し出されるという鬼気迫る作品です。彼の描いた戦争画では他にも《落下傘部隊の活躍》や《南苑攻撃》などがあるんですが、どれも堅苦しくて緊迫感にかける感じがある。そんなわけで、彼の作品の中では《飢渇》が一番好きです。

ちなみに今回の展示会では、《飢渇》の横に下絵スケッチも公開されていました。下絵の方は中央の兵士は口を閉じています。ただうつむいて黙々と前進してるだけなんですね。下絵と本番の間にどういった心の変化があったのでしょうか。あと、彼のサイン「sabuRo」というサインの後に「lll」があるのとないのがあるんですが、違いの真意も不明のまま。

展示会の戦争画を漠然と眺めていて気づくことはいろいろあって、例えば素描(スケッチ)の類に描かれた兵隊さんはボケーッと突っ立っている絵や、寝転がって何かを探してるとかそんなのばっかりなんですね。これってロバート・キャパの『 ちょっとピンぼけ 』に書かれていたこととオーバーラップします。従軍しても、なかなか戦闘にお目にかかれないという意味で。

彼は戦後、戦争画を乗り越えるため《死の家族》という作品を描いていて、今回はそれが展示されていました。そして彼はこの作品について『アサヒグラフ 1951年1月31日』(朝日新聞社)に以下のようなコメントを寄せています。

「死の家族」は特定の国の風俗でも、事実に即した情景でもないが、われわれの傷ましい悲劇的な前代を象徴するような「主題画」を描きたい…。

中央に寝そべる二人の死者。後方の男が一瞬、山下奉文大将に見えてドキッとしました。『毎日グラフ臨時増刊 1967年11月号』(毎日新聞社)の戦争記録画特集で行なわれた座談会「制約の中での芸術」に宮本三郎さんが登場しているのですが、そちらはまだ未読。どういう気持ちなのかは、今の時点ではよくわかりません。

本展示会のサブタイトル「従軍の記録 そして生の讃歌へ」の「生の讃歌」はよーするに、女性の裸と花。彼は戦後、女の裸と花をひたすらに描いて過ごすのですね。日本人体系のズングリ短足で、丸みがあって必要以上に艶めかしい。エロさ満点。彼の描く幻想的でカラフルなタッチは、実は戦前に従軍したときのマニラの風景画でも見ることができます。この使い分けに何を見るでしょうか。

《飢渇》(c)宮本三郎(1943年)
《飢渇》(c)宮本三郎(1943年)

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 22:46

2005年11月05日

-Nの新譜、カバーFLASHに日暮里本社さん登場!

[mn007] shalma- - second blur

mn007筆圧の効いたベジェ曲線が効果的に使用された絵というと、僕の場合は中国のFLASH作家・捨荒先生がパッと頭に浮かぶんですが、ところがどっこい(久々に使った気が…)。日本にも凄い絵描きさんがいるんですね。

書道を連想させる日本的な力強さと繊細さを兼ね備えたタッチ。さらにFLASHの動きを左上の光の動きだけに絞ったミニマルな演出にセンスの良さを感じます。

曲の中身は、-Nのこれまでのリリースの中でもなかなか難しい方かも。いや、逆に言うと一番明瞭な音の作品です。音の空間を感じる時の思考を美術館と科学博物館の間にある距離感でもって眺めてみると、なかなか楽しめる内容ではないでしょうか。

PS.
全然関係ないですけど、『 30デイズ・ナイト 』を本屋で立ち読みして、心を打ちぬかれている今日この頃。この手の漫画は本当に衝撃的で、元おはガールの平井理央さんと共に「井の中の蛙」を体感したい気分です。買いたいけど高い。中古を待つしかないかなぁ…。

今は英語の勉強も兼ねて、『 The Life Eaters 』(原作:David Brin/絵:Scott Hampton/DC Comics)を辞書を片手に読んでます。英語を話せる人が羨ましい〜!

Posted by Syun Osawa at 23:58

音楽・美術の戦争責任

矢沢寛、小沢節子/樹花舎

音楽・美術の戦争責任魔女狩りみたいな本で、かなりテンションが下がった。戦後50年でかつての戦争から平和を考えようとかじゃないですからね。「戦争責任を追求しよう」ですから。ここだけ時が止まってるみたいでちょっと恐いです。巻末の資料がかなり豊富で『 イメージのなかの戦争 』よりも実用的なのが唯一の救いかも。

この本の中では音楽を矢沢寛さん、美術を小沢節子さんがそれぞれの芸術の戦争責任の所在について語られています。ただし、小沢さんの方は戦争責任って言ってもかなり抽象的で、話がぼやけていて、その分、芸術性について語られているからギリギリ読める。とりあえず、東京近代美術館にある戦争画をすべて公開しろって言ってるし(たしかに見たい)。

ところで、本書のような戦争画を反戦的に捉える言説の中でいつも松本俊介さんが出てくるが、僕にはちょっと違和感がある。たしかに松本さんは戦時下にあって戦争画を書かない態度を「生きている画家」という文章で表明した。だからといって、その言葉がそのまま反戦的な勢力の道具にされるというのが、短絡的で好きになれないのだ。

彼のカッコいいところは「一人の自由な画家であれ」と言ってるところなわけで。それは、この本の中でも参考資料として紹介されている「芸術家の良心」(戦後、戦争画の責任問題について朝日新聞へ投稿したが没にされた原稿)という文章の中からも伺える。戦争画を描いた藤田嗣治さんと宮本三郎さんに対して

戦争画は非芸術的だと言ふことは勿論あり得ないのだから、体験もあり、資料も豊富であらう貴方達は、続けて戦争画を描かれたらいいではないか、アメリカ人も日本人も共に感激させる位芸術的に成功した戦争絵画をつくることだ。

暴走族をカッコイイと言ってる人に、なぜ20歳を過ぎたら暴走族を辞めるんですか? と言ってるみたいで良いですね。自分の信念を貫けと。それが芸術家の生き方だろ? と言ってるように感じます。それを反戦運動に持ち上げて芸術性をうやむやにさせることが恐い。菊畑茂久馬さんも『 フジタよ眠れ! 』(葦書房)の中で、

平和の鬼達が戦争画家の手に一瞬照りはえた権力の内景まで切り落としてしまったのである。

と書いている。この本は戦争責任について書いているが、そもそも戦争責任が完璧に果たされた戦争なんてこの世の中に存在するのだろうか? そして、画家に戦争責任をとらせるということは、反省ザルのように「反省」と言われれば、即座に反省ポーズをとるようなサルになれという事だろうか?

小沢さんは最後にこの話を以下のような文章で締めている。

戦争と言うのは相手のあるものであって、その他者との出会いの体験の中から何をくみ出していくかというのが戦後の問題になるわけですが、そういう他者との出会いを日本の芸術家はどういうふうに発見してきたかということを検討することも必要だと思います。

この言葉は、実は今もなお抗日戦争画を描いている中国の画家達にそっくりそのまま当てはめなければいけない言葉かもしれない。これに関しては、神田古本まつり の時に手に入れた本があるので、そちらで触れると思います。

もしも芸術が相手を傷つけることがあるのだとすれば、芸術によって戦争を知らない日本の子供達を傷つけることもあるのです。犯罪者の子供は犯罪者ではないんだから。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:46

2005年11月03日

フジタよ眠れ ― 絵描きと戦争

菊畑茂久馬/葦書房

フジタよ眠れ僕が読んだ戦争画関連の本の中では一番面白かった(今のところ)。書いてる人が絵描きだからというのもあるかな? 難しい言葉でこねくり回してないし、わかりやすかった。

この本は戦後30年を経て書かれ、それをさらに30年経た今、僕が読んだわけです。30年前の段階ですでに、現代美術の語れなさを嘆き、戦争画の戦争責任みたいなものをバカと言ってるわけで、それを90年代に焼き直したってつまらなく感じるのは当然といえば当然なのかも。

さらに菊畑さんは、僕が国立近代美術館で「おおっ!」と思った藤田嗣治さんの『アッツ島玉砕の図』についても、非常に明瞭に絵に対する感想を述べています。

凍てついた氷の山を背景にした「アッツ島玉砕の図」は、地獄の怨霊までさむからしめる画面である。襤褄(ぼろきれ)のような生者と死体が波のうねりのように、たゆとうている。藤田は「決戦ガダルカナル」でもそうだがまず中心人物を描きあげ、一気に次々と周囲の人物を描いたそうだが、この玉砕の図は軍刀を持った山崎部隊長が主人公ではすでになく、その左の狂った猿のようになった兵隊を中心に展開している。山崎部隊長は、すでにこの画面の中では一番やさしい人物になっている。この方程式は藤田だけが得た最大のものであった。

さすがは絵描きの文章だなぁ。社会正義のフィルターをかけすぎて、もはや絵を見ることから遠く離れてしまったような反戦運動家だったり、戦争そのものをサブカルチャーの文脈に入れて語る現代美術の批評家(コンセプターでもいい)の戦争画の視点は気持ちにスーッと入ってこないんだけど、菊畑さんの文章は絵をまっすぐですんなり入ってくる。そして絵に対する愛も、作者に対する愛も、そして社会に対する愛も感じる。

この本、30年も前の本なのにそんなに古く感じなくて、たとえば漫画論の中で今でもたびたび繰り返されるリアリズム論争について、

「社会主義リアリズムの日本的導入による日本リアリズムの樹立。」「唯物弁証法的創造によるリアリズム芸術の実践。」「歴史的法則の正確な把握によるリアリズム芸術の展開。」
(中略)
ああみんなみんなリアリズムだ。芸術のリアリズムとは一体なんだろう。
このリアリズム信奉の中に、プロレタリア美術も、戦争絵画も、平和記念像も、万博美術も、百貨店の秀作名画も、みんな投げ込まれているのだ。

なんて書かれていたり、また現代美術についても、

今日の市民社会は人それぞれがそれに見合うだけの小さな人権と、小さな自由を確実に保有しているとみな一様に実感しているような社会である。それを保持するために、小さな豆粒のような自由の大群は、どこかで国家権力を支持しているのもまた事実だろう。市民は強大な国家権力のもとで、それぞれが平等で、中流で、人権と自由をほぼ保障されれていると信じている。現代芸術はこのような市民社会の現実にちょうど見合った形で存在している。芸術の想像力や技術が、よくも悪くもだんだん拡散しているのは、このような膨大な市民の平均的な意識によるところが大きい。無数のマッチ箱のような享受を満たす商品をもし現代芸術と呼ぶのなら、それから先はそれぞれが勝手にやれと言うしかない。

と書かれています。この本を読む限りにおいて、現代美術の世界ではこんな状況がズーッと変わらずに続いているということでしょうかね。そこで、新人類の現代美術家たちは卑下なるオタク文化を横からこそっと拝借して、オタク臭にファブリーズをかけた後、それを自分の手柄かのように世界へ打って出ようと思っているわけですか…。戦前にパリへ行って浮世絵行脚してた人達に似てますね。何となく。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:02