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2006年03月31日

移転作業、滞りなく完了

面倒臭かったこと

ブログの記事の中に埋め込まれた自サイトリンクの修正作業が一番しんどかった。地味な手作業とTestSSによる置換作業で何とか完了。もうやりたくない。それにしてもこのサーバー、ロリポップよりも反応が鈍い。

Posted by Syun Osawa at 19:30

2006年03月26日

MODは死なず! Nitrotracker

Nintendo DSでMODを作るツールが登場!

NitroTrackerサイト移転途中なので書き込むつもりはなかったのですが、あまりの衝撃にキーボードを叩かずにはいられませんでした。だってニンテンドーDSで操作するTrackerが登場したのですから! しかもFT2(FastTracker2)の操作を踏襲しているようです。うおおおっ!

DE:BUGの記事

MODが好きでサイトを起こしてから10年近い月日が流れました。サイトの名前、BEMODはBeOSとMODをもじってつけた名前だったりもします。

すでに、2ちゃんに 関連スレ が立ってました。

(おまけ)
日本のMODの歴史的変遷ってよくわかりませんが、印象的にはハードコア・ガバの時代とChiptuneの時代の二つの波で形作られているような気がします。平沢進さんとかが、このツールを使ってもう一回MODコンテストとかやってくれたら嬉しいんですが。

Posted by Syun Osawa at 00:52

2006年03月25日

やっぱし移転

2月にくすぶっていた思い が再燃して、サイトの移転を決意。できれば4月までには bemod.net にデータを完全に移したいと思います(さよならlolipop)。リンクして頂いている方々、ご迷惑をおかけいたします。

東京国際アニメフェア、日曜日に参加する予定だったのに仕事…orz

社会人は3月末とかね、忙しいんですよ(もう1週間早めてほしい)。クリエイターズワールドにルンパロさん、ポエ山さん、つかはらさんが参加されてるし、毎年恒例の短編上映会もある。そして何より、菊地美香さん牧野由依さん のイベントに参加したかった…。

Posted by Syun Osawa at 00:20

2006年03月23日

阿片の中国史

譚ろ美/2005年/新潮社/新書

阿片の中国史高校の世界史で習った戦争の中で、トロイ戦争並みに好奇心をそそられた戦争。それが阿片戦争。だって名前にドラッグの名前がついとるんやもん。

相手国をクスリ漬けにして勝つなんて超極悪!(じっさい極悪なんですが…)とか、それを受け入れてクスリ漬けになるなんて超アホ(その側面も否定し難い…)とか、その程度の知識なのはこの本を読んだ後も変わらない。

変わらないどころか、阿片の原料となるケシの花と人間の腐れ縁が、中国の歴史の中にも脈々と息づいていることがモロバレになり、そのどうしようもなさに人間のダメダメな部分を見つけてしまう。

もちろん日本も、清国がクスリ漬けにされたような危険性がなかったわけではない。この本の中では日本がクスリ漬けにされなかった理由として「日米修好通商条約」を挙げている。

神奈川沖に停泊したポーハタン号でハリスと下田奉行の井上清直、目付岩瀬忠震との間で結んだ「日米修好通商条約」の第四条には、「……阿片の輸入厳禁たり。もし亜米利加商船三斥以上を持渡らば、其の過量の品々は日本役人是を取上べし」と、書かれているのだ。

江戸時代は鎖国してたし、その後は怠惰ではいられない怒涛の明治維新へと移行したし、その上で不平等条約ながら上のような内容が条約に盛り込まれたことで、クスリ漬けを免れたのかもしらん。

一方、中国の場合は、秘密結社(マフィア)的な組織がドラッグの売人と官僚を両方担っていて、それこそロシアの石油利権に群がるロシアン・マフィアのごとき根の深さで、構造的に社会がドロドロしたものを受け入れてしまっている。

本の中では青幇と紅幇について紹介されていた。彼らと中国の官僚とのつながりは、ソ連の官僚とマフィアのつながりみたいでとても不気味。戦前の特高とかも怖いけど、もっと根が深いというか、脱出不可能というか。

阿片とマフィアの関係では暗い話が多いが、そんな世界にも映画『トラフィック』(監督:スティーブン・ソダーバーグ/2001年)に出てきたメキシコ州の警官みたいなヤツがいて、それが林則徐。世界史の授業では阿片戦争が起こるきっかけを作った人としか記憶してなかったけど、彼のエピソードは実直で泣かせる。自伝本が読んでみたくなった。

Posted by Syun Osawa at 00:22

2006年03月21日

風が吹くとき

監督:ジミー・T・ムラカミ/1986年/イギリス/アニメ

風が吹くとき小学生のときに原作の漫画『風が吹くとき』(レイモンド・ブリッグズ/篠崎書林)を読んで、核兵器に対するトラウマを負ってしまった思い出深い作品。田舎に暮らす老夫婦の間の抜けた会話と、その間の抜けた会話の後ろ側で進行する恐ろしい事態の描き方は凄まじいものがある。

舞台はイギリスの田舎。ラジオはソ連とアメリカの冷戦がいよいよ最終局面に入ったことを伝えている。おじいさんはその放送に聞き入りながら、来るべき核戦争に備えてシェルターを作り始める。途中、日本の原爆についても話題に上るが、深刻には受け止めることはない。おばあさんは家事仕事に忙しい(しかも敵はずっとドイツだと思ってる)。

核爆弾が落ちても彼らは被害の深刻さを受け止めない。戦争が始まったことは認識するものの、政府に対する絶対的な信頼がそのまま残っている。「いずれは政府が事態を明らかにしてくれる。助けに来てくれる。」だがラジオはつかない。水は出ない。郵便物も届かない。携帯コンロの燃料もなくなってしまった。まわりに人は誰もいない。

「放射能」は目に見えない。気づかないうちに体が蝕まれる。被爆したのだ。歯茎から血が流れ、頭から毛が抜け落ちる。牧歌的な世界観の中で愛らしいキャラクター達が死んでいく様子は、僕にとっては受け止め難い深刻な事態だ。現実逃避としてのファンタジーを許さないからだ。人間の身体の所在をどこまでも丹念に追っている。

と、かなりテンションの下がったところで映像の方に目をやる。背景を3Dのような立体的な処理をしている。模型を使って映像の背景部分を作り、その後でキャラクターのセルを当てていったのだろうか。不思議な演出だけどなかなか冴えてる。

日本語監修として大島渚さん。原作者はスノーマンの人。曲はデビッド・ボウイ。テーマは反核。完璧な80年代コンボ。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 01:59

2006年03月19日

靖国問題

高橋哲哉/2005年/筑摩書房/新書

靖国問題靖国問題についてちょっとだけお勉強。

首相の靖国参拝に関連した話題で、政治家の皆さんが「心ならずも…」から始まる言葉を連呼することと、遊就館に行ったとき に感じた情緒的な雰囲気に違和感を感じていたので、そのあたりの気持ちはこの本を読んだらある程度スッキリした。

僕が一番ひっかかっていたのは、靖国神社は明治に作られて、しかも日本側で戦った軍人しか祭られていないこと。これはアメリカのアーリントン墓地と同じという主張があるわけだけど、そういう国際的な視点と日本独自の文化の混ざり具合が妙に気になる。

この事について著者の高橋さんは丁寧に解説されている。日本では「元寇」後に北条宗時、豊臣秀吉による「朝鮮出兵」後に島津義弘をはじめとする日本の武将が敵味方関係なく、両者ともに弔っていたそうで、靖国神社のあり方が「本当に日本の道」なのかと書いている。たしかに言えてる。西郷隆盛だって祀られていないし…。死んだら上も下も敵も味方もないはずなのに、合祀の際の区別が気になるところ。

それにしても靖国神社ってつくづく悲劇的な場所だと思う。靖国神社にとってどうなることが望ましいことなのか? 靖国神社が国の公的な施設になり、国事行為を行なうことができ、首相および天皇による参拝が公的に行なわれる事態なのだろうか? だとすれば、さすがにそれは現実的に不可能だ。さらにまた「日本軍国主義の象徴」としての性格を持っているかぎりにおいて、その願いはかなうことなく、いつまでも悲劇的な場所であり続ける。

ではどうすればよいか? 高橋さんは以下のように書いている。

一、政教分離を徹底することによって、「国家機関」としての靖国神社を名実ともに廃止すること。首相や天皇の参拝など国家と神社の癒着を完全に絶つこと。
一、靖国神社の信教の自由を保障するのは当然であるが、合祀取り下げを求める内外の遺族の要求には靖国神社が応じること。それぞれの仕方で追悼したいという遺族の権利を自らの信教の自由の名の下に侵害することは許されない。

韓国や中国に言いなりで首相の参拝の有無を決めるのは我慢ならんとか、A級戦犯は連合国側の不当な裁判だからそもそも無効など、議論が先に進む前に激高してしまって「非国民め!」とか「日本人なら当然でしょ」みたいなところで急ブレーキがかかってしまうのが残念で仕方ない。

僕自身は、新しい追悼施設の建設などは少しも賛成できないので、合理的に考えると今の状態で放置するのが一番理に適っているようにも思える。その間に代替わりが進んで、靖国神社の「超宗教」的な在り方が緩和され、一つの歴史的な場所として人の心に残っていけばそれでいいと思うのだ。ちなみに、そういう事とは全然関係なく、靖国神社の鳥居と神門(本殿ではなく)のミニマルな感じが妙にカッコイイと思ってたりもするから不思議。

Posted by Syun Osawa at 01:16

2006年03月17日

英・雄・時・代 日本語版

監督:ヨーゼフ・ギーメシュ/1982年/フランス/アニメ

英・雄・時・代けったいなアニメ。

アレクサンドル・ペドロフも真っ青の油絵アニメ。しかも印象派に片足を突っ込んだような光の表現美しい色調で、色の量、描きこみともに根性が入ってる。原画マンより着色の人が大変そう。中でも合戦のシーンと主人公が馬を駆って森を疾走するシーンの表現は圧巻で、そこについやされたであろう膨大なエネルギーにただただ感服するばかり。画面の演出効果(エフェクト)も面白く、動きに制約のある画面を動かすための工夫が随所に見られた。機械的に複雑というよりは動きと色調を複雑に変化させることでスピード感を出しているものなどがあったりと、いろいろ学ぶところが多かった。

話の方は不思議な展開を見せる。

ストーリーは農奴の若者が騎士(勇者)になりたくて悶々とした日々を過ごしている。ある日、村で人殺しを働いてしまい、それをきっかけに城下町へ。城下町で荒くれ者の剣豪を倒して騎士になる(いつの間にそんな腕前に?)。友人に身代わりを頼まれて出た闘技大会で優勝し、副賞で授かった娘に恋をする。

そうこうしているうちに、かつて倒した荒くれ者の剣豪の娘に捕らえられる。そこで凄惨な拷問を受けるも、なぜか鎖を素手で破り、牢屋を素手で打ち破り、拷問を受けたことに対する復讐もしないままに城下町へ戻っていく(いいのか?)。町に戻ると、前に恋した娘は友人の妻になっていた(身代わりで出たんだから仕方ない)。怒った主人公はその友人を殺し、その蛮行の結果、愛する娘も失ってしまった(何だこの展開はw)。

虚しい戦いが繰り返され思い悩む日々。そうこうしているうちに時代は移り変わり、兵力は剣から大砲へ。大衆劇で騎士がちゃかされたのにブチ切れし、大道芸人たちを殺しまくる。もちろん捕まって死ぬわけですな。そしてその最後の言葉が…

「神よ、ゆるしたまえ」

いやいやいやいや…許さないだろ。

気合入りまくりの画面とは裏腹に、物語は心でっかちで自分勝手な主人公の独白によって淡々と進んでいく。「騎士道」について考える主人公の思いは、日本訳すると『葉隠』の山本常朝のボヤキにもとれてなかなか面白かった。騎士道と武士道には裏側にそこはかとない悲しみが隠れていて、そこがまた悲劇的で惹かれたりもするんだけど…。

Posted by Syun Osawa at 01:07

2006年03月15日

パウル・クレー展 ― 線と色彩

2006年2月9日−28日/東京・大丸ミュージアム

パウル・クレー展パウル・クレー展っていうか、パウル・クレー・センター開設記念にあたってのちょっとした展示会って感じ?

パウル・クレーは絵から入ったわけではなく名前から入ったので、「ドイツの総合美術工芸学校バウハウスで教師を務めるも、ヒトラーに頽廃美術の烙印を押されて亡命した悲運の芸術家」ってところでかなりフィルターがかかりまくってる自分がいる。そういうこともあってか、展示会自体はどこか観光案内的な装いが感じられて、ぼんやりと楽しむ程度だった。

中国の詩をドイツ語で書き、そこに着色を施してみたり、海に浮かぶ流氷を白い線だけでシンプルに表現してみたり(《北海線画》1923年)、線だけで描かれた安っぽい絵の線一本一本がどちらからどちらに向って引かれたかを矢印で示したり(《からみつく集合》1930年)と、「いろいろやってる感」が伝わってくる(カンディンスキーの美術年刊誌『青騎士』にも参加してるし)。

本展示会のサブタイトルの「線と色彩」に注目してみると、《ペン素描》(1913年)の街並みを描いた風景画で、屋根の部分だけを単純な線だけで捉え始めていて、抽象への目覚めみたいなのが見えて面白い。ベン・ニコルソン展 でも思ったけど、具象から抽象へ行くそのギリギリのところを感じられる当時の絵はかなり萌える。

そこから先は抽象画一辺倒。彼の言う

芸術とは目に見えるものの再現ではなく、見えるようにすることである

という方向に突き進む。線がシンプルになり出して、そこにぼけまくった水彩の色合いが交じり合うところで僕の思考は停止し始めるも、よくよく見れば線がどれもシャープではなくて、なぜか鍵のように先っぽがくねって曲がっており、そこが妙に気になって目が覚めた。

1933年、パウル・クレーは台頭してきたナチスによって美術教師の職を追われるだけでなく、頽廃美術展に17点が出品される(1937年)などの屈辱(今となっては逆に名誉だが)を受けることになる。そんな時代を反映した《来るべき者》(1933年)が今回展示された作品の中で一番印象に残った。シンプルな曲線で描かれた子どもの肉体を鱗のようなものが埋め尽くしている。群集だろうか? 子どもはこぶしを掲げている。他の作品と比べておどろおどろしく、異彩を放っていた。ファシズムの台頭を感じつつ、幼さと根拠のなさが生む恐怖を描いた作品のように僕には思えた。図録にも説明がなかったので詳細は不明。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 01:54

2006年03月14日

FLASHアニメ?

蛙男商会 さんがテレビ朝日でFLASHアニメを放送することが世間を騒がせていますが、もしかしてTBSの『 erico 』もFLASHアニメだったりする? FLASHもツールのひとつなので、どうでもいいと言えばいいんですけど、FLASH使いにはちょっと興味のある話。

あと前から気になってた番組で、フジテレビの深夜にやってる『 FNS地球特捜隊ダイバスター 』のアニメーパートもFLASHかな?

Posted by Syun Osawa at 21:07

2006年03月13日

アニメ!アニメ!アニメ!

走るテスト蛙男商会 さんが、『THE FROGMAN SHOW』というTVアニメをやるらしい(しかもFLASHで)。内容は「秘密結社鷹の爪」「古墳GALのコフィー」の2本立て。古墳の中の人で笑えるのか思うと今から楽しみですな。

今年は 新海誠さんの新作短編集 も公開されるみたいだし、アニメーター漫画に目を向けると なかむらたかしの漫画田中達之さんの漫画 も発売される。ジェネオンは狂ったように海外の短編DVDを出しまくってるし、楽しみな作品がリリースされ過ぎです(金が続かないのでレンタルしてほしいが…)。あとは、同人アニメ即売&上映会が開催されたら最高。

最近は、世間的には盛り上がってないらしいWBCもかなり面白くて(公式サイト のユーザビリティもすこぶる良い)、日本と同じくらいの思いでキューバを応援してます。決勝トーナメントに進んだら、ブエナビスタソシアルクラブみたいでなんか泣けます。

Posted by Syun Osawa at 00:49

「上昇」の反対は「下降」それとも「低下」?

日本語って難しい。つーかややこしい。

実はどっちも正解。『反対語辞典』(新星出版)をひくと、「下降」は対義語、「低下」は反対語ということらしい。シーラス(類語)検索 で調べると、上の二つに加えて「降下」「低落」も反対語ということになるそうな。国語に詳しい人に聞くと「文脈による」とサラッと言われてしまった。はぁ。

アメリカ人なら「上昇>下降」「高上>低下」とスッキリさせるんでないかな。そーいや「下落」なんてのも使うよな…。でもこれの反対は「高騰」らしい。

Posted by Syun Osawa at 00:46

2006年03月11日

蓮の花の姫

監督・脚本・背景:胡依紅/1992年
/中国/ユネスコ・アジア文化センター

11分の短編。監督と脚本のほかに背景を描いているというのがなんとも妙な感じ。背景美術を経て監督になった人って、日本のアニメ業界にもいるんだろうか…。ユネスコが作っている教育文化系のアニメ。僕の見た中では『 おばけ煙突のうた 』とか『 セロ弾きのゴーシュ 』あたりがその部類に入るんかな。

絵本から派生したアニメはキャラクターもやさしいし、物語も暖かい。どこか簡素で、不思議な空気が漂っていて、尖った感じがない。たむらしげるさんの『 銀河の魚 』や『 クジラの跳躍 』あたりの作品、またはそれ以降のロボットケイジに連なるオリジナル作品に見られるようなファンタジーではなく、シンプルに自分の国の昔話を題材にしている。ユネスコのホームページを見ると「アジアの昔話アニメーションビデオ」として、各国の作品をシリーズ化しているみたい。

蜂と蓮の花の造形やキャラ付けが妙に日本と違ってる。大蛇を一撃で殺して蜂を助けてやるという構図は、弱いものを助けてやるというメッセージなのか、宗教文化的なメッセージなのかは解説書を見てもよくわからんかった。少なくとも「蜂>大蛇」なのは間違いない。気持ちいいくらいの夢オチもの。そういえば、中国アニメってFLASHアニメを除くと、時代劇風なものしか見たことがない気がする。何でだろ?

Posted by Syun Osawa at 09:27

2006年03月09日

漫画映画論

今村太平/1992年/岩波書店/新書

漫画映画論古い本なのに妙に新鮮な気分。

最初に発行されたのは1941年。その後で何度も再販が繰り返され、その際に修正と継ぎ足しがなされているようだ。そのため完全なオリジナルがどこまでなのかはよくわからないが、少なくとも初期ディズニーアニメを軸にして語られた「漫画映画」の在り方は、今もそれほど変わってない気がする。

原画あって、中割りがあって、背景美術があって、音楽があってと、作りは今も昔も多くの部分を人間が行なっているわけで、もしも今と違うところがあるとすれば、わずか5分間のアニメを作るのに7000枚の絵と300人のアニメーターの分業で作られたという驚きか。ディズニー・クラシックシリーズの神作品の裏側には上に挙げたような膨大な数の人間がまさに機械のように働いた成果だという事を再認識させられ、ピラミッドを今作れないのと同じような論理なのかなぁ…と思うに至る。

ところでこの本、漫画映画で使われる音楽についての文章が面白い。

録音技術の発達によって音楽を聴く環境が大きく変わった点を指摘し、漫画映画で使われる音楽がオーケストラに雑音を重ねているところに現代音楽の萌芽を見ている。

機械音楽は、楽器の音をゆがめることによって、今までの楽音のみの美音を否定し始めている。現代の聴衆は、つねにマイクを通して楽音を聞くため、楽器の生の美音を忘れ、それにたいしてしだいに感覚がにぶっている。
(中略)
したがってこの感覚の衰退は、楽音と雑音の結合した、新しい生活的な音楽にたいする、別の感覚を成長させている半面をともなっている。この事実を、われわれはシンフォニー・オーケストラの否定としての現代音楽の歴史の中に見出すであろう

まさにサンプリング音楽ですな。当時サンプラーなんてものがあるはずもないんだけど、どこかで通じている。さらには、映像と音楽、雑音などが一つになって初めて作品になるという感覚が、マイケルジャクソンの「スリラー」で極点になるのだとしたらなかなか素敵な本だと思う。

イデオロギー的な話も面白い。

一九二九年を境として、アメリカの歴史は二つの時期に分かたれる。一つは機械が未曾有の好景気を生みだした時期であり、一つはそれが、未曾有の恐慌を生んだ時期である。この恐慌によって戦後資本主義の一時的相対的安定は消えうせ、アメリカの永遠の繁栄が、単なる幻想にすぎないことがわかった。『ミッキーの移動別荘』の一瞬にかき消える美しい自然こそこの幻影であり、その後に現われた荒涼たる都会こそ、資本主義的現実である。アメリカのブームの消滅と、ヨーロッパ、アジアにおけるファシズムの嵐は、当然アメリカニズムの反省と資本主義そのものの批判とを生まざるを得なかった。

「機械技術の賛美、機械的合理主義の強調」としてのアメリカニズムの批判としてのディズニーは、プロレタリアにも大きな影響を与えている。このあたりは『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(平井玄/太田出版)を読んでないので据え置き。今村さんがこれを書いた1941年も「戦後」なんですな(そこ?)。

アニメーション表現について、今村さんは「漫画は写実ではなく観念の動きである」と捉えていて、その出自を日本の絵巻に見ている。自分の中で「観念の動き」はかなりヒット。たしかにその後の漫画でもアニメでもその部分がより細分化されているような印象を受ける。こっちの話は高畑勲さんが『十二世紀のアニメーション』という本を出されているようなので据え置き(こればっか)。

杉山平一さんの解説を読むと、今村太平さんというのは中学を中退したあと上京し、独学で芸術理論を拓いた人らしい。同世代の評論家や作家の悪口もないし、あくまでもディズニーアニメを中心とした漫画映画と日本の芸術を見据えた真摯な書き口でとってもわかりやすい。内輪ウケを狙ったような脚色もないし、文章もスッキり短い。こういう読後感爽やかなアニメ論って今も描かれているんだろうか。アート系と言われている小難しいアニメ論ではなく、漫画映画の系譜のアニメ論(ジャパニメーション論でもいいが)を読んで見たいなぁ。

最後に、ズガンとキた文章を引用。

静的なブロンディも動的なサザエさんも、社会について思考しないことはまったく同じと思うのである。だからこれらの漫画には深い諷刺は見られない。その笑いは表面的で無意味なスラップスティックに終始している。要するに新聞漫画はプチブルジョアの漫画である。プチブルジョアは中間的である。それゆえ笑いは無意味をねらう。無意味な笑いは社会的中間性の表現である。

アメリカの中流家庭の妻を静かに演じるブロンディというキャラクターと、日本の中流家庭の妻を慌しく演じるサザエさんというキャラクターについての言及が、それ以降の日本のエンターテイメントの方向性を示唆しているようでセンチメントの季節だす。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:12

2006年03月07日

ナハトイェーガー 〜菩提樹荘の闇狩姫〜

涼元悠一/2006年/nj1_suzumoto_060101.pdf (pdf/193KB)

ナハトイェーガー美少女ゲーム『AIR』『CLANNAD』のシナリオライター、涼元悠一さんがウェブで公開した短編ライトノベル。やたらとデパートの中で引っ張るなぁと思っていたら、あくまで第一幕だったのね。

ゴスロリ少女と女子高生のキャラを立てるエピソードがメイン。これから始まるって感じで普通に面白かった。デパートのくだりはハロッツが頭に浮かんだんだけど、日本だとどこなんだろ? 和光か松坂屋かな?

この作品は涼元さんがKEYを退社してフリーになるにあたって、仕事募集のためのサンプル小説として公開されたらしい。つーことは、商業誌などで引っ張られなければそのままボツになっちゃうんだろうか。続き読みたいなぁ。

PS.

その後、ちょっとした続編も出ましたが、本格的な続編は果たしてどんな形で発表されるのでしょうか。楽しみです。

Posted by Syun Osawa at 00:26

2006年03月06日

イベント終了

CG Carnival「FLASHアニメーションの進化」 に凄い人が来て驚きました。入れずに帰った人もいて、その中に知り合いの方も何人かいて、その状況に頭の中はずっと「??」でした。

何かと世間を騒がせているらしい「 有名クリエイターがこっそり教えるFlash作成のウラ技 」の宣伝もしたし、ポエヤマさんがDoGAで作品賞を受賞した時に会場で流した伝説のゴノレゴ「ほしのこえ」版も見れたし、個人的には満足してます。

今後はといいますと、僕自身の最大の目標である「 The Little Ninja 」のクオリティへ近づくべく日々努力です。第12話の鳥と化け物の追いかけ合いは何度見ても衝撃的ですね。とにかく背景とレイアウトを何とかしないと…。

Posted by Syun Osawa at 23:46

2006年03月01日

CG Carnival「FLASHアニメーションの進化」

CG Carnival2006年3月3日(金)18時−20時
東京写真美術館1階ホール
詳細はこちら

メディア芸術祭のCG Carnivalというイベントの中の「FLASHアニメーションの進化」というプログラムに参加することになりました。内容はFLASHアニメを流しつつ、トークショー(え?)をするそうです。竹熊健太郎さんをはじめ、ルンパロさん、ポエ山さん、512kbさん、蛙男商会さんらが出演されます。

というわけで、JAWACONに出品した「無人間」という作品の改良版を出します。改良したとはいえ内容は相変わらずヘタっておりますので、とりあえずこの形で出すのは最後にします。次はもう少し見られる形にして来年あたりにネットで公開する予定です。

そもそもFLASHアニメは進化しているのか? という疑問がないわけでもなく、まぁいろいろありますが、いずれにせよ今週の金曜日です。社会人には厳しめの時間設定が泣かせます。

Posted by Syun Osawa at 00:32