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2006年06月30日

東日本新人王予選

Glove今年2度目のボクシングの試合。

今年の1月に観に行ったときにも感じたことだけど、若いお客さんがあまりに美男美女揃いで、そのことにただただ感心させられた。ヤンキーがボクシングやって、いい感じに垢抜けて…っていう集団がたくさんあって、それがもうカッコ良くて仕方ないんだな。ひねくれたカッコ良さとかじゃなくて、もう全部が全部、いいんです。

あとは、モチベーションのことをずっと考えてた。負け数が勝ち数を上回っている人とか、どういうモチベーションでボクシングの厳しいトレーニングに望んでいるんだろうとか。

会場の入り口で、ボクシングのフリーペーパーを配っていた。

東日本ボクシング協会が発行しているものらしい。ボクシングか…昨年からボクシングジムに誘われまくってるのだけど、うーん。行こうかな。やせるなら。

Posted by Syun Osawa at 00:58

2006年06月27日

視聴率200%の男

安達元一/2001年/光文社/新書

視聴率200%の男今年の3月、この本の著者である安達元一さんが『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ)を降板したことがネット上で話題になったので、気になって読んでみた。

ここまで自信家だと気持ちいいですね。

同業者はそうは思わないでしょうが、どこまでもポジティブでイケイケなものの考え方は、僕的には結構学ぶところが多い。とくに以下の2点は他人事とは思えなかったので、しばらく胸に刻んでおこうと思う。

・他人の意見を否定しない
・「できない理由を考える」のではなくて「できる方法を考える」

下は文章の通り。上は否定して終わらせるのではなく、常にそこから発展させてアイデアを考えてゆこうということ。

一方、売れっ子の放送作家さんの意外な一面な部分も書かれていた。

究極的にいうと、自分一人で企画し、自分一人が出演し、自分一人が演出し、自分一人で編集し、自分一人で音もつけるという、どこでも安達元一個人の体温だけで作り上げる番組。そんあのができればいいのですが、それほどのことを任される才能は残念ながら私にはありません。

ようするに、縁の下の力持ちとしての放送作家では満足できないというわけ。共同作業のこともそうだけど、自分の作品を作りたいという欲求はどこの誰にもあるもんなんですなぁ。

放送作家の書いた本って、結構たくさん出てるらしいので、いくつか読んでみよう。

Posted by Syun Osawa at 00:55

2006年06月25日

プラスチックリトル

原作&監督:よしもときんじ&うるし原智志/1994年/日本/アニメ

プラスチックリトルおっぱい、おっぱい。

『ドラゴンボール』でブルマのおっぱいが見えて、みんなの目がおっぱいの形になったときのような状態で見てた。

エロくて凄いって言えば梅津泰臣さんがすぐに浮かぶわけだけど、うるし原智志さんの『プラスチックリトル』も凄いことになっているらしく、こういうモチベーションで仕事をされている人はとっても好き。この作品もおっぱいに命をかけた男達のドラマって感じで、物語そっちのけで楽しんでしまった(見方としては、ある意味正しい?)。

物語的にはペットショップハンターなんていうのん気なチームが軍と戦って勝つ(え?)みたいな、凄い展開を見せており、まぁ…そこはそこで。長回しの浴場のシーンとか、そういうところばっかり記憶に残ってております。

1994年頃のアニメ事情って、全然知らないので、つーか、90年半ばからはほとんどアニメを見てなかったので、おどけたとき(崩したとき)の顔の作り方の変遷みたいなのがぶっちゃ気わからん。ただ、今とはちょっと違う感じがした。あずまんがの白目の描き方とは違うという事で。

そのへんのところはようわかりませんが、とにかくクリエイターの熱みたいなのが感じられて、気持ち良い作品でございました。『 トップをねらえ 』もそうだったけど、この手の熱い単体作品はもっと見たい感じ。

Posted by Syun Osawa at 08:52

2006年06月22日

ナポレオンとヴェルサイユ展

2006年4月8日−6月18日/江戸博物館

ナポレオンとヴェルサイユ展戦争画とプロパガンダ絵画の絡みでいったら、ナポレオンは外せない。たぶん。

これがロマン主義ってヤツなんでしょうね。ナポレオンを英雄的に描いてあって、しかもやたらディティールにこだわりがある。ただ思っていたほどの写実性はなく、デッサンは普通に狂ってる。デフォルメされていると言ったほうが適当なのかな。

その代表格ともいえる画家がジャック=ルイ・ダヴィッド。フランスの新古典主義の画家で、この人の絵が一番怪しげな空気を漂わせていた。何というか、ウソ、大げさ、紛らわしいという意味で。解説を読むと服装のデザインなどもしていたらしく、「ベルばら」に出てくるような豪華絢爛な世界にも大きく影響を与えている人なのかも知らん。そして彼の絵が、少なくとも写実を超えて、後世に時代の空気感を伝えている絵であったことは間違いない。

今回は絵の中に登場するナポレオンの大きさに注目していた。前期は肖像画のような絵と俯瞰から見た写実性の高い戦争風景画がメインなのに対し、後期はナポレオンが何かをしているところをミドルレンジで描いている絵が多かったように思う。絵の中にナポレオンを象徴するようなエピソードを盛り込んでいるという意味では、後半の方が漫画的な手法。

日本の戦争画における天皇の描き方とどのように違うかという意味も含めて、このあたりのところはこまめに見ていくと面白いのかもしれない。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:08

2006年06月19日

散るぞ悲しき

梯久美子/2005年/新潮社/四六

散るぞ悲しきドスーン。

あまりに凄すぎて自分に置き換え読んだりとかはちょっと無理。悲しさとか疑問とかやりきれなさとか、いろんな気持ちが入り混じっていてどう感想を書いていいかもわからない感じ。まさに…

ドスーン。

…って感じ。

アメリカへの留学、家族集まっての食事はにぎやかなことをよしとする感性、家族へ届けられた手紙の多さ、妻への愛。今でもなかなか見ないような超合理的な考え方を持ったパパが玉砕しなければならない時代とは何だったんだろうか?

負けることが確実な南島では、やけくそのバンザイ突撃によって玉砕するのが常とされていた。しかし硫黄島総司令官の栗林忠道はそれを許さなかった。

潔い死を死ぬのではなく、もっとも苦しい生を生きよ

どうやっても勝てない、どうやっても生きて帰れない。それが確定しているのにもかかわらず、栗林は諦めること(バンザイ突撃)を許さなかった。この意志の強さに胸がつまる。

本書のタイトルにもなっている辞世の歌…

国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

栗林はこの歌を大本営への決別電報の最後に記した。「悲しき」がこの戦闘の意味を物語っている。しかし大本営は「語感が戦闘指揮官に相応しくない」として、「散るぞ悲しき」を「散るぞ口惜し」へ変更した。

渡辺謙が主演し、クリント・イーストウッドが監督を務める『硫黄島からの手紙』は、この本が元ネタなんだろうか?

Posted by Syun Osawa at 00:30

2006年06月17日

0戦はやと

監督:鷺巣富雄/1964年/日本/アニメ

0戦はやとFLASHアニメかと思ったw

資料によると『0戦はやと』は、1964年01月から同年10月までフジテレビで放送されたテレビシリーズだったそうな。今回見たのはレンタルで、しかもシリーズ作品ではなく単体作品として置いてあった。販売元は芳友舎という会社。この会社をネットで調べるとアダルトビデオの会社なんだけど…うーん?

そんな、怪しげなビデオだったわけですが、中身もかなり怪しい代物だった。60年代の作品にしては、あまりにも動いてないし、映像的にもショボ過ぎる。40年代の『 くもとちゅうりっぷ 』とか『 桃太郎・海の神兵 』のクオリティはどこへいったんだ?

戦争モノということで、戦争と芸術 という自分の関心から見たんだけど、何を思うという事もないままに終わってしまった。全体の構成が冗長だったりするし、本当にこの状態でテレビ放送されていたかどうかも不明のまま。

内容的にフックがあったとすれば、爆風隊(主人公が所属する零戦の部隊名)が命をかけた任務をするとき、隊長が「命を粗末にするなよ!」を強調していたところくらいかな。司令官が絶対に生きては帰れないような無茶な指令を出すんだけど、隊長は絶対に生きてみんなが帰ってこれる作戦を必死で考える、みたいな感じ。

あと、もう一つあった。

大量の米軍機に追い詰められて絶体絶命になったとき、爆風隊が最後に逃げ込もうとした雲が実は虫の大群で、爆風隊の連中は急上昇して回避する。しかし、米軍機は虫の大群の中に飛び込んでしまって多くが大破するというラストの無茶設定が昔っぽくなくて、あーやっぱ60年代くらいなのかなぁ…とか思った次第。

ラストにナレーターが

この物語は、正義と友愛を守り通した熱血の少年、0戦はやとの物語である。

と言って締めているが、少なくともこの作品でははやとは少しも活躍していない(零戦の中で歌を歌ってただけ)。頑張ってたのは隊長。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 06:12

2006年06月15日

プロパガンダ映画のたどった道

編=NHK取材班/1995年/角川書店/文庫

プロパガンダ映画のたどった道国策映画の前に傾向映画ブームという流れ。傾向映画とはプロレタリア映画みたいなもんで、しみったれた日常を社会的な視点で描く映画のことですな。

この本は無声映画からトーキー映画に移り変わる時期に、国策によるプロパガンダ映画の発展が重なっていることを軸にして書かれている。

トーキー映画を飛躍的に普及させた『ジャズシンガー』がユダヤ系の団体の出資によって作られていたり、ナチスドイツの国策映画会社ウーファが最初に手掛けたトーキー映画『朝やけ』の主演女優がユダヤ人だったりと、時代の皮肉めいたものを感じますね。

日本の方でもいろいろな動きがあったらしく。戦争の激化とともに映画の検閲が強化されてゆく。それを強力に推進した朝岡信夫さんが多摩美術大学の創立に深く関わっていたり、傾向映画(プロレタリア映画?)のブームの後にプロパガンダ映画のブームが来ることも興味深い。

あと、この時期の日本映画って年に400〜600本も作られてたらしい。2005年度の邦画の公開本数が376本(社団法人日本映画製作者連盟より)だから、映画が国民に与えていた影響ってきっと今よりも大きかったのかも。

翼賛的な流れに沿って映画法が成立し、映画検閲が強化されてゆくわけだが、当時の映画検閲には「映画を自由に作らせ、自己改革を待とう」という考え方と、「国家統制によって、映画を作りやすい環境を作ることでいい映画を作ろう」という考え方があって対立していたらしい。そして最終的に後半の考え方が主流になっていく。

検閲の強化は映画に限ったことではないが、この事態に対して各映画会社の経営者は「規制された」とは捉えずに「国の協力を得ることができ、いろいろ便利」もしくは「国策に参画するチャンスを与えられた」と捉えているところに、一番のフックがあった。それなんて、今の大手アニメスタジオに一発変換できるからだ。

もちろん、この時期の国策化の流れを今のアニメ業界にそのまま当てはめるのは野暮ってもので、そんなことを考えるつもりなど毛頭無いのであしからず。ただし、冒頭に書いた「傾向映画からプロパガンダ映画」への流れは、感情を軸にして考えると「セカイ系アニメからプロパガンダアニメ」への流れを妄想できなくもない。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:59

2006年06月13日

ICCの話からアイドルお嬢様の話まで

ウェンディーズのスゴロク週末は ICC のイベント(出演:斉藤環、藤幡正樹、宮台真司、浅田彰)に行く予定だったが、-Nのカバー制作が大詰めだったので、ネット中継で我慢した。若干眠めの話だったので、ネット中継で正解だったかもしれん。

おかげでカバーもイラストパートのみ無事終了。着色が雑なのがアレですけど。

FLASHを使ったサイトは今でも凄く感銘を受けるサイトはたくさんあって、例えば最近では、ここ とかはズガーンときた。こういうサイトを見ると、「すげー」って気持ちと「くそー」って気持ちが同時に湧いてきて嬉しい気分です。

逆に、新風舎がやってる『 少年文芸 』は、商業展開が巧妙すぎて微妙な気持ちに…。ちなみに、左上の写真はウェンディーズで貰った付録のスゴロク。これで遊ぶ人ってどんな人だろ?

最近は、村西とおる さんのコラムがお気に入り。電通の話とか小泉今日子さんの話とか深いです。『アイドルお嬢様』を思い出しました。京都人しか知らない 伝説の番組 です。

未だにこの番組を超えるエロ番組をお目にかかったことがない。

Posted by Syun Osawa at 01:23

2006年06月11日

韓国 VS 日本 ― ショート・アニメーション初の競演

2006年5月13日―21日/space NEO

韓国 VS 日本韓国のショート・アニメーションの上映会って、最近多いんだろうか? ちょっと前にも多摩のほうで何かやってたし…。韓国アニメは好きなので、嬉しい傾向ですな。

今回は、Fプログラムを観賞。予想していた以上に素敵な作品が多かった。他のプログラムも見ればよかったよ…。

岐路

イム・ソンフン/2003年/5分

ゲームのオープニングみたいな3Dアニメ。リアル系を追い求めている3Dは、何となく応援したい感じ(今の気分的には)。戦争モノなので、好みは分かれるかな。市街地なんかの局地戦を描く際には、空間を上手く表現できるので3Dは有効なのかも。戦争モノのゲームが多いのも頷ける。このアニメの舞台は朝鮮戦争らしい。

全然関係ないけど、ネットで公開されているメタルギアソリッドのイメージ動画(長いヤツ)はかなり凄かった。

モン

クアク・キョンウン&キム・ミンギュ他/2004年/7分46秒

ドジな犬の話。韓国って儒教の国とかいう勝手な妄想があったから、こういう下品めなアニメを見ると新鮮な気分になる。テンポもあるし、ギャグも小気味いいし、こういう作品の根っこはどのあたりに影響があるんだろう? やっぱアメリカかなぁ。日本ではないような。

招魂

キム・ギナム&キム・ウンジュ他/2004年/14分

日本が韓国を植民地にしている時代の抵抗活動家と娼婦の悲恋を描いた作品。こういう作品は日本では作れない。当時の日本で抵抗活動家を描いたら、小林多喜二の『党生活者』になってしまうからだ。それにはちょっと違和感がある。

この作品に対しての一番の驚きは、空間の立ち上げ方。本当に下からニョキニョキと立ち上がってくる。演劇の舞台転換を進化させたような場面の変換の仕方に感心させられっぱなしだった。さらに楼閣なんかの立体のデザインもセンスよく、灯籠の光に照らされる女性達の様子なんかが、当時の薄暗い娼館の雰囲気をよく表現していると思う。

I Love Sky

イム・アロン/2003年/4分05秒

ディズニーとかドリームワークス直系のアニメって感じ。この手のコメディの原点って何だろう? 『トイストーリー』以前にも脈々と受け継ぐ何かがあって、それをやっぱし踏襲してるんだろうか。一番でかくお金を稼げそうな匂いはあるよなぁ。

ソンの祭日

イ・ソンヒ/2004年/8分50秒

彼氏のいない20代後半の女性アニメーターの日常を描いた作品。このあり得ない設定に大興奮してしまった、中年腐オタです。はい。韓国って行ったことないけど、日常がシンプルに描き出されているような感じがして、今回の上映の中で一番心に染み入った。30過ぎてニートやってる兄貴とか、やたら忙しそうなお母さん。無口なお父さん。ゲームばっかして、夢みたいな話ばかりしてる弟。

日本に伝わる「韓国」ってのは、常軌を逸したような嫌韓ネタか、これまた常軌を逸したような持ち上げ方の韓流ブームのどちらか。両方ともウンザリしてたところに、こういう普通の韓国があって、それがモロに日本のろくでもない日常(僕の日常でもある)とも繋がっていて、感銘があった。それをアニメーションで描いているところも。『 マリといた夏 』なんかもそうだったけど、韓国アニメのこういう側面は結構好き。

その日に…

チョ・スジン/2003年/5分36秒

鉛筆で描いたような根性の入った線が動くところは、背筋に電気が走った。一人でアニメを作ることについて、理論的なことは何とでも言える。そこを言うのは実に簡単。でも、実際に作ることができるのは、根性のある人だけ。根性、根性、根性。目まぐるしく展開する画面の隅々まで作者の思いが詰まっていて、そこが美しかったですよ僕には。

停止円

田端志津子/2005年/2分30秒

実写。実写なんだけど、不思議な実写。「ピ、ピ、ピ」と静止画が順番に変わっていくんだけど、中心にある円だけは画面の中央に存在し続ける。その円を持つ手が大きくなったり、小さくなったりと忙しい。その忙しさと中央の円のコントラストにグッときましたよ。シンプルに強い作品。

Posted by Syun Osawa at 02:00

2006年06月09日

「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか

大塚英志、大澤信亮/2005年/角川書店/新書

「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか今村太平さんの『 漫画映画論 』に感銘を受け、次は「ジャパニメーション論」かと思った矢先にこの本に遭遇。始まっていないうちからもう敗れてるじゃないか…orz と、切ない気持ちで読み始めたのが今から半年前。

久々のトンデモ本じゃないのこれ?

…と思ってしまい、いろいろと付箋を立てながら読み進め、複雑な気分のまま読了。で、そのまま半年が経過。どうでもよくなっちゃった。

ジャパニメーションの起源はディズニーである。よってジャパニメーションはディズニーの二次創作であり、亜種である。そんでもって、手塚治虫はディズニー的なキャラクター(記号)に血が流れたり、傷ついたりする身体性を持ち込んだ(死にゆく身体と時間軸の導入)。このギリギリの倫理性こそが戦後の漫画のオリジナリティである。

そんなようなことが書かれてあった(…と思う)。戦前の漫画史や記号と身体性の話なんかは資料も豊富で面白く読んだんだけど、戦争関連の話は上手に消化できなかった。

国に対しては「お上が口を出すな」と言い、一方おたくの側に対しては「倫理的であれ」と言う。それがロシア・アヴァンギャルド時代の革命的雰囲気を有したアナーキストの叫びなのであれば頷きもするのですが、まんま日教組のように思えてしまって、目から鱗とはならない。そしてコミットしたいとも全然思わない。

アニメだ、まんがだと国や産業界が「国策化」を進めているか疑問ですが、「萌え」に本気で「日本文化」やナショナルアイデンティティを背負わせようとするのは普通に考えれば「国辱」でしょう。ぼくはナショナリストではないので、結果として「国辱」化しているという事態についてはむしろ、興味深く受けとめていますけれども。

とか

「キャラクターと構造しかないアニメ」はバカでもわかるのです。「小泉劇場」と同じです。だから大衆動員の装置にもなるわけです。日本人の一割が見る「国民アニメ」化すると同時に没世界化しやすいわけです。

とかね。押したり引いたりしながら伝えようとしている感じはわかるんですけど。最近は、『早稲田文学』のコラムとかも含めて宮崎駿さんをやたら攻撃しているようで…

そもそも宮崎アニメには固定したイデオロギーがない。しかし、その都度、マルクス主義(『太陽の王子ホルスの大冒険』)、エコロジー(『風の谷のナウシカ』)、古き良き日本(『となりのトトロ』)といった、いかなるイデオロギーも補填しうるからっぽの箱で、柄谷行人のいう「構造」しかないものとしてある。だから「国民文化」という内実のないものの表象になりやすいのです。

固定したイデオロギーって何だろうなぁ? これについては、次に言うって書いてあるからちょっと興味がある。

大塚英志さんの言っていることがロシア・アヴァンギャルド時代の「自由を求めた何やら」をイメージしているのなら支持できるんだけど、それ以降の社会主義リアリズム(プロパガンダ含む)の倫理性を求めているのだとしたら微妙な気持ちになる。

ファシズムとミッキーマウスをつなげる話で、ナチ政権下でディズニーを禁止しながら、裏ではヒトラーが『白雪姫』を見ていた程度のことなら、スターリンをはじめ世界中で見ていたわけだし、左右問わず戦争の目的としてアニメが使用されたことは間違いない。そうしたプロパガンダアニメを「目的美術」の文脈でまとめて批判するなら理解できるわけだが、そこに倫理が出てくるところで、プロレタリア美術以降の何やらが顔をもたげているようで何とも…。このあたりは自分の中で何かしっかりとしたもの(固定したイデオロギーw)がないので、ただ不安になるだけなのかもしらんが。

僕自身が一番残念に思ったのは、広告代理店についての話。

「制作会社がテレビ会社の下請け化していることが問題である。」という指摘をしているにもかかわらず、その打開策としてのファンド政策に超単純な資産によって疑問を投げかけているというのは腑に落ちない。なぜ電通と博報堂に問題の先を持っていかないのだろう? ジブリを突くなら、博報堂との関係の方でしょうが。つまり、視聴率のリサーチ会社まで子会社におさめる電通と博報堂が国策化に加担した瞬間に世の中の危機は立ち現われるのであって、個々の漫画映画監督や現代美術家に嫌味を言ったって仕方ない。ましてやアニメファンドなんて投資銘柄の一つでしかないわけで。

最後の方にこんなことが書いてあった。

戦後のまんが/アニメ史は、戦争という経験のなかで達成された倫理を内包しています。それは、ぼくたちの表現が唯一、ハリウッドから自律しえた部分です。ハリウッドはそれを簡単には回収できない。できないから切り捨てようとする。だからこそぼくたちは戦後まんがの倫理性を「世界化」と言いつつ一緒に放棄してはまずいのです。ジャパニメーションが経済的に敗北しようが「国策」がコケようが、本当はそんな事はどうでもいいのです。ただ、この倫理の敗北だけはあってはいけない。

やっぱり「倫理」だ。それと、倫理性を求めるならさ…

今のまんがファンはイラクに自衛隊がいる、この状況でこの状況で「ガンダム」がたった今、再びブームなことを少しも変だと思わないだろうけれど、それは戦争中の子供も少年読み物として海野十三に夢中になる自分たちを少しも不思議だと思わなかった点で同じだったと思います。

瑣末なことかもしれないが「子供」とするより「子ども」とすべきではないか…というツッコミを入れつつ、「ジャパニメーション」が敗れる話はどこいった? が頭を三度ほどループして消えてった。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:46

2006年06月06日

アリーテ姫

監督:片渕須直/2001年/日本/アニメ

アリーテ姫そんなに可愛くないメンヘルなお姫さま(桑島法子さんは可愛いが)と、年取っても変わらずメンヘルな魔法使いの話。

「没物語の物語」と言うか「退屈な自分を考える物語」と言うか、いずれにせよ予備知識ゼロで見たために、展開のノロノロさに驚いた。あと、絵画のような世界観がかなり印象的で、バベルの塔なんかの雰囲気はブリューゲルかなと思ったり。ただ、コントラストが強すぎて、僕のボロテレビでは暗いところの動きが潰れてしまって見えなかったのが残念。

絵画的というのを意識しつつ、原作を知らないままに感想を書こうと思ったが、アレゴリー(寓意)がどういう風に込められているのかが僕にはあまりわからなかった。たしかに人間模様は描かれるんだけど、あの世界の中で思い悩むアリーテ姫と魔法使いのボックスは、明らかに20世紀型の現代病にかかっているように思う。前述したブリューゲルの寓意とはどうも違って見えてしまうのは、危機感がないからかなぁ。うーん。

ようするにメンヘル的な身勝手さと、それがもたらす空虚感。もちろん僕の中にもその素養が無いわけではないので、その点を強く思ったりしてしまうわけですな。

ちなみに音楽は千住明さんだった。なかなか印象的。

Posted by Syun Osawa at 01:15

2006年06月05日

「VOL」トークイベントと東工芸大公開講座

「脱―政治家」する現在をめぐってアナーキスト?

それとも、アヴァンギャリスト?

芸術やら運動やら理論やらが一緒くたになって、若い人がなんかやってるというので、青山ブックセンターで行なわれたトークイベントに参加。お題は『「脱―政治家」する現在をめぐって』という小難しい感じで、出演者は萱野稔人さん、渋谷望さん、平沢剛さんの三人。名前を知っていたのは萱野さんだけだった。

個人的な興味は運動のみで、それが実際に起こるのかどうかってとこだったんだけど、今はまだ「起こそうぜ!」ってところまでらしい。とりあえず萱野さんのヴィジュアルがいい感じで、その一点のみにおいて期待感がある。ドラえもんみたいな体型の人にストイックな話されても説得力ないし。

前日の土曜日には、東京工芸大学の公開講座へ行った。

こちらは、「VOL」イベントとは逆でテレビ局で2時間ドラマのディレクターを務めた福本義人さん(東京工芸大学教授)による、ワークショップ。テレビ局から発注された企画を制作会社が受注し、そこから福本さんが監督の仕事を依頼されるという流れ。

上記のイベントとの対比で言うと、ある意味でクリエイティブな仕事に見える。でもかなり折り合いのついたクリエイティブだ。なぜなら、自分が考えた企画でもなければ、自分が発注した脚本でもなく、自分が決めたキャストでもなく、自分が決めたスタッフでもないからだ。請仕事をどうやって自分の中で消化し、クリエイティブなこととして受け止めるかが肝といえるかも。

放送作家の安達元一さんが『視聴率200%男!』(光文社)という本に書かれていたが、結局それにしたっていずれは提供クレジットに自分の名前が載っていることくらいでは満足できなくなるらしいので、その受け止め方のトリックも突き詰めれば限界があるのかもしらん。

昨日と今日のイベントは、どこか対極的でいろいろ思うところがあった。

Posted by Syun Osawa at 01:20

2006年06月01日

アルジャジーラとはどういうテレビ局か

オルファ・ラムルム/訳:藤野邦夫/2005年/平凡社/四六

アルジャジーラとはどういうテレビ局かアルジャジーラについて知りたくて読んだ本。

ヒュー・マイルズ『アルジャジーラ 報道の戦争』(2005年/光文社)を読むか、こっちを読むか悩んだ末に、発行年月日の新しい方を選択。失敗したかも。「ザ・翻訳本」って感じの文章がなかなか面倒臭くてちょっと疲れた。

でも、読んだかいはあったと思う。アルジャジーラはイスラエルにも支局があるとか、そのレベルでいろいろ知ることができたし。サラッと読んだところによると、アルジャジーラを「対アメリカのプロパガンダメディア」「イスラム教の大衆化を先導するメディア」と捉えてよいほど問題は単純ではないらしい。

アルアラビアというアルジャジーラの影響力を弱めるため外国資本を投じてつくられたテレビ局が、結果的にアルジャジーラを追従してしまうなど、イスラム圏の国々の変化(女性の地位向上とか選挙とか)がアメリカの制御を超えたところで動いているらしいのだ。

これまでのイスラム教圏のメディアといえば、「動員用の報道機関」「体制支持の報道機関」というまさにプロパガンダのための御用メディアであった。そこからの脱却。つまり「さまざまな報道機関」として初めて機能したのがアルジャジーラなのだ。

本当かどうかは知りませんよ。もちろんどんなメディアだって、何かしらの影響や圧力を受ける。アルジャジーラもカタールの国営放送であり、カタールは親アメリカの小国である。僕が一番感心するのは、そのことをすべて自覚した上で、なおも攻めの姿勢を崩さないメディアたろうとしている彼らの心意気である。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:55