2006年09月29日
未来少年コナン(全26話)
監督:宮崎駿/1978年/日本/アニメ
感無量。
まさに冒険活劇。キャラクターが動く動く。リアルな動きの追求とかそういうのではなく、とにかく躍動的に動くんだ。毎回コナンは絶体絶命のピンチに陥る。それでもコナンは最後まで希望を捨てず、勇気でもってピンチを乗り越えてみせる。そうした感情を表現するアニメーションが凄い。
話の内容は以下の感想メモに譲るとして、気になったことを一つだけ。コナンは平和な世界で暮らしていけるだろうか? 彼を突き動かしていたのはおじいさんの遺言か、それともラナへの愛か。そうじゃない気がする。このあたりが、これ以降こうした冒険活劇あまり作られなくなった原因の一つかなとも思う。
「労働」に対する考え方は『千と千尋の神隠し』と同じで一貫している。しかも、ラピュタ前哨戦の作品であるため、マンガ版『風の谷のナウシカ』で見せた思想的展開を経ていない。だからピュアな印象を強く受ける。僕の中でアニメってこれなんだ。『無人間』のデータを丸ごとごみ箱へ捨てたくなった。
第1話 「のこされ島」
なんていう面白さ! 冒頭で世界をサクッと説明してしまう。そこからの物語。コナンのキャラクターを描いて、住んでいる島をさりげなく描いて、そこにラナが登場。早くもインダスとリアの兵士が現われて物語が動き出す。物語がちゃんと機能している。素晴らしすぎる!!
第2話 「旅立ち」
おじいちゃんが死亡。早くも物語の動機が確定し、動き出す。ラナを連れ去った側の人間像も明らかになりつつ、世界観が丁寧に開かれていく。まさに王道。そして最も大切にしなければならないストーリーの重要性をひしひしと感じさせる。それにしても、コナンはあのいかだでよく、海へ出ようと思うよな…。
第3話 「はじめての仲間」
ジムシーとの出会い方が素晴らしすぎる。アニメーションの醍醐味である動きで語ることを全力で表現していて、そこに感銘を受ける。素晴らしすぎて泣きそう。ジムシーがタバコ吸うところとかも含めて、大事なものをいろいろ感じる。一番大事なのは、「勇気」を認め合えるところ。
第4話 「バラクーダ号」
コナンとジムシーが船の乗組員になる。このあたりの儀式がやはり「勇気」を認め合うところに根ざしていて悪い気がしない。アニメーションも素晴らしく、ラナもしっかり印象付けている。物語とはこういうことですな。
第5話 「インダストリア」
コナンがラナを助けにインダストリアの中へ潜入するシーンはまさに冒険活劇! 次から次へとやって来る危機をギリギリのところで回避しながら、最後にはラナとの再開を果たす。今のアニメにないものが全部ある。そして、このシンプルな強さが本当に大事なんだと思う。キャラの造形はもうそこそこでいいや…。
第6話 「ダイスの反逆」
ラナとコナンが捉えられるまでの展開が非常にドラマチック。しかも、その中でしっかりと人間を描いているから、コナンが殺されない理由が視聴者にもはっきりわかる。いろいろな謎がわかりやすい形で提示されている。最後に船長がラナを奪還し(この展開は安易だが…)、コナンとすれ違うところの引きもとても強い。感心させられっぱなしですなぁ。
第7話 「追跡」
船長がラナを奪ったのは、好いているから。この時点でロリっていてなんか妙な気分になる。とはいえ、アクションシーンというかドラマの展開は素晴らしく、あり得ない危機、危機の連続。安易にその危機を乗り越えるシーンも多いとはいえ、昨今の物語にこれほどシンプルに冒険活劇を作る人がいないだけに、この手の手法はぜひとも学び取りたい。ラストもコナンにとって絶体絶命の展開で、それを用意する方法も複線が効いておりとても上手だと思う。
第8話 「逃亡」
超スペクタクルのラナ救出劇。絶体絶命のコナンが運良く救われ、ボートで逃げたはいいが撃墜。さらに海底で脱出不能になる。ラナとコナンのキスシーンがここで劇的に行なわれる。脱出の方法などで、「馬鹿力」というズルさも2度ほど登場したとはいえ、アクションに継ぐアクションが物語をぐいぐい引っ張っており魅了されまくった。トンデモな部分も含めて完璧なプロットだと思う。
第9話 「サルベージ船」
ハッチとデビッド登場。いきなり二人の役どころも明瞭で、彼らの働く場所もわかりやすい。何しろ物語がちゃんとしてる。気骨のあるハッチをインダストリアの人間もコナンも認めるというところは見ていてもとても納得できる。そのあたりは凄いと思う。ファンタジーなんだけど、人間のそれぞれの言動などにちゃんと筋が通っている。感心させられっぱなしですね。
第10話 「ラオ博士」
地殻変動が起こる。ハッチが沈没船の下敷きになったのをコナンが助け、そこでラナはハッチがラオ博士であることを知る。唐突のようでスムーズに受け入れられた。不思議。必ず1話の中にピンチがあって、それが見事に回避される。次回に対する引きも強いし、個々のキャラクターも人間として説得力がある。素晴らしいなぁ、もう。
第11話 「脱出」
すげー! この回まで毎回ピンチにつぐピンチがあるよ。今回も2.5回あった。ラナとコナン、ラオ博士という似たキャラクター3人がそろったときはどうなるかと思ったけど、そこへ上手く船長が加わる。上手い。そして、絶体絶命のピンチが訪れる。何ていう素晴らしい展開なんだ。
第12話 「コアブロック」
三角島からフライングマシンで抜け出すことに成功。この裏側ではコナンが政治犯? を助けてたことが繋がっている。そういう人間のまっとうなドラマも含んだ形で物語が展開していく。ハッピーエンドの形がありがちとかいう批判はもう僕はしない。かくあるべきだと思うからだ。全員無事にハイハーバーへ向うという中盤の盛り上がり。ミッドポイントと言えばよいか。
第13話 「ハイハーバー」
ハイハーバーでの生活が始まる前に、ラオ博士はインダストリアへ戻るという。これは物語をより面白くするための適切な処置だと思う。ハイハーバーにも「山向こう」という考え方があって、辺やヤツがいることが示される。「山向こう」は「川向こう」的な扱われ方をしている用語のように考えるが、この段階では詳細は不明。いずれにせよ島の大きさが絶妙である。
第14話 「島の一日」
ハイハーバーでは、食べ物はむやみに獲ってはいけない。狩猟民族から農耕民族への流れだが、これを丁寧に子どもの目を通じて教えようとしているトコに、このアニメの真摯さがあるといえる。この生真面目さも僕には忘れていた何かを思い出させてくれる。物語の展開としては、これまでと比べてずいぶん弱いものであったが、ジムシーと巨大ブタの追いかけあいという話的には必要の無いアクションシーンを加えることで、物語を楽しいものにしている。
第15話 「荒地」
オーロ達が愚連隊であることがわかる。と、同時に独裁者的な性格を持っていることも。村の若者に「自分の村は自分で守りたい」と言わせているところは興味深い。あと、オーロとコナン&ジプシーが豚のことで一触即発の事態に陥ったとき、それを止めるためにラナはコナンを叩く。豚のことで争わないで欲しいというラナの切実な願いを視聴者に伝えると同時に、ハイハーバーという平和な島でさえも争いは起こるのだという深みのある世界観を提示している。なお、コナンの世界で起こった地殻変動は2008年なのだそうだ。そこで唯一残った残った島がハイハーバーだったと。
第16話 「二人の小屋」
ハイハーバーでオーロ達とコナンのいざこざが発生し、ついにはコナンを殺そうというところまで至る。そこにテラ(オーロの妹)の気持ちがわっと湧き出てドラマが出る。なおかつ船長が悪巧みを考え、さぁ…どうなる? というところで、冒頭のラナの悪夢がインダストリアの船がやってくるという形で現実になる。これまでのような骨太のスペクタクルは無いが、複雑な物語を上手にまとめている。感嘆の言葉以外になし。
第17話 「戦闘」
インダストリアのモンスリーとオーロが密約。船長が街頭で演説し、徹底抗戦を呼びかける。このあたりの人間の描き方がとても好き。階級闘争的といえば言い過ぎか。しかし、現実は上手くいかず、コナンたちの作戦も失敗。もはや絶体絶命のピンチに。ラナが捕まりそうになった時、コナンが猛然と走り寄る。うぉー、大スペクタクル。子どもに仕事をさせるところと、土地を守るということを徹底している。これはラピュタでも千と千尋の神隠しでも見られるが。
第18話 「ガンボート」
コナンがガンボートのラナを救う。爆弾を持って。これまでの回の中で一番強引な展開だったが、それでもコナンの強い意志と勇気に胸を打たれる。ガンボートが沈んだあと、ラナを救う。ラナ野の閉じ込められている部屋が鍵で施錠されていたらどうするつもりだったのかとか、ガンボートが外海に出てから1時間も経過していたら相当に遠くまで行っているのではないかとか、いろいろ思ったが、外海で待機していたからそれはそれでいいのかな。とにかくコナンの勇気とラナを結び付けているものが凄い。
第19話 「大津波」
ハイハーバーに津波がやってきて、それをきっかけにしてモンスリー勢は敗れた感じになった。このあたりも脚本的にはかなり強引だが、コナンが多くの人を無益な争いから開放していることは間違いない。真っ直ぐに生きること、正直に生きること、勇敢に生きることの大事さを教えてくれるとても稀有な作品である。
第20話 「再びインダストリアへ」
モンスリーを徹底的に信じるコナン。そして、モンスリーはコナンたちと行動を共にすることになる。コナンは心配性の病気を持っている。英雄病と名づける。つまり、平和を求める戦いでは多大な力を発揮するが、その後平和が訪れると、また次の戦いを求めてしまう病気。だから、ハイハーバーでは暮らせない。インダストリアへ向いたい気持ちが抑えられない。この辺かな考える必要がある。
第21話 「地下の住民たち」
モンスリーが改心し、銃殺されることに。死んだかどうかは不明。プラスチックと鉄の檻ではなく、緑の中で人間は生きるべきだという主張。ラピュタの成功はコナンをバージョンアップさせたところにあるのだな。完全にコナンは脱出に成功した。しかし、ラストに向って大きな戦いが起ころうとしている。独裁者となった彼の行方とインダストリア、そして地殻変動。まっとうな物語の盛り上がり方。
第22話 「救出」
レプカに捕まるラナ。いよいよクライマックス。ギリギリのところのドラマも相変わらず健在だが、物語の大枠が見えているので、そちらの方にも気持ちが持っていかれる。宮崎駿っていう人は権力者を徹底的に悪人に仕上げている。違う、権力を一人で握ろうとする独裁者を徹底して悪人として仕立てているのだ。最後の地下の人達の蜂起は完全に小林多喜二の『蟹工船』の様相を呈している。
第23話 「太陽塔」
レプカ敗れる。前半戦で凄いスペクタクル。ジャッキーチェンばりのアクションで、ありえないことをやってのけるあのパワフルさがアニメの本当の魅力なんだろうな。26話まであるのに、こんなところでレプカは敗れてもいいのかな? 太陽エネルギーも復活し、人類と機械文明の教訓めいたものが語られる。本来なら、ここで終劇となってもおかしくない。
第24話 「ギガント」
レプカは生きていた。しかもギガントという巨大飛行機で脱出。世界を手中に収めるべく、ハイハーバーへと向う。そこへコナンたちが戦いを挑む。ムチャクチャな展開ながら、真っ直ぐ。ひたすらに真っ直ぐに平和を追い求める。権力者の暴走とトコトン戦うコナンの姿に胸を打たれる。翼の上を走るとか普通にありえないけどさ。凄いよねー。毒ガスのくだりとかも含めて、ピンチとアクションの演出が段違いに凄い。
第25話 「インダストリアの最期」
前半はギガント上での壮絶な戦い。レプカが飛行機に取り残されたときのサイレントとかはラピュタの最後を彷彿とさせる。ラピュタのときは、そこでパズーたちが救われて終わったが、このストーリーはもう少し過酷。
第26話 「大団円」
見事な大団円。最後に残され島が大陸になっていたという事も含めて、サプライズが最後まで確保され視聴者を開きさせない。ラオ博士が死に、これからは新しい世代に委ねられた。悪く言えば、これから退屈な日常が始まるわけだけれども、真っ白なキャンパスが目の前にあって、テーマがハッキリしていて、何をどのように描きたいが明らかな今、目の前には夢と希望が溢れている。現実はそうではない。宮崎駿自身それは十分に理解しているからこそ、この退屈な日常の開始をその後の作品では必ずしも肯定しなかった。違うな。その退屈な日常にいかに夢と希望を描くかを避けたと言っていいかもしれない。こういう作品は今後生まれるだろうか? 僕は今回はっきり思った。生むべきである。
Posted by Syun Osawa at 00:11
2006年09月28日
四国定朝(しぐに・さだとも)
ヒーロー学園1年、剣豪科特待生(『無人間』より)
ダラダラとつくっている『無人間』はオナニーアニメである。世間で言うところの「オナニー作品」というもので、意味するところは「独りよがり」ということになろうか。
では、オナニー作品ではない作品とは何か?
それは「セックス作品」である。作品と観客(読者など)とのセックス。映画館を出てすぐに「最高でした!」「今まで一番です!」と興奮気味に語るテレビCMがあるが、あれはつまり作品とのセックスの後に述べる一言である。一方で、観客が放置され、目の前で作品がオナニーを始めてしまったものを「オナニー作品」と呼ぶのだ。
お前らはそんなにセックスが好きか?
僕はオナニーもセックスも好きである。いや、恐らくこんなことを書こうと思ったわけではないのだ。まぁ…いいや。バカ丸出しな事を寝る前に書くと気持ちいいから。
Posted by Syun Osawa at 00:21
2006年09月27日
ポップアート 1960's−2000's
2006年7月8日−9月3日/損保ジャパン東郷青児美術館
僕はポップがわからない。
ポップは「かっこいい」とか「かわいい」という言葉を内包した言葉であるらしい。ポップであることを好む男女は自分の同世代を含めたくさんいることも知っている。
ただ、手塚治虫さんが『 ぼくはマンガ家 』(角川書店)の中で「かっこいいという言葉は、子どもの頃にはなかった」と書いているとおり、「ポップ」が内包している「かっこいい」や「かわいい」という言葉そのものも決して古い言葉ではない。そして、そうした新しさから取り残されている僕は、古い人間という事になるのだろう。
ポップアートが 戦争と芸術 という視点でも興味深いのは、戦前のプロパガンダ広告がポップアートに少なからず影響を与えている点である。戦意高揚のためのシンプルで誇張されたイメージ戦略は、広告の世界でも大いに生かされた。ポップアートのアーティストが看板屋などで生計を立てていたことも含め、その関連性は強いように思う。
とまあ、ここまでは実に真っ当(かな?)な歴史のお勉強。僕自身がそれでも「ポップ」に対して距離を感じてしまうのは、アーティストの「俺はこれをかっこいいと思うが、お前らどうよ?」「私はこれをかわいいと思うんだけど、あなたはどう?」という投げかけに対して、客がどのように受け止めたかを競っているように思えるからだ。表現者と観客のセンスが上手くかみ合うことで作品が成立するという。
そのため、「かっこいい」とか「かわいい」という対象は時代ともに変化する(もちろんすべてではない)。日常生活を通して起こる「あっかわいい!」といった感情はあぶくのようなものだし、そのような受け止め方をすれば、ポップアート個々の作品の受け入れられ方も時代とともに変化してしかるべきだと思うのだ。にもかかわらず、今もなお、ウォーホールだとかリキテンステインがもてはやされるところに疑問がある。それって、権威主義的に成り下がってるんじゃないのか? もはやそれはポップとはいえないんじゃないの? という意味で。
この点については、エレクトラグライドというイベントで クラフトワークのライブを見たとき に感じた感覚とも無縁ではない。斬新さを確認することはポップ足りえるのだろうか? ポップがわからない僕が言うのだから、こんなことは戯言に過ぎないわけであるが。
自分で書いていて意味不明な文章になっていることは薄々感づいている。でも推敲する気力も無いのでこのまま放置。こんな雑文を垂れ流したくなったのも、今回の展示会自体が何だかよくわからない代物に映ったからだ。モダニズムとしての抽象絵画も出てくるし、ポスト何やらの芸術も出てくる。ごった煮感は嫌いではないが、散漫な印象を受けてしまった。
戦争と芸術 に話を戻すと、ポップを経た今、ポスト何やらの連鎖の中で、瞬間の「かっこよさ」や「かわいさ」を追求する芸術が戦争とどういった関係性を持つのかは僕の中で一番熱いテーマである。ニューヨークでテロが起こったときに、『美術手帖』か何かの美術雑誌で平和の特集が組まれたことがある。僕はその紙面を眺めて、あまりの無力さに驚いてしまった。「かっこよさ」や「かわいさ」を追求するあまり、そのテーマの希薄さに(現状把握の甘さにと言い換えてもいいかもしれない)気がつかないのだ。こんなものは電波なオタク中年の印象でしかないのだが、この印象を逆に考えるならば、平和について無価値な芸術は戦争にとっても無価値なのではないかとも思うのだ。
また、芸術の中においては、「萌え」は僕の中では「ポップ」と同列の扱いをするべきだと考えていてるが、このあたりはもう少しいろいろと作品を見ないといけなので、どこまでも保留。戦前以降の作品は、サム・フランシスとかジャクソン・ポロックあたりの抽象絵画までで興味が完全に止まっているからなぁ…。
Posted by Syun Osawa at 00:21
2006年09月26日
ソ連とは何だったか
塩川伸明/1994年/頸草書房/四六
ヒトラーとスターリンに似たところがあるという指摘はP.F.ドラッガーの『 「経済人」の終わり 』(ダイヤモンド社)でも言及されているように、第二次世界大戦より前から存在する。僕はその古いイメージをそのまま信用してしまい、プロパガンダ芸術について次のような安易なイメージを抱き続けていた。
プロパガンダ芸術を目的美術と考えれば、その背後にあるファシズムもスターリン型社会主義も全体主義としてイメージすることができる。戦前の日本における政翼賛会とプロレタリア運動も同様。つまり、右翼と左翼は似たところがあって、その全体主義的体制がプロパガンダ芸術にも大きく影響しているのではないか。
今回この本を読んだのは、そうした「全体主義」という考え方そのものが厳密な意味では誤っているらしいことを知ったからだ。同書には「社会主義と全体主義」という小論が収録されており、スターリン型社会主義とファシズムを全体主義として括るのは問題があると書かれている。塩川さんのホームページにも 「社会主義と全体主義」再論 という討論ペーパーが公開されているので、概要を把握することは難しくない。
そんなわけで、今後は「全体主義」という言葉を使うのは避けよう。全体主義の対になるのは個人主義ではなく民主主義であるので、僕のイメージする全体主義とは少しズレてしまう。言葉を変えないといけない。戦争と表象/美術 20世紀以後 というイベントで、澤田佳三さんが発表された「目的美術」の発表は、このあたりの話をしていたように記憶しているのだが、そういえば「全体主義」とは言っていなかったような気もする。
そのほか、プロパガンダ芸術とソ連の絡みでは、「旧ソ連社会のとらえ方」という小論が面白かった。ソ連崩壊への理解は二層認識ではなく四層認識で行なえというもの。以下引用。
(第一層) 理想社会という公式宣伝
(第二層) 公式宣伝は実は嘘である
(第三層) にもかかわらず、実は案外ましな面もあった
(第四層) ところが、そのましな面さえもが、複雑な逆説的連関を通して否定的な結果を招いた→だから崩壊した
プロパガンダ芸術も二層ではなく四層で捉えなおすと、より深みをもった何やらが浮かび上がってくるかもしれない。高度な広告という側面がより強くなるので、それを芸術という範疇でどのように受け止めるかはまったくわからないけど。
(関連)戦争と芸術
Posted by Syun Osawa at 00:25
2006年09月25日
ブックマークが消えた…そんな日々
FireFoxのバカ野郎!
何もかも消えてしまった。バックアップの重要性というのは失われてから気づくのだな。とりあえず、ブックマークして後で見ようと思っていたサイトがすべて失われただけでなく、巡回サイトも全て失った。
古本屋で『SPAWN』(T.マクファーレン/メディアワークス)の19−25巻が売りに出ていた。『SPAWN』の後半は発行部数が極端に減るので見つけるのが難しい。僕は18巻まで買い進めているので、続きを買うかどうか30分迷った。最終巻の26巻だけなかったことと、厳密には26巻で完結しているわけではなく日本語版の打ち切りが26巻だっただけという事実から買うのを諦めた(値段も高かったし)。
諦めたおかけで素敵なものを買うことができた。
季刊誌『アニメーションノート』vol.3(誠文堂新光社)
月刊漫画誌『Comic リュウ』創刊号(角川書店)
鳥山明『Dr.スランプ』全9巻(集英社)
久松文雄『冒険ガボテン島』全2巻(扶桑社)
望月峯太郎『ずっと先の話』(講談社)
蛭子能収『地獄に落ちた教師ども』(青林堂)
つげ義春『ねじ式』(小学館)
『アニメーションノート』に渡辺信一郎さんが出ており、『アニマトリックス』でつくった作品の製作過程が紹介されていた。ページ数が少なかったのが惜しまれる。あのページを拡大して16頁くらいの特集を組んで欲しかった。「ジャパニメーション2.0−臨界点を突破する2Dアニメ表現」みたいなベタな内容でいいので。
『ダカーポ』10月号(マガジンハウス)の特集は「短文講座」だった。文章は短く簡潔に。その通りだ。僕はこれまで、30分以内に書くという決まりをつくっていた(そのため誤字がすごく多い)が、文字数は気にしていなかった。今日から短くスッキリ書こう。
『CMカット機能搭載!』のCMはコントか?
おちまさとさんのブログ。テレビCMの効果について考えるのは危険だよな…。妄想すると、今後はスポットタイプのCMはなくなると思う。そして、番組の中で出演者がサラリと商品をCMするようなタイプのCMが増えてくるだろう。CMと作品が一体となった番組。
GyaOで『エウレカセブン』41−50話の放送開始
ラストスパート頑張るぞ! すべてはあみすけの名演のために!!
アニメと漫画を接木するもの
GyaOコミックスを見ていると、FLASHが果たしてきた役割は大きかったのだなと再認識する。FLASHが登場したことにより、それまで綺麗に住み分けができていたアニメ表現と漫画表現の中間地点で、いろいろなチャレンジがなされるようになった。
ついでに、GyaO映画で公開されていた『忍者武芸帳』(監督:大島渚)を見た。漫画に動的な演出と音楽を加えた作品が1967年につくられていたとは。これなどは完全に画ニメだ。アニメと漫画の間を研究するには、今はとてもいい時代なのだろう。
2行で表現する上手な下ネタ
恋人にアナルでさせてもらったことあるけどきつくて気持ち良かった。俺が「無茶させてごめんな」っていったら、「俺のほうこそ後ろしか穴なくてごめん」っていわれた。
上手い。
『重力』の人がゲスト参加
web重力 で、松本圭二さんと鎌田哲哉さんが決別した今日この頃。セクト争いとは言わないものも悲しいお知らせ。そんな『重力』のお二人がゲスト(まだ聴いてない)。
ちなみに、このブログのテンプレートを描いているのは『東京トイボックス』の うめさん。
misonoがおっぱいで姉と勝負
「 ゴチャ・まぜっ!金スペ 」を毎週見ているので、misonoのダイエットには思うところがある。痩せなければクビという過酷なものだから。だから、ただのおっぱいではないのだ。
勝ち組十戒
落合信彦さんの公式ホームページ。勝ち組クラブってライオンズクラブみたいなもんか。
「アイチテル」を超える番組がない…
上半期、これを越える番組はなかった。新しい視点。
大友克洋×YAMATOWORKS
Yahoo!動画で公開されていた『AKIRA』風の3Dアニメ作品。『アニメーションノート』vol.3(誠文堂新光社)にYAMATOWORKSさんのインタビューが掲載されている。
『トップをねらえ2』も無料で見れるのか…
嬉しいけどね。嬉しいけど…ギリギリの戦略。WEBアニメスタイルで 鶴巻和哉さんのインタビュー が掲載開始。
フルカラー漫画にドハマる!
フランスのBlog版BDのフェスティバル? いわゆる漫画ではなく、フルカラーで描かれたショートショートにハマっている。紙媒体でも短編集しか買ってない。
で、僕も今日から4ページのフルカラー漫画を描き始めた。
刀 the movie
倒したのは警備ロボット? 最近、再び3D熱が高まってる。
電子書籍の市場規模は94億円
思ったよりある。ただし、ほとんどがPDAと携帯なんだろうか?
少々欲張りぎみな池脇千鶴
凄いキャプション。『さんまのまんま』にゲスト出演したとき「脱ぐのとかは嫌です」と言いながら脱いでしまった欲張り千鶴タン…。
Posted by Syun Osawa at 00:33
2006年09月24日
清腹清己(きよはら・きよみ)
16歳にして犬丸の嫁。(『二代目(仮)』より)
清己は女好きの犬丸をコントロールするため、犬丸の母親と共謀して彼と結婚した(犬丸は18歳)。しかし結婚後、数ヶ月経った今でも初夜はお預け。清己の真意はどこにあるのか?
僕の絵の最大の弱点は動きが弱いことだと思う。身体がどうにも硬く、動きがぎこちない。FLASHアニメをつくり始めたことで、これでも少しは改善されるようになったのだが。
Posted by Syun Osawa at 00:46
2006年09月23日
ペレストロイカの終焉と社会主義の運命
塩川伸明/1992年/岩波書店/A5
ペレストロイカからソ連崩壊への流れについての解説本。ゴルバチョフ書記長が求めたゆるやかな改革が、単純な善玉(資本主義)・悪玉(社会主義)論に短絡され、一気にまくられてしまった経緯を書いている。
社会主義はなぜ崩壊したのか? みたいな気持ちの悪い議論そのものには興味がなく(難しくてわからないということもあるが)、三つの段階で示されたこの時期の変革の流れが、日本の最近の流れと近いように感じられて面白かった。塩川さんは旧ソ連のオニコフという人の言葉を以下のように説明している。
第一段階では、まだ人々が根本的な社会変革という考えになじんでおらず、急進路線は広く受け入れられないので、穏健計画の思想が徐々に広まり、革命の準備に貢献する。また、第三段階は、すでに革命が達成された後の新体制建設の時期であるが、この時期には、過度に急いで変革を実行しようとして不安定化を招くよりも、実行可能な政策から着実に手をつけていくのが現実的であり、中道派が積極的な役割を果たす。しかし、その中間の第二段階にあっては、人々の意識は一時的に激しく分極化する。理性的な討論よりも感情の爆発が優越するからである。したがって、この時期には、中道路線は基盤を失い、孤立化せざるを得ない。
雑に日本に当てはめれば、第二段階は完全に小泉首相。僕が小泉首相を評価できる点は「失われた10年」的なくだらない言説を完全に過去のものとしてしまったところである。それくらいの問答無用の変革をもたらした。で、次は第三段階にあたると思うのだがどうだろう。
この本の主張で共感できるところは、ソ連崩壊後にも「ソ連型社会主義が滅びたからといって社会主義が負けたことにはならない」と言っている人達に批判を加えている点だ。塩川さんによると、この手の論は「負けたのは特定の型の社会主義にすぎない」「資本主義はそんなに素晴らしいものではない」「まだ社会民主主義がある」の三つに分類できるらしい。これら三つの主張を批判した後、次のように述べている。
今日、社会主義について語ろうとするならば、「ソ連型社会主義」の解体だけでなく、その改革を求めた種々の試みがすべて挫折したという二重の衝撃をじっくりとかみしめなければならない。
ちなみに今日の社会民主主義という概念は、マルクス主義から離脱する画期点となったバード・ゴーデスベルグ綱領(ドイツ社会民主党が1959年に採択した綱領)によるものらしい。つまりマルクス主義の別称ではないのだ。
(関連)松戸清裕『 歴史のなかのソ連 』(山川出版社)
Posted by Syun Osawa at 00:29
2006年09月22日
アニメ人気、ホントのところ
ネット最大の武器はアクセス解析である(僕は使っていない)。
アニメ人気を語るサイトは少なくないが、それを単純に「萌え」とか「オタク」マーケットと捉えてどうこうする前に、 Yahoo!動画のランキング と GyaOのランキング くらいは見ておく必要があると思う。
ランキングの幅が大きく異なっているのは、視聴者数の規模が違うからかもしれない。それでも、美少女萌えアニメが必ずしもアニメ視聴者の主流になっているわけではないことが、傾向として伺える。
GyaOの 世代別試聴ランキング を見るのも面白い。
公開された日時が大きく影響するランキングなのでこれまた一概には言えないが、例えば40歳を過ぎた男性が『女子高生Girls-High』を見ているのは「女子高生」というワードに反応したスケベ心だろうか? 実写も含めて眺めてみると、男性は年齢が高くなるほどスケベに対して遠慮がなくなり、ただのド変態になっているのがよくわかる。それに比べ女性はそれほど変化がない。これも面白い傾向。
とりあえず『シティーハンター』と『るろうに剣心』はガチらしい。
そして今、女性に最も使って欲しい言葉は「もっこり」である。
…あ、そうそう。
『シティーハンター』の本編ラスト近くで、エンディング曲のTM NETWORK「Get Wild」が重なってくる瞬間にカタルシスを感じる人は、僕と世代が近い人ってことでw
Posted by Syun Osawa at 00:46
2006年09月21日
忍者武芸帳 影丸伝(全2巻)
白土三平/1983年/小学館/愛蔵版B5
戦国時代に日本独自の民主主義が誕生してたかもしれないという空想。
戦国時代の農民たちの一揆を先導している忍者・影丸の理想は、自分が国の覇権を握ることではなく、百姓や武士という身分の違いを突破しようという階級闘争であった。こんな大スペクタクルを描く人って白土三平さん以外の漫画家さんではほとんど見かけない。
日本の歴史の裏側に忍者が活躍する話は僕が子どもの頃にもたくさんあった。楠桂さんの『 妖刀伝 』みたいな感じで、大きな歴史の転換点以外の部分を空想で接木する話。ただ白土さんの作品の場合は、歴史上の偉人をキャラ化して活躍させるというよりは、いつの時代にも変わらない人間の暗部というか醜い部分を克明に描き出しているところが特徴的だ。
ラストも素敵。野武士としての生き方を選んだ子どもがラストに百姓として新たな一歩を踏み始める。これなどは、黒澤明監督の『七人の侍』のラストにもつながる。
忍者といえば、横山光輝さんの『伊賀の影丸』全15巻(秋田書店)は忍者同士の対決が魅力的だった。『影丸伝』にも忍者同士の対決は出てくるが、忍法による対決などは横山作品のほうがワクワク感がある。逆に白土作品には百姓だけでなく、虐げられた身分の人達や障害者なども多く登場し、キャラクター漫画と割り切って楽しむだけでは収まらない生々しさがある。
作品中に白土さん自身によって語られる教訓めいたコメントは、古い小説でよく使われていた手法を漫画に持ち込んだと考えるのが妥当か。途絶えた手法かもしれないが。
この物語で中心的な役割を果たす一向一揆は、仏教徒が起こした一揆である。末木文美士さんの『 日本宗教史 』(岩波書店)の中では宗教の信仰があったからこそ激しい抵抗が可能だったと書かれている。さらに仏教徒が起こした一揆はこれだけらしい。そういや、顕如が宗教を使って民衆を利用したように描かれているものの、宗教についてはあんまり深く突っ込んでいなかった。
Posted by Syun Osawa at 00:26
2006年09月20日
モンスリー
レプカの部下。クシャナの原型?(『未来少年コナン』より)
アレンジし過ぎか。首の位置と腰周りがかなり怪しい。描きながら、これは動くのか? 動くのか、おい? と、自分に問うが明確な答えは見つからない。
ところで…
モンスリーは残され島で、コナン達とどんな生活を送るのだろう…。物語はそこで終わるが、本当に辛いことや退屈な日常はここから始まるのだ。飽きのこないダイスを旦那に選んだのは正解か。
Posted by Syun Osawa at 00:28
2006年09月19日
パフュ=アイドルと顔=漫画
き、近所の吉野家が…。何が君らをそうさせるんだ?
ヤフオクと通販を利用すれば、購入目的で本屋に行く機会は限りなくゼロになる。それでも行くのは、表紙を眺めて気になったものを立ち読みする楽しみは本屋でしか味わえないからだ。で、あおい書店で『アニメーションノート vol.3』を発見。いよいよ内容が薄くなってきてる;;
本屋で買った本、古本屋で買った本、図書館でもらったリサイクル本と本がまた増える。さすがに部屋の広さと不釣合いな量になってきた。最近はバンド・デシネ(フランスの漫画)にハマり気味でこちらも金がかかってよくない。
(戦利品)
DVD『永久家族』(監督:森本晃司/スタジオ4℃)
『+DESIGNING the Illustrator』(毎日コミュニケーションズ)
高橋留美子『高橋留美子短編集 1 or W』(小学館)
鶴田謙二『Sprit of Wonder』(講談社)
オー・ヘンリー『オー・ヘンリー傑作選』(岩波書店)
ヒラリー・ウォー『冷えきった週末』(東京創元社)
高村光太郎『高村光太郎詩集』(岩波書店)
夏目漱石『私の個人主義』(講談社)
谷崎潤一郎『蓼食う虫』(新潮社)
三島由紀夫『宴のあと』(新潮社)
瀬名秀明『虹の天象儀』(祥伝社)
浅田彰『逃走論』(筑摩書房)
柄谷行人『ダイアローグ』(冬樹社)
『別冊宝島56 ヤクザという生き方』(宝島社)
溝口敦『血と抗争』(三一書房)
溝口敦『山口組 VS 一和会』(三一書房)
ともかく、坂口尚さんの『石の花』(講談社)を読み始めたら、冒頭のカラーページから心を打たれた。これは柴宜弘さんの『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波書店)を先に読もう。
アニメに関わる職業(動画)
青二の鹿野優以さんが出てる。こんなにもひたむきな彼女が、まさか 集まれ昌鹿野編集部 で「パイズリ」とか「ペペローション」とか言ってるとは思えません。
この神動画つくったの誰か知ってる?
MTV Asiaが公開した『Code Hunters』という作品。これをつくった監督は Ben Hibon という人。ここでピンときたあなたは立派なFLASHアニメオタク。UNIT9の『 FULL MOON SAFARI 』をつくった凄い人です。癖のないセルシェード系3Dが日本との相性もバッチリ。そして、僕のツボだったりもするんだな。
512kbさんの新作?
音楽のタイミングが相変わらず素晴らしい。
成就しないカタルシス「春」
GilCrowsの映像技術研究所 より。「そんな感じかーっ!」と叫んだ。
死神は不幸なやつなのだ
メキシコのアニメ作品らしい。『かみちゅ!』の貧乏神も不幸なやつだったし、この手の不幸を一手に背負う神の悲哀って世界共通なのかもね。
エレクトロワールド 本人&寺田 REMIX
小心者の杖日記 より。Perfumeの「エレクトロワールド」という曲を寺田さんとサンプリング音を使ってリミックス。mp3でリミックス曲が公開されているだけでなく、番組もすべて見ることができる。寺田さんの自宅スタジオがちょっと豪華。彼女達のデビューアルバムは購入済み。
男前だと許されるが、僕なら許されない
結局はカッコよければ許されるという好例。すべてはここに集約される。僕は服部美貴さんラブなので、たとえ気持ち悪がられたとしても、献身的に応援してしまうのがオタ属性たる悲しさかな。オタクは元来、博愛主義者なのだ。
陸軍幼年学校の教室風景
本棚付きの机は新鮮。戦前の作品を映像化するときに、戦前のエリート学校の時代考証とかでメモしておきたい写真。右下の男の子が男前で、彼のその後がすごく気になる。
血液型で性格判断のウソを暴く
知らなかった、こんな楽しい祭りがあったとは。コールドリーディングがまさにこの原理にならっている。「かまかけ情報」で相手の感情を一本釣りする手法だ。これを利用する悪いヤツがいて、ハーレムを築いている男までいるっていうんだから…いやはや。
外国で暮らす日本女性の不思議
「日本人の男性」などのくくりを支持しない。僕の姉もイギリスに10年以上暮らしているが、似たようなことを言っていて呆れたことがある。このエントリに書かれた「国際結婚に向けてのアドバイス」には重要な視点が抜けているのだ。それは相手の日本文化や習慣に対する理解である。
安倍晋三と統一教会の誤解
統一教会といえば有田芳生さん。風評被害を防ぐため、ちゃんとこういう指摘をできるところがよい。
大東京トイボックス
『モーニング』から『バーズ』に移って連載を再開させるみたい。
分売不可はないよなぁ…
『日本アートアニメーション映画選集』の中で、僕が見たいのは1巻〜5巻まで。定価が378,000円なので、1巻あたりに換算すると31,500円。大人しく 杉並アニメーションミュージアム で見るほかない…。
Posted by Syun Osawa at 00:49
2006年09月18日
ディズニー・アート展
2006年7月15日−9月24日/東京現代美術館
ディズニーって化け物だわ。
1950年以前の原画や背景画、コンセプト・アート(イメージボード)を見てつくづく思った。特に背景画。これ見てしまったら化け物と思わざるを得んわなぁ。
そう思ったのは、日本のアニメでデフォルトとなっているハイコントラストの背景画に魅了されたからではない。もちろんそういう背景画もあった(例えば、『わんわん物語』とか『ピノキオ』とか)。でも『眠れる森の美女』ではそれらとは全く違ったコンセプトで背景画が描かれている。乱暴に表現するとシュールレアリスムの絵にゴシック様式の建築を重ねたような感じ。『バンビ』は印象派のテイストで、明るめの光の捉え方が印象的だった。
これらはディズニーに所属したアーティストのイメージを反映させたものになっている。冒頭でディズニーが化け物だと言ったのは、この事実が強烈だったためだ。個々の個性的なアーティストが作り出した世界観を丸呑みする格好でディズニーは大きくなっているのだ。
日本では細密な背景が好まれる。最近ではパソコンでトレースした背景画であっても、もてはやされる。ご多分に漏れず僕もそういう描き方を目指しているから、その点についてはツッコミづらいところがあるが、背景画ってやっぱし絵なんだよな。意思のある絵。ロケハン行ってデジカメで写真とって、輪郭部分をトレースした後、ハイコントラストに着色する。それも悪くない。でもそれだけじゃない。そういう当たり前のことに打ちのめされてしまった。ああ。
原画については、気の遠くなるような膨大な量を超完璧なデッサンで描いており、人間の業とはとても思えなかった。自分と比べたら、素人とプロの差とかじゃないよな。人間と神様くらいの差がある。途中で眩暈(めまい)した。『蒸気船ウィリー』のコーナーにアブ・アイワークスの原画があったのも興奮したし。あれって、いくらくらいの価値があるんだろうか…。
帰りに当然のごとく図録を購入。今回はディズニーが絡んでいるという事で、かばんを持っての入場禁止などセキュリティもやたら厳しかった。いたるところ著作権マークがついていたりで版権ビジネスの化け物としての一旦も見ることができた。グッズ売り場も大盛況。いつまでも女、子どもの心を捉えて離さないディズニーのキャラクターってやっぱ凄い。
Wikipediaの「 アメリカン・アニメーションの黄金時代 」は、1950年代頃までのアメリカにおけるアニメーションの歴史が簡潔に書かれている。これなどを見ると、アニメにもオールディーズがあって、そこだけを探求するだけでも山下達郎さんのオールディーズ愛好のように、一生楽しめるくらいの素材に溢れているみたい。
Posted by Syun Osawa at 00:15
2006年09月17日
新興宗教オモイデ教
大槻ケンヂ/1993年/角川書店/文庫
『雫』というエロゲーの種本らしい。
『雫』は学生時代、エロゲーだと思って舐めてかかったらすっかりハマってしまったという思い出深い作品。無気力で世の中が嫌いな主人公と、人の心を破壊し狂わせる電波。この二つの要素にグッときてしまい、僕も『 燃えて京都 』というノベルゲームを作ったほど。
本書にも『雫』の要素は登場する。この要素の先にあるものは何かな? …などと考えるが、明確な答えは出てこない。ヒントは80年代にライブハウスに通っていた少年少女にあるのかもしれない。退屈な日常をデタラメなパフォーマンスを共有することでやり過ごしたいという叙情的な願望…みたいな。そして、それを中間という男に代弁させている感じ。
あとがきで、大槻さんは中間には特定のモデルとなる人物がいないと書いていた。バブルの裏側で、彼のような気持ちで充満していた場所がどこかにあったのだろうな。その場所は、ゾンを救い、ゾンを殺した。そうした自戒の念みたいなものが篭っているように感じた。
これを書いている同日、『リンダリンダラバーソール』(大槻ケンヂ/新潮社)文庫版の販売日だった。あの頃の空気をよりリアルに感じたくてこちらも購入した。
Posted by Syun Osawa at 00:24
2006年09月16日
レントン・サーストン
アドロック・サーストンの息子(『エウレカセブン』より)
この絵にはウソが多い。中学校の美術以外で絵を学んだ経験はないが、絵の先生は間違いなくバツをつけるだろう。立体で捉えると身体がねじれているからだ。それを右手を伸ばすなどしてバランスでやり過ごそうというのが見え見え。影の付け方も適当すぎるので、どこかで立体の陰影についてはちゃんと勉強しないといけないかも。うーん。
レントンについて。
僕はレントンの良さがさっぱりわからない。何がしたいかわからない。結局、彼はエウレカとセックスがしたいだけなのだろうか。化け物女なのに。だからといって「それでも僕は化け物を愛するんだ!」という自覚も感じられない。人物設定が物語の中で生きてないような気がする。
レントンという名は『トレインスポッティング』の主人公の名前に由来しているらしい。となると、父親のアドロックもビースティーボーイズのアドロックに由来しているのだろうか…。この手の言葉遊びでお茶を濁すのではなく、物語の方で楽しませて欲しい。ラブパレードとか出てきたときには、そういうことする前に話を面白くしろ! と突っ込んだ。
Posted by Syun Osawa at 00:16
2006年09月15日
漫画家
永井豪/1992年/実業之日本社/四六変型
永井豪さんの漫画ってあまり読んだ記憶がない。名前はよく知っているし、40代くらいの人には信者が相当数いることも知っている。ただ、彼の代表作である『マジンガーZ』や『デビルマン』は再放送で愉しんでいたものの、僕が中学生の頃はOVAでちょっとエロめの『手天童子』とかを出していて、そういう印象が強かった。
永井さんがデビューしたのはトキワグループ以後で本宮ひろしさんの1年前の頃だったらしい。この時代にはトキワ荘に代表される漫画家たちの共同幻想みたいなものはなかったとのこと(それでも僕の中では永井さんも十分に歴史の中の人なのだが)。そして、どちらかというと今の漫画家さんの走りという印象も受ける。感情的なところでは例えば…
「小さいころは早熟ではありませんでしたか」と言われたことがありますが、自分では普通だと思っています。ただ、漫画の中の女の子は好きでした。
と、2次元に対する愛情があったり、漫画はあくまで子供たちの息抜きの場であると書いているところなど。また彼は「ダイナミックプロ」というプロダクションを早々に立ち上げており、あらゆる面で新しい時代の漫画家を予見させる人であったようだ。
この本の後半部分に「漫画家入門教室」という章がある。そこには…
マンガを描きたいという気持ちだけが漫画家になるための条件です
と書かれてあり、岡田斗司夫さんの『 プチクリ 』(幻冬舎)を連想させる。マンガを描くことに対する愛情が本の端々から溢れていて、権威的なところとか嫌味なところがまったくないのも好感触。今さらながら『デビルマン』から読んでみるかな。
ちなみに、永井さんのデビューはテレビ放映のアニメのマンガ化だったそうな。この手のスタイル(いわゆるメディアミックス的な手法)が別に新しいものではなかったことを改めて確認した。この点については手塚治虫さんが『 ぼくはマンガ家 』もメディアミックス的手法(漫画家の使い捨て)について批判的なコメントを寄せている。
Posted by Syun Osawa at 00:35
2006年09月14日
ファンタジア
監督:ベン・シャープスティーン ほか/1940年/アメリカ/アニメ
思い違いをしていたみたい。
僕の中で『ファンタジア』という作品はマルチプレーンを使って、俯瞰からグイグイとズームしてきたりするミッキーマウスの作品だと思っていたので、やや抽象的な作品群に面食らってしまった。
本作はクラシック音楽一曲ずつにアニメーションをつけたオムニバス作品になっている。その中でもミッキーマウスが登場する「魔法使いの弟子」は、シンプルな舞台で展開されるシーン作りの上手さと動きの美麗さに魅了された。そして何故だか落ち込んでしまった。水の描き方が尋常じゃない。先日見た『 ゲド戦記 』のオープニングの海のシーンも凄かったが、水のしぶき一粒一粒まで描ききっておりその労力たるや想像を絶する。
何でもこの作品がオムニバス作品として劇場公開された経緯として、「魔法使いの弟子」の制作費が膨らみすぎたために、短編作品としては資金の回収が不可能という事で急きょ長編作品に移行したそうな。
ここで、意外な発見!
この作品からミッキーマウスの目が「黒丸」から「白目の中に黒丸」に変わったらしい。面白いことに、東京現代美術館で開催されていた ディズニー・アート展 で『ファンタジア』のイメージボードを見たところ、ミッキーマウスの目は黒丸のままだった。これはちょっとした面白い発見。ミッキーの目が黒丸から白目付きに変わった時期というのは、ファンならば周知の事実なのかもしれないが、もしかしたら『ファンタジア』の製作過程で変わったことなのかもしれない。
「魔法使いの弟子」以外の作品について。
今回はクラシック作品にあわせてアニメーションをつけるというコンセプトだったので、今村太平さんの『 漫画映画論 』(岩波書店)で書かれていたような映像にあわせて音をつけるという方法とは逆のことをやっている。つまり、ディズニーは音楽と映像についてどちら試みも既にやってしまっていたのだ。ダフトパンクと松本零士さんがコラボした『 インターステラ 5555 』がやるよりもずっと前に。もっとも後者のほうはアルバム丸ごとを映像化した点が画期的なわけだが。
Posted by Syun Osawa at 00:36
2006年09月13日
黒田またる(くろだ・またる)
類型的な不良少年A。頭よさそうだな(『無人間』より)
僕は制服を着た不良が好きだ。糞マジメな青春時代を送った僕にとって彼らは憧れであった。憎めないヤツらだったと言い換えてもいい。なぜなら制服(改造制服も含む)を着て学校に来る時点で、彼らもまた学校というルールに縛られているから(尾崎かw)。
制服を着ない不良はただのチンピラである。
Posted by Syun Osawa at 00:25
2006年09月12日
シャルロットと創刊ラッシュの取捨選択
『 バカのための読書術 』(小谷野敦/筑摩書房)の感想でも書いたが、僕はシャルロット・ゲンズブールの大ファンである。そして今日、HMVで凄いものを発見した。なんと彼女が新アルバム『5:55』を出しているではないか! 20年ぶりのアルバムである。
僕はその20年前のCDも持っているのだが、そちらは映画『シャルロット・フォーエヴァー』(父であるセルジュ・ゲンズブールと共演)に関連したものだった。ジャケットの写真を見る。相変わらずいい目、いい横顔をしている。
そのまま紀伊国屋書店へ。
ジブリのPR誌『南風』の今月号には山折哲雄さんが寄稿しているほか、宮崎吾朗さんと河井隼雄さんの対談が掲載されていた。対談では『ゲド戦記』を映像化する難しさと試写会での反応に少しだけ触れていた。
筑摩書房のPR誌『ちくま』では、中野晴行さんが先月号から酒井七馬さんの謎を追っている。酒井さんは手塚治虫さんの長編デビュー作『新宝島』の原作者である。酒井さんについては『 ぼくはマンガ家 』(手塚治虫/角川書店)に少しだけ触れられているが、中野さんはさらに突っ込んだ取材を行なっている。大城のぼるの次は酒井七馬ですか。
PR誌といえば、紀伊國屋書店出版部から『scripta』というフリーペーパーが創刊していた。そのほか『hon-nin』(太田出版)や『NovelJAPAN』(ホビージャパン)も創刊。ラノベ関連の創刊ラッシュも含め、本の役割が大きく転回しているのかな?
松尾スズキさんが監修をつとめる『hon-nin』は、作家が自分自身のことを書くというのがコンセプト。にもかかわらず庵野モヨコさんの漫画が橋田壽賀子さんのNHK連続ドラマ『春よ、来い』みたいだったので、買わずにスルーした。
で、創刊ラッシュの中で購入したのは『モーニング・ツー』(講談社)という漫画雑誌。もしもこの雑誌が、うたたねひろゆき「セラフィック・フェザー」以前の月刊誌『アフタヌーン』(講談社)を目指すのならば定期購読したい。逆にサブカルの匂い漂う『IKKI』(小学館)みたいな雑誌を狙っているのならスルーすることになりそう。まだ読んでないのであくまで予想の話だが。
商業アニメは誰のものか?
『 猫の恩返し 』で監督をつとめられた森田宏幸さんのブログ。これは「会社は誰のものか?」を考えるよりも難しいかもしれない。ディズニーアニメはディズニーのものであったか? という微妙な問題もはらんでいる。今月号のジブリPR誌『南風』の宮崎吾朗さんの対談と合わせて読むと面白い。
アリスソフトの配布フリー宣言、ゲームがやりたい
リアルタイムで『闘神都市』とかやってましたが何か? という気持ち悪いオタの思い出話はさておき、その後の展開が気になる。フリー宣言を受けて、無給で移植するツワモノは現われるのだろうか。ここ とかにXPバージョンがアップされら最高なんだけど。もしくはエミュレーターで遊べってことなのかな?
無料で定期購読できる広報誌
hirax.net で知った『GRAPHICATION』という富士ゼロックスの広報誌。無料というだけで飛びつく貧乏人なので、内容がそれなりとあれば貰わない手はない。
Posted by Syun Osawa at 00:39
2006年09月11日
コロニー=昆虫3D=声優麻雀=月刊現代
今週もいろいろありましたね…僕ではなく世間では。F1がヤバイくらい面白い展開になっていて、あと3戦は涙無しには見られそうにない。引退を発表したシューマッハがジョーダンからデビューしたときの圧倒的な速さは今でも覚えている。あの時、僕はまだ中学生だった。それが今でもチャンピオン争いしているんだからなぁ…。イタリアGPも凄かった。
ガンダムに見たコロニーの世界
3D Total より。Eric Bruneton氏の『Rama』という作品。ガンダムで描かれていたコロニーは、3Dにすることで初めて明確にイメージできるようになったのではないだろうか? ただし、雲の存在は疑問だ。水蒸気があるとして、果たしてあの位置に雲が出来るだろうか?
アイドルブログの作り方
ここ数年で最も嬉しい変化はアイドルや声優がブログを公開するようになったことだ。世間の人気とは別の世界がブログの中には広がっている。グラビアアイドルの小明さんによるアイドルブログ研究などは、アイドルの二重性が浮き彫りになっている。
追いかけあう昆虫3Dアニメ
岸本真太郎さんの『 tough guy! 』を連想させる。スピード感があって面白い。この作品のような3Dの昆虫を使った子供向けアニメは需要があると思うのだが、すでにそういう作品は作られているのだろうか。映画『ミクロキッズ』のような展開ではなく、『みなしごハッチ』的な世界観で3D作品を作るという…。
世界名作劇場
Yahoo!動画とGyaOばかり見るようになった。『ふしぎな島のフローネ』や『愛少女ポリアンナ』は僕が物心つく前に見ていた作品なので、記憶もほとんど残っていない。今見たら面白いだろうか?
美少女3Dのオープニングムービー
TEATIME/FULLTIME のセルシェード系3Dが着実に進化している。止め絵のクオリティはもはや非のつけどころがない。その一方で、アクションと表情の固さはなかなか克服されない、それを乗り越えたキャラクターの動きというのはプロ・アマ問わずにお目にかかることが少ない。おそらくディズニーはそこにもっとも力点を置いていると思われる。
モー娘を踊るアメリカの美女
超スタイルいい。しかも踊りにキレがある。明日からでも六本木で働けそうなクオリティ。
『CYBORGじいちゃんG』の作者、逮捕
銃刀法で逮捕される場合、別件で捜査が進められている場合が多い。『のぞき屋』の漫画家と同じ容疑で捜査されていたのかな? 全然関係ないけど、彼が原作付ではなく単独で描いたサッカー漫画(読み切り)を読みたくて、古本屋巡りをしていたりする(見つからず)。
参考資料としての岸内閣
『月刊現代』10月号(講談社)で立花隆さんが「安倍晋三「改憲政権」への宣戦布告」という論文を寄稿している。僕も安倍さんを支持しない一人なので、頷ける部分も多かった。安倍さんが求めている岸内閣に関するニュースがYahoo!動画で公開されているのでクリップ。
オシムサッカーが好きな理由
「選手を子ども扱いしている」という指摘があるが、そうではない。己を知れという事だ。オシムが訴えたいことは、外国の選手に比べて体格的に劣っていることを認め、それを克服する戦い方をせよということだと思っている。
そしてそれは、そのまま今の日本ラグビー界にも当てはまる。僕は今のジャパンラグビーを好ましく思っていない。助っ人外国人にジャパンのユニフォームを着せることも不満だし、力と力のガチンコ勝負を挑んで(予想通りに)負けることも不満である。
日本人が外国人に勝つ方法は唯一、姑息に走り、姑息なアイデアを使って勝つことである。「トラトラトラ」を生み出したかつてのジャパンラグビーをもう一度思い出して欲しい。前回のワールドカップでイングランドのウィルキンソンがドロップゴールを多用して勝ち抜いたが、あれなどは日本がやるべき作戦ではなかったか。先日、村上晃一『空飛ぶウイング』(洋泉社)を読んで、その思いを強くした。
そのためには監督の選定が重要になる。そして、サッカー協会は今回正しい選択をした。ブラジルやフランスと同じサッカーをしていては、彼らには勝てないのだから。
美しい蹴り
軸足が外側に向いているところが正しいのか。
フルカラーコミックって描きたいよね?
最近、無性にフルカラーのマンガを描きたくなっている。こういうフランスのBD(バンド・デシネ)などを見てしまうと、その思いがさらに強くなる。来年の春までに同人誌一冊作れたらいいな。
声優だけで「TheわれめDEポン」希望
植田佳奈宅で行なわれた声優だけの麻雀大会。いつの間にか写真が変わっているが、堀江由衣さんや伊藤静さん、白石涼子さんと卓を囲んだらしい。そーいや東京に来てからほとんど麻雀してないや。
ところで、どこかのブログで読んだんだけど(ソース先忘れた)、今は声優ブームなのか? 小学校の頃に富永みーなさんや日高のりこさんの『ハイパーナイト』(KBS京都ラジオ)を聴いてたときの方がよっぽど声優に親しんでいたし、その後の関西でのラジオを中心とした精力的な展開の方が「ブーム」と呼ぶにふさわしいでしょ。少なくとも今は「ブーム」じゃないの。オッサンがカラオケで『踊るポンポコリン』を歌いだす頃はもはやブームとは言わないの。いや…逆か?
個人的に思い至った語尾
「○○だお。」という人と、「○○だにょ。」と言う人は同じである。
よしなしごと
ここ最近、FLASH 8を買おうか迷っていていたので、六本木ヒルズセミナーに参加。遅ればせながらわかったことは、MXより機能を向上させたいのであればベーシックじゃなくてプロじゃないとアップグレードする意味はないということ。プロにすれば乗算やフィルタなどかなり使える部分もありそう。とはいえ、僕がFLASHで一番気に入っているところは「イラストの描きやすさ」なので、そこが完全実装されたIllustratorなんかがあれば良かったりするのだが。
幸村誠『プラネテス』全4巻(講談社)と三島由紀夫『文章読本』(中央公論社)を購入。最近、紀伊國屋ばっかり行ってるな…。講談社のブルーバックスから出ている『新しい高校の教科書』を買うかどうか迷った末にパス。無理せず。
Posted by Syun Osawa at 00:45
2006年09月10日
バカのための読書術
小谷野敦/2001年/筑摩書房/新書
読もうと決めている本のリストが溜まり過ぎた為に、その上手い対策を練りたくて読んだ本。
小谷野さんって凄く毒舌なんだけど嫌味な感じがあまりしないのは僕だけだろうか? この本はバカのために書かれてあることもあって、内容が凄くわかりやすいし僕にはうってつけの本だと思った。
特に共感できるのは、自分の興味のあるところから数珠つなぎに本を読むことを薦めているところ。僕はまさにこのやり方で本を読んでいるし、アニメも映画も見ている。
映画の場合は簡単で、好きな女優で見る。中学生の頃からシャルロット・ゲンズブールが好きで、彼女の映画はマイナー作品であっても必ず見た。数年前には、トム・クルーズ主演の『ザ・エージェント』という映画に出てきたレニー・ゼルウィーガーにハマってしまい、遡って『エンパイア・レコード』や『悪魔のいけにえ』を見ていった。
書籍だったら 戦争と芸術 だったり、トキワ荘関係、創作ハウツー、宗教、ユーゴスラヴィアといった風に気になるキーワードで固め読みする。これが楽しい。
また、同書はバカを基準にしていることもあって、難しいものとか長すぎるものを外して紹介してあり、僕のリストも、この本にしたがって修正した。トルストイの中編とか。
いずれにせよ、著者の価値観が独歩的で、文壇の価値観に寄り添ってます(わかってます)みたいな感じがしないところがよい。2ちゃんの関連スレをのぞいても、この著者が電波であることを指摘しながら、みんなの目がやさしいところも魅力の一つかもしれない。
Posted by Syun Osawa at 01:05
2006年09月09日
清腹満子(きよはら・みちこ)
清腹清己の姉の子ども(『二代目(仮)』より)
FLASHで描くところのイラスト研究。
男女を問わず子どもを描くのは難しい。影のつけ方が適当だし、立体も正確に捉えられていない。バランスでごまかしてはいるが、雰囲気で描いているのが丸わかりなのが悲しい…。
1時間以内に描くことを条件にしているため、目が変なのも直さない。
Posted by Syun Osawa at 00:41
2006年09月08日
トーキョーワンダーウォール 2006
2006年8月12日−9月3日/東京現代美術館
この展示会へ行ったのは 2004年 以来、二度目。
無料でこういう現在風な展示会を見ることができるのはありがたいですな。京都にいる頃は「両洋の眼」という展示会に通っていて、「今」ってこんな感じなのか…と、間違った納得をしていたので。
当たり前だけど好みは人それぞれ。「抽象画が苦手」と大枠で言ってしまうと苦手ではないものもたくさん含まれてしまうので、言い方がなかなか難しい。パッと入ってくる心地よさなどを重視すれば大竹志歩さんの『memoir.06』などは僕好みなわけだけど、そこで考えてしまうんだな。
心地よく感じたのはロシア・アヴァンギャルド好きだからでは? …みたいな。意地悪なもう一人の自分の声。そういうのも含めて、創り手というよりは見る側の感じ方のほうが混沌としている気がする。
そんな昨今、僕がちょっと気になっているのが「笑わせた者勝ち」みたいなノリとか、「インパクトあった者勝ち」みたいなノリが何のためらいもなく肯定されているところ。
今回の展示でもキャラクター絵画(アニメ絵という意味ではない)を思わせる作品とか、ノリに重点が置かれた作品を多く目にした。おそらくそういう時代なのだろう。アナクロ的な悲哀みたいなものを感じさせるものもあるにはあったが、どの作品も自分と絵画(キャラクター)との対話であって、横の作品を眺めてもなかなか繋がれるところがない。だから笑いをとろうとするのかな? 笑いは共通の約束事がないと起こらないから、それを軸にすれば視点も安定する。こんな風に思ったのは、たぶん大槻ケンヂさんの『 新興宗教オモイデ教 』(角川文庫)を読んだ直後だというだけの話だったりするのが悲しい。
表現したい欲求はいつの時代も変わらないと思う。でも作品の見方は多様化してしまった。批評家が批判の先回りをしても抑えきれないほどに。そんな2006年の夏。
Posted by Syun Osawa at 00:42
2006年09月07日
ぼくはマンガ家
手塚治虫/2000年/角川書店/文庫
何でもっと早くこれを読まなかったのだろう?
手塚治虫さんの自伝的な内容とその周辺の漫画史が軽快な調子で書かれている。読者を意識したユーモアがタップリで、ゴーストライターが書いたにせよ、本人が書いたにせよ読み応えのある本だった。
手塚治虫さんが漫画の中に映画的手法を構図に取り入れたのは、学生時代に見たフランスやドイツの映画だと書かれている。戦中に公開されていたドイツ映画はプロパガンダ映画の類も含まれており、もしかするとレニ・リーフェンシュタールの『美の祭典』とか『民族の祭典』あたりを見て触発されるところがあったのかもしれない。
恥ずかしながら、白土三平さんが画家の岡本唐貴さんの息子だったことも今回初めて知った。さいとうたかをさんのエピソードとかキューブリックからの手紙とか、もちろんトキワグループの面々の話など、凄い話が次々と出てくる。さすがは天才漫画家の生涯。
他にもアニメの話とか福井英一さんの死とか、いろいろ内容盛りだくさんで、とりわけ30年代の悪書追放運動以後の状況について書かれた文章が印象に残った。
いまでは、おとなが子供漫画を「芸術論」ふうに分析したり、批評したりして喜んでいいる向きもある。おとなが子どものおもちゃをとりあげたように。
(中略)
ぼくは現在こそ、野放しの漫画が非難され弾劾される時期だと思うのだが、あの当時の鼻息の荒い連中はどこへ行ってしまったのだろうか?(中略)ぼくらは、なまじ子供漫画芸術論をふりかざして擁護したもらうより、今一度、子供漫画のルネッサンスを期待して、徹底した批判を受けたい。
自分の漫画が時代遅れになっていることへの焦りと考える人もいるかもしれない。僕は文章のとおりに受け取りたいと思う。奥付は2000年になっているものの、この本が最初に出たのは1969年。今から37年前に書かれた文章である。「手塚の円環」だろうが「テヅカ・イズ・デッド」だろうが、結局のところ今も昔もこのあたりの問題は解決されずに残っているのだ。ポストモダン以降の状況って、本当にいろいろ面倒臭い。
Posted by Syun Osawa at 01:16
2006年09月06日
ゲド戦記
監督:宮崎吾朗/2006年/日本/新宿文化ミラノ
うーん。困った。
肯定的に見ようと決めていたのに、あまりに退屈で困ってしまった。原作を読んでいないので、ストーリーの予備知識は一切ない。それがマズかったのだろうか(ただ、それがマズいのなら、そりゃ二次創作ですぜ)。
作品を通して言おうとしているテーマはいいですよ(辛気臭いけど)。そういう企画の本質を突っつくのなら別に作品そのものを見る必要なんてないのだし。それよりも、アニメ映画としてのアクションやドキドキ感、ピンチみたいなところがごっそり抜け落ちていて、そこがどうにも不満だった。
例えば、テルーが家の前の杭に縛りつけられるシーン。縛り付けられたテルーは何のピンチもないままに自力で脱出してしまう。宮崎駿さんなら冒頭に出てきた狼の群れにテルーを襲わせて、絶体絶命のピンチを演出しただろう。何しろピンチが足りない。
性格も途中で変化する。特にテルーが雄弁になるのは何故? 魔法使いクモが最後にテルーを連れて逃げるくだりからは大賢人ゲドは放置。そういうツッコミどころも満載だし、物語を貫いた主人公達の目的みたいなものもよくわからない(『罪と罰』のラスコリーニコフなのか?)。原作に寄り添いすぎたために、映画単体の背骨が抜けてしまっているような、妙なスカスカ感があった。
また、大賢人ゲドにも主人公のアレンにも「旅の目的はわからない」というようなことを語らせており、それを言わせた時点で観客はもっとわからなくなるのだということを現場の人達も突っ込んだと思うのだが…。個人制作ならわからないまま作るのは楽しいが、商業アニメでこういうのアリなのかなぁ。
無駄に多い移動シーンと、無駄に多い立ち話も気になったし…。宮崎駿作品の真髄は会話ではなくアクションでもってストーリーを展開させるところにあったんだけどなぁ。最近『コナン』を見たこともあり、余計にそんな風に感じてしまった。
とはいえ、次回作を作るのなら、もちろん見ますけどね。
Posted by Syun Osawa at 00:24
2006年09月05日
ベストセラー小説の書き方
ディーン・R・クーンツ/1996年/朝日新聞社/文庫
読み応えあり。
『 別冊宝島144 シナリオ入門 』でプロットの大事さを知り(遅っ!)、この本でその思いをさらに強くした。特にこの本は作家のD・R・クーンツが書いているという事もあり、エンターテイメントと真っ当に格闘している感じが清々しく、気持ちよく読み終えた。
『 別冊宝島144 シナリオ入門 』や『キャラクター小説の書き方』(大塚英志/講談社)でも紹介されているプロット・カードについては「無価値に等しい」とサラッと論破しているので、これを使うのはとりあえず中止。ただし、プロットに関してはかなりのページを割いて解説している。物語に対するシンプルで強い思いはいいですな。僕自身は書かれていることを素直に受け入れるのみ。教本なので反論とかがあるはずもなく、ただひたすらに学ぶのみである。
ここで、横を眺めると購入したまま平積み&放置されている同種の本がまだまだある(自分で引っ張り出したんだけど…)。さすがに「もういいだろ」って気持ちはかなり大きくなってきてるけど、もったいないから読まないとな…;
こういうの読むことで、自主制作アニメの『無人間』や『二代目(仮)』が楽しい作品になるといいんだけど…。
Posted by Syun Osawa at 00:50
2006年09月04日
工藤里紗=Yahoo!動画=デジタルコンテンツ
うめさんの『東京トイボックス』(講談社)を立ち読み。なんと2巻で打ち切りになっていた。雑誌で見かけたときに面白かったんで買おうかと思ってだけに非常に残念。人気なかったのかなぁ。うめさんのブログ を見たら、新連載を始めるらしい。
紀伊國屋書店で大槻ケンヂ『リンダリンダラバーソール』(新潮社)、太宰治『お伽草紙・新釈諸国噺』(岩波書店)を購入。古本屋で100円病が再発し、以下の本&アニメDVDも購入。
司馬遼太郎『菜の花の沖』全6巻(文藝春秋)
高村薫『地を這う虫』(文藝春秋)
くつぎけんいち『ザ・ベスト・オブ・テライユキ』(フロッグエンターテイメント)
「テライユキ」いたなぁ…。
工藤里紗さんの意外な趣味
まんとら でアシスタントを務めている 工藤里紗 さんがGyaOのインタビューに答えていた。そこでお気に入りの番組として「 フランク・キャプラ 第2次世界 大戦戦争の序曲 」を挙げてるではないか。この番組は確かに面白い。戦中に作られたこともあって、プロパガンダ的色合いが濃いところも貴重。…それにしても、凄いものを1位に挙げてきたな。
工藤里紗さんって『まんとら』を見る限りオタとは遠い感じの人なんだけど、奔放な性格が妙にお気に入りだったりする。この趣味を知ってますますハマってきた。
まんとらと言えば、「有野の穴」でオタ芸の話が出ていた。「変則ロマンス」というように オタ芸にネーミング があるらしい。そして、それらは こういうダンス とは違う世界観を提示している。
Yahoo!動画にロシアアニメ傑作選
キタコレ☆ 前回の公開時に見られなかったので、今回は全部見ることになりそう。ロシアアニメはDVDのレンタルを見つけるのが難しいのでありがたい。ネットアニメだけで僕の狭いアニメライフは満たされてしまうという、恐ろしい時代が到来している。
「墨攻」が07年に公開するらしい
マンガ『墨攻』(森秀樹/小学館)が最高に好きだったので、とにかく楽しみ。どこの部分を映画化するんだろう…。やっぱし城攻めのところだろうか? 硬派に作って欲しいものです。
デジタルコンテンツの行方
東浩紀さんによるデジタルコンテンツ業界に対するエントリ。どういうものをデジタルコンテンツとして捉えているのかは不明。ただし、これをFLASHアニメという非常に限定したもので考えるとなかなか言いえて妙だなと思うところがある。
このエントリを紙媒体に当てはめた形で、仲俣暁生さんがトラックバック している。こちらはデジタルコンテンツ的に考えると、ちょっと話がズレる感じ。
永遠の法
『 ヘルメス ― 愛は風の如く 』『 太陽の法 』『 黄金の法 』と、これまで2年おきに映画が公開されているので今年もそろそろかな? と思っていたら、予想通り公開されるようです。さすがに劇場へは足を運べないかなぁ…。
TOKIOと中島みゆきのコラボ曲のPV
TOKIOの『宙船』という曲は、コブラツイスターズが作った曲だと思っていたら、中島みゆきだった。PVを見ると全員ホスト風の格好をしていて、Vシネマの匂いがプンプン漂っている。特にドラムの松岡がかなりハマっていて、アリだなと強く思った。
Posted by Syun Osawa at 00:48
2006年09月03日
別冊宝島144 シナリオ入門
シド・フィールド ほか/1991年/宝島社/A5
シナリオのお勉強。
何でも、乙一さんはこの本を読んで『 夏と花火と私の死体 』を書いたらしい。夏の田舎町で起きた殺人事件のドキドキした展開とシド・フィールドのシナリオ制作法を頭に両方浮かべながら読み終えた。プロットカードを使ったりするところが、以前読んだ大塚英志さんの『キャラクター小説の作り方』(講談社)ともちょっと似てる感じ。
自分の書くシナリオがあまりにショボいため、そこを改善しようとハウツー本を買い漁った時期があった。読みもしないのに買うものだから、数だけがどんどん増えていき、放置されていた。この本もそんな積読本群の中から引っ張り出してきたものの一つ。他にもいろいろあるので、今後ちょっと固め読みしたい。
シナリオ制作法の部分は勉強になるところも多く、それ自体は実際にやってみないことには感想の一つもかけないのでスルー。読み物として面白かったのは、付録的についていた日本の現役シナリオライターへのアンケート。なんと年収まで答えさせる項目があり、律儀にみなさん答えてて驚いた。高いといえば高いし、安いといえば安い。
中でもアニメのシナリオを数多く手掛けた藤川桂介さんが、シナリオライターの一人として寄稿されていたのが嬉しかった。うがった感じとか、メタっぽい批評家的な視点とかじゃなくて、まっすぐに熱い文章を書かれていて心に深く染み入る。
また、テレビドラマのシナリオの歴史として、70年代の山田太一&倉本聰からトレンディドラマへと続く流れは、ストーリーから設定へ重点が移る過程だということが書かれていて、なんかいろいろ納得した。
Posted by Syun Osawa at 00:31
2006年09月02日
【沖方式】ストーリー創作塾
冲方丁/2006年/宝島社/四六
淡々と学ぶ。
沖方さんの小説のネタ出しから執筆に至るまでの過程が、作品ごとに紹介されていた。主人公や世界観を考えるところとか、梗概(あらすじ)から詳細なプロットを書き、それを削ったり追加したりするという、結構軸になるところを公開していて勉強になるところが多かった。
以前、沖方丁さんが「小説アシスタント制度」という構想をネットで表明されたとき、何のこっちゃとの思いがあった。アシスタントと言っても背景などを描く漫画のアシスタントとは異なり、共著のイメージが強くなると感じたからだ。データマンとしてのアシスタントなのか、共同執筆者としてのアシスタントなのかは今もよくわからないが、彼の場合、本当に実践しているところが面白い。この本でもそのことについて触れている。
僕がこの本で一番感銘を受けたのはここ。
今、最も小説業界に必要なのは、千人の中堅作家と、一万人の新人と、百万人の同人作家です。
それなんて、岡田斗司夫さんの『 プチクリ 』(幻冬舎)あたりと通じるものがある。どんどん真似て、どんどん作品を作ろうってところが。僕も参加しているウェブアニメの潮流なんかも、核心部分はここにあるのだけど、これを曲解している人がわりと多いみたい。
で、曲解している人は、たいてい創作をしていなかったりする。このあたりは、村上春樹さんが『文藝春秋』(2006年4月号)で発表した「ある編集者の生と死―安原顯氏のこと」にも通じているように思う。…無理があるかな(内田樹さんのブログ とか参照)。僕の場合、この手のハウツー本を読むのは、ただ単純に創作術を学びたいという気持ちがあるから。もちろん、「学んでどうなるものでもない」とか「学ぶに足る才能が無い」などの判断はまた別の話。
最後の章に、編集者にこう言われたらどうする? みたいな編集者の評価に対する対処法が書かれていて、それがまさに『サルまん』(買ったはいいが、読んでない…)ちっくで、結構面白かった。こういうのだけで本を一冊作っても、意外に実用的で面白そうかなと思った。
Posted by Syun Osawa at 00:43
2006年09月01日
ポール・グリモー展
2006年6月30日−8月31日/東京日仏学院ギャラリー
どっちかというと原画展に近いかな? しかも、展示会というほど点数もなかった。
展示されていたのは木炭ペンで書かれたイメージボードと、『王と鳥』で実際に使用された背景とセル画が数点あるだけだった(これはこれで貴重ではあるが)。
どうやら背景はガッシュを使って描いてるらしい。中学生の頃にBSで見た『王と鳥』は、背景が鮮やかで日本のアニメとは違うぞ! 凄い! とか思っていたんだけど、実際に見ると日本アニメの背景に近い印象だった。
素描というか木炭ペンで描かれたスケッチはわりかし丁寧に描かれていて、陰影の捉え方もしっかりしてる。デッサンがちゃんとできるというのは羨ましいですね。彼の略歴を見ると美術系の学校に行ったわけでもないらしく、独学で学んだようだ。しかも8ミリビデオを自分で自作したとか、なんか凄い時代(こちらもある意味羨ましい)。
あと、アニメーションの仕事だけだなく、イラストとかデザインとかもかなりバリバリやっていたみたい。そして映画にも何本か出演していたそうな。だから『 ターンテーブル 』での本人出演が様になっていたのかと、いろいろ納得した。
いずれにせよ、彼の短編はいつか全部見てみたい。
Posted by Syun Osawa at 01:28