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2007年01月31日

スキャンダル戦後美術史

大宮知信/2006年/平凡社/新書

スキャンダル戦後美術史近い時期に大島一洋『 芸術とスキャンダルの間 』(講談社)が出ており、和田氏の盗作事件の余波が出版業界にも影響していることがわかる。

前述の大島さんの本と比べれば、ぶっちゃけこの本は雑な印象を受ける。大島本との違いは、戦争画関連のネタと公共事業としての美術館ネタがあること。戦争画に関する記述は、引用している画家・評論家が野見山暁治さん、針生一郎さん、ヨシダ・ヨシエさんだったりすることから思想の傾向を察することができる。それを単純にサヨ系と言うつもりはないが。

藤田嗣治さんへの言及については夏堀全弘『 藤田嗣治芸術試論 』(三好企画)を読んでるのかと疑問に思うところも少なくなかった。例えば、戦後に藤田のもとへ戦争画を描いた責任を取れと言いに行った内田巌さんとのやりとりについて、

内田の訪問のことを話しているのは君代夫人だけで、藤田本人はこの件に関して何も語っていない。

と書いているが、『 藤田嗣治芸術試論 』に掲載された藤田の手記では、内田に対する思いやりの言葉か書かれていたと思うがどうか。

ともかく「戦争責任」を言う論者には少なからず疑問が沸いてしまう。ベトナム近代絵画展 に行ったとき、そこには数多くの戦争画が展示されていた。いわゆるゲリラの戦争画である。そこでは女性や子どもが銃を持っている姿が描かれていた。あれは「抵抗」だからOKなのか? この本の筆者はピカソの〈ゲルニカ〉についてそのように言及しているので、そう言うかもしれない。

僕自身が戦争画に興味があるのは、「戦争を描く」ことについてのシンプルな興味であり、戦争を描く場合は必ず厭戦的でならなければならないとか、平和を主張するものでなければならないとは思わない。

美術館乱立の章は面白かった。

公共事業の乱発により外側だけ立派な美術館が日本各地に建設された。ところが中身はたいしたことがない。それどころか交通の便が悪く、内容も地味なことから客足が遠のき経営状態はすこぶる悪いという。東京現代美術館も例外ではなく、客を呼び込むためにジブリ系の展覧会などを開いているという。ディズニー・アート展 なども、集客目的で企画されたものなのだろう。ただ、そうすればするほど現代美術の絵画がズラリと並ぶ常設展とのギャップばかりが目立ち、結果的には悪い方向に進むのではないかという気がしないでもない。

東京芸大をめぐる受験戦争については、今に始まったことではなく、多くの人が「これは、こういうもんだ」と思っているのではないだろうか。このネタが話題になるとき、いつも不思議だと思うことがある。東京芸大を卒業した画家や文学者が「芸術は学校で学べないから、東京芸大など行く必要なし」と言っていることだ。カッコよくとらえれば権威の無効化に見えるが、実際は権威を確保した上での茶番劇(それも芸のうち)であることも抑えておく必要があると思う。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 22:37

2007年01月30日

芸術とスキャンダルの間 ― 戦後美術事件史

大島一洋/2006年/講談社/新書

芸術とスキャンダルの間和田義彦さんの盗作事件が影響してか、今年に入って美術界のスキャンダル扱った本がいくつか出版しているみたい。この手のスキャンダル本は、美術評論家の瀬木慎一さんが『 日本美術事件簿 』などの本を数冊出しているし、贋作関係の本はこれまでもたくさん出ているので知っている人にとっては珍しくない話ばかりなのだろう。

僕は知らない人。贋作関係の事件がこんなに多いとは知らなかった。

贋作があるということは、それをつくった人がいるわけで、その人は真作に近いクオリティの作品を作り出すことのできる力のある人である。本を読んでいると、真作より劣ることが贋作の理由になっているものもあるが、では真作より優れている場合はどうなのだろうという疑問も沸く。本来、模写は悪いことではなく、多くの有名画家も習作として模写を描いている。それを真作と称して高く売りつけることが問題なのだとしたら、それはクオリティの問題ではなく金の問題である。

贋作者は描いた絵を自分のオリジナル作品だといわず、わざわざ他人の作品だと言うわけで、近年の「パクリ」騒動とは逆のベクトルが働いているわ。作品のオリジナルリティについて、贋作者は自己主張しない。このあたりが興味深い。

工房を持っている画家が弟子たちと共同で作った作品はどうか? そのあたりは、この本ではあまり言及されていない。漫画家・本宮ひろ志さんのようにキャラクターの目以外をアシスタントに描かせて、最後に自分のサインを入れたような作品はどうなるのだろう…。

投機の対象として、もしくはコレクターとして絵を集める趣味がないので、この手の事件がどれだけ数多く存在しても僕のような貧乏人にはいずれにせよ関係のない話だ。もしも美術館で見た絵が贋作だったとしても、(少なくとも僕にとっては)少々がっかりする程度の話である。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 22:33

2007年01月29日

有隣堂=クトゥルー=休刊=5cm=亀田

次にくるのはエロゲの世界進出だと思う今日この頃。

無料漫画誌の『コミック・ガンボ』を探したけど見つからず。あれって、週刊誌らしいけど毎週毎週ちゃんと手にすることができる人っているんだろうか? 無料誌って実はそこが難点だと思うんだな。何回かもらい損ねるといつしか読む意欲が薄くなるから。ワニブックスから出る『コミックヨシモト』は有料らしいが、『コミックSPA!EXTRA』同様に、狙いを外して苦しむことになるのだろうか。

フリーペーパーといえば、新宿の有隣堂も潰れてた。早稲田文学を貰うためだけに通ってたのに…あ、だから潰れたのか。

久しぶりにTSUTAYAに行ったら、テクノコーナーでTALIのアルバムを発見。しかも2004年に入荷と書いてある。その場所は過去に何度もチェックしたが、その時には置いてなかった。きっと別の場所で埋もれていたものを、知ってる店員さんが見つけて移し替えたのだろう。ありがたい。

(買った本など)
橋爪大三郎『はじめての構造主義』(講談社)
大江秀房『科学史から消された女性たち』(講談社)

『科学史から消された女性たち』は古本屋で発見。新古品を超安価で購入した。嬉しい。

〈史上最小のクトゥルー神話賞〉公募のお知らせ

『クトゥルー神話事典』(学習研究社)でもお馴染みの東雅夫さんが音頭をとっているらしい。なかなか素敵な企画。

広がる余波! 鳥越編集長の目から考える

一人の記者が辞表を提出する事態に発展した。なんか方向がズレて…。

現代位相研究所って何ぞや?

宮台真司さんがやっている思想塾の母体が公式サイトを立ち上げた。興味深かったのは、受講料 なるところ。

…家庭教師じゃないよね?

日刊ゲンダイ Dailymailが休刊

愛読メールマガジンがまた一つ消えた。いつも見出しだけはチェックしてただけに残念。

ものすごく楽しみなモノクロアニメ

アメリカ産らしい。今かなり気になっている。漫画の方を先にamazonで買おうとも思っているのだが、日本公開されればおそらくジャイブとか小学館プロダクションあたりが日本語訳で出してくれるだろうという甘い期待もある。無理だったらそのまま買うか。

「秒速5センチメートル」が完成したそうで

今回はSFじゃないらしいので、かなり楽しみです。

ルー大柴「自然を大切に」

コメント欄にしょこたんが!

記憶ではなく、記録を狙う亀田興毅選手

現役チャンピオンが階級を上げたときは普通1位になるのです(徳山は3位でしたけど…)。1位だからすぐに指名試合が行えるのだけど、亀田選手はそれをしない。理由は簡単だ、パーラもポンサクレックも強いからだ。だからこそ彼は過酷な減量に耐えてまでライトフライ級へ転向し、世界チャンピオンになった。

チャンピオンという記録を残した後で、指名試合を受ける前に王座を返上、再びライト級へ転向した。次の展開は読めている。モチベーションの下がりまくりのパーラの引退を待って、空位を狙う。それまではチョボチョボと試合をこなしながら時期を待つ。彼は若い。だから、ポンサクレックが引退するまでチョボチョボやることだって可能だ。

そういう意味では、彼は実力も運も兼ね備えていると思う。強い相手に勝つことが目的ではなく、チャンピオンになることを目的としているのだから、この戦いかたはとても正しいのだ。松井の全打席で敬遠した明徳義塾と同じくらい正しい。

だが、お願いだから辰吉と同じにしないでもらいたい。辰吉は強い相手と戦った。だから不細工な試合もたくさんしたのだ。シリモンコン戦は僕と同じ世代の人間の脳裏に今も焼きついていることだろう。強い相手を倒してこそ僕らは心を打たれるのだ。目の前に最強王者のポンサクレックがいるのに、しかも1位なのに…だから亀田選手はどうか、アマチュア選手のようにまっすぐに記録を狙ってください。

ぶふぉふぉっふぉん

新しい検索上位の方法(…かどうかはわからないが)として、登録の少ない言葉(打ち間違い、誤変換の言葉などを含む)をひたすら更新していってはどうかと思う。

Posted by Syun Osawa at 22:35

2007年01月28日

近代美術事件簿

瀬木慎一/2004年/二玄社/四六

近代美術事件簿事件簿シリーズの第三弾。今回は日本の近代美術に焦点が当てられているので、でっかい話は少なく、誰と誰が喧嘩して誰と誰が団体をつくったいうマニアックな話が多かった。

洋画の黒田清輝、日本画の横山大観を中心にした明治から昭和にかけての画壇の権力闘争は相変わらず面白い。権力に対してむき出しな感情が暴力的でわかりやすい。近年になるほど画壇内の権力争いなどは高度化して、素人には見えなくなり、結果として権威も失われ、業界自体の活気が失われてゆく。何でもそうだが、新しいものが常に古いものを駆逐していかなければ新陳代謝は起こらないんだろうな。残念ながら。

近代美術のネタとしては第二次世界大戦時の話は切り離せない。なかでも戦争画ネタは書き手の思想がBTB溶液のごとくサッと色分けしてくれるので便利だ。瀬木さんの立ち居地は僕自身の感覚にも近く、内容的にも納得のいくものだった。藤田嗣治の戦争画に対する評価も厭戦的かどうかで判断していない。彼の作品自体はそれほど評価していない様子だが。

この本の中で一番勉強になったのは、1950年代以降の美術の話。一応美術に関連した事件は起こっているらしく、それなりに楽しく読んだものの、どれも些細な事件に映る。赤瀬川原平さんの偽札裁判にしたってマスコミが騒いでいるほど大きな事件には思えない。どちらかといえば、サルマーン・ルシュディー『悪魔の詩』の翻訳をした筑波大助教授・五十嵐一さんが殺害された事件などのほうが、読売アンデパンダン展時代に暴れていた人よりもよっぽど反骨って感じがするくらいで。

あとは、ゼロ年代について完全にスルーしてたのが惜しまれる。

椹木野衣さんの評論活動などは、瀬木さんが書いたような戦後美術の矮小化を一新するための新しい活動と捉えられている印象があるので、本の中でちょっと触れてほしかった(森村泰昌さんの名前は挙がっていたが)。というのも、日本のサブカルやオタク文化と接続したゼロ世代の現代美術家(村上隆、奈良美智、束芋など)は、旧弊した日本美術号の最終電車にギリギリ乗ったというイメージが消えないからだ。戦後日本が蓄えてきた「オタク」や「かわいい」を使った美術の消費こそが日本の戦後美術の歳末バーゲンセールなのだと僕は考えている。そして、そこから先が本当のゼロ世代なのだ思うのだ。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 20:49

2007年01月27日

西洋美術事件簿

瀬木慎一/2003年/二玄社/四六

西洋美術事件簿日本美術事件簿 』に続く、事件簿シリーズの第二弾。西洋美術史もこういうゴシップネタから読み解くと学ぶ意欲が沸いてくる。いつの時代にも芸術などという不埒なものに熱中するヤツがいて、そのことがたまらなく愛しかったりするからだ。

一番心をひかれたのは戦争に関する話(やっぱりか)。ゴヤの《マドリッド 1808年5月3日》のように抵抗の意思表示として示された絵もあれば、ダヴィッドやナチス絵画のように大きな物語を補強する役割を担った絵もある。ほかにも、故国をもたない悲しみが染み出したユダヤ人シャガールの《白い磔刑》など描かれる絵の方向性は様々だ。

画家が戦争を描くということうことは、何も厭戦的である必要はない(当然)。戦争を描いているという自覚さえあればよく、最も重要なことは画家の眼に何が映っているか、そしてそこで感じたものをどのように絵にしたかなのだと思う。それらのベクトルを少しずつ拾い集め、一つの世界に重ね合わせたとき何かが見えてくるのか、それとも見えてこないのか。気になるのはそのあたりだったりする。

現在の問題。芸術においても世界の中心となったアメリカについて以下のように書かれている。

かつてのニュー・ディール的な要素を一掃し、根本的な方向転換を図ったこの国の、ポスト資本主義文化の特徴は、一方における抽象主義への徹底と、その対極における具象主義の進展と二分化し、新規な様式は次々に派生するが、相互に交差することのない基盤に、脱イデオロギーという眼に見えない共通項を通低させている。

納得。アメリカに追随する日本は完全にこの蛸壺にハマっているように思うのは僕だけではないはずだ。もちろんゼロ年代の芸術も含めて。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 23:49

2007年01月26日

日本美術事件簿

瀬木慎一/2001年/二玄社/四六

日本美術事件簿恥ずかしながら作者の名前を「事件簿」シリーズでしか知らなかったんだけど、どうやら昔から美術界で活躍している偉い人らしい。

この本を読んで、新たに知ったことをいくつか。

まず、天皇の肖像画について。「徳川幕府の崩壊とともに長い空白期間を経て復権した天皇という存在の珍しさから、絵画に写真にと描写されることが多く、政府もまた、それを一種の宣揚の意味もあって歓迎した。」とある。聖徳記念絵画館 へ行ったときには、天皇の顔が意図的に隠されているものと堂々と描かれているものがあった。描いたほうがよいのか、描かないほうがよいのか、それはどちらの方がより「権威的な表現か」ということに依存していたように思う。

ほかにも、竹久夢二をはじめとする数多くの画家を手玉にとったお葉の話や前衛画家から戦争記録画家へ転向したといわれる福沢一郎の話など興味深いものがいろいろあった。美術の歴史はこういう猥雑な話で勉強するのが一番面白いな。

ところで…。

以前、小谷野敦さんがブログの中で盗作画家として話題になった和田義彦さんと本書の作者である瀬木慎一さんの関係について触れられていたことがあった。瀬木さんはそうした怪しい画家の態度をどのように見つめているのだろうか? 本書に古瀬戸の偽物「永仁の壺」で疑惑の渦中にあった唐九郎(と、魯山人)の章を以下のような言葉で終えている。

職人が職人を超えようとして超えきれず、先輩の魯山人についに勝ちえなかった悲劇、という思いが強く残る。しかし、世間は不思議なもので、この事件をきっかけとして彼の技術についての評価が逆に高まって、ついに芸術院会員にも何にもなれなかったが、その晩期には「名匠」のタイトルが冠せられるに至ったことは、周知のとおりである。それがかならずしも不名誉とは私には思われない。

僕も思わない。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 22:57

2007年01月25日

敗北の文学

宮本顕治/1929年/『近代日本の名著 7』(徳間書店)に収録

小プチブル(死語とかそういう問題じゃないなw)から抜け出せず自殺に至った芥川龍之介の文学を「敗北の文学」と言ってしまう潔さ。東浩紀さんの「ソルジェニーツィン試論」並みのサッパリとした印象は何だろうか? 若きインテリの瑞々しい感性か? 違う。なんか変なのだ。あんまり愛を感じないのだな。

何でも高校時代に文芸同人誌『白亜紀』を発行していた経緯があり、賞金の魅力も手伝って評論を書いてみることにしたらしいのだ。ただし本人は、この頃には文学よりも政治運動に熱中していたらしい。だから、芥川の文学に対して共感しながらも、アッサリとこう言ってのける。

私は、マルクス・レーニン主義の理論的正しさを信じていた。大衆組織には参加していたがまたプロレタリア前衛として全生活を革命運動に投げ込むには至っていなかった。自分に世俗的な希望を大きくつないでいる貧乏な両親のことが浮かぶときには、やはり重苦しい気分だった。晩年の芥川龍之介の語りかけた社会的生活的陰影の中には、中流、下層市民層に育ったインテリゲンチャに共通の敏感な苦悩が感じられた。彼は文学的なレトリックをある抑制を持って語っている。しかし、その本質は自分たち若者たちの当面している問題とつながっていることを感じないわけにはゆかなかった。ただ芥川は、肉体的にも精神的にも、その苦悩を生き抜くことで克服することができなかった。

そして、あえて厳しい。

我々はいかなるときも芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。我々は我々を逞しくするために氏の文学の敗北的行程を究明してきたのではないか。
「敗北の文学」を――そしてその階級的土壌を我々は踏みこえてゆかなければならない。

戦後まもなくして宮本は「『敗北の文学』を書いたころ」(『エッセイの贈りもの1』岩波書店)を書いた。軍国主義が敗れ、戦後民主主義がスタートした頃の文章で、自身の政治運動に対する強い信念と自信が感じ取れる。

「敗北の文学」に書いたこのむすびの言葉は実現されただろうかと私は自問した。そして数年間の革命運動の試練を経たこのときたんに注意としての方向にとどまらず、実践的感情としてためらいなくそれを肯定できると思った。

しかし、彼の政治運動は実らなかった。敗れたといっていい。だからこそ今、当時の彼のように政治運動に夢と希望を抱いている若者がいるとするならば、『敗北の「敗北の文学」』を書き、宮本を批判することでこれを乗り越えていくべきなのだ。それが敗れれば、『敗北の「敗北の「敗北の文学」」』を書けばよい。僕は、左翼は歴史に対して自虐的(自虐史観、受け)なのではなく、運動に対して自虐的な人たち(攻め)を指すのだと思っているし、その構造は右翼と同じであり、どちらもロマンティックなものなのだと思っている。残念なことに、僕にはそのロマンティックはないのだが。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 22:09

2007年01月24日

地球館&シアター360

常設展/国立科学博物館

THEATER 360お目当てはただ一つ。12月21日にオープンした シアター360 だ。特別展として開催されているエジプト展に長蛇の列ができていたが、余裕でパス。

とにかくシアター360が凄いのだ。

遊園地の客席が動く映像アトラクションだったり、ディズニーランドの360度スクリーンやネズミが客席を走り回る3Dメガネを着用する立体映像の劇場なども凄いと思ったが、シアター360はこれまでに経験したことのない映像世界だった。

シアター360のスクリーンは全方位にスクリーンがある。つまり球体型スクリーンを中心部分から見ているような格好だ。そのため本当に3Dの世界に入り込んだような気分になり、3D映像の中を飛んでいるような錯覚に陥る。下を向けば地面があり上を向けば空、周りを見渡せばそこには3Dで作られた空間が広がっており、キャラクターが自分と同じ目線で動いている。これで物語性のある映像作品つくって、正月上映とかしてくれたら必ず見に行くよ。普通のアニメとかもやってほしい(無理かな?)。

シアター360の映像体験で、僕は初めて3Dが2Dの映像を超えたことを理解した。逆に言えば、平面のテレビ画面で見ている限りは2Dも3Dもそれほど差はない。ファイナルファンタジーの世界がどれだけ精巧に3Dで描かれていても、所詮は画面の向こうの世界に過ぎないからだ。

地球館のほうもがんばってる。小学校の頃、京都にある青少年科学センターが好きで何度も何度も通っていたが、ここのは段違いに金がかかってる。東京の子どもは恵まれ過ぎ。

売店で国立科学博物館から出ている出版物をチェック。

子供向け科学漫画冊子『科学へー!』というのが出ていた。編集協力に小学館クリエイティブの文字を見つける。理科と漫画の相性は悪くなく、市販雑誌でも学研から同類の雑誌が出ており、今後の展開に若干の期待感あり。ネットにもほとんど情報が上がっていないが、定期購読とかできるのだろうか…。

Posted by Syun Osawa at 22:01

2007年01月23日

天の夕顔

中河与一/1954年/新潮社/文庫

天の夕顔なぜに中河与一? …って感じですが。

何でもこの作品、戦前から戦中にかけて42万部を売ったらしい。その時期のロマン主義的な文脈と保守の美意識を反映しているのだろうか…。うーむ。

話はいたってシンプル。ある文武両道に秀でた学生(理系)が、夫と子どものいる7歳上の女性に恋する話。相手の女性もこの学生に思いを寄せるが二人は一線を越えないまま、いつしか縁遠くなってしまった。それでも男はこの女性を愛し続ける。そして40歳を越えた頃には彼女を忘れるべく山にこもるが、彼女への愛は強まるばかりだった。

彼女が47歳になった頃、あと一度だけ会いたいと決意した男は彼女の元へ。戸惑いながら出迎えた彼女は「五年たったら、おいでになっても、ようございますわ」とおあずけして(そのとき、あんた52歳やで…)別れる。そして五年目を迎える前日、彼女は息を引き取ってしまうのだ。絵に書いたような悲劇…なのかどうかはわからんが、ともかくこの話が大衆の心を掴んだらしい。

両想いなのに結ばれないのから悲劇なのか、それともただ純粋に一人の女性を愛し続ける男の姿が悲劇なのか、後者なら小谷野敦さんの「 悲望 」の方が強いインパクトを受けるのだが、おそらく前者なのだろう。

最近、中河与一をはじめとする新感覚派あたりが気になりはじめ、戦前の文芸誌『新科学的文藝』も含めたところに歴史がグルグルとらせん状に繰り返し続けている様を感じたいと思う今日この頃。

Posted by Syun Osawa at 23:08

2007年01月22日

ロシア国立ボルコフ記念劇場「熊」「結婚申込」

2006年12月13日−23日/ロシア国立ボルコフ記念劇場/東京芸術劇場

ボルコフ記念劇場演劇を見るのなんて数年前の東京乾電池以来じゃないだろうか? しかも字幕のコメディ。

字幕のコメディで笑えるのか? しかもチェーホフの古典である「熊」と「結婚申込」で? 「熊」はまずまず。「結婚申込」はベタな展開がわかりやすく楽しかった。

日本でロシアの劇団が公演すると、決まってチェーホフが題材になるし、文学といえばトルストイ、ゴーリキー、プーシキン、ドストエフスキーなどを中心にされてしまう。ロシアからやってきた演者たちはそのあたりどう思っているのだろうか? 結構楽しんでやっているのか、それとも商売だからやっているのか。

それにしてもロシアの演劇は、金と女の絡んだドロドロとしたした話が多いのかなぁ。しかもすぐに銃とか持ち出して、ぶっ放すとか血の気が多い。古典だからという言い訳はさておき、そのあたりの野蛮性(文学者が酒場の決闘で死ぬとかさ)がアンナ・ポリトコフスカヤやリトビネンコの暗殺にもつながるのかなぁと思いながら笑っていた。

一つだけ謎だったのは「結婚申込」の訳がなぜか日本の方言風だったこと。少し前の話になるが、海外作品に登場する田舎者の口調として、日本の方言を使用するのは問題があると書かれた本を読んだことがある(タイトル失念)。田舎を表現するのに有効なのかもしれないが、博多のような東北のような無国籍ならぬ無地方な方言を訳として用いるのはどうなんだろう? それが面白さを倍化させるかどうかは正直微妙なところだ。

Posted by Syun Osawa at 22:45

2007年01月21日

本田透=今年一番のショートフィルム=さっき知ったこと

本田透トークショーいつものごとく「集まれ昌鹿野編集部」第42回を聴いていたら、エロゲに出演している声優さんのペーんネームのことが話題になっていた。その中で、パーソナリティーの小野坂さんが内輪(声優仲間の間)ではしょっちゅうこの手の話はすると言っていた。それが羨ましい。NHK教育の子ども番組に出演しているアシスタントのお姉さんが、現役の時が一番遊んでいたとぶっちゃけたときくらいグッときてしまった。詳しくは syn blog ヘ。

てなわけで、ネットテレビ&ネットラジオがばっかの日々。

午後ギャオ でネットアニメの特集やっていて、しかも「ネットアニメの歴史」というよくできたVTR付き! 歴史修正主義は大歓迎ですよ。なぜなら、芸術とは常に修正的なものなのだから。つかアシスタントの二人は、真ん中の岡田斗司夫さんがもっとでかいスケールでインディーズアニメ作ってたことなんて知らないんだろうなぁ;;

日曜日、青山ブックセンターでやっていた「本田透トークショー」へ。集英社スーパーダッシュ文庫の丸宝編集長のトークがよかった。あと本田透さんが書いた『喪男の哲学史』(講談社)がなかなか面白そうだった。

(買った本など)
森毅『魔術から数学へ』(講談社)
末木文美士『日本仏教史』(新潮社)
ヨシトミヤスオ 編『マンガで世界が見えてくる』(淡交社)

ロッキングオンジャパン事件と探偵小説研究会

すごい古い話を蒸し返してファンの人には申し訳ない。ベンジーがロッキングオン・ジャパンの編集長との間で起こした事件(詳しくは Wikiの浅井健一 を参照)について。この事件の発端となったディスクレビューを書いたのは遠藤利明さん。この人が 探偵小説研究会員 の円堂都司昭さんだったということをさっき知った。まぁ…それだけですけどね;;

シュールな3Dアニメ「La Marche Des Sans-Nom」

by L. Vigroux, N. Laverdure and J. Constantial

3D Total より。今年見たショートフィルムの中では今のところこれがベスト。全体主義が支配する荒廃した戦場の地で、笑みを浮かべ踊る仮面の男。恐怖の対象である軍隊をも超越する彼にとって、この世界は一つのショーに過ぎなかった。シュールレアリスムな匂いも感じさせつつ、遠近を強調させ世界を縦横無尽に動かす演出が素晴らしい。ファンタジーにはこういう深みもあったんだなぁ。

カラスとフクロウが暗示するものは?

3D Total より。EMMANUEL HOによる「THE OWL」という作品。闇の中のカラスが光を求めて必死で飛んでいる。だがカラスの足には一本の紐でつながれており、光へたどり着くことはかなわない。同じ闇の中。自由に羽ばたくことのできるふくろうは、光の方を向くでもなく、ただじっともがくカラスを見つめている。ふくろうの目に映るものは怨念か、それとも諦念か。FLASHでも作れそう。演出が素晴らしいですな。

日本を愛した「レミー・ラ・ポエーム」パイロット映像

日本で漫画家として活躍していたクリストフ・クリタさん(僕は知りませんでした…)が自主制作アニメのパイロット映像を公開している。日本の大学のアニメ研究会進化系って感じの映像にアニオタ心を激しく揺さぶられてしまった。

BUNGLE IN THE JUNGLE

3D Total より。3Dアニメは人形アニメの進化系として考えるか、セルアニメの進化系として考えるかで考え方が分かれそう。海外は完全に人形アニメ、クレイアニメの進化系と考えているらしく、ディズニーもアニメーターを解雇したりしながら3Dアニメにシフトさせている。つまり、国際的な視野で3Dアニメというと人形アニメ系を指すのかもしれない。この作品もその系譜にがっちりのっている。しかも子供向けの見ていて楽しいアニメ。芸術的な観点から見れば、画面は平面であるのに作品制作の現場では立体的な地平から逃れられないことになるわけだ。

日刊デジクリで青池さんの連載が始まった

第一回は「着想について考える」です。ようするにコンテンツの企画についての話で、おちまさとさんの 既成概念を疑え。 というエントリで、CGを中心としたデジタルコンテンツについて語っていて、納得しまくりです。まったくその通り。僕も昼間にスーツ着て仕事しているときはそう言うんです。でもね…と続けてしまうところに僕の場合は、病気があるのかもしれないけど;;

Expression Studioの検討を開始することに

とにかく安い。会社ではAbobeだが、家で使うのはExpressionでもいいかなぁ…などと日和見なことを思っている今日この頃。データの互換性がキープできるかを含めて検討する価値があるかもしれない。公式サイト を見る限り、それほど重要な扱いでないところが気がかりではある。

書店の大型化ほど恐ろしいものはない

大型書店が倒産したとき、もしくは撤退したとき、その地域に住んでいる人はどうやって本屋でぶらぶらと本と戯れるのか。大型店は要らぬ。中型店があればよい…のだけど、中型店の維持が一番難しいのだろうな。

さよならマルクス

内田樹さんのブログに対して 池田信夫さんの反論。教育は難しいのう。

ロック検定…結局みんな発想は同じで

オタク検定、マンガ検定…などなど、なんでこれほど「検定」がもてはやされるかというと、金になるからに他ならない。その元祖が英語検定になるのかな? これも旺文社の金儲け。過去問題、予想問題を軸にした教本が売れるのだ。

2ちゃんの話

話題になってますな。難しいことはわからないが、最初は正しくても、理屈は正しくても、ものごとは常に変化し、惰性になり腐敗していくと考えている。そして、それを官僚機構や企業などに限った話にせず、誰に対しても(もちろん僕自身にも)当てはまる問題だと認識することが大事。。

私の個人主義

漱石じゃないよ。途中で断念。後編へ続く

Posted by Syun Osawa at 23:32

2007年01月20日

なんとなく、リベラル(『文学界』2007年2月号)

小谷野敦/2007年/文藝春秋/A5

文学界 2007年2月号小谷野敦さんが「 悲望 」に続いて、再び小説を書いたというので読んだ。前回が自身のストーカー体験を赤裸々に語った高偏差値キモ小説だっただけに、今回はその続編かと期待したのだけど、今回はアカデミズムな人たちに対する当てこすり(?)のような小説だった。

とくに左翼系(共産党系?)の学者たちに向けての眼光が鋭い。タイトルのネタ元同様に多い注釈と平行して進行する「なんとなく、リベラル」な登場人物たちの像が、実際にいるかもしれない学者たちの本音の部分をついているように感じられるから不思議だ。

例えば、『戦争がつくる女性像』などでお馴染みのジェンダー学者・高桑みどりさん(小説の登場人物)が紫綬褒章をもらったことなどがサラッと書かれていて笑った。はてなの「若桑みどり」の項目を調べたら、紫綬褒章のくだりは小谷野敦さんが最後に編集していたことも判明。こうしたネットと小説の両刀使いっぷりもいい。

また、かつて左翼と言われていた人が国から賞をもらっていて、右翼と言われていた人がもらっていないという話も頷ける。快活でやんちゃなイメージの左翼な人を大人しくするには紫綬褒章とか与えておけばよいという国家戦略だとしたら、それに乗るのはあまりにもお粗末な話だから。そして、そんなお粗末な戦略であっても人間は権力の欲望を抑えることができないのだとしたら、右とか左とかいうものは、結局のところ登山で例えるなら「山頂までの道」Aコース、Bコースくらいの違いしかないのかもしれない。弱者の代表ではなくなってしまった後も、昔から少しも変わっていない自分を頭に描いているから、全共闘世代は面倒くさいのだと思う。あ…話がそれた。

ただ、こういう人(なんとなく、社会に問題意識のある人)がいま、大学教員の中にどれほどいるのだろうか? どっちでもない人(どっちでもいい人か)の方が圧倒的に多いのではないだろうか? そう考えるとこの物語に登場する人たちを、リベラルな学者が「なんとなく、リベラル」な学者に日和ったと見るのか、社会問題に無関心な学者が多い中で「なんとなく」でもリベラルな姿勢を貫こうと頑張っている学者と見るかで評価は変わるのだと思う。

とはいえ、岡山の大学を辞め、『エロイカ』などで嫌味な文章を書きちらかしている菰田から見れば、どちらでも同じとなるのかもしれない。そして、面白いことにワーキングプアな僕にも同じに見えるのだ。「なんとなく、リベラル」な学者の言葉がフリーターやニートたちに届かない理由はこのあたりにあるのだろうか。

Posted by Syun Osawa at 16:36

2007年01月19日

Amazing Nuts!

Amazing Nuts!買おうと思ってたら、GyaOで無料放送していた。ありがたいんだけど、それでいいのか?

プロのアニメーターたちは、限られた予算と限られた期間の中で仕事をしなければいけない。しかもタイアップの曲が先行してあって、それにアニメーションをつけなければいけない。たとえその曲を少しも愛せなかったとしても、一流の映像を重ねるのがアニメーターの仕事なのだ。そういう諸々を含めて、プロの大変さを感じた作品群だった。

ちなみに最近(でもないが…)見たPV系の中では、『エウレカセブン』のエンディングを担当していた鈴木典光さんの演出がダントツで好きだったりする。

グローバルアストロライナー号

by 中山大輔 (曲:m-flo Q DOPING PANDA「she loves the CREAM」)

後半の畳み掛けてゆく疾走感が良かった。テレビアニメのオープニングのようなつくり。孤独なゴリラ的風貌の宇宙刑事が街の悪童たちを退治する。こういう設定とかキャラクターとか好きだけど、PleymoとかGorillazあたりのジャパニメーション解釈を、咀嚼して逆輸入した感じがちょっと寂しかったりもする。例えそれがStudio4℃の色だとしても、影響を与える側の強度が欲しいのだ。

たとえ君が世界中の敵になっても

by 青木康浩 (曲:倖田來未「Twinkle」)

カンフーを使う女子高生(?)が大阪・心斎橋、京都・大文字山近くの寺(どこ?)、東京・歌舞伎町などで戦う。Studio4℃っぽいシンプルな線で描かれるキャラクターや動きは好き。ただ、ほのぼのした歌なんだから、お前らもっと仲良くしろよ。

GLASS EYE

by 山下卓 (曲:Ram Rider「Glass Eye」)

曲的には一番好き。セルシェードの3Dアニメ。都会で漂う「壊れモノ」としての少女。隣にいる大切な人とも上手く繋がれず、薬が破滅への欲望を誘う。倦怠感を伴った生き難さが支配する世界で、小指が少しのきっかけを与えてくれた。何をか言わんやって感じのメタ風味。セルシェードな映像も嫌いじゃない。

ジョーとマリリン

by 4゜F (曲:mink「Here By My Side(original)」)

3Dのキャラクターで作られた歌手がメルヘンチックな舞台装置の中で歌うというもの。浪々と歌い上げるタイプの曲に合わせてリップシンク(歌と口の動きの同期)するという果敢な挑戦が見どころか。それが成功しているかどうかは判断の分かれるところかな?

Posted by Syun Osawa at 00:03

2007年01月17日

マンガでわかる 微分・積分

原作:小島寛之/作画:十神真/2005年/オーム社/B5変型

マンガでわかる 微分・積分算数の発想 』の小島寛之さんが原作をつとめた教育マンガ。オーム社の「マンガでわかる」シリーズは好評なのか点数が多い。本屋でペラペラと立ち読んでみたところ、この本が一番「教育マンガ」としての志が高かったように思ったので読んでみることにした。

最近、教育マンガとか『 ねこでもわかる数学 』のような本を読み始めているのは、理科や数学といったものとマンガ的なものを重ね合わせる面白さに興味があるからだ。大人向けのものとしては柳田理科雄さんの本やト学会のものなどエンターテイメントしているものはいくつか見られるが、もう少し教材寄りのものになるととたんにエンターテイメントとしては楽しめる作品に出会うことが難しくなる。

何故か?

本を読む目的が違うから(当たり前の話か…)。この本は教育マンガの中では孤軍奮闘、頑張っている。ただし、微分・積分を知らない人がこのマンガを読んだだけで理解できるという人はそう多くないだろう。そして、もしこのマンガを読んだだけで微積が理解できるのなら、おそらくどの数学の教科書を読んでも理解できてしまうに違いない。なぜなら微積の解説書としては教科書の方がより丁寧に書かれているからだ。

そんなわかりきった結論があっても、副教材としての教育マンガやそれに類するものに惹かれるのは、そこに未開の大地が広がっているかもしれないというかすかな期待感があるからだ。それは石ノ森章太郎『マンガ日本経済入門』や『マンガ日本の歴史』だったり、青木雄二『ナニワ金融道』などを見据えてのことでもある。

それでも数学は難しいかな。数学は「知識詰め込み系」ではないので、理系科目なら理科の方が向いているのかもしれない。そのあたりは和田秀樹『数学は暗記だ!』(ブックマン社)を読んでから考えよう。

Posted by Syun Osawa at 21:43

ベルギー王立美術館展

2006年9月12日−12月10日/国立西洋美術館

ベルギー王立美術館展ブリューゲルの《イカロスの墜落》が日本にやって来た。その楽しみだけで国立西洋美術館へ行ったのに、解説書には「父?」と書いてある。父親とは断定できないという事らしい。

そういえば『 ブリューゲル 』(キース・ロバーツ/西村書店)にもそんなことが書かれてあったか。結局ベルギー王立美術館はブリューゲルの絵について父親が描いたと確定した作品は一枚も日本へ渡さなかったわけだ。はぁ。

とはいえ、フランドル絵画の一群が小品ながらもいくつか来ていた。フランドル絵画には日本のキャラクターに通じる観念があって、それが寓意(アレゴリー)なんかも含めて日本人の肌にあう。少なくとも僕の肌にはシックリきていて、キャラクター絵画として見れば、マンガ&アニメ的な絵とも地続きだということも確信した。例えば、小品として出品されていた数多くの風景画は、ジブリのアートボードと言われても不思議ではない感覚があった。

展示会全体としてはまずまず。ルーベンスの作品が数多く見れたのは収穫かな。あとはヤーコブ・ヨルダーンスの絵がどれも表情が誇張されていて魅力的だったことと、ベルギー象徴主義のフェルナン・クノップフの絵が怪しげな空気を漂わせてたことか。

Posted by Syun Osawa at 00:01

2007年01月15日

鳥越編集長=ホワイトカラーエグゼ=ボノロン

秋月耀次郎

どうなんだ『幕末機関説いろはにほへと』は? リアルタイムで追っている作品はコレしかないので、面白くなってほしいなぁ。『月面兎兵器ミーナ』はパス。

フジテレビの深夜番組『僕らの音楽』でOASISが「Don't Look Back In Anger」を歌っていた。なんかー凄いノスタルジーを感じてしまった。いい曲だよなぁ…。歳とったなぁ(僕もか)。

(買った本など)
真崎守『共犯幻想』(全3巻/ブロンズ社)
木田元『ハイデガーの思想』(岩波書店)
木村元彦『悪者見参』(集英社)
佐々木豊文『速読の科学』(光文社)
野矢茂樹『論理トレーニング101題』(産業図書)
『NATIONAL GEOGRAPHIC 2006年5月号』(日経NG社)

フランス産ショートアニメ「dynamo」

by Fabrice Le Nezet & Matthieu Goutte & Benjamin Mousque!

くず鉄の球体で働く二人の男。一人が球体の中からくず鉄を拾い上げ小さく丸める。それをもう一人の男が球体外へ送り出す。この動きによって球体が回転するのだが、球体の位置によって世界が明るくなったり暗くなったりする。くず鉄が残り少なくなり、世界が闇に包まれる。二人がふと上を見上げるとそこに一本のロープが垂れ下がっていた。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のような展開かと思ったら、最後に意外(でもないか?)な展開を見せる。

キャラクターも可愛いし、動きも素敵だし、ストーリーの運びも良くて面白い。これを作ったのはSUPIFOCOMってアニメーターとかを育てるフランスの学校(だったと思う)の3人組。ここの学校の作品は日本のショートフィルム上映会でもたびたび登場するが、どれもこれもクオリティ高い。

可愛い3Dなのに戦争アニメ

何で可愛いキャラクターが戦争しなければならんのだ…という逆説。

オーマイニュースのゴタゴタと鳥越という人

JANJANとOhMyNewsという、市民記者によるニュースサイト同士が醜い争いを始めている。何だかなぁ。

JANJAN - 鳥越さんが辞めるらしい

OhMyNews - 事実無根で抗議文

JANJAN - 鳥越さん、しっかりしてください!

追い詰められる新風舎

今に始まった商法ではないのだが、藤原新也が取り上げたことで再びネットで話題になっている。この手のネタがあがると、それをもみ消すべく該当出版社は動いたものだが、最近はその元気もなくなっているのだろうか。共同・協力出版社が消えるのは結構。とりあえず、あの商売はなくなるべきだと思う。

ナショナルジオグラフィックチャンネル

テンプル騎士団が巡礼者の護衛ではなく宝探しをしていたとか、イエスのような立場の人間は当時たくさんいたとか、結構面白い。雑誌のほうも買っているので、最近ナショナルジオグラフィックにハマってるかも。

ウェブアニメはいかに次へつなげるかが鍵になる

作品を普通に無料公開するのではない点が興味深い。

目が悪くないのにメガネをかける人がたくさんいるぞ

舞太は? ねーねー舞太は?

ある日突然ブログの更新が止まること

例えば 世に倦む日日 とか。

つんく迷走?

永遠があるという城 より。誰に来てほしいんだろうか。

社員全員がホワイトカラーエグゼンプションの会社で働いてたことがあります

分裂勘違い君劇場より。以下の部分がとても正しい。

なぜなら、日本のほとんどの大企業に、適切な成果評価をする能力がないからです。ホワイトカラーエグゼンプションとは、労働時間によって労働の価値を評価しない制度ですから、成果によって評価するしかありません。なのに、成果の評価がろくにできないのだから、結局それは、単なる残業代カットぐらいにしか使われないでしょう。

「アフロサムライ」第1話が無料公開

アメリカで公開ってことで期待しつつも、ようするに日本アニメ。ちょっとグロい。

アニメPVの臨界点

アニメを使ったPVは、これまでより確実に「アニメPV」としての意識が高まっているように思う。音楽に映像が伴って完成しているという意味では、音楽単体の力は弱まっているのかもしれないし、そうでなくても音楽そのものの可能性(視野?)は狭くなってしまうのかもしれないが。

ボノロンが見た夢

フリーマガジンが育てるキャラクタービジネス

このプロジェクトが始まってからずいぶん経つ。原哲夫プロデュースの絵本というトンでもないコンセプトくせに長く続いている。フリーペーパーでキャラクターの知名度を上げ、キャラクタービジネスを展開する手法。

このフリーペーパーのすごいところは、原哲夫プロデュースが最も大きく出ているところ。次がキャラクターのボノロン。そして、恐ろしいことにこのキャラクターを描いている作家の名前が奥付にしか書かれていないのだ。絵を描いているのは永山ゴウさん。絵本の常識を覆す、何とも不思議なフリーペーパーだ。

そのほか、キャラクタービジネスの一端にウェブアニメ『 ポラメル 』を据えている。最初はFLASHで制作されていたが、後にWMP形式での配信になった。この不思議な展開について、ビジネスの点で興味があったのだが、いい加減どうでもよくなってきたので、年末にフリーペーパーをまとめて捨てた。

Posted by Syun Osawa at 21:49

2007年01月14日

ねこでもわかる数学

テオニ・パパス/2003年/PHP研究所/A5

ねこでもわかる数学このタイトルは違うだろ。

サブタイトルは「ペンローズの不思議な冒険」。こっちが正しい。軽いタッチのイラストと数学にまつわるショートストーリーで構成されている。数学の公式を覚えさせることが目的ではなく、数学の不思議や面白みに触れるための本。

悲しいかな作者の思いと日本の編集者の思いが噛み合っていない。売ろうとするために「ねこでもわかる」としたのだろうが、中途半端に教材チックなスタイルにしたためにとても野暮ったい本になっているように思う。装丁、レイアウト、書体、文字とイラストのバランスまで、すべてがなんかズレている。これは作家の問題というよりは編集の問題だろう。

こういう本は日本ではどれほど出ているのだろう。物語と教材の間にあるような本。教材を絡めると、どうしても教材の側に引っ張られてしまう本が多く、この本も編集の段階でそのようになってしまっている。もっと柔らかく、曖昧で、それでいて面白い本。そういうのを探している。ちなみにこの本の監修はピーター・フランクル。

Posted by Syun Osawa at 23:48

2007年01月11日

鉄コン筋クリート

監督:マイケル・アリアス/2006年/日本/新宿ミラノ

鉄コン筋クリートなーんか、旧懐というか…懐旧というか…。

映像は文句なく感銘を受けた。作画の感じが『 マインドゲーム 』を踏襲していて、Studio4℃らしさも出ている。また、マイケル・アリアスが特許をとっているらしい3Dのシェーディング形式についても、他の3Dアニメ以上に線画を念頭に置いており僕好み。映像だけでご飯何倍もいける感じ(つまり何度でも見れるってこと)の濃密さが良かった。

一方、内容について。

団塊の世代が映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に懐かしさを感じたのと同様、僕はこの作品にただならぬ懐かしさを感じたのだった。

僕はこの作品を『ビッグコミックスピリッツ』の連載として読んでいた。クラスの一人がスピリッツを定期購読しており、それを全員でまわし読みしていたのだ。漫画版『鉄コン筋クリート』で松本大洋の作品にハマり、『花男』や『青い春』などを読んだ。クラスでの人気も高かった。

その当時、『鉄コン筋クリート』を楽しんでいた僕らは二つの気持ちを共有していたように思う。一つは疎外感(孤独感と言い換えても良いかもしれないが正確でない気もする)。もう一つは、自分は欠陥品であるという思い。「私はネジが足りない」の言葉に代表される。

高校生だった僕は、そうした感覚に強烈に支配されていた。その後、アニメ『エヴァンゲリオン』のブームがやってくるのだが、その頃には僕はそうしたものを卒業してしまっていた。音楽雑誌『ロッキング・オン』も漫画雑誌『アフタヌーン』から卒業した頃とも重なる。

僕の卒業の契機はインターネットだった。

ネットの登場により、現実の社会生活を営む自分(こいつはわりと上手くやる)ともう一人の疎外感を感じている自分(駄目なヤツ)とのバランスが取れるようになったからだ。みんなもそうなのだと思っていたが、現実は違った。だから僕が卒業した感覚を維持し続けている中二病(?)な人たちと自分との間にある差異が何であるのかが知りたくて、セカイ系らしきものに若干の興味を持ったりもしている(現在進行形の興味)。

僕の『鉄コン筋クリート』には前史もある。『マイ・プライベート・アイダホ』とニルヴァーナ、そしてリヴァー・フェニックスの死だ。これらは全部一つにつながっていて、僕の人格形成に多大な影響を及ぼしてしまった。だから映画『鉄コン筋クリート』から受けた印象は懐かしさ以外の何者でもなかったのだ。

今の高校生などはどういう思いでこの映画を見るのだろうか…。お洒落なサブカル映画くらいの感じで見るならいいが、この作品がリアルタイムだった僕と同じような気持ちを抱いたとしたら、それは何だか痛々しい気もする。

PS.
声優については『 時をかける少女 』同様に、違和感もあるキャラとかあるんだけど、それはそれで…。

Posted by Syun Osawa at 21:30

2007年01月07日

戦後強制抑留絵画展

2006年11月11日−12月3日/平和記念展示資料館

戦後強制抑留絵画展新宿副都心にある住友ビルという超高層ビルで何故こんな不思議な展示会をやっているのかと思ったら、平和記念事業特別基金というのがあって、そこが平和記念展示資料館というのを開設していたからだった。シベリア抑留者については今なお未払い賃金の問題が残っている。そうした中で、こういう施設が作られており、それが誰のどういったお金によるものなのかが気になったが、不勉強のためわからなかった。

僕は 戦争と芸術 という不謹慎な気持ちのみで見に行った(いつものごとく)。大陸から日本へ引き上げてくる人達の困難だったり、シベリアに連行され強制労働を強いられた様子などを伝える展示だったので、戦争記録画とは趣が少し異なる感じ。パッとしないというと失礼だが、ロマン主義による感情の増幅を狙っているわけでもなく、かといって自然主義的リアリズムとも違う。安っぽいヒューマニズムも感じられないし、「何となくシベリア抑留の絵だな」くらいに受け止めた。描くときのモチベーションや気持ちの方向が戦争画とは異なるからかもしれない。

シベリアでの強制労働を描いた作品といえば香月泰男のシベリア・シリーズが有名だが、その当時の過酷な状況を描いている人は結構いるらしい(本もいくつか出版されている)。僕はそうした作品群が戦中に描かれた戦争記録画と地続きなのかどうかが気にかかっている。当然地続きであってほしいんだけど、戦後に当時の戦争を描いた画家がどれくらいいるのかってことを考えたら、両者の間には大きな溝があるようにも思える。

常設展の平和記念展示資料館では水木しげるさんやちばてつやさんのイラストも展示されていた。彼らは戦後に戦争漫画を描いている。その方向性は異なるが、漫画家はよく戦争を描いているなと思う。画家はどうだろうか、あまり描いてないのではないだろうか。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 23:52

2007年01月05日

いろはにほへと=年始から=アニメとか

GyaOで全6話だと思って見始めた『FLAG』に続きがあることを知り凹む。そのおかげで『 幕末機関説いろはにほへと 』に出会った。まだ4話までしか見ていないが、概ね面白い。

今年の初笑いと次点

須藤元気選手が引退を決意したきっかけが、公衆便所の「一歩前に」だったというのが、2007年の初笑いでした。その次が、とんかつ村の ウルトラマンへの突っ込み。ショックだったのは、光井愛佳という人がモーニング娘に加入してたことを知らなかったこと。久住まではなんとか知っていたので。こういうちょっとしたタイムラグが歳をとるごとに大きくなっていくんだろうなぁ…。仕方ないけど、その点については自覚的でありたい。

年に一度、服を買う日

それが1月2日。決まっている。しかもマルイw 店舗の入れ替わりが激しいため、近年はオッサンでも着れる服が著しく減っていて難儀する。悩んでも仕方ないので、いつものごとく即決で安売りのle coqのジャージとPPFMのロンTを購入。当然、福袋など買わない。

本屋巡り

『サンドマン』で有名なニール・ゲイマンの小説がワゴン平積みで売られていた。『サンドマン』は1、2巻だけ持っている(未読)。家に帰ると イリュームの最新号 が届いていた。秋葉系はA-STATION、文学は早稲田文学、南風、経済はGRAPHICATIONと、無料誌だけでお腹いっぱいに楽しめるのだ。

(買った本など)
『水声通信 2006年12月号』(水声社)
『NATIONAL GEOGRAPHIC 2007年1月号』(日経NG社)
真崎守『ジロがゆく』(朝日ソノラマ)
中上健次『オン・ザ・ボーダー』(トレヴィル)
青木茂・酒井忠康 監修『日本の近代美術1』(大月書店)

U2 "Window in the Skies"

気合の入った編集に感銘を受けた。口パクも上手に合わせてる。一つの曲を多くのミュージシャンで紡いでいるように感じられるところもよい。

easily embarrassedのシンセなダウンビート

ネット音楽最高! 家にあるCDをダンボールに詰め込むために少しずつMP3化を進めているけど、聴くのは結局ネットレーベルの曲ばかりになってしまう。この曲も尺が長めで一つの行動(例えば、夕飯作るとか)をまったりするのに最適なのである。

この曲の作者である Easily Embarrassedのサイト を探ったら、どうやら CTG を主戦場にしている人のようだ。僕の場合、彼の作るサイケっぽいダウンビート(軽いアンビエント)がストライクゾーン。

マットペイントの真髄

Photoshopを使ったシンプルな山並みの作り方がレクチャーされている。簡単に作っているが、この何気なさが以外に難しい。才能の壁を越えて、今年こそは背景画のレベルを人並みにしたい。

昆虫たちの高速バトル

以前、Youtubeに上がっていて話題になっていた3Dアニメが公式サイトで公開されている。日本で流行っていた昆虫アニメブームと絡めて、こういう演出でいけば3Dアニメとしてもハネるかも。

The Microwave

小太郎ぶろぐより。こういうのもある種のメタアニメだよな。

「アタリ」なしでイラストを描く技術

もう一つ、小太郎ブログより。すげーわ。

アイドルの声を聞くというスタンス

僕はアイドルのブログを見るのが好きである。声優のブログを見るのも好きだ。僕にとって、ブログが起こした革命の一つがこれだった。しかし、一つ括りにアイドルブログと言っても、温度差がある。

1. 本人が書き、本人が更新。
2. 本人が書き、マネージャーが校閲後、更新。
3. マネージャーが書き、本人が校閲、マネージャーが更新。
4. マネージャーが書き、更新。(さすがにこれはないか)

その真意はどこまでいってもわからない。でも、その程度の真意など、これまでの「アイドルの声」を考えれば些細な障壁である。

オタク原理主義者とは?

本当は報われたいのに報われないという悲劇。それを条件付けているかどうかでオタクとオタク原理主義者は区分される。よって、無難なオタク生活を送っていても、環境の変化によって原理主義者になることがあるのである。

ロストジェネレーションについて

局所的に話題。自分の世代のことが語られていたのでメモ。

もしも現代にあらためて「Lost Generation」をいうなら、2001年の「9・11」のときに20歳前後だった、という意味で使うべきで、国内の景気がよかったかどうかというドメスティックな尺度や、定義さえ曖昧な「失われた十年」などというマスコミ用語との語呂合わせで使うべきではない。

なるほど…でもインパクトないな。あと実感も。

当時の実感としては、「9・11」に響いた人よりも、親の会社がつぶれるかもしれないという不安感や、神戸の震災やオウム事件あたりに響いていた人のほうが圧倒的に多かったと思いますが。あとは、小中学校の頃のグランジか。 仲俣暁生さんはガガガ文庫の小学館ライトノベル大賞審査員でもありますが、40代の甘ったるい理解者みたいなのが若者にとって一番面倒くさい存在だったりもします。

「若者はなぜ3年で辞めるのか?」を読む

こちらも局所的に話題。まさに僕のことでもあるので、とても考えさせられる。言ってることはとても正しく感じられるが、実感が伴わない。年齢(特定世代に人口が偏っていると言う意味で)は関係あると思う。

日本人が質問ベタなのはそういう教育を受けてないから

講演などを聴きに行くと、最後に司会の人が観客から質問を求めることがある。こういうとき、たいてい誰も質問しないし、質問があったとしても、質問者がテンパってしまい支離滅裂になることが少なくない。これを克服するためには場数を踏むしかない。しかし、踏むべき場数がない。こういう部分を教育現場が補うべきである。ここを教育しないから、講演者にボロい商売だと思われてしまうのだ。

Posted by Syun Osawa at 23:48

2007年01月03日

算数の発想

小島寛之/2006年/日本放送出版協会/四六変型

算数の発想数学ではなく算数というのがポイントらしい。

小学校の算数で登場した鶴亀算、旅人算などの計算法は個々の問題を解くためだけに存在する。中学校に上がって方程式を覚えれば、まとめてザクザク解けてしまうわけだが、この本では独立した諸問題を解くために必要な計算法をつくり出す「算数の発想」が大事だよ、と言っている。いわゆる現場力というやつですかね(発想力か)。

たしかにそうだ。必ず答えがあり、それがどうやら方程式で解けるらしい問題を方程式で解く(頭のいい人はちゃんと考えると思うが…)というのが凡な学生が数学に取り組むときの態度。それに比べて、答えがなく、答えがあるかどうかもわからない諸問題に対処するときに、その問題を解決するための方法も含めてすべてを考えなければならない。その部分を算数から学ぼうというのだ。納得というか、当たり前というか(でも当たり前ではない)。

ただね、今の小学生は旅人算も鶴亀算もやってないんじゃないかなぁw それはさておき、最近は大人が読む小中高の理系本に興味が湧いている。僕は世界一ポップで可愛い理科教材(もしくは数学教材)を同人誌でつくってやろうと目論んでいるので、そういう甘っちょろい夢を見ながらしばらくこの手の本を読んでみようと決意するのであった。

Posted by Syun Osawa at 23:26

2007年01月01日

鎌倉&江ノ島めぐり

北鎌倉で下車し、建長寺、鶴岡八幡宮を歩く。江ノ電の「のりおりくん」なる一日乗車券を使ってに乗って成就院、鎌倉大仏、長谷寺を巡る。そして、最後に江ノ島へ。一日で行き過ぎの感があるなぁ。しかも東京へ戻ってから、新宿で2時間ほど過ごしてるし。まだまだ若いわ。

鎌倉&江ノ島

建長寺で売っていたTシャツに一目惚れ。一番の収穫だった。

Posted by Syun Osawa at 21:21