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2007年05月29日

勇利=劣化コピー=ケイテェ=4コマ漫画ジェネレーター

最近はyoutubeで勇利アルバチャコフの映像ばかり見ている。華麗なステップワークから展開される美しいボクシング。冷徹な試合運び。本当に大好きなボクサーだ。精密機械と呼ばれた彼は名言を残している。

ロボットは完璧にはなれない。人間だからこそ、完璧になることができるんだ。なぜなら、人間には理想を求める意思がある。憧れを抱くべき対象がある。しかし、ロボットにそれがあるだろうか。
結果も大事だが、それ以上に大切なのは経過だと思ってほしい。すなわち自らを開発すること。それを休まずにやり続けることによって、一歩でも完璧に近づくことができるんだ。

東浩紀 meets 善良な市民?

あずまんの劣化コピーをこれ以上増殖させてはいけないと、同人誌『PLANETS』の編集人が立ち上がる。まさに並行宇宙の世界ですな。

『文学界』に掲載されていた小谷野敦さんの連載が終了

で、さらなる 佐藤優 批判。岩波から『ロシアアヴァンギャルド』を出していた亀山郁夫さんが東京外語大学長になったらしい。

ブックファースト渋谷店が閉店するらしい

マジか? 最近、渋谷の本屋に全然行ってないのであの界隈のことはよくわからんが、大手が進出して中小書店を駆逐し、その後撤退するという流れは都会のど真ん中でも起こったりするのね。

ケイテェ・ホームズのビデオが見たい

ヤバげな 公式サイト も含め、展開としては面白い。日本のAV業界では使い古された企画だが、打ち出し方がいいんだな。きっと。

4コママンガジェネレーター

小太郎ぶろぐ より。結構面白いものもある。最近は4コマ目オチが…っていうベタな展開じゃない方が笑ってしまう。2、3コマ目に世界をつくれるかが勝負なんだろうか。

909で遊べるなんて!

DIGITAL DJより。随分前に303つくってた人もいたな。スライダが若干動かしにくいのが難点かな。

Posted by Syun Osawa at 00:28

2007年05月25日

高橋留美子傑作短編集 vol.1

高橋留美子/1995年/小学館/A5

高橋留美子傑作短編集 vol.1面白いわぁ…。

この短編集の冒頭に掲載されているのが、サンデーの新人賞で入賞した「勝手なやつら」という作品。なんだこのテンションの高さは? キャラクターの演繹的な走りっぷりも凄まじい。新人のくせに妙に読み切りとして完成されていて、帰納法的であり、評論家も納得という作品ではないのだ。

1コマ先も見渡せないほどの怒涛の展開。風呂敷は広げるためにあるんだという強い遊び心が伝わってくる。やっぱし僕はこのくらいの(といっても伝わりづらいが…)ギャグ加減が大好きなんだな。あと、このテンションをスッと引いたところにある『究極超人あ〜る』とかも含めて。

そうなんだ。やっぱり僕はジャンプっ子でも、マガジンっ子でもなく、サンデーっ子なのでした。ジャンプ黄金期でありながら、ジャンプは立ち読みで済ませ、コロコロっ子からサンデーっ子へと流れる自分のルーツを思い出させてくれた短編集だった。

「勝手なやつら」のテンションがその後の『うる星やつら』につながっていくことは言うまでもない。家にはすでに文庫版が大人買いされて置いてある。一気に読むか、ちょっと寝かせてから読むか。ともかく僕はサンデーっ子なのだ。

Posted by Syun Osawa at 00:47

2007年05月21日

GyaOイベント=ネット読書=危うい市民ニュースサイト

GyaOジョッキーと歌ブログの合同イベントを生放送で見た。

歌ブログでは有名なとちぎ和牛とかポッポとかが出ていてひとりで興奮。チャットを見ているとほとんどの人が彼女たちを知らないようだ(当たり前)。途中にカンニング竹山や原口あきまさなんかも出てきて華やかな感じにはなったが、トータルで見ると実に安い(いい意味で)アングラ感漂うイベント放送だった。一番人気は中野腐女子シスターズだった(とはいえこちらも知らない人のほうが多いと思うけど)。なんだかんだで乾曜子さんって息が長いなぁ。

(手に入れた本など)
入子祐三ほか『ニッポンの算数』(東洋館出版社)
森毅『数学の歴史』(講談社)

NATIONAL GEOGRAPHIC 2007年5月号

小特集「 スラムにみる格差のいま 」によると、インドのスラムには裕福な人が住んでいるらしい。というのも、貧富の差が激しいインドでは中間層が住むべき住居(住空間と言い換えた方が適切かな?)が少ないらしいのだ。このあたりに公の弱い国の難しさを感じる。今の日本だからこそ小さな政府を叫べるが、小さくなり過ぎたら今度は大きな政府を求めていくのだろう。

ところで『NG』は3分の1くらいまではすべてネットで読めてしまう。にもかかわらず1000円と高いし、それを毎号買っているのも考えものだな。エウレカセブンのタイトルにもなった モーニング・グローリー の写真も公開されている。

群像 2007年6月号

局所的に話題になっている橋本勝也「具体的(デジタル)な指触り(キータッチ)」を読んだ。東浩紀さんの『 ゲーム的リアリズムの誕生 』(講談社)とも重なる評論。マクドナルドの話も出てきたし。

スピリチュアルなニュースって新鮮

なんか凄いぞ…。こ、これってニュースなのか?

新風舎を叩けば済むという問題でもなく

この記事はちょっと珍しい。勘のいい人はこれまでの新風舎叩きの記事とは少し違った印象を受けると思う。この連載はなかなか楽しみだ。もちろんト学会的な意味で。

岐阜県産業技術センター(2007/4/19)資料

by 菊池誠(大阪大)

有名なテキスト「 「ニセ科学」入門 」と重なるが、続編的な部分も含まれている。近年はベタなにニセ科学ブームが巻き起こっていて、各地でイベントも開催されているらしい。

歴史家としてのフーコー

by キース・ウィンドシャトル/訳:山形浩生

ちょっと難しいけど、刺激的な内容。フーコーのメタ読みに対する櫻井よしこ的突っ込みという感じ。

モスクワ・コンセプチュアリズムの美術

by 鈴木正美 (芝浦工大)

ソッツ・アートをはじめとするソビエト非公式芸術の中にコンセプチュアリズムをみている。ボリス・グロイス『 全体芸術様式スターリン 』(現代思潮新社)あたりの大枠の話も面白いが、鈴木さんのようにソッツ・アートを丁寧に眺めるのも悪くない。コンセプチュアリズムそのものはあまり好きではないのだけれど。

いま見ているアニメ

回が進むごとに微妙な展開になってきた『ロミオ×ジュリエット』に続き、GyaOで放送中の自主制作系アニメ『いまざきいつき小劇場』も見ることにした。ホラーとかサスペンスの類は、今後間違いなくアニメ畑で開拓されていくはずなので、次の回がとても楽しみだ。

あとは靖国関連で話題の『誇り』というアニメDVDがとてつもなく見たい今日このごろ。

オタク論!が酷い

一番酷いのは創編集部ではないかと思ったり。

Posted by Syun Osawa at 00:12

2007年05月18日

学校とテスト

森毅/1977年/朝日新聞社/四六変型

学校とテストゆとり教育が始まる前に「ゆとりを持っていきましょうや」といった教育論を展開している本。この本が出たずっと後、日本でゆとり教育が行われ、その弊害として学力低下が叫ばれて、全国一斉学力テストが実施された(←現在ここ)。

森さんの主張はアナーキスト的立場にあるので、彼の主張をそのままを教育現場に持ち込むことは不可能だろう。「絶対的な教育などありない、本来学校は無用である、であるがゆえに…」といった風に主論が常に逆説的であるからだ。僕はこの考え方を全面的に支持するのだが、ダメ風をふかしながら自嘲気味に自分を語りつつも、その語り口が常に遊び心にあふれており、人に優しく、それでいて学びに対して真摯的かつ有能であり得る人なんてほとんどいないだろうという思いもある。だって、それは森さんだから…というのはどうしても消えないのだ。

この本の前半では学力テストについてページが割かれている。

テストによる均質化が学力に対する考え方の動脈硬化を引き起こすという事態は、この本が書かれた70年代も00年代も変わっていないこと、そして、そうした偏差値幻想の根拠には「学力集団」への願望があり、それは今も昔も同じであることがわかった。

テレビで何度も語られる近視眼的な「最近の若い者は…」という主張は、自分たちが同質の学歴社会を生きてきたこと放置するものであり、その後の中途半端なゆとり教育が結果的に学力集団への願望をより一層強化してしまったことへの冷静な分析もなされない。

だからといって批判だけを繰り返し、ニヒリズムに浸っていればよいというのではない。ニヒリズムを通過した後が最も重要なのである。そして、その命題は今も昔も変わらないはずなのだ。

アホラシイからヤーメタ、といった短絡的傾向が増えてはいるが、〈アホラシイけどヤッテミルンダ〉というのは、きわめて人間的なとくに青少年期の特性とさえ考えられる優秀な資質に属する。人間文化なんてものは、概してそうした心情のもとに発達してきたのである。

この考え方は宮崎駿さんの『 風の帰る場所 』(ロッキング・オン)からも読みとることができる。

Posted by Syun Osawa at 23:06

2007年05月12日

ロミジュリ=鬼束復活=つくる会=さよならFLASH本

ロミオ×ジュリエット を見始めた。結構面白い。

テレビではほぼ100%アニメを見なくなっただけに、ネットでの本編公開は大変ありがたい。ふと気づくと、ネットで本編が公開されているかどうかが作品を見る基準になってしまった。そして、それ以外で見たいものはテレビではなくレンタルすることにしている。

先日、靉光展 へ行ったときに気づいたことが一つ。

東京国立近代美術館の常設展用チケットの使用方法が変わったようだ。企画展を見ると必ず常設展のチケットをくれるのだが、これまでは常設展のチケットは当日に使わなくても良かった。ところが、MOMATパスポート なるものができたため、常設展のチケットが企画展を観た当日だけしか使えなくなったのだ。セコい。

セコいと言えば…

6月9日からBunkamuraザ・ミュージアムで開催されるプラハ国立美術館展。サブタイトルが「ルーベンスとブリューゲルの時代」となっている。ブリューゲルといっても子どもの方で、股の間から背後の風景を眺めようとして死んだ方ではない。ベルギー王立美術館展 でも父の実作かどうかが不明の《イカロスの墜落》が来ただけだったのだから、制作サイドの確信犯に違いない。

中野晴行さんのブログ によると、祥伝社から手塚治虫さんの戦争関連の短編集が出るらしい。9条や靖国と絡めてとあるが、どういう本になるのだろう? 個人的には絡めずにつくって欲しい。

(手に入れた本など)
高橋留美子『高橋留美子短編集 vol.1』(小学館)
『まんが攻略BON! 中学理科 第1分野』(学習研究社)
『まんが攻略BON! 中学理科 第2分野』(学習研究社)

鬼束ちひろが久しぶりにCDを出すらしい

ダウナーなまま消滅してしまうんじゃないかと思っていたから、ちょっと楽しみ。僕としては Tiger in my LoveCage の激しい路線で行って欲しいのだけど…。日本人は本当にバラードばかりを強要するんだね。

美しい日本をつくる会ができた

ネタかと思いきや本気である。左翼という存在するはずもない敵を仮構して戦うプロレスではないのだ。その反面、つくる会Webニュース によると『新しい歴史教科書』が扶桑社から出ない可能性があるらしい。どうも錯綜している。アメリカに従属しながらナショナリズムを煽り続けると、最終的に自滅してしまうのは安倍さんの勢力だということを小林よしのりさんも見抜いているのに…。

憲法改正議論でプロレスをするならば…

一番頭の良い方法は、白熱した憲法改正議論をこれから100年やることである。「夜明け前」が好きな日本人なんだから、遠足前日の盛り上がりを仮構することだってできるはずなのだ。かつて前田日明は「プロレスは馬鹿にはできない」と言ったが、政治も同じだろう。明日にでも変わるという雰囲気を出しながら、いつまでたっても変わらない。そういうしたたかさを持った日本人でありたい。小泉首相はそれができたが、安倍首相にそれができるとはちょっと思えないのだ。

さよなら、FLASH本

さよならだけど、さよならじゃない。「FLASHアニメは終わった」議論が昨年活発に行われていた。これは「文学は終わった議論」とまったく同じ構想をしており、結局のところ浸透し透明な存在になったに過ぎない。Webに関連した仕事をしている人ならわかりきっていると思うが、誰もがFLASHアニメもどきをつくる時代なのだ。

僕も来週から会社でFLASHアニメもどきをつくることになった。僕がFLASHアニメをつくっていたことなど当然言っていないので、いいリハビリにしたいと思う。FLASH MXですけどw

同属嫌悪ですか?

群像新人賞の評論部門が熱いらしい。こういうネタを見ると俄然読みたくなって、明日の朝はきっと図書館に走っているのだろうな。東浩紀さんも反応 している。ブログの中で二重投稿のことが書かれているが、たいていの場合はどちらも落ちるんだから別にいいじゃんと僕は思う。

中国産? PVでDJ Shadowの曲が使われている

Studio4℃の影響を受けまくりなのかと思いきや、作者情報に『アニマトリックス』でピーター・チョンの作品に参加しているとの記述がある。きっとそちらの色合いが濃いのだろう。ピーター・チョンといえば、DVD BOXで買った『イーオン・フラックス』をまだ見ていない…。

これは書評ではない

ブログの本筋とは直接関係ないが、この文章に目が留まった。というのも、漫画ネタを扱った有名なブログで、ブログで書かれている作品評の多くは、書評の体裁にのっとっていないと書かれていたからだ。もちろん僕がここで書いている本の感想も書評などではないので要約などしない。もしかしたら読書感想文にも体裁があるのかもしれないけど、ともかく僕の目的はストレス発散とチラシの裏的メモに過ぎない。

ネットラジオはなくなってしまうのか?

shoutcast が危ない。池田信夫さんのブログ でも書かれている。何でもロイヤリティが3倍になるらしい。

僕がよく聴くラジオはダウンビート(チルアウト)なものがほとんで、メジャーとインディーズ、ネットレーベルの曲が混在しているものが多い。こういうケースはメジャーだけが使われなくなるということか。

赤木智弘と雨宮処凛の対談映像

こちらのブログに全般的な考察がある。僕としては 萱野稔人さんの考察 が一番響いている。

アニメ声をつくるソフト

ようするにボイスチェンジャー?

Posted by Syun Osawa at 23:33

バルカンの心

田中一生/2007年/彩流社/A5

バルカンの心先日亡くなられた田中さんの遺著を読んだ。

田中さんのおかげで僕はユーゴスラヴィアに興味を持つようになった。そして、映画『ユリシーズの瞳』や『アンダーグラウンド』を見たときに放置した宿題に取り組むようになって数年が経った。にも関わらず、この本の中にある深みには少しもたどり着けそうにない。

民族紛争の本質はコソボ紛争だけを眺めていては当然見えてこないし、社会主義時代のユーゴを含めてさえもたどり着けない。オスマントルコに征服されいた頃のバルカン、それ以前のバルカンを含めて学ばなければ、輪郭さえもつかむことができないのだとこの本は教えてくれる。

ともかくアンドリッチやニェゴシェの本も読まねばならない。
そしていつの日か、僕もバルカンへ行こう。

Posted by Syun Osawa at 08:20

2007年05月09日

靉光展

2007年3月30日−5月27日/東京国立近代美術館

靉光展靉光は第二次世界大戦のときに徴兵され戦後まもなく上海で死亡したことと、松本竣介や井上長三郎らと「新人画会」を結成したことから、「戦争犠牲美術家」や「抵抗の画家」と呼ばれることが多い。この言葉は戦争画を描かなかった靉光の作品に対する印象を歪曲させる恐れがある。『現代の眼 563号』(東京国立近代美術館)において、江川佳秀さんはそれらのレッテル貼りを批判されていた。

と、前置きするのは、僕も 戦争と芸術 に関する興味で見に行ったからだ。今回、シュールレアリスムの要素が色濃く出た《眼のある風景》以外の作品を見て、戦争を軸に見るのではなく、シュールレアリスムと線画を軸に見たほうがより深く作品を楽しむことができると感じた。

彼が活躍した時代は日本画と西洋画が折衷していた頃で、アヴァンギャルドが全体を覆う前。具象が様々なところで化学変化を起こしている時代ということもあって、靉光も線画と格闘した後がうかがえる。

中でもロウ画と呼ばれる手法で描かれた《乞食の音楽家》や《編み物をする女》(パンフレットの表紙にも使われている)などが気に入った。ざらついた質感がどこか日本の伝統的な文様を感じさせつつ、輪郭はシンプルで誇張されたものになっている。また、タイトルを失念したが馬のシルエットを描いた作品があって、その形がディズニーに登場する馬にそっくりだった。線画というと日本画との絡みで語られることが多いが、この時代の作家がマンガやアニメとどの程度関係があったのかについても興味がわき始めている。岡本一平の名を出すまでもなく画家が絵本作家や漫画家になっている少なくないし、手塚治虫が戦前にディズニーアニメを見ているということは他の人も見ているに違いなく、そうした点からも相互の影響は必ずあると思うのだがどうなのだろうか。

あと関係ないが、彼の自画像は驚くほど僕に似ており、あまりに似ているものだから帰りにポストカードを買ってしまった。他人の空似は本当にあるのだなぁ。

常設展にも初見の作品がポツポツとあった。

プロレタリアートでは、内田巌《歌声よ起これ(文化を守る人々)》(1948年)、石垣栄太郎《リンチ》(1931年)、戦争画では藤田嗣治《南昌飛行場の焼打》(1938−39年)、白石隆一《入城前》(1944年)など。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:16

2007年05月08日

痛恨の歴史時代

高橋彬/2007年/文芸社/四六

痛恨の歴史時代以前お世話になった某業界紙の編集長が退職後に自費出版された。ちょこちょこと手伝いをさせてもらっていたときから、70歳を越えてバリバリ働く姿には感銘を受けていたが、この本を読んで積み重ねられた教養の深さに更なる感銘を受けた。僕もこういう風に歳をとりたいものです。

で、内容について。

多くの人が社会主義だと思っていたソ連を中心とした社会主義は、レーニンが提唱した本当の意味での社会主義ではなかった。よって冷戦構造とは、社会主義と資本主義の対立ではなく、資本主義の側、正確にはアメリカの思惑によって生かされた仮想敵としての社会主義と資本主義の対立であった。だからこそ、横暴なスターリンが西側諸国にとってちょうどよかったのだ。

このあたりの流れは、自分自身が塩川伸明さんの本などを読んだりしながら感じていたことと重なる部分が多く、冷戦構造と社会主義に対する評価は納得いくものだった。ただし、塩川さんはもう一歩踏み込んでいる。「とはいえ、社会主義としてソ連は存在していたのだから、いかさまであると単純に切り捨てることはできない」と。

著者はここからトロツキーの世界革命に夢をつなげている。これこそがかつての新左翼の向かう先であったはずなのだが、新左翼は内ゲバを繰り返し悪い印象だけを残して消滅してしまった。そのため、僕はどういう理論であれ、社会主義を肯定的に見つめることはできないでいる。

そして、この猜疑の視点は55年体制にも通じている。

浅羽通明『 右翼と左翼 』や小阪修平『 思想としての全共闘世代 』でもそれとなく書かれているとおり、55年体制とは自民党の政策に社会党が突っ込みを入れるという漫才で成り立っていた。この漫才は吉本だけの専売特許ではなく、美少女ゲームの中でも通じてしまう日本文化の根幹をなすコミュニケーション手段である。異形の弁証法と言い換えてもさしつかねない(ウソです)。

社会主義諸国が崩壊したのは耐用年数が過ぎたからだと著者は書いている。この点も納得がいく。仮想敵として存在していた社会主義が自滅したわけだ。そして、その後に起こったのは凄惨な民族紛争と宗教対立。昔からある古典的なテーマに再び人類は立ち戻ったに過ぎない。

問題はここからである。次の夢は何かということだ。

著者は日本は世界貢献宣言せよと書かれているが、僕はもう少し高度な夢が必要なのだろうと思う。そして、その夢を見つけた人にこそ真のノーベル平和賞は与えられるべきだと思う。

Posted by Syun Osawa at 00:18

2007年05月04日

CAF2007 フォリマージュ ラ・レジダンス特集

2007年4月28日−6月1日/下北沢トリウッド

CAF2007毎年トリウッドで開催されている海外アニメーションの上映会。アヌシー作品や海外の学生作品が新旧入り混じって上映されるため、変な権威主義に惑わされることなく気軽に作品を楽しむことができる。ありがたいイベントだ。6つのプログラムをすべて見たかったが、時間の都合もあって一番見たかったCプログラムだけを鑑賞した。

Cプログラムは学生作品ではなく、フォリマージュ系列の海外の受賞作品が中心。どの作品も具象と抽象の度合いがちょうどいい具合で、画面の楽しさ、ドラマの楽しさ、テーマの楽しさを全部味わうことができた。特に海外の作品は深いテーマの作品が多く、感情の吐露に終わっていないのも僕の趣味にあっている。

ハッピーエンドの不幸なお話

監督:レジーナ・ペソア(ポルトガル)

日本人にもめちゃめちゃ響きそうな作品。僕も集合住宅に暮らしているので、共感できる部分が多かった。日本の学生作品の中にもアパートを題材にしたアニメがあったが、この作品はアパートに暮らす人々の差異について、一歩踏み込んだテーマ設定をしている。

地球の果ての果て

監督:コンスタンティン・ブロンジェット(ロシア)

こういう構造ありきの短編アニメが特に好き。時間や空間が制限されることで、人間臭さがくっきり浮き出てくる感じがするから。この手のアニメでは球体や密室が舞台になることが多いが、今回は三角の頂点にバランスよく家があるという設定になっている。構造しかないドタバタ劇かと思いきや、しっかりと次の展開につながるオチがついていて感動した。

ラビオリ缶詰の魔人

監督:クロード・バラス(フランス)

クレイアニメ? 子供向けのアラジンと魔法のランプ…ではなく、ハクション大魔王的な内容の作品。

渡り鳥の珍道中

監督:ユーリ・チェレンコフ(クリミア)

これも構造メインのアニメ。抽象度という点では、今回見た作品の中でこの作品が一番高かった。画面の上下を転換させてしまう遊びをたくさん取り入れており、平面的な遊びの感じからかなり古い作品なのだろうと思っていたら、1995年の作品だった。

マロット

監督:ブノワ・ラジィ(フランス)

ものすごーくフランスっぽい作品。アニメで…という意味ではなく、僕の好きなシャルロット・ゲンズブールが若い頃に出演していたフランスの田舎町(特に南仏)を描いた映画の雰囲気に近い。暗さと暴力と性と思春期の感情が、ゆるやかな時間の中で静かに漂っている感じ。なぜこの物語をアニメでやったのかはわからないが、作品を見た後に残る感情はこの作品が一番強かった。

エゴイスト

監督:ジャン=ルプ・フェリシオリ、アラン・ガニョル(フランス)

画面のアヴァンギャルド性はこの作品が一番。手描きのよさをフルに生かそうという試みなのかもしれないが、ちょっと狙いすぎの感もある。内容的には暗くて重いが、嘘のハッピーエンドが追加されていないぶん真実味がある。ただし、ここにもう一つ何かを追加していくのがアニメの役割ではないのかと、宮崎駿信者の僕は思ったりもした。

Posted by Syun Osawa at 23:08

2007年05月03日

記者クラブ=チャベス=格差社会=MouRa

GW進行で夜遅くまで働き、家に帰ってからもWEBサイト構築の内職を続ける日々に区切りがついた(ひとまず)。朝起きてから寝るまで働き続けるのは好きではない。友達とダラダラと神保町の古本屋を巡ったりしている方がずっと楽しいからだ。仕事から解放され1年ぶりに下北沢へ行ったら雰囲気が変わっていた。個々の店を眺めるとめまぐるしく変わっており、全体で見ると変わっていないのが下北沢の特徴だと感じていたが、このまま駅前開発が進むと秋葉原のように根本的に変わってしまうのだろう。古着ALL700円の店でジャケットなどを購入。

芸能人のブログに再びハマりつつある。押尾学竹原慎二 など、意外なキャラを見せている。キャラといえば リカちゃんブログ もシュール。

MouRaの東浩紀インタビュー

ゲーム的リアリズムの誕生 』出版に当たってのインタビュー。

福嶋亮大さんは小説のシステム(文学)の可能性をより遠くまで広げていくべきだといっている。先月の SFシンポジウム では、SFは透明な存在になってしまったと語られていた。僕はSFにとどまらず文学さえも透明な存在になってしまっていると感じる。つまり広がってはいるけれど、輪郭を持ったまま広がっているのではなく、薄れて透明な存在になってしまっているのだ。

だから(少なくとも多くの人にとって)透明になってしまった文学を語る批評家自身にも危機が訪れている。東さんはその危機感から、輪郭を取り戻すための試みをしているのではないかと思う。そうであるならば、この前のSFシンポとも重なる部分があるし。

あと『ゲーム的』の中でも言及されている「キャラ立ち」の件については、週刊少年漫画誌のアンケートに深く立ち入って語って欲しいと思う。キャラ立ちはキャラクターと複数のコマの動きで成立するので、週刊漫画誌はストーリーと同じくらい重視してきた経緯がある。漫画家は編集者から必要にそのことを迫られるわけであるし、それが最近のことのように語られるのはなんか不思議な気持ちになるのだ。

東浩紀 VS 萱野稔人

見てー! 行きてー! でも高い。僕も3年ほど前にカルチャーセンター通いを半年ほど続けていたが、高いわりに少しも役に立たないのでやめてしまった。あそこは金持ちの客とそれに擦り寄る金目当ての学者の溜まり場だということを、もっと早く知るべきだったのだ。そういう商売は悪いとは思わない。

美峰がつくっているオリジナルアニメ

京都アニメーションが手がけた「MUNTO」みたいな流れを、背景美術の会社がやっているのだから面白い。ビジネスを半歩離れたら、誰だって自分たちのオリジナルな作品をつくりたいに決まってる。

記者クラブ“解体派”と“上手く使う派”のちがい

この記事を書かれた人は上手く使う派をすすめている。日本は平和なのでガチンコのジャーナリズムなど必要ないし、あるとウザいだけ。高学歴な記者たちによって作られる虚構をニュースとして消費する。その仕組みは壊さず、上手く付き合いなさいと。そこまで深読みするのは嫌味かな。

ぶっちぎるチャベス

ワクワクが欲しいんだよ。美しくなくてもいいから無茶して欲しい。そういう願望が自分の片隅にあるから、チャベスみたいな人が気になるのかもしれない。日本にも石油利権さえあれば…という問題でもないか。

印刷業界はやっぱり下がり続けてる…

雑誌がとにかく駄目らしい。僕の会社でも出版部門は順調に下がり続けている。理由は二つあって一つは外的理由(全体的に書籍が売れない)。もう一つは内的理由(言えない)。

渡辺淳一『あじさい日記』に激怒する女性たち

ここでアスカについて言及されていて、ようやくわかった。アスカが「気持ち悪い」と言ってくれたことで救われた人もいたんだなと。

テレビ業界が一番の格差社会

広告代理店とテレビ局、制作プロダクションの関係はその内側の利益の比率に左右されているといっても過言ではない。さらに恐ろしいことに、広告代理店(電通)の関連会社に調査会社(ビデオリサーチ)があり、広告主に対する情報を補強しているのだから何をかいわんやである。

3Dって何でもできるんですねぇ…

思わず最後まで見てしまった。

Posted by Syun Osawa at 16:53

2007年05月01日

人類にとって文学とは何か

2007年4月29日/13:30-16:30/紀伊國屋サザンシアター

人類にとって文学とは何か小松左京、瀬名秀明、スーザン・J・ネイピア、巽孝之という豪華メンバーで行われたシンポジウム。岩波書店の『文学』で夏にSF特集をやるらしく、シンポの前半はそのために書いた原稿を読みながらのプレゼンで、後半はそれを受けてのディスカッションという流れだった。

シンポのタイトルに「文学」とあるが、どちらかというと「人類にとってSFとは何か?」に近いニュアンス(当たり前か)。多くのジャンルに入り込み、いまや透明な存在となってしまったSFはどこへ進むのか? 見たいな感じ。近いところで東浩紀さんが ギートステイト を通じて未来学的思考の新しい可能性(?)を示そうとしているので、透明になったSFの輪郭を取り戻す動きが小規模ながら方々で起きているんだなぁと実感した。

SF小説ってほとんど読まないので、このジャンルのことがさっぱりわからないんだけど、少し引っかかったのが小松左京さんの言葉。ヴェルヌがウェルズに対し「現実には起こりえないただの妄想だ」と批判していたらしく、そのときに小松さんが「妄想でもいいじゃないか」と思ったというような内容で、桜坂さんと東さんがやっていたネットラジオと妙につながってしまったのだ。ギートステイトは現実に起こりえる40年後の世界を考えており、世界設定を緻密にやっているわけだが、その中でドラマ部分を担当している桜坂洋さんが「物語にするときは40年後の世界で起こりえる“非日常的な世界”を書かないといけない」というようなことを語っていたからだ。この部分が妄想ということになるだろうか。

あと、最終的には「情」が重要になるというオチもなかなかまっとう。いや…まぁ、別にそれ以上、特にないですけど(^_^;)

Posted by Syun Osawa at 00:22