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2007年11月29日

美術と文化 〜人に与えるアートの力〜

2007年11月23日/国立新美術館 講堂

美術と文化第5回国際文化フォーラムの一環として開催されたトークイベント。高階秀爾、クリスチャン・ボルタンスキー(仏)、やなぎみわ、ベ・ビョンウ(韓)、チェッコ・ボナノッテ(伊)、建畠晢という豪華なラインナップ。しかも全員に対して同時通訳付。第4回 世界映画人会議 2 もそうだったのだが、国が絡んだイベントは無駄に金が掛かってる。ありがとう日本。

アーティスト3人に美術館関係者2人というラインナップ。ボルタンスキーさんはアーティストは孤独な言葉を持ちつつ、問題を提起し、その問題を次の世代へ継承していくことを芸術家の役割だと話し、『エレベーターガール』でお馴染みのやなぎさんは自分の作品を紹介しながら、他者と価値の共有をはかりたいというような話をされていた。2人ともコンセプチュアルな作品を得意としているので話もなかなか示唆的だ。

一方、モダニストを自認するビョンウさんはベーシックな写真の中に新しさを求めることにためらいがない。彫刻家のボナノッテさんは毎日日の出前に起き、5人の子どもと7匹の猫に囲まれて楽しい毎日を送っているとのこと。

今回のトークテーマが「美術と文化」と漠然としたものだったので、話の向かう先もいろいろ。噛み合っているような、噛み合っていないような、でもなんとなく意味ありげな内容のフォーラムとして成立していた。わけはわからないが、何となく感動すること。それが直接的であること。少なくともこのイベントにはそれがあったし、その重要性についてはボルタンスキーさんも話されていた。

さて、問題はあとの2人の立ち位置の難しさだ。美術館関係者という意味ではなく、著名な2人の批評家、またはキュレーターとしての2人の存在は、はたして今後も美術と文化に寄与するのかという問題である。仲俣暁生さんが ブログで愚痴っている ように、21世紀に追い詰められているのは、実はアーティストではなく批評家だった? みたいな話になったり、ならなかったり。

もう一度アーティストの側に目を向ける。やなぎみわさんの近作かは村上隆さんのように自分で自分をプレゼンスすることの重要性を導き出しているように映る。それが他者との…につながるのかもしれないが、高速で消費される芸術に対しては、冷静な態度を持って臨む必要があるというニュアンスの話もされていた。なぜなら「商品化によって、自分の価値を誤解して見出してしまう」という危険性があるからだ。

僕の希望としては、芸術家はあくまでも社会における他者であり、孤独な存在であってほしいし、常に「新たな価値を創造すること」を芸術における創作活動であると捉えていて欲しい。

Posted by Syun Osawa at 00:10

2007年11月27日

チョ・ヨンス=ミルクシーフード=ネタなし

大晦日に魔裟斗がチェ・ヨンスと試合をするらしい。チェ・ヨンスは畑山正則と二度の死闘を繰り広げた名ボクサーである。年齢的なハンディキャップがあるとはいえ楽しみなマッチメイクだ。

ただ、疑問もある。ボクシングからのK-1への転向組では、彼より強いボクサーが少なくとも二人いるからだ。

一人はチ・インジン。彼はついこの前までWBCフェザー級の世界王者だった(彼が抜けた後の王者がリナレス)。そしてもう一人がシリモンコン・シンワンチャー。辰吉と試合をしたあのシリモンコンである。彼はムエタイからボクシングに転向し世界王者になった後、再びキックに戻ってきた異色の選手なのだ。シリモンコンの強さを確認する上でも、チェ・ヨンスよりはむしろシリモンコンと試合をして欲しかった。

ジブリの宣伝誌『熱風 11月号』の特集は「雪の女王」で、宮崎駿さんがインタビューにこたえている。毎度の事ながら言葉一つ一つが響いてしまう。完全に信者なんだな、僕はきっと。郵眠社の連載とレコード屋の連載も面白い。

日清の ミルクシーフードヌードル の味は予想通りでサプライズはなかった。当たり前か。たまに食べるカップ麺の一つくらいに考えれば、これはこれでよいのかも。だったらシーフードヌードルを買う気もするが…。難しいところやね、商品開発って。今のところ宇多田ヒカルさんも絶賛の SPICE KITCHEN がヒットということなのかな?

ブログはまさに生活の一部となっているらしく…

新垣結衣 までもがブログを始め、その直後からもの凄いアクセス数を稼いでいるらしい。芸能人のブログだけを追うことさえも不可能なほどに乱立しており、中には恋人とのプリクラを流出されて 大変な人 もいるようだが、概ねどこまでも薄く広い文化として浸透しているようだ。

これぞショートフィルム! もう一つの進化論

『GRAPHICATION no.153』(富士ゼロックス)で池内了さんが「科学とは広い意味で物語である。」と書いているとおり、科学は要素還元主義だけでははかれないドラマチックな側面を持っているはずだ。進化論がその一つだと池内さんは書いている。この映像は進化を「学」ではなく「論」として提示した物語性の高い作品だと思う。

教員免許更新に広がる不満

僕も教免は持っている。剥奪するのだけはやめて欲しい。せめて免許のように更新制にして欲しい。そうでないと、社会人から教師という道が完全に閉ざされてしまう。ところで、いつも思うことなのが、世間の親は教師に何を求めているのだろう? 何も求めていないでしょ? 普通に勉強を教えるだけでいい。

Posted by Syun Osawa at 00:00

2007年11月25日

AIR(全12話)

監督:石原立也/2005年/日本/アニメ

AIR1年前に壊れたPCのハードディスクを整理していたら、テレビ版『AIR』の感想メモが出てきた。これを見たのはいつだったろう? 覚えてない。ただ、ラストの回で泣いたのは覚えている。泣いた理由は覚えていなかったのだが、メモを見て思い出した。何だかんだ突っ込みいれながら、最後は夢中で見てたんだなw 感想メモはやはり大事だ。

とか書いてて思い出した。友だちに借りて見たのだった。オーディオコメンタリーのスタッフのしゃべりから苦労を重ねてつくられているのが伝わって、作品とは別の感動があったことも思い出した。

京都アニメーションというと京大卒の山本寛さんがよく取り上げられているようだけど、あのスタジオの職人的作風というのは本作で初監督を務めた石原立也さんのような人の堅実さから来ていると思っている。

以下、当時のメモ。原文ママ。

第01話 かぜ 〜breeze〜

モロモロの美少女登場。「にゃは」「がお」の口癖。ヒマだから遊ぼうとみんな誘う。

第02話 まち 〜town〜

田舎に住んでいる気がしない。人付き合いの偏り。精神障害者に冷静なツッコミを入れているみたいに見える。放浪者に「ユキトさんにしか話してないから…」とか何故? アドベンチャーゲームの突発的なイベントが次々起こっているような印象は、原案がゲームだからなんだろうか。

第03話 こえ 〜whisper〜

まだ街を出て行かない。相変わらず街の大人は出てこない。人間関係が突然現れた主人公を中心に放射状に伸びている。カノン? が多重人格者で、神社で国咲の首絞める。「空へ」みたいなことをロマンチックなジョークではなく本気で言っている。

第04話 はね 〜plume〜

カノの首締め、あざの原因が伝奇モノのような複線であることが発覚。いきなり時代劇物になり、行って来いして終わった。不思議な展開。このへんの感じが『ファウスト』の新伝奇ムーブメントみたいな流れに行ったのかなぁ。

第05話 つばさ 〜wing〜

ミナギのお母さんとの関係が明らかに。流産した妹と思いこむことですべてを忘れようとした。ミナギもそれを受け入れたのだが、お母さんが流産したこと記憶を思い出したことで、ミナギは帰る場所をなくしたという。うーん。超傷つきやすいですね。ミスズは完全に精神病者。友達できると泣き出すって…。しかもミスズと母が血をつながっていないことが判明。

第06話 ほし 〜star〜

ミチルは幻影だった? 夢のかけらって何? 怒号のファンタジーに目がくらむ。生まれてこなかったミチルが実際の世界で普通に生きていたなんて。これがAIRの世界か。精神病者に本気の立ち回り。悲し過ぎる。自殺した中学生が遺書に「お母さんありがとう」って書くくらいの悲しさ。やりきれなさを物語の主軸にしてる。後半はカメラワークのための3Dを多用している。

第07話 ゆめ 〜dream〜

悲しくて見ているのがつらい。自分ならば決して選ばないような選択肢をキャラクターが選んでいくのでやりきれない。出て行ったり、戻ってきたり。二人で出て行けばいいのに。つか、彼らはこの物語のスタートを切る瞬間までどんな生活を送ってきたのか謎。しかも横の人のつながりが全然ない。本当は小さなコミュニティの中で救われていかなければいけないはずなのに、それぞれが独房で自問自答しているかのように映る。

第08話 なつ 〜summer〜

いきなり平安時代。翼人といういきなりのファンタジーも難しく、どんどん入っていけないところへ。このトンデモな展開はかなり新鮮。しかもギャグが強いし。ところが突然、悲しいドラマがまっていて、そのまま霊山へ三人で旅していく。この三人は擬似家族らしい。それにしては両親が若すぎる。これは問題だなぁ。

第09話 つき 〜moon〜

平安時代が終わる。翼人のエピソードが現代と繋がるんだろうけど、雰囲気だけで上手く飲み込めない。ゲームやってないからかもしれん。マルチエンディングが生み出した不思議なストーリー展開を東浩紀はゲーム的と読んでいるのかもしれん。うーん。

第10話 ひかり 〜light〜

主人公がカラスになっている。繰り返されるエピソードでお母さんやミスズの裏側が明らかになる。いよいよせつない。いよいよ悲しい。何より悲しいのは友達がいない。友達ができることを許されない人達がたくさんいるという事。この回も絵コンテ・演出は北之原孝将さん。この人の演出好きかも。

第11話 うみ 〜sea〜

ハルコさんがミスズのお母さんになろうと懸命に努力する。主人公はカラスとなりただ眺めるしかない。二人は本当の家族になろうとする。ただし、ミスズも本当の親がいるのね。ここはわりとポイント。だからどうも飲み込めない。

第12話 そら 〜air〜

翼人とのエピソードが絡みが微妙にわからなかったが、とにかく泣きまくってしまった。僕ならば選ばないようなストーリーではあるんだけど、白血病の子供が若くして死んでいくような状況で、ひと夏の体験をするみたいな感じ。しかもそれが、人と接することのできないというありえないような病気にかかっていること、絶対不可能な事態がここまで問題を深刻にしてるわけですね。

何で悲しいって、ミスズが「ゴール」って言って死ぬんだけど、僕はそこはゴールじゃないよと言ってあげたいわけ。でも死んだから言えないんだ。だから悲しいわけ。彼女の生まれたわけを考え、彼女が笑って死んだことを考えるの。だから涙が止まらないんだよ。

Posted by Syun Osawa at 00:13

2007年11月24日

「世界の歴史」がわかる本

イデア・ビレッジ/2005年/メイツ出版/A5

「世界の歴史」がわかる本イデア・ビレッジって誰よ? みたいな突っ込みはさておき、よーするに副教材的なヴィジュアルブック。「世界の歴史が丸ごとわかる本」とか「図解 世界の歴史」のような本はかなり多く出版されており、この本もその類といえる。対象年齢は小学生から中学生といったところか。

近頃の中学生の教科書はフルカラーになっており、文字は減らされ、図版が多く使用されている。つまり教科書自体が書店で売られているようなビジュアルブック化しているのだ。では、それで本当に歴史がわかるようになるか? といえば、少し疑問である。というのも、理科の教科書についていうならば文字量が多い『 新しい科学の教科書 』の方がビジュアル重視の東京書籍の教科書よりもわかりやすいからだ。

この本もそうだった。文字量はかなり少ない。しかも、テーマごとに歴史事項が軽快にスラーッと並べられている。たとえ文字量が少なくても、そこに物語的な面白さがあれば、それなりに理解度が深まるのかもしれないが、そういう部分もちょいと薄かったので、そのあたりのゆるさが残念だった。写真は使用せず、オリジナルの絵だけを使用しているところにビビッときたんだけどね…。漫画とビジュアルブックの間といった狙いどころは悪くないと思う。

Posted by Syun Osawa at 01:29

2007年11月20日

ロミオ×ジュリエット(全24話)

監督:追崎史敏/2007年/日本/アニメ

ロミオ×ジュリエットGONZOが手がける古典のリメイクアニメ。アニメに限らず古典のリメイクって企画として成立しやすいんだろうか? しやすいんだろうなぁ。

ぶっちゃけ『 幕末機関説いろはにほへと 』に続いてこの作品を観てしまったことを少し後悔している。どちらの作品も第1話を見る限り、とても面白そうな予感があったんだけど…。

僕が楽しみにしていたポイントはすごく単純で、貴族のロミオとジュリエットが時代の波に翻弄されながらも最終的に愛を選択するということだった。それは世界の平和を願うとか、市民の生活向上を願うというものではない。この作品を描くにあたって、戦争と平和は少しテーマが大きすぎたのではないか。結局、ラスト近くでセカイ系な展開にもっていってるし、全体的に中途半端な印象を受けてしまったのが残念だった。

以下、各話メモ。感情まかせに書き殴っていることをご容赦下さい。

第01幕 ふたり 〜出会わなければ〜

男装の麗人、隠された過去の記憶、衝撃的な出会いと恋愛アニメの王道が矢継ぎ早に投入される。テンポがよいので気持ちよく引き込まれた。ジュリエットの髪型は男装のときと女装のときでは違うが、長い髪をあのような形で短くおさめることができるのだろうか? まとめ髪の絵が難しいから…とかではないよね。

第02幕 約束 〜思ひ出の香り〜

早くもロミオとジュリエットが恋心を抱くようになった。いずれ二人は愛し合いつつも一方で戦うというベタな展開になるに違いない。ジュリエット役の水沢史絵さんの演技をシンプルに楽しみたいので、そういうまっすぐな展開を期待している。ところでジュリエットはロミオと再開したとき「ロミオ様」と呼んでいたが、別れた後に心の声では「ロミオ」と呼んでいた。なにか理由があるのだろうか…。

第03幕 恋心 〜残酷な悪戯〜

ジュリエットは生き延びるために男装をしていた。思い悩むジュリエット。赤い風としてロミオと再会し、そこでロミオが宿敵モンタギューの人間だということも知らされる。それにしてもあの仮面じゃバレバレだろ。ロシアの特殊部隊みたいなのにしないとさ。王道な展開に安心感あり。ピンチは少なめ。

第04幕 恥じらい 〜雨に打たれて〜

なにこの潮騒みたいな展開w ボブのときのオーディン(ジュリエット)とロミオが二人でペガサスに乗っているとき、ロミオはオーディンのことを男と思っていて、雨宿りしたところで初めてオーディンがジュリエット(女)だと知る。この昼ドラ的展開はなかなか新鮮だ。ヨン様にハマっているおばさんになった気分。

第05幕 疾風 〜燃ゆる覚悟〜

前回の潮騒的な展開以降、一気に不審の目になっている自分に気づく。この感覚は『 幕末機関説いろはにほへと 』と似ていて先行きがちょっと不安。時代に翻弄されつつも真実の愛を貫くという大枠について、翻弄されている様子をいかに描き、その中で真実の愛をいかに描くのか。明らかに悪い奴である大公が邪魔してそのあたりがまだ見えてこない。

第06幕 希望 〜託された明日〜

医者のアイリスが赤い風の身代わりとして死んだ。落ち込むジュリエット。アイリスの家族が街を脱出するをはかるも、追っ手が迫っている。助けに入るジュリエット一派。そこへ新たなキャラクター登場。若干中だるみの展開だった。ところで、ジュリエットは強いのか弱いのかどうも判然としない。全体的に行き当たりばったり感が強く、物語に引き込まれる前に「おいおい」と突っ込みを入れてしまう機会が増えてきた。本来はそういう見方はしたくないのだけれど。

第07幕 ぬくもり 〜今だけは〜

二人がついにチューして愛を確認。街中での追いかけあいからの展開は王道ともいえるが、個人的にはあの場面が30分すべてであってもかまわない。もっともっと内言を大事にして、狂おしいほどにお互いへの愛で思いを募らせて欲しい。そうでないと、そこからくる憎しみや身勝手さみたいなものにも感じられない気がするから。設定重視の昨今のアニメは完全にキャラの標準化なる毒牙にやられているためか、そのあたりのパンチ力がイマイチ弱い気がする。

第08幕 甘え 〜正義とは〜

ドラマがなぁ…薄いなぁ。もっと軽薄でいいと思うのよ、ジュリエットって。キャピレット家の生き残りであるにもかかわらず、ロミオのことが好きで好きでたまらない。自分がこんなことではいけないと何度も自問しながらも、ロミオへの思いが何よりも優先されてしまうという…。設定が重視されているためか、話の筋はそれなりにわかるんだけど、なんか…盛り上がらんな。自分的に。

第09幕 甘え 〜正義とは〜

ヤバい…。決定的に自分の嗜好から外れてきた。貴族(ロミオ)を貴族(ジュリエット)が撃つ。しかし撃った側の貴族も民衆によってその地位を引き摺り下ろされる。時は貴族社会の終わりを告げている。ギロチン台に並べられるロミオとジュリエット。そこで始めて二人は…とかじゃなくていいんで、タカラヅカ的な華やかさを期待してるわけです。

第10幕 泪 〜貴方と逢えて〜

ついに「あなたはどうしてロミオなの?」が出た。うーん、王道ゆえに難しいんだろうなぁ。キャピレットもモンタギューも貴族だし、議会も存在するし、力関係がどうも判然としない。これから明らかになるのだろうか…。一番の疑問は追われているはずのジュリエットとロミオが携帯電話ない世界であんなにちょくちょく会えるのだろうかということ。そして、あんなに会えるならエッチくらいしろよとか、いろいろ思う。愛してる同士なんだし。

第11幕 誓い 〜朝陽の祝福〜

二人の逃避行、森へ。小さな恋のメロディをいい大人がやってる感じか。二人にとって生涯で一番幸せなときがこの回らしい。つくられた世界観を開陳していく過程を物語としているから、状況が視聴者に明らかになった後、今回のようにぐだぐだの展開になってしまうのだろうか。ところで、あのペガサスの羽の位置と鞍の関係が凄く曖昧だと思うのは僕だけだろうか? どう考えても翼がある関係上二人乗りは不可能だと思うし、馬のバランスを考えれば羽根は前足の上あたりになければならず、その時点で一人乗りさえ難しいはず。アニメーターの人は描きながらそう思っていたに違いない。

第12幕 安息 〜このままで〜

ぶっちゃけ、今回が一番しんどかった。理由はいろいろある。二人での逃避行が自暴自棄なものではなく、逃避先でさっそく堅実な生活を始めていること。これまでのことをまったく置き去りにしていること。池の辺りの演出が不可解だったこと。村が焼き討ちにあい(敵国でもないのに?)、村人を救うため無謀にも二人で突入すること(そして当たり前のように捕まる)。すっかりよくわからん感じになってしまった。結局のところ、ジュリエットが捕らえられて次へという回だったんでしょうな。

第13幕 脈動 〜導かれて〜

ジュリエット奪還作戦。軽い内乱状態に。いよいよクライマックスへ向けて、二人の愛は、社会の秩序はどうなるのか? という展開。

第14幕 重責 〜この腕の中で〜

この作品って何話まであるんだろう…。ジュリエットは逃げて、ロミオは採掘場の責任者に。そこで、病弱な罪人の死を見る。貴族と平民の間にある深い溝を感じるロミオ。テーマが大きいだけに、セリフがどれも安っぽく感じられてしまう。「俺の悪口はいいが、お母さんの悪口だけは…」みたいな。うーん。うーん。

第15幕 自我 〜進むべく道〜

ロミオが鉱山での崩落事故をきっかけにして、罪人たちから信頼を勝ち取る。1エピソードで罪人たちの積年の恨みが晴れるのなら世界の紛争地の問題などとっくに解決しているのではないだろうか。いずれにせよ戦争と平和を描くのは誰がやっても難しいのだ。今回からエンディング曲が変わった。こちらのエンディング曲のほうが作品にもあっているような気がするしいい感じ。

第16幕 ひとり 〜いとしくて〜

ようやくハーマイオニ(ロミオの婚約者)の嫉妬がジュリエットに向かうようになった。で、女同士の対決。僕的にはもっと陰湿で陰険でジトジトしていてほしいと思う。そもそも恋愛アニメというのはこういう微温的なものなのかな? 初めてなので、そのあたりはよくわからん。

第17幕 暴君 〜漆黒の因縁〜

大公の出自が明らかになった。大公の父親もキャピレット家で母親は娼婦という。やはり、「設定を開陳していく過程=物語」だとこの作品の脚本家はとらえているのかもしれない。ジュリエットもロミオの愛ゆえにモンタギューに対して「憎しみはない」とまで言ってしまった。個人的には、ここで煩悶して欲しいんだが。

第18幕 志 〜それぞれの胸に〜

いつの間にか三文芝居みたいなのを始めることになっていて、その開演前にジュリエットがロミオに会いに行く。で、会ってキスして終わり。ピンチや苦難を乗り越えて、乗り越えて、やっと出会えたあなた、でも背負うものが多すぎてあなたを正視することができない。それでも募る思い。葛藤。不安。…みたいなのがね、何にもないんだもんなぁ…。エンディングで「本当に実らぬ恋なのですか?」と言ってるが、かなり簡単に実ってるしなぁ。

第19幕 継承 〜我こそは〜

劇中劇をやるアニメは地雷か? …てなことはさておき、ジュリエットがもう一度赤い風になることに。キャピレット家の末裔としてジュリエットが登場。顔はもう隠していないようだ。ロミオって何もできない奴じゃないのに、ジュリエットがコレだけ人気者だと立つ瀬ないな。

第20幕 使命 〜揺るぎなき一歩〜

いよいよクライマックスへ向かう。それにしてもピンチがない。モンタギューは一応独裁者として君臨しているが、追い詰められ滅び行く方向へベクトルが向いていることを視聴者に示してしまっている。この状況では逆転は起こらないし、順送りではドラマ部分が弱くなってしまうのではないか。あと、地震は『コナン』のように不吉な前兆として始めの頃から起こしておくべきではなかったか。そして、一番の疑問はロミオやジュリエットが創意工夫やたゆまぬ努力で平和を勝ち取るわけではなく、抗えぬ運命を自らが受け入れた瞬間に物語が簡単にエンディングを迎えてしまう点だ。これはこのアニメだけに限った話ではないが。

第21幕 掟 〜女神の抱擁〜

モンタギューは自分の城下町を火の海にしているが、そんなことはあり得るだろうか? 数千人規模の残酷な処刑というのならまだしも、大火では秩序も糞もない。しかもモンタギューは誰の目から見ても追い詰められている。悪役がすでに追い詰められてるって何か変だよなぁ。ジュリエットはいつの間にかエスカラスとの絡みで世界を救う鍵になっている。セカイ系かよ…。

第22幕 呪縛 〜荒ぶる激情〜

大衆を前にジュリエットが言う。「剣など必要としない新しいネオベローナをつくろう」と。これはおかしい。今回の騒動はたんに権力が市民へと委譲するに過ぎない。で、モンタギュー死す。このアニメって恋愛アニメのはずなのに、僕にはロミオとジュリエットの関係は随分と冷めたものになっているような気がする。これでいいのだろうか…。

第23幕 芽吹き 〜死の接吻(くちづけ)〜

ジュリエットがネオベローナを救うために死ぬんですと。だから、ロミオとお別れをした。ロミオの兄はロミオに自分の気持に正直になれと言う。え? そうなの? ロミオとジュリエットの関係が変だ。どういうことなんだ? ここにきて恋愛の側面が強調され始めた。ここの展開は、むしろ逆だろう。ジュリエット一人の死で世界が救われるなら、騎士たるものそれを止めるべきではできない。だから僕も一緒に行くよ。じゃないの? なのに、二人で剣でガンガン戦っておりました。実に変な脚本。というのも、ロミオの言い分はジュリエットが世界の命運を握っているわけじゃないという物語の根本を否定をしているからだ。

第24幕 祈り 〜きみのいる世界〜

ロミオが死亡。ジュリエットはやっぱり世界の命運を握っていたらしく、ロミオと一緒に死ぬことに。ものすごく感動するはずの場面なんだろうけどね、2ちゃんねるの該当スレを眺めると僕と同じような微妙な思いで最終回を観た人も多かった。いやほんと…「世界がエスカラスによって支えられていたことも、ネオベローナが宙に浮いていたことも知らなかった」というセリフにはこけたなぁ。最後の最後、街が平和になったというよりも、みんな物分りがよくなっただけで、残された人々の白々しいセリフからは去勢された人間にされてしまったようにさえ思えてしまった。

Posted by Syun Osawa at 23:25

2007年11月18日

どうして君は友だちがいないのか

橋下徹/2007年/河出書房新社/四六

どうして君は友だちがいないのかテレビタレントとして有名な橋本弁護士の『まっとう勝負!』が読みたくて図書館へ行ったら置いておらず、替わりにこの本が置いてあった。しかもこちらの方が新刊ということで読んでみることに。

この本では、友だち関係は時の流れとともに移ろうし、子どものころに人を好きになったり嫌いになったりすることに大した根拠があるわけでもないとしている。先生は「友達をつくれ」とプレッシャーをかけてくるが、なかなか友達をつくることができない子どもにとっては辛い話だ。

そういう悩みを抱えた14歳の子ども達に向けて書かれた本としては、なかなか実効性のある本であるように思った。公立高校へ行き、不合理なヒエラルキーの中で揉まれながら、好きでない人とも上手く付き合えるようになるための練習すればよい。そうやって養われた力こそがコミュニケーション能力だと、論旨がとても明快だからだ。

また、亀田兄弟に関して、なぜ橋本弁護士が擁護の立場をとり続けてきたのか、この本を読めばわかる。橋本弁護士にとって大事なのは家族である。友だちと家族に対する考え方が古風ということくらいで、ネット上で叩かれているほど悪い印象は受けなかった。むしろ共感できる部分が多かったくらい。

ちなみに、この本は14歳のために書かれた本である。つまり、学生時代の友達同士の軋轢と大人になった後の軋轢を明確に分けている。子どもの時代の好きになったり嫌いになったりには根拠がないが大人のそれには根拠があると書いている。このあたりはそのまま受け取るべきかは皮肉と受け取るべきかは悩むところ。

Posted by Syun Osawa at 22:35

2007年11月14日

似てる芸能人=D-Snap=小熊英二=組合=Remix

桑島法子と℃-uteの中島早貴は似てる。

…なんて言ったらZONEのMAIKOと℃-uteの岡井千聖なんかもダブってくるから不思議だ。ようするに言った者勝ち。

先日、D-Snapを購入。iPod nanoと悩んだ末に小数派の決断をした。軽いし再生時間も長く、値段も安い。残念なのは、著作権の関係もあってmp3を仕込む作業がとても面倒臭いことだ。かなり昔に買ったCDウォークマンはCD-Rに焼いたmp3をガンガン流してくれたのに…。しかも再生時間は100時間越えだったしw そっちを押入れから引っ張り出した方が良かったかな?

今月号の宣伝誌『ちくま』(筑摩書房)の読みどころは、小熊英二さんのエッセイ「『象徴天皇という物語』の生まれたころに」だろう。このエッセイの目的は、小熊さんが岩波書店の雑誌『世界』で編集をしていたときに担当した赤坂憲雄『象徴天皇という物語』の文庫化にあたっての宣伝である。

そのため、小熊さんの岩波書店時代の話が書かれており興味深かった。何でも小熊さんは岩波書店時代、編集部から営業部へ異動になったために、自分で研究をするようになったらしい。その後、休職して大学院へ入り、博士号をとるに至ったそうだ。人生いろいろですね。

行く予定だった 文学フリマ は休日勤務と重なり行けず。残念。

(手に入れた本など)
雑誌『someone vol.1』(リバネス出版)
雑誌『someone vol.2』(リバネス出版)
若桑みどり『戦争がつくる女性像』(筑摩書房)
小林多喜二『老いた体操教師 瀧子其他』(講談社)
日能研 編『シカクいアタマをマルくする。算数編』(幻冬舎)
川久保勝夫『数学のしくみ』(日本実業出版社)
手塚治虫『火の鳥』全13巻(角川書店)

TrakAxがとても気になる…

窓の杜 より。フリーソフトダウンロードコミュ で紹介されている使い方を見るかぎり、とてもTrackerっぽい。そもそもTrackerを知らない人のほうが大半なので、ACIDっぽいとえばよいか。

素敵なアニメ

第4回 世界映画人会議 2 で言及していた、クオリティの高い短編というのはこういう作品のことです。

脚本家組合、19年ぶりストへ=ハリウッドは騒然

アメリカはストをする。ヨーロッパでもストは起きる。

超アッパーな「Around the world」

僕も愛用のKORG ELECTRIBE EMX-1を使ったプレイ動画をYoutubeで公開するというのが随分前から流行っていて、公開された作品群の中でちょっと気に入った作品が これ だった。調べてみると、組み立てた人が日本人。で、「Around the world」のリミックスもなかなかテンションが高くてよかった…という話。

Posted by Syun Osawa at 01:08

2007年11月08日

第48回 神田古本まつり

2007年10月26日−11月1日/神保町

第48回 神田古本まつり去年は 無駄話 で書いてたのね。

日曜日に参加。前日の27日が大雨だったこともあって人が多かった。毎度のことだけど、古本まつりなどに行って探している本に出会えることなど皆無に等しい。むしろ余計な本を買ってしまうだけだ。これはコミケとかコミティアとかもそう。金を落とすことに快感を感じてしまっている時点で女性のストレス買いに近いものがあるかもしれない。

今回は最近の興味を汲んで教育系の本をいくつか購入。貴重な本など何一つない。だからといって、生涯学習の一つである 戦争と芸術 関連の本をガチで探そうと思っても、古本屋巡りの素人には上手く見つけられないのだ。そのため、ヤフオクで落としたり、古本屋のネット通販で買う方が確実ということになってしまう。

結局は上述のとおり、今回もストレス発散のための恒例行事という以上の意味は見出せなかった。安いストレス発散法だからいいけどね。

(手に入れた本など)
蒼丘書林 編『回想教壇上の文学者』(蒼丘書林)
長谷川眞理子『科学の目 科学のこころ』(岩波書店)
佐々木力『科学論入門』(岩波書店)
石原千秋『教養としての大学受験国語』(筑摩書房)
小宮山博仁『中学受験と生きる力』(日本評論社)

Posted by Syun Osawa at 00:36

2007年11月05日

イヴァン雷帝 ― ロシアという謎

川又一英/1999年/新潮社/四六

イヴァン雷帝僕がロシアという国にひかれる理由の一つに残虐さがある。サメのような目で顔色一つ変えることなく人を殺してしまうような恐ろしさ。僕が格闘家のヒョードルやプロボクサーのユーリ・アルバチャコフが好きなのも、おそらくこのあたりの感覚が関係していると思う。

イヴァン雷帝は殺して殺して殺しまくった。敵も味方も関係なく、神以外のすべての者を殺戮の対象にしていたといっても過言ではないだろう。では誰が彼の殺戮を許したのか? もちろん民衆である。イヴァン雷帝はツァーリとして、恐怖を伴いながら横柄な貴族たちをバッタバッタと切り捨てていった。民衆はそこにカタルシスを感じるのである。貴族もイヴァン雷帝も善ではなかった。民衆はそれを知りながら、イヴァン雷帝をツァーリとして受け入れているのである。

この状況はスターリンの時代にも現れる。そして今、プーチン政権下のロシアも無関係ではないだろう。少々の恐怖政治、対外的に好戦的な態度はロシア国民にとってはイヴァン雷帝時代から脈々と築かれてきた指導者の姿なのかもしれない。

この本ではイヴァン雷帝は人間臭く描かれていた。当然かもしれない。

Posted by Syun Osawa at 00:08

2007年11月03日

第4回 世界映画人会議 2

2007年10月25日/六本木アカデミーヒルズ49「スカイスタジオ」

第4回 世界映画人会議 2サブタイトルは「世界の若手アニメーターの現状 ― カナダ、ドイツ、フランス、そして日本 ―」となっている。そして、裏テーマが「何故、日本の短編アニメ作品はアカデミー短編賞を受賞できないのか?」だったらしい。

ゲストも豪華でマイケル・フクシマ(カナダ国立映画制作庁プロデューサー)、パスカル・ルノートル(フォトリマージュ共同創立者/フランス)、ザシュカ・ウンセルド(スタジオ・ゾイ創設者/ドイツ)、古川タク(アニメーション監督)というラインナップ。かなりマニアックな人選にも関わらずイヤホンによる同時通訳も付いていて、これは国の力を借りなきゃできんわなw ありがとう日本…みたいな素敵なイベントだった。

早い話が、海外には個人(もしくは数人)で制作する質の高いアニメーション作品が数多くあるが、なぜそんなものがつくれるのか? といった話である。作品がつくられる経緯としてプロデューサーの存在があり、制作者の人選が行われ、制作費が捻出され、国からの援助もあり、数年のスパンで作品がつくられる。そうしてつくられた作品の扱いが、たとえ「学校での卒業制作」という意味づけであったとしても、そのクオリティは大変高いものになるのだ。これを日本の美大などのアニメーション学科の卒業制作と同列に扱うのはちょっと違う気がする。

とりわけプロデューサーの存在は重要だと思われる。もう少し正確に言えば制作者の側に立ったプロデューサーの存在。自己満足的につくられる個人制作のアニメを客観的な評価にも耐えられるように修正していけるプロデューサーの存在である。

日本でもプロデューサーの養成が行われているそうだが、アニメーション学を学んだアカデミックな人を育てている印象が強い。詳しいことはわからないが、もし仮そうだとすれば軌道修正が必要だろう。といいうのも今回講演を行った3人のプロデューサーは、プロデューサーであると同時にアニメーション作家でもあるからだ。

つまりプロデューサー不在の一番のネックは、予算的なことよりも、個人レベルでつくられているアニメーションをストーリー的にもビジュアル的にももう一歩上のステージに上げることのできる人が日本には少ないということなのかもしれない。

Posted by Syun Osawa at 01:22