bemod
« 2008年12月 | | 2009年02月 »

2009年01月30日

茄子 スーツケースの渡り鳥

監督:/2007年/日本/アニメ

茄子 スーツケースの渡り鳥この作品に続編がつくられるとは思っても見なかった。前作はそれなりに好評だったのかな?

本作は前作『 茄子 アンダルシアの夏 』とは趣が異なっていて、ほとんどがレース場面。アクションシーンが好きな僕には、見所の多い熱い内容だった。特にジブリと関わりの深い高坂希太郎(監督)と吉田健一(作画監督)のコンビということもあって、「宮崎駿イズムをいかにして克服するか?」というような情熱が見え隠れしていた。そして、僕にはそこが凄く素晴らしく映ったのだ。

細かな人間の動き(汗の拭き出し方とか、動き出す瞬間の体を膨らます演出など)に古き良きアニメーションを継承しつつも、それを超えた過剰な演出(ザンコーニの走りなど)に制作者の夢みたいなものを感じた。何と言うか、滅び行く2Dアニメのマンネリズムの奥に見る希望みたいな…。あと、難しい自転車の動きを3Dの背景を回すことで上手に処理しており、しかもスピード感を殺していないのも凄かった。

ドラマ部分に目をやると、主人公達のチームはベルギーのチームなのに、通訳なしで会話をさせるなど、細かいところは全部とっぱらって、面白さだけを追求している。主人公に対抗するライバル、死んだ過去のヒーロー、ヒロインも一応登場するが、主人公達との関わりが薄かったために、ドラマとしては深みを持つまでには至らなかった点は少し残念だった。この作品に関しては、そういうのはどうでもいいのかもね。

ともかく、1時間弱という短い時間にここまでアクションシーンを詰め込んだのは凄いの一言に尽きる。アニメーション制作に関して、マッドハウスはいい仕事しますなw

Posted by Syun Osawa at 01:39

2009年01月28日

民族とネイション

塩川伸明/2007年/岩波書店/新書

民族とネイション人間について最大公約数の集団を国民としたとき、その集団を形成しているものの概念をどう捉えるか? また、その集団は何を根拠にその集団への帰属意識を抱いているか? そのような問題がわかりやすくまとめられていた。

例えば、アメリカのような多民族国家と日本のようなおおよその単一民族国家では、国民意識と民族意識の重なり具合はかなり異なる。また、民族的なつながりを超えて、宗教や言語によって区分けされている国もあれば、宗教と言語が同じであっても別々に存在している国家もある。だから、ナショナリズムや愛国主義というものは、必ずしも一つの概念というわけではないようだ。日本に住んでいる僕には気がつきにくいところだった。

著者は民族(≧ネイション)の分布範囲を4つに分けている。

  1. ある民族の分布範囲よりも既存の国家のほうが小さく、複数国家分立状態である場合。
  2. ある民族の居住地域が他の民族を中心とする大きな国家の一部に包摂され、少数派となっている場合。
  3. ある民族の分布範囲と特定の国家の領土がほぼ重なっている場合。
  4. ある民族が広い空間的範囲にわたってさまざまな国に分散して居住しており、どの居住地でも少数派である場合。

日本は3に属するのだろう。こういう場合は、国民≒民族となるのでわかりやすい。1もまぁいいだろう。難しいのは2と4のような場合。2のような場合は、ある場所では少数派だが、別の場所では多数派になることもある。4の場合は、それぞれの地域では少数派でも、国家の枠組みを超えて繋がっている場合は少数派以上の力を持つこともあり得る。

コソボ紛争などを考えたとき、コソボを攻撃したセルビア人はコソボに住むアルバニア系住民にとっては多数派だが、アルバニア人、イスラム教圏といった枠組みで考えると、セルビア人のほうが少数派になってしまうのだ。このように弱者と強者が射程範囲の設定によって入れ替わる場合、そこで起こる紛争はよりいっそう複雑なものとなる。

「強者」でも「弱者」でもある集団が「自分たちは弱者だ」という自己意識に基づいて集団行動をとるとき、それは往々にして「過剰防衛」――他者の眼から見れば「過剰な攻撃」――になってしまう。このことは民族問題に限らず、より一般的に、「強者」と「弱者」、「加害者」と「犠牲者」の線引きの難しさという問題と重なり、アイデンティティ・ポリティクスの一般的な難問をなしている。
いま述べたのは、強者・弱者における重層的関係(「入れ子」あるいは「マトリョーシカ」構造)ないし逆転現象のことだが、もっといえば、そもそもエスニシティも民族も区切り方が一義的ではなく、どのような単位をひとまとまりと考えるべきか、「内」と「外」の境をどこに定めるかをめぐって争う余地がある。それでも、特定の区切り方が自明であるかに見える状況においては、そのように見えていること自体が相対的安定性の保障となる。しかし、まさしくその自明性が突き崩され、流動化すると、どのような単位でどのような自己主張をすべきかをめぐるヘゲモニー競争が不可避となる。このような状況を前にして、ここの勢力を「弱者」と「強者」に振り分けたり、一方を「進歩的」、他方を「反動的」と裁断したりすることは、「中立的な」認識ではなく、むしろ特定勢力への肩入れとなってしまう。

著者が「魔法使いの弟子」という比喩で表現しているように、このような事態は、例え最初は小さな火種であっても大きくなってしまい、誰もとめることができなくなってしまう。これは山火事ともよく似ている。

世の中には、ある特定への集団への帰属意識を高めるために敵を強く意識させ、そのことを強く煽り立てる人間がいる。そういう連中を放置すれば、事態はエスカレートして煽り立てた人間にもそれをコントロールすることが不可能になってしまう。だからこそ、ナショナリスティックな感情が他者への攻撃の形をとろうとするときは、早い段階でその循環を止める必要がある。ネット上での不毛な煽りあいが終わらない原因もこういった状況にそのまま当てはまってしまうから不思議だ。

この本ではさらに、社会主義化のナショナリズムの話や大日本帝国が多民族国家を意識していた話など、「国民≧ネイション≧民族≧エスニシティ」に絡んだ話が満載で面白かった。

アメリカでは自由主義が生活様式そのものとなり、そのことが、逆説的な表現だが「教条的な自由主義」「自由主義の絶対主義化」自由主義的画一性」等の現象を生み出したとの指摘があるが(ハーツ『アメリカ自由主義の伝統』)、これは「自由主義」のナショナリズム・イデオロギー化とも言い換えることができる。「普遍性」の標榜が国民統合の軸となり、特異なナショナリズムの原理となったのは、ある意味でかつてのソ連とも似たところがある。それは「革命によって建国された国」という共通性があるためであり、単なる偶然ではない。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 01:48

2009年01月26日

新人画会展 ― 戦時下の画家たち

2008年11月22日−2009年1月12日/板橋区立美術館

新人画会展 戦時下の画家たち新人画会というのは、1943年に靉光(あいみつ)、井上長三郎、鶴岡政男、松本竣介ら計8人の画家によって結成されたグループ。ただし、グループとしての活動は資生堂ギャラリーで展覧会を数度開いただけだったらしい。今回の展覧会は当時の展覧会を再現する形で開かれていた。

戦前にこの展覧会が開かれたとき、大政翼賛的なムードもあって、多くの洋画家たちが具象画の系譜で戦争画を描いていた。それに対して、新人画会は戦争とはまったく関係のない絵を描き、展覧会を開いたことから、今では戦前に自由と戦争への抵抗の意思を示した数少ない活動として取り上げられることが多いようだ。新人画会に集まった8人のうち6人は美術文化協会に所属(井上と松本だけが別の団体に所属)しており、美術文化協会の集まりには必ず軍人が出席することになっていたらしい。そういう事情も上記のような抵抗のイメージがついた理由かもしれない。

その一方で、彼らが開いた展覧会はイデオロギーが前面に押し出されたものではなかったとする意見も多く述べられている。実際このグループの何人かは画家たちは後に従軍画家として戦争画を描いている。

今回は観た作品は、それぞれの作品の持っているベクトルがバラバラで、自由に描きたいという思いが溢れている。ただし、ベクトルの進行方向はバラバラでも出発点は意外に近い印象を受ける。その点について、嫌な見方をする人ならば、戦争から離れたいというスタンスが強く意識されすぎて、そうであるがゆえに戦争を意識した作品になっていると言うかもしれない。しかし、彼らの思いはもっと単純で、画家として名を上げたいということだったんだろうと思う。それは洋画家たちの多くが戦争画に自分達の存在意義を見つけたのとも少し似ている。

そうした戦争への意識といった部分を考えると、井上長三郎と松本竣介の絵はわりあい見通しがよい。

井上長三郎の代表作の一つである《漂流》は戦争から距離をとったものではなく、だからと言ってリアリズムの戦争画のような単純な志向もない。戦争に対する高揚後にあらわれ始めた疲弊感と厭戦の気分というような時代の空気を上手く捉えた作品だった。実物は予想以上に大きくて、写真で見るよりも全然迫力があった。

松本竣介はアンリ・ルソーの作品を模したような《立てる画家》の絵が有名。だからと言って、それらの絵の中に表現される作者の意思みたいなものが創作の主軸かといえばそうではなく、それ以上に技法(マチエール)に対してかなり気を配っている様子が伺える。彼が美術雑誌で明確に戦争画に対して疑問を呈したのは、戦争反対の意思という以上に、リアリズム絵画に流されて技法の探求をやめてしまった洋画家たちに対しての憤りがあったからかもしれない。

ところで、今回は松本莞(松本竣介ご長男)さんによる「新人画会の時代と松本竣介」という講演があったので参加した。

松本莞さんの話によると、新人画会が開かれた 資生堂ギャラリー では、1943年だけでもおよそ80本もの展覧会が開催されていたらしい。戦前の日本での日常生活って、僕世代にはあまりにもかけ離れすぎているため想像することすら難しいが、毎日が陰鬱というだけでもなかったようだ。不安の大きさは今とは比べ物にならないだろうが、それなりに文化的なことも行われていたのだろう。

松本竣介のプライベートな話としては、彼は生前はほとんど絵が売れなかったらしい(今ではほとんどが売れている)。当然、彼がどうやって生活していたのかという疑問が湧く。彼は定職に着かずにアトリエでずっと絵を描いていた。ようするに金持ちだったわけだ。当時の部屋の写真を見ると立派なアトリエだった。やっぱり芸術家っていうのは、金持ちか金持ちに見出された人がなるべきなんだろうね。

こういう生活環境の中で生きていた彼の状況を踏まえると、彼が雑誌『みづゑ』 に書いた「生きてゐる画家」というエッセイには、僕がこれまでに感じていたものとは違った感情が芽生える。そして、積極的に戦争画を描いた貧しい洋画家たちとの対比を考えると、当時の戦争に対するイデオロギーの問題とは違ったレイヤーで、別の問題を投げかけているようにも思った。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:20

2009年01月24日

1968年

スガ秀実/2006年/筑摩書房/新書

1968年1968年がいっぱい詰まった本。

僕の場合、立花隆『中核 VS 革マル』という本を読んで以来、ちょっとだけマル共趣味者になってしまい、かつての全共闘や新左翼の本をたまに読んだりしている。最近では小阪修平『 思想としての全共闘世代 』などを読んだ(まぁその程度)。この本もそのあたりの系譜に属している回想&自分ほめ本。しかも、現在の世界情勢や思想などとつなげて語っている点が面白かった。

特に面白かったのは次の2点。

1つは華青闘告発の話。僕にはちょっと想像しにくい話だが、全共闘な人たちの一部は「大きな物語」の再建を本気で夢見ていたらしい。そして、自分たちの革命が達成されれば多くのマイノリティたちの願いも成就すると思っていた。ところが差別発言を契機にして、在日韓国・朝鮮人のグループから「あなた達も抑圧する日本民族であって、真のマイノリティの声を代弁できる立場にない」というニュアンスの突込みを入れられて、「大きな物語」のベクトルにズレが生じてしまう。

新左翼(とりわけ諸党派)が内包している民族差別を告発するその言説は、やはり、本質主義的な衝撃として受け止められたと考えるべきだろう。それは、日本帝国主義を打倒すれば、あるいは、世界革命が成就すれば民族問題も解決するという新左翼的イデオロギー(社会構築主義!)に対する批判であった。だとすれば、それは革命を成就しても解決できない問題があるという含意をともなっていたからである。

こうして、闘争の最前線であり「主体」であることがアイデンティティともなっていた新左翼のナルシシズムが打ち砕かれ、彼らの「大きな物語」が偽史的なものに変化していく。よって、自覚のあるなしに関わらず彼らの想像力が、今で言うところのセカイ系的な想像力へと転換されていくわけだ。

もう1つはネオリベとトロツキストの話。この2つの言葉は今ではマジックワードと認定され、怪しげな言葉として流通しているそうな。ようするに、トロツキーが見た世界革命という夢は、グローバリズムが進むことによって(変奏的であるとはいえ)達成されているように受け止められているという話だ。

このことは、1968年前後に一国社会主義を支持した社会党や共産党のような旧来の左翼に別れを告げ、世界革命を夢見た新左翼たちの想像力が、きっちり現在と接続しているという自分褒めにも近いロジックである。

その一方で、政治色を脱色したベ平連の活動が再評価されていることに対して、著者は少しだけ手厳しい。現在は政治の衰退が著しい。そういう状況で多くの人が社会活動に参加する流れをつくるためには、ベ平連のような活動は一つのモデルとして再評価されてもいいという時代の空気に対して、著者はこう述べている。

今日、ベ平連に象徴される市民的反戦平和主義を再評価することは、何を意味するだろうか。それはむしろ、冷戦体制の崩壊とグローバル資本主義によって自明のこととされてしまった。もはや「政治」が機能しなくなったとシニカルに認識されるごとき、ポストポリティカルな状況における「革命」の不可能性と、資本主義の永遠性を追認するだけではないのか。その二つを承認してしまえば、後はアイロニカルに現状を肯定すること――アメリカのプラグマティズムの哲学者リチャード・ローティが言う「レベラル・アイロニズム」――しか出てきはしない。そこにあるのは、結局は何も変わりはしないというシニシズムだけである。

そんなわけで、1968年は今でも重要なキーワードであり、この時代に発せられた問いの答えはまだ提示されてないということなのだろう。たしかに、ポストモダンの話でもわりとよく出てくるタコツボ化というか、現状認識のループによるグズグズ感を何とかしたいという思いは、2010年にもなろうかという現在でも解決していないと考える人は多いしね。

とはいえ、僕にとっては、1968年を「豊かさのなかの革命」とか「資本主義の力に依拠することで遂行された「革命」だった」とか自戒的に述べられても、戦後民主主義=反戦平和主義への嫌悪する六八世代(全共闘世代)の心性を面倒くさいものとしか受け止められないというのが率直な感想だ。

しかも戦後史に目を向けると、セカイ系的(偽史的)な想像力というのは、新左翼だけでなく、一国社会主義を実現しようとしたスターリニズムの中にも、戦後民主主義の中にもあって、ゲームを比喩にするならば、どの選択肢を選んだとしてもセカイ系になることは避けられなかったのではないかと思うのだ。このへんは、僕があまりにも不勉強&頭が悪いため良くわからないが、そんな印象を強く抱いている。

ところで、この本の中で一番驚いたのは、太宰治が戦後すぐに共産党に再入党していると書かれていたことだ。最入党したということは、もともと共産党員だったわけで、その後に一度やめて再び入り直したということか(何で辞めたんだろ?)。やっぱり戦前の共産党はなかなか魅力的だったんだな。

Posted by Syun Osawa at 09:00

2009年01月22日

ONE ― 輝く季節へ(全3話)

監督:ふくもとかん/2003年/日本/アニメ

「永遠はあるよ ここにあるよ」で有名な作品の成人向けアニメ版。

大抵の場合、セカイ系のアニメ作品は一般向けアニメにロンダリングされて流通しているのに、なぜだか本作はアダルト作品として販売された。販売されたのは2004年で、発売元はCherry Lipsという会社。2001年にケイエスエスから一般向け作品として発売されているにも関わらず、なぜ別の会社がアダルト作品として発売したのかは不明。

アダルトアニメは何気にチョロチョロ観ているんだけど、それらと比べる限りクオリティはまぁ…真ん中あたりかな。ただ、エロシーンが少ないのと、セカイ系作品のアダルトアニメ化したわりには、セカイ系の部分を上手く消化できていないのが残念だった。まぁ、セカイ系の作品ってエロは取ってつけたように入るのがデフォみたいなところがあるのだろうから、仕方ないのかもしれないけど(じゃあ何でアニメ化したのかっていう話にはなりますな)。

以下、サラッと感想メモ。

第01話 

完全に失敗している。ただし、二人語りや深遠な語り、ゲーム的な繰り返しと、示唆的なつくりになっている。エロシーンは少な過ぎ。展開が唐突なのは仕方ないとしても、セカイ系っぽさはもう少し欲しいなぁ。

第02話 

冒頭とか合間に挟まれる男女二人の語りは完全にセカイ系ではあるのだが、とってつけた感じはどうしても消えない。二人の掛け合いの部分と日常生活のドラマとエロシーンがバラバラなまま放置されている。もっともゲームからしてそういう雰囲気を持っていたんだけど、アニメでは上手く接続した感じにしてほしかった。

第03話 

別れと再開を最後にやっているが、やっぱり唐突な印象を受けてしまう。1話30分×3本のなかに、エロシーンを含めて3人の女性を登場させているので、強引な部分が目立つのはやむを得ないことなのかもしれないが、ドラマの希薄さは如何ともしがたい。別に『Bible Black』並みのレベルを期待していたわけじゃないんで、いいんだけどさ。

Posted by Syun Osawa at 01:43

2009年01月20日

コミックマーケット 75

2008年12月28日−30日/東京国際展示場

コミックマーケット 75毎度のことながら今回もぐだぐだ。

何年もカタログを買わずに参加しているので、巡回箇所は限られてしまう。しかもエロも収集してないので並ぶことも少ない。

僕にとってコミケというのは、散財することで同人文化に寄与することと、年に二回の節目的な存在以外にはないのかもしれんなぁ。だったら何で男祭りの三日目ばっかり行くんだよ!って話でもあるんですが…。

オタクブックスの創刊号が売っていて、夏に買ったかどうかが思い出せずに結果的にスルーした。家に帰って ブログ を見たら、買っていなかったことが判明。うーん、携帯のWebでチェックしとけばよかった。

手に入れた同人誌など

JH科学の新刊(いろいろな詰め合わせ、レベル高いなぁ…)
PEACEMAKER『20081230』(イラスト)
あきまん『ヒカリちゃん通信』(イラスト)
あきまん『ふゆまん 3』(イラスト)
okama『Dressnipples』(イラスト)
オタクとデザイン『オタクとデザイン 3』(情報)
綾波書店『イグノーベル賞 ファンブック 総集編』(情報)
東浩紀『波状言論 号外』(批評)
革命的非モテ同盟『カンパニア vol.1』(批評)
秋葉原大学捏造図書刊行会『萌集 C75』(批評)

非モテ同盟は革萌同みたいな新左翼のパロディというわけではないのかな? 「非モテ」ってはてな界隈では流行していたらしいんだけど、僕はまったく知らない。宇野常寛『 ゼロ年代の想像力 』で「すっぱい葡萄」の話があったので、少しくらいは認識があるんだけど、実際のところどうなんでしょ? それともロスジェネ論壇とのパラレルな関係なのか…よくわからん。

次回こそはもう少しマンガとか創作界隈のところをマメにチェックしないとなぁ。批評とイラスト集の割合が増えてきてるし。

Posted by Syun Osawa at 12:14

2009年01月18日

インフルで爆死=東方アニメ=大きな物語的総合誌

インフルエンザにかかって爆死。基本スペックとして慢性鼻炎&風邪気味なので気づかなかった。会社サボれてラッキーだけど、喉が痛いのとテンションが上がらないのはちと辛い。

2009年は第三期ネット廃人と化している日常生活から卒業しようと思っていたのに、昼間に家にいるとどうしてもステカムに生息するマイノリティな方々の煽り合いとか見てしまうんだよなぁ。年末年始とかも熱かったし。いかんなぁ。頼まれごとが3つもあるのにどれも進んでない。うーん、とりあえず本でも読むかw

手に入れた本など

フレデリック・ボワレ『恋愛漫画ができるまで』(美術出版社)
図録『新人画会展 ― 戦時下の画家たち』(板橋区立美術館)
図録『井上長三郎展』(板橋区立美術館)
NHK放送文化研究所『国語力もっとアップ400問』(NHK出版)
セレス小林 監修『ボクシング上達BOOK』(成美堂出版)

宣伝誌『ちくま 1月号』に山本義隆さんが書いている。何でも『熱学思想の史的展開』がちくま学芸文庫に入るらしい。敷居が高くてどの本も読めてないけど、いつかは読んでみたい。伊藤&森川&竹熊による「オタク文化の現在」はいよいよ無理くり感が出てきていて興味深い。

ジブリの『熱風 1月号』には今回も宮崎駿さんが登場。説教臭いのは年齢的に仕方ないとして、それを超えて伝わる含蓄のある言葉にやられまくりです。それは単に僕が信者だからなんだろうけど。

東方アニメプロジェクトって凄いのね

石川プロ以外にもこういう活動しているところがあるんですね。全然知りませんでした。

ひろゆき、アニヲタを斬る!

プギャーって感じですかw その通りですね。アイドルオタクでありアニメオタクでもある僕にも深く突き刺さる言葉でしょうか。たしかにアニヲタ自重しろと思うことは多いです。

もう一つの「ポリリズム」BEE-HIVE寮ネタ

CHIHIROことちーちゃんです。顔が凄く大人っぽくなっていてビックリ。ネット中継やっていた頃に彼女はデビューしたと記憶しています。ちなみに彼女はBEE-HIVE寮には住んでいましたが、BEE-HIVEのメンバーではなく、ネット中継のカメラの前に登場したのもおそらく数回だけだったと思います。探せば見つかると思いますが、そのときは凄く幼い感じでした。今はしっかりR&Bの歌手になっていますね。人間の成長って凄いよ。

08年休刊雑誌プレイバック/日刊サイゾー

不景気な話し多いですな。

総合誌の衰弱が止まらない

特に総合誌がヤバイらしい。ポストモダンに侵されちゃってる人なら、総合誌が消滅することと「大きな物語」消失以降の島宇宙化した専門誌の乱立を重ね合わせて論じる人って多いのかも。それとは別に、こういう傾向はクロスワードやナンクロの専門誌で如実に現れていたりする。つまり、パズルの総合誌は廃れて、一つの専門的なパズルに特化した専門誌だけが生き残ったという…。

テレ朝『ウソバスター』のブログ自作を認める

ネットを利用せざるを得ない作り手の疲弊感が見える話。しかもこのニュース自体が既視感漂いまくりという悲劇。

終わらない「波動」ネタ

朝の情報番組で「波動」ネタが扱われていた。何でも宝石を身に着けると、波動エネルギーに変化があるということで、そのことを波動測定器で調べるというものだった。「そもそも波動って何よ?」と誰も疑問に思わないことがこの手の情報バラエティの恐ろしさかもしれない。

駆け出し研究者が科学のために立ち上がる方法のガイド

熱いエントリ。そして、一番熱いのは 食品安全情報blog です。

綺麗な夕焼けの画像ください

みんな写真上手いなぁ。もちろん加工の技術も上手いんだろうけど。

Posted by Syun Osawa at 00:19

2009年01月15日

読んでいない本について堂々と語る方法

ピエール・バイヤール/訳:大浦康介/2008年/筑摩書房/四六

読んでいない本について堂々と語る方法なかなか刺激的なタイトル。この本の力点は「語る方法」にあるので、一般読者というよりは批評家とか評論家と言われる人を視野に入れつつ、ネットで書評などを書いている人を読者対象にしているのだろう。僕の場合は読書経験そのものの感想を書き散らかしているだけ(感想文ともいう)なので、実はあんまり関係がなかったりするのだが。

この本では「読書」を「本に書かれた著者の思想や知識といったものに還元し、それらを仮想の共有図書館に収めること」と捉えているようだ。よって、本について語るということは、その共有図書館を参照しつつ語ることなので、実際にその本を読んでいるかどうかはそれほど問題にはならないという。ようするに間違いでなければ、人聞きでも書評でもまとめサイトでも何でも良いのだ。

本を人々が交わす言葉の相互作用と捉えるならばたしかにそうかもしれない。著者は次のように書いている。

本というものは、〔物理的な意味での〕本である以上に、本が人の手から手へと渡り、変化してゆく言説状況の総体である。だとするなら、読んでいない本について正確に語るためには、この状況にこそ敏感でなければならない。というのも、問題となるのは本ではなく、本が介入し変化してやまない批評空間において、本がどう変わったかということだからである。この変化する新たな対象は、テクストと人間との諸関係からなる動く織物である。未読書について語るための、時宜を得た、正しい方法が提案できるためには、まさにこの対象を視野に置かなければならない。

さらに、人は共有の図書館とは別に個人の図書館を持っており、語りはその個人図書館の情報をもとになされる。そして、著者は語りに創造性を付加するためには本に深入りしないことが良いとしている。なぜなら、本を深く読みすぎることは、みんなが参照する共有の図書館に強く影響を受けることを意味するからである。そうすると、仲俣さんの本読みの方法は、この本の理論で言えばまったく正しいということになる。

それはさておき、これは昨今よく語られるデーターベース論と近い発想で僕自身大いに納得のいくものだった。そして、この本を読んだときふと宇野常寛さんの『 ゼロ年代の想像力 』が頭に浮かんだ。

Posted by Syun Osawa at 00:53

2009年01月11日

BIT'sインストア・イベント

2008年12月20日/15:00−17:00/ISHiMARU SOFT2

BIT'sインストア・イベント完全にインストア乞食と化している今日この頃。Saori@distenyのイベントに行ったつもりが、完全に場所を間違えていた。SaoriはASOBITCITYだった。始まる前に気づけよって話しなわけだけど、基本的に下を向いて歩くような内向的なキモヲタのために全然気づかなかったのだ。客層も似たような感じだったしなぁ…。

当然メンバーのほとんどを知るはずもない。ただし、何故だか 山口千結 さんだけは知っていた。曲的には僕の趣向と少し違うかな? トランスがあったりアイドル歌謡的なものがあったりでいろいろみんな頑張ってますね。誰が歌ったか忘れたけど、ソロで歌っていた「Precious Story」が良い曲だった。歌も上手かったし。

帰りに ゆめ☆ドル を名乗る人からチラシを貰った。本当にいろんなのがドンドン出てくるなぁ。やっぱみんなアイドル幻想抱いてんのね。アイドル幻想は、オタのほうにあるのではなく、実は演じているアイドル達のほうにあるというのが定説だったりするが、そこはまぁいいか。

Posted by Syun Osawa at 00:49

2009年01月09日

火の鳥 宇宙編

監督:川尻善昭/1087年/日本/アニメ

火の鳥 宇宙編1986年、1987年にアニメ化された『火の鳥』は全部で3本。1本目が『 火の鳥 鳳凰編 』で劇場公開された。その次が『 火の鳥 ヤマト編 』でこちらはOVA発売だったらしい。そして3本目が本作(OVA発売)ということになる。

3本はすべて監督が異なっており、今回は『 バンパイア・ハンター D 』の川尻善昭が担当している。

さすがにこの作品は観たことがないだろうと思っていたら、この作品も見た記憶があった。特に序盤のSFとミステリーが融合された引きの強い展開は、かなりはっきりと覚えていた。宇宙船を脱出するため、船員がそれぞれ個人用の脱出用シップに乗り込む。この乗り物は、同じ軌道で動いているものの、自分達で動きをコントロールすることができない。そのため少しでも軌道がずれると、いつしか大きく進路が異なってしまい離れ離れになってしまう。

この脱出用シップの一つには、死んだはずの牧村の乗ったものがあり、他の船員達のシップの最後尾で後を追っていた。ここにミステリーの要素が含まれている。この状況設定がまず凄い。そして、そんな人間の無力感を感じさせられる状況の中で、彼らが語るのはナナという女性乗組員を巡る恋愛の話だったりするのだ。

そして、いくつかの脱出用シップが奇跡的に地球と同じ環境を持った星に漂着したときに、前半に残っていたミステリー部分(牧村の謎)が明らかにされる。しかもそれが火の鳥と大きく関係していくのだからさらに凄い。手塚治虫の言葉を借りるなら、完全に帰納法的に作られた作品であるが、その組み立て方がこれまで見た2作品を越えて素晴らしかったように思う。演繹法的なキャラ立ちという意味では、劇場公開された『 火の鳥 鳳凰編 』が一番だったが。

ところで、そもそも火の鳥というのは神様ではないのね。人間が犯した罪の償わせ方が、罪を犯した本人を醜い顔にするだけならまだしも、子孫にまで酷いことをするとか言ってるわけで、超やり過ぎな感じw

あと、この三部作(と言っていいかはわからんが)のアニメーション制作は、手塚プロではなくマッドハウスなのだそうな。マッドハウスって昔からOEMの得意な会社だったんだな。

漫画版が積読になっているので、そちらを早く読まねば…。

Posted by Syun Osawa at 01:04

2009年01月07日

貧乏するにも程がある

長山靖生/2008年/光文社/新書

貧乏するにも程がある貧乏には二種類あって、自己実現を果たすために好きで貧乏を引き受けているタイプと、そんなことは関係なくただただお金を稼ぐのがヘタで貧乏になっているタイプがある。

この本に登場する貧乏作家たちはどちらかと言えば前者に属するだろう。もちろん貧乏を積極的に引き受けているわけではない。しかし、物書きという職業自体が成功してもさほど儲からないということを知りながらその世界に没入しているのであるから、ある程度は貧乏なまま生きていくことを引き受けていると考えていい。

彼らは創作のモチベーションを「貧乏/金持ち」とは別のところに見出している。つまり彼らは儲からないことを知りながら、好きなことを好きなようにやっているわけだ。こうした振る舞いは現在の社会状況とも非常に親和性が高く、多くの場合「自分探し=負け組」と単純に規定されてしまう。これは「貧乏/金持ち」の構図から見たら疑いようがない。

でも、それだけの価値観では人ってなかなか幸せになれないよね、というのがこの本の著者の態度である。この点は僕も大いに賛同したい。

近代の作家や芸術家で裕福に見えた人の多くは、実は元々お金持ちだったりするので、創作の対価で裕福な暮らしをしている者は今も昔もごく一握りだと言えるだろう。このことを根拠に貧乏を肯定するわけではないが、著者が

ただ貧乏に慣れ親しみ、貧乏なままで、破綻はしない程度に、気楽に暮らすことを目標としている。

と書くように、「貧乏/金持ち」=「幸福/不幸」という価値観からは少し離れてた場所で、死なない程度に貧乏と上手く付き合っていながら生きていければと思う。とはいえ、著者のプロフィールを見たら歯医者だったりするので、何となく「ズコー」って感じですが…w

Posted by Syun Osawa at 01:07

2009年01月04日

記憶に残るボクシング=栞=ポストロック=検定

あー、小堀選手が負けてしまったー! 残念過ぎる!!

でも、めっちゃ良い試合だった。対戦相手のモーゼスはジャブが鬼のように早いし、相当強かった。それでも当て感と思い切りの良さで撃ち合いは完全に小堀選手が制していた。あの左フックは本当に侍の一太刀みたいでメチャメチャ渋い。最終的にはポイントアウトされちゃったんだけど、本当に本当に胸を打つ試合でした。

あと、西岡選手の試合もアウトボクシングすれば余裕で勝てるところを、ガチで撃ち合って最終ラウンドにKO勝ち。最初のダウンをとったアッパーは神業の領域。こちらの試合も壮絶でかなり熱かった。

日本のボクシング界は低迷しているらしいけど、ぶっちゃけ試合内容は亀田ブームのときよりも遥かに面白い試合が続いている気がするのは僕だけでしょうかね。

ブックカバーについている栞

僕はブックカバーが好きで、文庫、新書、A5、四六の各サイズについて数種類のブックカバーを持っている。そのうち、布製のブックカバーには、何故だか栞用のヒモが縫い付けられていることが多い。僕にとってこのヒモがとっても邪魔なのだ。そもそもブックカバーをつける人は栞も好きなんだから、そういうお得感はいらないと思うんだけど…。

TSUTAYAのポストロックというカテゴリ

TSUTAYA新宿のレンタルCDの棚にいつしか「ポストロック」棚が出来ていた。そして、そこへAphex TwinやBoards of Canadaなどが「テクノ」棚から移動されていた。The OrbやSystem7はテクノ棚に残っている。I am Proud and Robotもテクノ棚だ。Juno Reactorはロック棚にあるのに、Femi Kutiはテクノ棚にある。

どういう区分けなのかいろいろ謎なんだけど、それはまぁいい(よかないけど)。ともかくポストロックはやめて欲しい。「ポスト」というカテゴリは何かを言っているようで何も言ってないし、何も思いつかない人が他人のふんどしで相撲をとるような主義主張のようにも感じるので、個人的にはまったく好きではない。

オタク系検定がとめどない件

コミケの企業ブースで貰ったチラシの中に、流行の検定に関するものが2つ含まれていた。1つは 日本漫画能力検定協会 が実施しているもので、「漫画キャラクター検定」「漫画家アシスタント検定」「漫画ストーリー検定」「漫画技法検定」「似顔絵検定」の5つ。

漫画家アシスタント検定って…それ取ってアシスタントになる人なんているんだろうか? そもそも漫画家のアシスタントになるのに履歴書なんて必要ないから、検定結果を書く機会がないやん…。あと、似顔絵検定って何だよ!w

もう一つは 日本声優能力認定協会 が実施しているもので、こちらは電話で受験できるらしい(お手軽すぎるだろw)。ちなみにこの2つの団体の住所は同じ。

手に入れた本など

『アニメーションノート no.12』(誠文堂新光社)
『ロスジェネ 第2号』(かもがわ出版)
青野春秋『俺はまだ本気出してないだけ』1、2巻(小学館)
武藤康史『旧制中学入試問題集』(筑摩書房)
浅羽通明『ニセ学生マニュアル』(徳間書店)

久しぶりに連載中の漫画を買った。漫画内漫画が好きなので。

手塚アニメの超絶作画

編集長メモ より。プロかな? それか専門学校生とか? 素人だったら上手すぎますね。才能が羨ましい。

テキストエフェクト100選

これマジで凄い。ただし、エフェクト処理以上に、パーツの配置とかのセンスが難しかったりする。

踊ってみた関係の中国人の意外な反応

不適切なリンク先かもしれませんが、まころんの動画を中国人が見て反応しているわけです。そして反応している大部分が、彼女の龍の扱いについてコメントしています。この辺に国民性の違いを感じて面白いです。

香港大学、UFO研究コース開設を中止

理系学部の教授が反対したらしい。そりゃそうだろうね。

「雇用を守れ」は正しいか?

Zopeジャンキー日記より。僕も概ね同意。

DENPAとコスプレダンパ文化はどう違うのか?

まったくその通り。全然違わないでしょ。つか、クラブ文化へのオタクの流入ってのがまず嘘なわけで。どちらかと言うと、ジャンルによって客層はたしかにかなり違いはある。でもクラブに「行く/行かない」をモードとして扱うのなんて一部の社会学の人たちくらいでしょw

永田・元民主党議員が自殺

議員時代は『TVタックル』などテレビに出まくっていただけに、この結末はあまりにも悲惨ですな。

ホリエモンが語る

ホリエモンを面白いと思っているのは、実は高野孟さんだったり、かつての全共闘世代の新左翼崩れだったりしているわけですな。若い人がホリエモンを支持しているというテーゼは朝生のアンケートでははっきり否定されていたし。ホリエモンは次どんなことするんだろう…。

シンガポールの会社へ2ちゃんねる譲渡

トンネル会社みたいなものでしょうか? よくわかりません。

Posted by Syun Osawa at 00:38

2009年01月02日

ノエイン もうひとりの君へ(全24話)

監督:赤根和樹/2005−2006年/日本/アニメ

ノエイン もうひとりの君へこの作品の第一回のアニメーションは神掛かっている。大抵の連続モノのアニメはそうなのだが、ノエインは特に良い。それだけに、後半のエンターテイメントの希薄さというか、メタ回路の行き過ぎがちょっと残念だった。

タイムリープを扱う時点ですでに科学ではなくSFなんだから、いちいち量子論とか複雑系を匂わせながら「存在が不確定になること」と「自分探し=セカイ系」の接続に整合性を持たせようとしなくても良かったんではないかと思う。そこが一番見ていて面倒くさかった。

僕は単純にセカイ系を楽しめればよかったのだ。それは世界観だったりその構造設計そのものを楽しみたいということではなく、単純にセカイ系の上で展開されるドラマを楽しみたかっただけなのだ。普通に多くのアニメファンはそうだろう。メタ批評みたいなものを読むのはそれなりに好きだけど、それを先回りして過剰に作品に織り込むと、作品としてはあまり惹かれなくなる。この作品はその典型的な作品だったように思う。

戦闘シーンのいくつかは神回と呼ぶにふさわしいものがあって、そこだけは何度か繰り返し見た。日本のアニメーターは、いついかなる状況であっても良い仕事しますね。

以下、とりとめもない感想メモ。

第01話 アオイユキ

なんというオープニング! 度肝抜かれた! 3Dも上手に使ってるし、演出も細かいし、まだ意味はまったくわからないけど、ともかく面白そうという雰囲気だけは伝わってくる。僕が好きだった工藤晴香(引退らしい)さんの声も小学生の声とまでは言えないまでもわりといい雰囲気を作ってる。似たような声質の声優さんは彼女の世代には大勢いるが、なかでもひときわクリアな感じが好き。

第02話 イエデ

時間の少しずれた並行世界があるらしい。で、ハルカが何かを握っている。竜のトルクというらしいが、この文脈はあっさりとセカイ系なんだろうね。それにしてもユウは暗いな。超暗い。そんなユウの家出にハルカがついて行こうとするところとか何かね…どうなんだよ? って感じ。ただし、前半のバトルは超凄い。そこだけ別格に凄すぎる。

第03話 オワレテ…

バトルシーンがヤバ過ぎる。なんちゅう画面作りだよ…。スピード感あるしレイアウトも大胆だし、本当に凄い。でも内容はまだよくわからんw ロープウェイのところバトルの後で、ハルカがカラス達に捕獲される。それにしても、ユウは本当にウザいなw

第04話 トモダチ

小学生たちのどーでもいい恋愛関係のもつれと、どうしようもないユウという男の苦悩があって、それとは別に並行世界では世界の危機が訪れようとしている。それらの鍵をハルカが握っているらしいことがセカイ系かと思うところなんだけど、今のところ意味がよくわからない。深読みしないとわからないアニメなのだろうか? 3Dで背景を回す技法がやたら多用されている。たしかに違和感が少なく上手にやっている。

第05話 ソレカラ…

サッカーのところとか無駄に動いてるし、相変わらず画面のクオリティがバカ高い。特にカラスとアトレたちとの戦いは3Dとエフェクトの効果も加わって、もの凄い力強さを感じる。ただし、内容はまだよくわからない。ラクリマという世界があること、そこの住人が時空を操っていることもわかるが、どうも上手く飲み込めない。

第06話 ナミダノジクウ

ハルカが連れて来られた世界が15年後の世界であることが明かされた。そしてまた、時空という言葉の意味についても説明が加えられた。別の世界の未来ではなく滅びた未来を救うために過去のハルカを未来に呼び寄せるということをやっている。今回はじめてハルカは別の世界へ移動したのに、なぜだかあまり驚いた様子がない。それどころか、上手く脱出し、地下の世界へたどり着き、そこで仲間を見つけて地上へまで行ってしまった。まだ6話なのに、ここまで物語を急がせた理由はなんなんだろう? これまでわりとゆっくりと物語を進めてきたのに、ここにきて一気に世界設定の説明を行うところはちょっと引っかかった。ともかく、久しぶりのセカイ系作品を観ることになりそう。

第07話 タイセツナヒト

ユウ=カラスは15年後のセカイであるラクリマが滅びたとしてもハルカを守るという。ハルカは竜のトルクそのものであり、彼女がい続ける限りラクリマの存亡の危機は続いていくことになる。この逃げられない円環の中でそれでもハルカを守りたいという自閉的な思い。一方、ユウもウザい。セカイ系はウザいと、このブログでも散々書いていたのに、そういうのを忘れてまたセカイ系見てるわけだからね。セカイ系というかこの手の主人公が苦手なのかな? ただし、カラスというのはユウ以後とも考えることができるので、過去に逃げたトラウマを克服するために今度は何があっても逃げないと言ってるのであれば、そこには何かがあるのかもしれない。

第08話 カクシゴト

これまでのセカイの終わり的な展開が嘘みたいにお気楽モードな展開になった。ミドルポイントである12話に当たりをつけるため、3分の1終了のこの段階で少しだけガス抜きをしたという感じだろうか。カラスとユウが出会い、ハルカは地球(正確にはこのセカイ)に戻ってくる。

第09話 トキヲコエテ

セカイ系作品といったらトラウマは必須アイテム。いじけた根性丸出しのユウがそれを背負っていると思ったら、ユウの母親がトラウマを抱えていた。しかもその理由が結構しょぼい。しょぼいのにハルカはユウの母親を過去の時空へ飛ばしてしまった(はた迷惑な話やなw)。過去との往復によってユウの母親のトラウマは改善、ユウも少しだけ変わった? 今回はやたら3Dが多用されていて、その一方で作画は微妙な仕上がりだった。谷間の時期なのかもしれないね。

第10話 アラシノヨル

カラスが思いっきりハルカの友達たちと会っている。つか全員会いすぎだろw この時点で未来が変わってしまうんじゃねーのか? あと、科学者の話が出てきたけど、科学者ってそもそもああいう態度(地域の安全を無視して実験を強行する態度)を持ち合わせてるのかな? 科学が出てくるわりには、竜騎兵が出しまくるレーザービームがどのようなエネルギーかがまったく不明なところとか、いろいろあるけどともかく筋道が一本になりつつある感じ。つーか、漠然としてんだよねこの話。

第11話 スレチガイ

量子物理学の話が延々と続くが、それでもテレポーテーションの話と時空を超える話(要するにタイムスリップする話)の説得力は貰えず。異常なのに微温的な日常生活が続いているので、急速に興味を失いつつある。世界が終わった15年後の世界からやってきた人との話ということは、現段階でこれから起きる危機は世界の終わりなわけで、そこはもうちょっと盛り上げて欲しいな。二人の語りでその当たり(世界の終わり)に整合性を持たせようとしているところもあまり好きじゃない。ハルカが黛(まゆずみ)博士の子どもだとわかる。

第12話 タタカイ

何かもの凄い回だった。作画がヤバい。りょーちも、松本憲生、うつのみや理とかいて納得。動きまくるんだけど、崩れてる絵も山ほどあって、ともかく凄い回だった。ミドルポイントに印象の強いものをもってくるという、シナリオの王道をやっている。竜騎兵の二人が死亡。一つわかったのは、時空を感じることができるのはハルカだけ。そして、この時空のハルカも竜騎兵たちがいる15年後の世界のハルカもつながっている。そう信じているのがカラスの存在だ。しかしそれは、カラスが勝手に信じているに過ぎない。

第13話 ネガイ

話の展開がおっさんにはちょっと難しい。アトリが生きていたが、キャラクターが変わっていた。みんなカラスを生き返らそうとしている。ハルカが並行世界の住人にとって重要だっていうわりには、扱いがなんか適当だし、竜騎兵自体も人間なのかそうじゃないのかもわからないし、人間関係のベクトルがなかなか複雑。カラスの「この時空のハルカは俺が守る」というのもちょっとわからない。逆に考えれば、別の時空にもハルカがいるということなのか? そうであれば、この時空とやらを選択した根拠ってなんなんだろう?

第14話 キオク

正直なんなの? この展開? ハルカの家にアトリとかも上がりこんで、カラスもいたりで普通にまったりと生活している。超常現象を普通にみんな当たり前のこととして受け入れてるし…。第一話の超絶感はどこへ行ったんだよう…。ともかく、ハルカはいろんな時空を行ったりきたりするようになって、父と母の出会いのシーンなどを見たりする。そして最後に、どこかの時空の自分の声を聴くことになる。そこで「ユウを助けてあげてください」という言葉を聞き、ユウへの思いを再発見するという構造ですな。結局セカイ系やんけ! まぁ…わかってたんだけど、超常現象のほうをもうちょっと1話みたいにちゃんとやって欲しいよ。

第15話 シャングリラ

ハルカが山の上の展望台で父親と再開。刑事とカラスのシーンとかちょっと安いなぁ。あと、量子とか何やねんな…。仮面の男(ノエイン)が出てきたあたりから面白くなってきた。この作品はストーリーよりもアクションシーンが冴えてるな。ともかく、みんながハルカを取り合っているという不思議な話。しかもそれは並行世界(15年後の世界)での問題で、今の世界ではほとんど変化のない毎日が繰り返されている。ユウは相変わらずウザい。

第16話 クリカエシ

第一話と同じシーンが繰り返された回。ところが、この時空にはカラスが登場しない。うーん。ぶっちゃけ時空というものがよくわからないから、ループの話もすんなり受け取れない。話がややこしくて、それをややこしいままにやっているから、僕のような素人にはハードルの高い作品になっている。もう少し見通しを立てて、話の焦点を絞ったほうがいいと思う。少なくとも時空については、企画段階からもう少し詰めるべきだったんじゃないだろうか?

第17話 マヨイ

超絶回。ただし、アクションシーンのみですが。とはいえ、こういう映像の凄さを見せ付ける回がたまにあるのがノエインのいいところなわけですな。カラスとコサギの戦いは面白かったが、いわゆる愛の問題と世界の存亡の問題以外のものを完全に排除していて、その系を地球のある時空とラクリマの二つで同時にやってるからぼやけた印象はぬぐえない。だって、別の時空もあって、そこにもハルカだっているわけだし…。

第18話 ワルイユメ

「幻の夢の時空」って何だよ…衒学趣味も大概にせいよ…って感じですね。「虚数で作られた世界」とか「可能性の未来」とかもよくわからん。そういうのに惑わされず、主題を普通に楽しめばいいっていうまともな結論がセカイ系なんだということはわかってはいるものの、最近ソーカルの『「知」の欺瞞』を読んだこともあって余計にそんなイライラが募ってしまった。

第19話 オモイデ

一気に、最初の世界で起きていた事件の開陳をやっているんだけど、ぶっちゃけ面白くない。メタ的な世界観でいわゆるポストセカイ系のような試みをしているんだということはわかる。そういう目で見れば面白いのかもしれない。でもドラマがなさ過ぎ。つか、ドラマをちゃんとまとめて流して欲しい。散漫すぎて乗り切れない。そのくせ、やたらと一部の動画だけよかったりするからなぁ…ほんと不思議なアニメ。

第20話 モウイチド…

科学と哲学というテーマはいいと思う。ただ、衒学趣味が強すぎて意味不明すぎる。15年後の世界があんな状態になるとは思えないし(特に科学技術が)、並行世界とかユートピアとかを量子論の曖昧さだけを取り出して説得力を与えようとするところとかについても、試みの新しさは評価できるけど腑に落ちないところが多すぎてストレスがたまる。どうでもいい話だが、ノエインって靉光の《眼のある風景》を連想させるな。

第21話 マボロシ

シャングリラももう一つの可能性としての未来。カラスとユウがいるから、ハルカもここにいるという話は、揺らぎ続ける世界で確かなものを何に求めるかという問いを僕たちに投げかける。ようするに「僕にとってあなたがすべてで、あなたにとって僕がすべて。それが世界のすべてだよ。」という話(セカイ系)なわけだけど、それだけ過ぎて掴みどころがない。もう少しストーリーの部分で面白く見たいのに…。不確定な世界と未来の可能性を難しく示して、その中でどう価値を見出すか?ってことについて教条主義的な思いばかりを口にしてたんじゃあしょうがないという気もする。とりあえず、未来のハルカは死ぬらしい。

第22話 ミライヘ…

この作品は現在と未来をつなぐある切断面(実験の失敗)へ向かうストーリーを軸につくられている。そのため、作品は二重性を帯びており、一方は過去(小学生時代)から切断面へ向かう。そしてもう一方は未来(ラクリマとシャングリラ)から切断面へ向かっている。ハルカはそのつなぎめ役になっている。そのため、過去の物語は友達が小学校から高校へ移るにつれて、不良になったり虐めにあったりという日常風景が描かれ、未来の物語は世界の存亡をかけた戦いが描かれている。…ま、ようするにセカイ系ですな。セカイ系の風呂敷を大きくしたのはいいが、あと2話しかないのに作品自体が散漫で、それぞれの小さな物語のベクトルが大きなほうへと回収されていない。エンターテイメントとは、それらをいかに結びつけ、大きな物語を演出できるかが鍵だと思うので(古い発想ではあるが)、クライマックスへ向けての下準備はちゃんとやるべきだったのではないだろうか。

第23話 オワリ

ノエインも未来のユウだった。正確には別の時空のユウ。ノエインはハルカや友人を交通事故で失うという時空を生き、その深い悲しみからノエインとなり時空をさまようようになった。ところが、ほかの時空に行ってもハルカはいない。つまりどの選択肢を選んだとしてもバッドエンドであることを知ってしまったのだ。だからノエインは、選択肢を選びなおすという選択を捨てて、このゲーム(つまり時空)すべてを収束させて無にしてしまうことを決めたのだ。この回でかなりの部分が明るみになったが、構造的な時空の考え方と、実際にユウやハルカたちが生きている時間軸の関わりが曖昧なために、なんかボヤッとしてしまって面白さが半減してしまっているような気がする。あと一回で終わり。長かった。

第24話 ハジマリ

いくつもの未来に分岐していく不確定な世界において、私達はどこで自分自身の存在を確定するのだろうか? という、まぁ…実存の話だったり自分探しの話だったりするわけですな。で、お互いを認識できれば人は人を確定できるという流れ。他者がいて初めて人は自分の存在を認識できるというヤツですな。時空の重ね合わせとか、もうようわかりませんが、とにかく当初の目的であった世界の崩壊は免れて、カラスとノエインの対決もそれなりの決着がついた。そして、最初のところ(つまりユウとハルカがいた場所)に戻って、それを肯定するわけですな。メタ回路でアニメを作るとこうなるという一つのモデルとして記憶しておくにとどめておくことにしよう。

Posted by Syun Osawa at 00:41