bemod
« 2009年10月 | | 2009年12月 »

2009年11月28日

哭きの竜=NW-S746=同人誌通販=宣伝誌漁り

まんだらけに行ったら、能條純一『哭きの竜 外伝』が並んでいた。いつの間に外伝とかスタートしてたんだw 『哭きの竜』は僕の大好きな漫画で、あまりに好きすぎてこの漫画を啓蒙したいと思い、学校に持っていってクラスメイトに回し読みしてもらったという残念な経験があるくらい好きなのだ。

そのきっかけは、小学校の頃に観たOVA(全三巻)だった。

制作はガイナックス。当時『 オネアミスの翼 』や『 トップをねらえ 』『ドミニオン』などを観ていたので、ガイナックスはすでに僕の中では神制作会社だったのだが、そんな会社がこれまでとは違ったテイストで、しかもかなりクオリティの高い作品を仕上げていたことに、小学生ながらに衝撃を受けたのだ。でもあのOVA…あれじゃ完結してないよなw 『カイジ』人気に便乗して、深夜枠でぜひとも続編として復活して欲しい作品である。

SONY NW-S746の使い心地

音はいい。上品だし、レンジが広くて聴きやすい。32GBという容量も、思っていた以上に曲が入る。マイナスポイントはイヤホンの形状が僕向きではないこと(外れやすい)と、充電のマークの残量表示が携帯とは違っているためか、残量ゼロ表示の後も、バッテリーが切れずに結構残っている。僕はバッテリーは長持ちさせたい派なので、こまめに充電したりしない。だから、この中途半端な表示方法はできればやめてほしかった。

NW-S746に入れる音楽データについて

CD-Rに保存してあったMP3を再びPCに戻し始めている。もちろん NW-S746に入れるためだ。古いデータはまともにタグ編集もされていないから、これを全部修正していくとなるとゾッとする。ただ、多いとはいえデータの数は知れているので、気長にやっていれば、そのうちに終わるだろう。

オンライン系音楽データの処遇

こちらの量は膨大にある。これは絶対に入りきらないし、膨大過ぎて、どんな曲だったか覚えていないものが大半である。テクノロジーの発達でデータの量は飛躍的に増えたが、それを聴くための時間のほうは増えていない。僕の脳が進化して2倍速とか3倍速で聴くというのなら話は別だが、そんな風に聴く人もまずいないと思うから、曲の量と視聴時間の関係は比例しない(曲が増えていくだけだ)。逆に言うと、1曲1曲の曲たちが聴かれる時間は目減りする一方なのである。音楽にとってこれは幸福なことなのだろうか?

つい先日も、general fuzz という方のサイトを見つけた。

手始めに、「 lost in the sauce 」を聴いてみてほしい。ヤバいからw この曲のような綺麗めダウンテンポが大好物の僕には、ドストライクな曲ばかりが並んでいる。そんなわけで早速、全曲ダウンロードしたわけだが、その数は数十曲。こうして僕のPCにある曲は飛躍的に増えてしまうのである。

手に入れた本など

横山秀夫『ルパンの消息』(光文社)
堀江隆文『100億稼ぐ仕事術』(ソフトバンク・パブリッシング)
田中雄二『電子音楽 in Japan』(アスペクト)
藤原カムイ『週刊マンガ日本史 卑弥呼』(朝日新聞出版)
『ユーロマンガ vol.3』(飛鳥新社)
丸山薫『海防夜話』(同人誌)
丸山薫『みせらに01』(同人誌)
Cotorich『COTORINRI vol.1』(同人誌)

今回は素敵なものをいろいろ購入。

たけくま書店で丸山薫さんの同人誌が通販されていたので、2冊とも購入。ここ数年、コミティアに行ってないので、同人誌が出ていたこともまったく知らなかったのだ。僕も漫画描きたくなってきたなぁ。

Cotorichの写真集の意味するところは?

Cotorichの写真集もネット通販で購入。と言っても本人が映っている写真ではなく(表紙だけ本人)、本人が撮影した(かどうかは不明)写真集だ。Cotorich嬢がどういう人かは、ネットで調べてもらったらすぐわかると思うが、とにかく変な人である。なぜか腋毛を生やしていて、それを「恥ずかしいけど見せちゃいます」とか言って、Youtubeで公開しているような人なので、人によっては嫌悪感を抱く人もいるようだ(Youtubeのコメント欄も毎度、賛否両論w)。

そんな 彼女のブログ に掲載されている写真と一言コメントが、そうした彼女の振る舞いとは別次元のところで、強い印象を残しているのをご存知だろうか? Youtubeに公開した彼女の動画についたコメントの中で、「あなたの動画はまったく意味がわかりませんが、ブログの写真とコメントは素晴らしいです」と書かれるくらいに、彼女の写真は多くの人を感動させる魅力を持っているのだ。

ところで、彼女の中の人だと噂されている女優さんのビデオを少し前に見たのだが、しゃべり方など全く印象が違っていた。余談。

その他、宣伝誌やらの雑感

朝日新聞出版の『週刊マンガ日本史』シリーズは、一発目に藤原カムイ氏を起用していて、かなりのインパクトがあった。が、残念なことに毎号違う漫画家が描くということを知って、一気にトーンダウンしてしまった。企画として悪くはないが、散漫な印象は拭えない。

ジブリの宣伝誌『熱風 2009年10月号』に高荻氏と扇田氏の対談あり。これは、高荻氏が同誌で連載していた「夢の郵眠社と僕と演劇プロデューサーの仕事」が、単行本化された記念に行われたものだ(この連載はかなり面白かった)。その対談の中で、高荻氏がフロンティアのない現代の社会においては、空間性があり人間関係存在する演劇というスタイルはひとつのモデルケースになると話されていた。リセットできない社会の当面の逃避先としてインターネットが登場したが、インターネットもいよいよ制度化され、90年代に突きつけられていた問題が10年代にまた顕在化してきた…という感じだろうか。

春秋社の宣伝誌『春秋 2009年11月号』に掲載されている本浜秀彦氏が「手塚マンガにおける「顔」の位置」が面白かった。伊藤剛氏の『テヅカ・イズ・デッド』の「キャラ/キャラクター」に重ねて能の面を題材にして「面/顔面」を分けている。漫画における顔の描き方ってたしかに重要で、どれだけアシスタントの絵が上手くとも、漫画家は顔だけは書くのが通例である。面が人格を持つ事で顔面になるという説明はかなりありきたりだが、今後の話の展開はちょっと楽しみだ。

講談社の宣伝誌『本 2009年12月号』より東浩紀氏の新連載が始まった。「夢を語る思想」というタイトル。ある特定の地域ではそれなりに話題になっているらしく、いつも宣伝誌を貰いに行っている某書店での減り具合も、いつになく早いような気がする。ああいう芸人的な振る舞いができる人ってあんまりいないから、やはり今の時代、貴重なんだろうね。彼の周りにいる人は似たタイプに受け取られがちだが案外そうでもなくて、どこかルサンチマン克服型の「カッコいい俺」メソッドが(たとえ否定していたとしても)垣間見えてしまう。そういうのがないところも、彼の魅力の一つなのかもしれない。

音のパッチワークを拾い集めて奏でられる音球

坂本龍一氏のメルマガで知った。身も蓋もなく言ってしまえば8秒のループ音源の素材サイト。音がかなり難しい感じだったりして、今なぜか流行しているフィールドレコーディングの素材サイトなんかともいい具合に調和している。こういうのを音楽と言っていいのかわからんよね。単に音ってわけでもなさそうだし…その間をいく断片みたいなものって、何気に名づけられていないような気がする。僕は「音球」ないしは「音魂」「音塊」などと呼んでみてはどうかと思う。

mF247ってサービス始まってたのね

『博士の異常な鼎談』のひろゆきゲスト回を見ていたら、mF247の話題が出ていたので思い出した。Top10を見ると妃田智と神聖かまってちゃんが人気らしい。神聖かまってちゃんはYoutubeで何回か観たことあるなぁ。妃田智は知らなかった。そのほか、今度行くことになっているライブの出演リストに名前のあったJaccaPoPもTop10に入っている。ニコ動と関連付けてる割には、東方とか初音ミク関係はないのね…。

父親はセックスしないと死んでしまう病気

この嘘に騙された女性が20人以上いるとか…。台湾すげぇ。

Posted by Syun Osawa at 00:43

2009年11月27日

海岸列車

室井大資/2009年/エンターブレイン/四六

海岸列車一気読み。

本書のタイトルにもなっている短編「海岸列車」を読んだのは、2000年、銀座三越の裏にあるコンビニだった。あれからもうすぐ10年になるのかと思うと、何か別の意味で感慨深いものがある。

「海岸列車」という作品のストーリーは、著者自身、あとがきで書いているようにかなりベタ。夫をヤクザの組長と間違われて殺された妻が、その復讐を果たすというシンプルな内容だ。もしもそれを、そのままやればわりとよくある読み切りになったと思うし、おばあちゃんとおじいちゃんのエピソードやら、いじめられている息子、生きる気力を失っている父親などのエピソードを丁寧に描いていたら32ページでは終わっていなかったとも思う。にも関わらず、この作品は、短編としてそれらのエッセンスをすべて詰め込む事に成功している。それが凄い。

10年ぶりにこの作品に触れながら、どうしてそれができたのかを考えていた。この作品にはまず主人公らしい動きをする登場人物がいないのだ。あるのは個々のキャラクターが今、どういう気持ちで生きているのかを示す生活の一部分が淡々と切り取られているだけなのだ。その切り取り方が説明臭くなく、散文的で儚い。そして、物語のB面からうっすら浮かび上がってくる家族の情景。

演繹的にキャラクターを動かすでもなく、帰納的にストーリーをいじくるでもなく、パッチワーク状に淡々と世界を描いているだけなのに、そこからちゃんと物語が輪郭を持って現れている。そして「それって誰にでもある人生そのものだよね」的な日常生活の中のちょっとした深さを演出できるのは、本当に才能のなせる技だなと思う。こうした描き方は、「キッス」でも引き継がれており、こちらも素晴らしい出来だった。

上記の作品が作られたのが2000年ごろ。そこから少し間が開いて『マーガレット』が発表された。この作品では、前作までのようなテイストは影を潜め、商業誌的なキャラクター中心の物語になっている。ここで唐突に思い出話をすると、僕が過去に出版社へ持込みを続けていたときは、編集の方からひたすら「魅力的なキャラクターを描け」「可愛い女の子を描け」と言われ続けていた。僕はそれが出来なくて、しかも才能がなかったために心が折れてしまったわけだが、それと似たような苦悩を、この作品からは感じ取ってしまった(プロの先生に素人の経験を当てはめるのは失礼な話だなw)。

もちろん上の妄想は事実ではないのだけど、漫画って演繹的ストーリーのほうが連載向きだし、キャラクターは立っているにこしたことはない。女の子も可愛いほうがいいに決まっている。しかし、そういうこととは関係ないところに漂っている漫画も、やはり漫画であって欲しいし、だからと言って、変にアヴァンギャルドだったり、批評家に目配せをしたような作品ではない「海岸列車」や「キッス」のような作品が、今後も商業漫画のどこかで変わらず漂ってくれたらいいのになぁ…などという中二病丸出しな願望が、この漫画を読んでいる途中、ずっと頭をめぐっていた。

Posted by Syun Osawa at 01:18

2009年11月25日

おもしろ実験と科学史で知る物理のキホン

渡辺儀輝/2009年/ソフトバンククリエイティブ/新書

おもしろ実験と科学史で知る物理のキホンソフトバンククリエイティブが、いつの頃からか サイエンス・アイ新書 という、科学系読み物の新書をシリーズ化して刊行している。この本もそのシリーズの1冊。

子どもの「理科離れ」なんていう言葉が死語になるくらい、その状況が恒常化している今、あえてこの市場を狙うのにはそれなりの理由があるのだろう。素人なりに考えれば、恒常化しているがゆえにこのジャンルの市場は変動が少ないとも言えるので、出口の見えない出版不況の中、少しでも安定収益の見込める地場を確保したいという狙いがあったのかもしれない。

とはいえ、そもそもこのジャンル自体が、長らく講談社のブルーバックス・シリーズの独壇場になっていて、その強固な牙城は揺るぎそうにない。サイエンス・アイは、そんな誰もが攻めにくいと思って敬遠していた場所に、あえて風穴を開けてようとしているわけだから、なかなかチャレンジャーだなと思う。

で、内容の話。

高校の物理の内容に沿いながら、そこに付随する科学史の話と家庭でもできる実験の紹介という構成になっていて、やり直し系の僕みたいなのが読むにはかなりいい本だったと思う。有名なところでは、トーマス・ヤングのロゼッタストーン解読みたいな与太話を含め、フーコーの光速測定の方法、キャベンディッシュの法則発見裏話、エジソンとテスラの戦いなど、科学史上の熱いトピックが散りばめられていてるし、しかも敷居が低い。実験の紹介についても、実際高校になると実験なんかもほとんどやらないので、初めて見るような実験がたくさんあり、実用度という意味でも結構高い気がする。

少し残念だったのは電磁気関係が少なかったところか。マクスウェルと電磁気学のあたりは、体系化までの展開が、高校物理の中でもかなり美しかったと記憶している(そういう記憶の痕跡が残っているだけだがw)ので、ここの扱いが小さかったのは寂しい。とはいえ、新書の枠内ではそれだけのことを望むのは、無理というものだろう。このシリーズは、ブルーバックスよりも生活臭が漂ったゆるい感じの企画本が多いので、やり直し系の人には案外向いているのかもしれない。マンガでわかるシリーズを含め、いくつか読んでいこうと思う。

Posted by Syun Osawa at 00:55

2009年11月23日

ジャン=ジャック・ルソー問題

E.カッシーラー/訳:生松敬三/1974年/みすず書房/四六

ジャン=ジャック・ルソー問題東浩紀氏が講談社の宣伝誌『本』で「一般意思2.0」という連載を始めていて、ルソーにも少しだけ関心が湧き始めていた。そんなとき、東氏がtwitterでこの本がお勧めだとつぶやいていたので、とりあえず読んでみることに。僕もすっかり彼の読者だなw

ページ数が少なかったので、サクッと読み終えるはずが、一般意志と全体意志の話とか、両義的な彼の思想の勘所を理解するのが難しく、いつもより遅いペースで読み終えた。ルソーの思想って難しいらしいし、そもそもこの本だけで理解しようというのが無謀だったかw ただ、何というか、思想の深いところとは関係ない部分で、彼の思想(夢想?)の動力源となっている思いには、わりとベタに共感できるものがあった。パリにやってきたルソーは、繰り返される不遇な毎日の中で、次のようなことを感じていたそうだ。

一日にはたくさんの仕事がつまり、一日はその仕事により隅々まで規定されている。労働とさまざまな因襲的―社会的義務の一日であり、それらの義務の一々は特定の時間を占めている。こうした時間の規格化、客観的な時間尺度の固定性、これこそルソーが以後なによりもまず慣れてゆかねばならなかったものであり、かれの本質と疎遠なこうした要求とこそ、かれは絶えず戦ってゆかねばならぬことになったのである。

そして、「外部から与えられ、外部から強制される生活上の区分は、ルソーの目にはいつも耐え難い生活上の束縛として映った」らしい。とにかく彼は、誰かにやらされたり、束縛されたりするのが嫌だったわけだ。同じことをやるのであっても、「あれやって」と誰かに言われてやるのではなく、「あれやろう」と自分が思ってやることを、彼は重要視している。その感覚は非常によくわかるw

ただし、そこから出てくる一般意思の話は、どうにも夢想的というか、端的に「そら無理だろ」感が消えない。素人目に見ても、彼の思想には、原理主義的プラグマティズムというか、「感情的で自己矛盾をはらんだ全体主義」といった印象がつきまとってしまうのだ。だからこそ、問題化され、長らく議論の対象となり、この本の著者であるカッシーラーが両義的に彼の思想を捉えることで、何とかその問題を乗り越えようとしたわけである。その乗り越え方はなかなかスマートな印象を受けたとはいえ、では果たして現実社会でそんなことが可能なのか? と言われれば、「そら知りまへんがな」と返されるのがオチだろう。実際、そうした具体的なところまでは、この本では踏み込まれていなかった。うーん、残念。

そこで東氏の「一般意思2.0」ということになるのだろうか。すぐに頭に浮かぶのはインターネットである。様々なユーザーが情報を提供することで成立しているWikipediaだったり、もっとマクロ的に各階層で活躍するプログラマーの集合知によって成立しているブラウジング環境を思い浮かべれば、何となく繋がりそうな気もする。

しかしながら、その逆の事、例えばユニクロであったり、iPodだったり、ブログやtwitterによるビジュアルの統一化(制度化)などは、ルソーの夢想した方向とは真逆のベクトルを示しているようにも思える。たしかに便利で良いものかもしれないが、それによって人間の多様性や創造性がどんどん失われていっているような強制を僕は感じるのだ。そうした危機感は、次のような文章で書かれている。

社会のもっとも過酷な最悪の強制は、社会がたんにわれわれの外的な行動のみならず、内的な運動、われわれの思想や判断にも及ぼすところのこの力にこそ存する。判断のあらゆる自主性、自由、根源性は、この力によって損なわれてしまうのだ。もはや考え、判断するのはわれわれではなく、社会がわれわれの中で、われわれの代わりに考える。われわれはもはや真理を探究する必要はない。真理は鋳造貨幣としてわれわれの手に与えられるのである。

僕には、今の社会は、こんな感じの状況になっているようにも思えるのだ。もちろん、カッシーラーが書いているように、彼の思想が両義的なわけだから、結局は良いようにも悪いようにも読めるというだけの話かもしれない。あと、普通に考えたら、ルソーが夢想した先にある「真に人間らしい社会」って何やねん? みたいなところですぐに行き詰るので、結局のところ何が言いたいのか、僕にはよくわからんわけだがw

Posted by Syun Osawa at 00:58

2009年11月21日

谷口ジロー、メビウスとBDを語る

2009年11月14日/15:00−16:30/明治大学駿河台校舎リバティタワー1階

犬を飼う谷口ジロー作品との出会いは『犬を飼う』だった。当時、家で犬を飼っていたこともあって、漫画の中で描かれた犬と家族の交流の描写に、小学生ながら感情移入しまくった経験がある。フランスでも谷口ジロー氏の作品は読まれているらしく、『遥かなる町へ』などはフランスの小学生が読んで、親に紹介するという現象が起きているそうな。小学生が谷口作品に感情移入するというのは変な話かもしれないが、僕自身も実際に体験しているだけに、とてもよく納得できるエピソードだった(そして、別にフランスに限った話でもない)。

…とまあ、そんな谷口ジロー氏の講演会を聴きに行ったのだ。

谷口氏は石川球太氏のアシスタントをしていた頃、ガロの影響を受けて、かなりアヴァンギャルドな作品を描いていたという。いくつかの作品が紹介されていたが、たしかに画風が今と違っていて、陰影の描写などがかなりグロテスクだった。この頃の面白いエピソードとして、知り合いの女性が自費出版した絵本の絵を、谷口氏が担当していたことを話されていた。帰ってからネットで調べて見たら、これはかなり有名な話らしい。ただ、そのいきさつまではあまり知られていないようだ。

そんな谷口氏が、絵をポップなタッチに変えて「遠い声」(ビックコミック賞佳作)でデビューした後、さらなる表現の幅を模索しているところで出会ったのがBDであり、ジャン・ジロー(メビウス)だったという。そして、そのとき、この絵なら劇画ではできない表現も可能になるらしいと思ったそうな。僕は以前から、谷口氏の絵について、ポップな線でありながら、どこか劇画の雰囲気を感じていたのだが、それにはこうした経緯があったんだと今回改めて納得した。特にメビウスではなくジャン・ジローの影響を受けたというところが、そうした印象を強くしているようにも思う。

谷口氏がBDの影響を受けて、そこからメビウスとの合作『イカル』などにもつながっていくのだが、フランスでの谷口氏の受け入れられ方は、必ずしもそう一本道ではなかったようだ。というのも、BDの影響を脱色していった『坊ちゃんの時代』以降の作品が、逆にフランスでBDとして受け入れられてたらしいのだ。これは、大塚英志が『サブカルチャー文学論』のなかで、アメリカ文学を真似た村上春樹の文体が、海外では日本的だとして受容されていると指摘していた現象とも少し似ている。壇上で紹介されていたフランスで販売されている谷口氏のBDは(反転され、着色されている)、たしかに独特の空気感を持ったBDに仕上がっていた。

谷口氏の作風の変遷を見ていると、劇画から記号的キャラクターへとその作風を少しずつ変化させているように思える。初期の頃はガロに影響を受けていることからもキャラクターというよりもコマ全体での表現に主軸があるように思えるし、そこから青年誌へ移行する頃には、劇画的なキャラクターが発する感情表現が主軸に置かれていたように思える。そして、その後、表現の幅を広げるために取り入れたのが、陰影の薄いポップな絵柄である。そこでは、キャラクター自身の感情の発露というよりは、読者自身が感情移入しやすい器(装置)としてキャラクターが機能することを主軸においているように、僕には思えるのだ。

このことが、フランスのBDとどうつながるのかは僕にはわからない。なぜなら、この変遷は全く逆のような気がするからだ。BDはアート性が強く、読者をあまり意識しない。さらに、編集者と一緒に作っていくという概念がないために、孤高の作品群がバラバラに乱立しているというイメージがある。にも関わらず、より記号性を強めた谷口氏の作品が、逆にフランスで受け入れられているのは何故なんだろうか。何だかちょっと不思議な気がする。

ところで、僕の部屋で積読になっているメビウスとの合作『イカル』製作時のエピソードはなかなか興味深かった。何でもメビウス氏が用意した『イカル』の原作は、単純なストーリープロットではなく、かなり緻密に世界観を説明する文章が書かれていたらしい。ストーリープロットだけのほうがキャラクターが動きやすいのに、事細かに状況を説明されていて、そのために、それを絵にするのが逆に難しかったと谷口氏は語っていた。

これなどは、長崎尚志氏のイベント につながる話だろう。漫画原作者の長崎氏が緻密にこしらえた設定を、漫画家の浦沢氏が拒否するという エピソード だ。逆に言うと、メビウス氏はそのような細かな状況設定を作った上で、自分自身も漫画を描いているのだとしたら、たしかにフランスのBDというのは、日本の作品と比べても1コマ1コマの深度は大きいのかもしれない。そういえば、エンキ・ビラル『 ニコポル三部作 』なんかも、もの凄く中身濃い作品だったな…。

Posted by Syun Osawa at 02:07

2009年11月19日

室井大資作品集=P.A.Works=復活=フランス産=その後

室井大資「初期作品集」と「ブラステッド 第1巻」素晴らしいニュース!

室井大資氏のブログ で、「彼岸列車」を含む初期短編が単行本化されたことを知った。で、早速買ってきた。僕この読み切り、リアルタイムで読んでるしw 銀座三越の裏のコンビニで立ち読みして、バイトの休憩中やったのに泣いたしw

泣ける話っていう意味じゃなくてね、当時は僕も漫画家を目指してたりして、「こんな凄い漫画描く奴がいるのか…」って本気で思ったのね。まぁその辺の話は全部はしょるとしても、消えた漫画家になってしまったと思った室井氏が、ネット漫画で 復活していた事を知った のが2006年。そこからさらに3年半が経った。うーん、感慨深いものがありますな。

手に入れた本

小島寛之『数学でつまずくのはなぜか』(講談社)
おもしろニュース研究会『20世紀B級ニュース』(角川書店)
的川泰宣『図解 宇宙と太陽系の不思議を楽しむ本』(PHP研究所)
『理科と数学の法則・定理集』(アントレックス)
室井大資『ブラステッド』(エンターブレイン)
室井大資『海岸列車』(エンターブレイン)

『scripta no.13』で上野千鶴子氏がまた面白い事を書いている。江戸の春画には、海女とタコがSEXしてる絵があるらしく、そこから女の快楽に男根は不要だとかうんたらかんたらと続けていて、ようするに近代の春画に比べて今のエロ本は野蛮だと言っているわけだ。きっと彼女は、触手モノとか見たこと無いんだろう。

手に入れたCDなど

Madonna『Celebration』
Radiohead『The Best of Radiohead』
Dimitri from Paris『After the Playboy Mansion』
The Chemical Brothers『We Are the Night』
digitalism『デジタル主義』
Fragma『Toca』
livetune『Re:package』
livetune『Re:MIKUS』
サカナクション『Go To THe Future』
凛として時雨『just A moment』
相対性理論『ハイファイ新書』

初音ミクの曲のCDって、メジャーレーベルでもかなりの数が出回っているらしい。知らなかったなぁ。ミク曲のは僕も結構な数を聴いたけど、何だかんだで初期の頃に公開された「Packaged」が一番好きなので、livetuneさんの作品をチョイスした。その2枚のうち、リミックスアルバムの『Re:MIKUS』は全部初めて聴くものばかりで、内容も悪くない(素直なリミックス多し)。特に「 Light Song(Hiroyuki ODA remix) 」という曲は、キラキラハウス感が出ていて、原曲の斜め上をいっていた。

『レイトン教授と永遠の歌姫』とP.A. Works

『true tears』が富山で作られたことは、かもさん(名塚佳織)のWebラジオを聴いていたので知っていたが(アニメは観ていないw)、その後も順調に仕事を増やしているようだ。この映画はDSのレイトン教授シリーズのアニメ化で、DSを持っていない僕には詳しいところはわからない。ただ、OPのアニメだけはYoutubeで観て、『ホポロクロイス』を感じさせるタッチのアニメに惹かれるものがあった。劇場に行くことはないと思うが、かなり興味のある作品。P.A. Worksは第二の京都アニメーションになるのかな? そんな気がする。

この2年間についてざっと書きます

森田宏幸氏の超久しぶりの更新。レンタル用のDVDと販促用のDVDが違うことを初めて知ったw 僕はほとんどレンタルなので、森田氏の超絶の直しを見ることができないのがちょっと残念。

フランス産『Wakfu』というアニメ

catsuka で、Wakfuというフランス産のMMORPGのアニメを Mutafukaz の人たちが作っているという記事を見つけた。海外のアニメは、アート系のものは日本でも売られることが多いが、いわゆるジャパニメーション系やディズニーの亜流みたいなものはほとんど売られない。僕はそっちのアニメ、結構観たいんだけどなぁ…。特にこのゲームは、俯瞰の絵をゲームと同じような見た目にしており、ゲームと似た世界観を構築しようと努力している。これは日本のアニメにはほとんど見られない傾向で面白い。もしかしたら、日本でもこういう技法を用いたアニメが出てくるかもしれない。

3D系有名スタジオが作るCM集

どこのスタジオもCMで稼いでるんだなぁ。こういう風にやりくりしてるっていうことは、海外の有名スタジオであっても、その運営は結構大変なのかも。

ADC YOUNG GUNSに選出されたMVなど

MVって今でもアニメの使用率が半端ないなぁ。僕も一時期FLASHでよく作っていたし、また作りたい気持ちもある。世間でこれだけたくさんアニメ系MVが作られているのに、それだけをピックアップして取り扱っているサイトとかまとめ本がないのは不思議。

レコライドの販促動画ktkr

なんかふざけた販促動画が上がってるし、うーんw 新譜楽しみww

THE PINK☆PANDA、その後…

愛しの FチョッパーKOGA 嬢が抜けた後、彼女自身は Gacharic Spin を結成して、他のメンバーは BLiSTAR としてメジャーデビューという流れ。こうやってヲタに追っかけまわされるのも本意ではないんだろうな…とか思ったりもするが、音源 を聴く限りは、アニメ業界とかに食い込んで、アニメロ・サマーライブとかを目指すような雰囲気も感じる。うーむ。

一冊80万円の超美麗「図書館写真集」が凄い

これを見ていると、日本のマンガ図書館にまつわる論争が実につまらない話に思えてくる。図書館に収められたものが日本の歴史そのものであるという気概があれば、それに見合った空間も形作られてしかるべきなのかもしれない。

米大学に「ヒップホップ」課程が登場

日本もアメリカもやってることは大して変わらないんだね。

ミニスカ女子学生の退学処分を撤回

ブラジルもよくわからん国だなぁ。大学とビーチで対応に落差あり過ぎ。だからこそいいのかもしらんなぁ、エロ的には。

官邸ブログはどの程度読まれているのだろうか?

hatenaのRSS見たら、18userしか登録されていなかった(2009年11月19日時点)。これって、hatnaのRSSの問題なのかなぁ?

Posted by Syun Osawa at 01:31

2009年11月16日

ビジネス・スキルズベーシック 図解術

永山嘉昭/2007年/秀和システム/A5

ビジネス・スキルズベーシック 図解術最初に図解に興味を持ったのは、FireFox起動直後に最初に表示されるサイトの一つ AFP BBNews が、国際ニュースの重要なトピックを図解で説明していたからだ。それで、ヒエロニムス・ボスの創造性 やら ニコ生周辺のメディア状況 を図解してみたりして、「これはなかなか面白いぞ」と思うに至って、この手の本を真面目に読んでいるのである。

ところが、図解の本は数多く出ているが、どれも似通った内容で、書いている執筆者の数も知れている。実際に読み始めるまで気づかなかったのだが、今回の本は、前回読んだ『 超シンプル図解術 』と同じ著者の本だった。そのせいか同じような内容で、図版の使いまわしも多い。批評系の本だと、こういうことをやれば「お前は香山リカか!」とか言って叩かれそうだが、ビジネス書ではこういう出版のあり方そのものが、一つのビジネスモデルを表現しているとも言える。だから、内容の重複にいちいち目くじらを立てるのではなく、こうやって儲けるんだな…といった程度の教訓にするのがいいのだろう。

超シンプル図解術 』と同書を比べると、読み物としては前者のほうが○、図の種類は後者のほうが○といった印象だった。図には、3C分析、ABC分析、PPM、SWOT分析、長方形斜線区切り図、+/−差異分析図、デシジョンツリー、3次元図解など、いちいちもっともらしい名前がつけられていて、よりビジネス対応(特にプレゼン)の本に仕上がっている。

たしかにかっこいい名前がつけられて、それなりの例が示されると、一瞬「おおっ」と思うのだが、よくよく見るとどの図も似ているし、俯瞰して見ると同じパターンにくくれるものも少なくない。結局のところ、この本で紹介された種類くらいが、この手の図解表現の限界ということなのだろう。例えば、3次元図解などは一見かなり複雑な図を処理できるように思えるが、実際には3次元でわかりやすい図を描くことは難しい。本の中でも3次元処理するときは、XYZ軸のどれか一つは0になっているような、シンプルな構成になっていないとわかりづらいと書かれている。つまり、これも複雑なことを処理しているような、プレゼン的まやかしでしかないわけだ。

【図】図解とは何か?

ようするに、図解とは意味の暴力的な単純化にほかならないのである。

ここで、先日行った 長崎尚志氏の講演会 での言葉を思い出した。漫画家の浦沢直樹氏とのコンビで数多くのヒット作を生み続けている漫画原作者の長崎氏は、浦沢氏に自分の考えたプロットを説明する前に、詳細な下準備をしている。しかし、浦沢氏との打ち合わせの段階では、そのプロットの細部は浦沢氏によって暗に拒否されるというのだ。このことは、言葉で書かれた世界を漫画の世界に変換するという作業が、図解することとかなり近いニュアンスを持っていることを示していると思う。

浦沢氏の『マスターキートン』や『モンスター』などは、作品の世界設定がかなり深い。しかし、長崎氏に言わせれば、彼の漫画は自分の用意した設定をかなり緩く表現されているらしいのだ。僕はこのことを否定的な意味で言いたいのではない。むしろ逆で、複雑なものをわかりやすく表現するという、まさに図解的な能力において神業を発揮できるのが浦沢氏だということである。だから、図解本を書くのに最も適任であり、しかも広告代理店的なまやかしではない図解の方法を解説できる人、それはもしかしたら浦沢氏なのではないか…ということを、たった2冊の図解本を読んだ素人がふと思ったのだった。さすがに前回と今回の本は導入本すぎたので、久恒啓一氏やアンドリュー・サター氏の本など、もうちょっとだけ図解関係の本も読んでみることにしよう。

Posted by Syun Osawa at 00:27

2009年11月15日

2ちゃんねるの大規模規制で禁断症状の巻

2ちゃんの大規模規制がようやく解除になったw

禁断症状が出るほどのねらーではないが、たまに気になるレスにコメントをつけることもある。しかし、そういう場合は規制の事など忘れているから、規制のアラートが表示されてはじめて規制に気づくことになる。これにはイラッとくる。

そして、そのイラッがマルチポストをしているであろうネット右翼(思い込みw)に向かってしまうのは、僕の悪い癖だ。アクセス制限は筋違いで、本来ならばマルチポストしている荒らしだけを、法的な手続きで排除すればよいだけではないのか…と考えてしまうのである。しかし、それをしてしまっては2ちゃんねるの良さも同時に奪われてしまうわけで、だからこそ連帯責任としてのアクセス制限なのだろう(もっとも技術的な問題が一番大きいらしいが…)。

ニコニコ動画にも1週間BAN(1週間だけ放送禁止)などがあるし、そのように見ると、ある一定の荒らしをいきなり排除したりしない仕組みは、最善とは言えないが、まずまず妥当な戦略だと思える。排除しない安心感によって得られるこの手の余剰と引き換えに、僕の書き込みが制限されているのだと考えれば、イラッとした気分も少しは和らぐような気もするが、どうだろうか。

ただまぁ、投稿後に規制のアラートを表示させるのは何とかしてほしいなぁ。規制をかけるなら、最初に「あなたのIPアドレスはアクセス制限の対象になっており、現在、コメントを書き込むことはできません」といった表示を最初に掲げておいてくれたらありがたいのだが…。こんなことを書いている時点で、かなり禁断症状が出ているのかもw

Posted by Syun Osawa at 00:48

2009年11月14日

バカヤロー経済学

竹内薫/2009年/晋遊舎/新書

バカヤロー経済学本当ならば高橋洋一氏との共著となるはずだった本。高橋氏が逮捕された経緯については、いろいろな憶測が飛び交っており、中には国策逮捕なんじゃないかといった声もある。真相は闇の中だが、この本を読むとそんな憶測がトンデモとは言い切れないくらいのリアリティを帯びてくるから恐ろしい。

ようするに、官僚にとって本当に都合の悪い人は、消されるという古典的な図式である。たしかに高橋氏は、この本の中でも、官僚にとって都合の悪いことをたくさん言っている。世間を騒がせたニュースの裏側には、官僚達のパワーゲームがあったことなどをわかりやすく解説されており、僕のような素人はすっかり納得させられてしまった。さらにまた、経済学の基本的なこと(例えば、財政政策や金融政策の話)も対話形式で丁寧に解説されていて、経済学の導入本としても面白く、なかなかお得感のある新書だったと思う。

唯一残念なのは、この本の出版時期が民主党が政権をとる前だったことだ。本では、たとえ民主党が政権をとっても、ばら撒きをやるだけなので、一時的には良く見えても結果的には大きな変化は望めず(なぜなら官僚機構は温存されるから)、さらなる政界再編が起こるかもしれないと高橋氏は予想している。金融・郵政大臣に亀井氏になって、郵政民営化見直しの流れが加速している状況をみると、この予想はかなり当たっているようにも思える。ただ、それなりに成果を出し始めている部門もあるようなので、欲を言えば現在の状況での解説も読みたかった。

民主党はもともと大きな政府を志向している人が多いらしいし、実際の話、政権をとってからも円高は続いている。これでは輸出は伸びない。しかも、世界的な不況が進む中で、日本は高齢化が進み、かなりの割合で重要な設備投資も終わっている。そんな飽和状態で、今後も景気がバブル前と同じような上昇カーブを描いていくことは、素人目に見ても難しそうだ。

そんなわけで、こういう本を読んでいると、もはや人生オワタ\(^o^)/的な状況にも思えてくるが、個人的な範疇でみると、唯一その終わった感を救っていると思われるのが、この10年で爆発的に普及したインターネットである。

インターネットの登場は、コミュニケーションコストを大きく下げ、それに伴う娯楽の質を大きく変化させた。そしてこの変化は、デフレ基調の暗澹たる日常を生きる貧乏な人々が、絶望せずに、それなりに生きていくのに十分な娯楽を、対価以上に得ることができる機会をもたらしている。機会の平等による実力社会の加速化によって、今まで以上に富が実力者へと流れていく中、しかし、この点においてだけ、富の逆流現象が起きているのだ。そう考えると、ネットから阻害されている人間はそれらの恩恵も受けていないわけで、さらにキツい状況を生きているともいえるのか。携帯を持っていればまだマシだが、それすらないとなると…うーむ。

Posted by Syun Osawa at 01:43

2009年11月12日

ケモノヅメ(全13話)

監督:湯浅政明/2006年/日本/アニメ

ケモノヅメ(全13話)マインドゲーム 』の湯浅政明監督が手掛けたTVシリーズ。キャラクターの造形やら構図やらが昨今のアニメとは違っているのは、湯浅氏の思惑なのか、それとも『マインドゲーム』のヒットに気をよくした業界関係者が二番目のドジョウをすくいにいったのか。

湯浅監督は、『マインドゲーム』はドライに作ったと、何かのインタビューで語っていた記憶もあるので、実は後者なのかも…という気がしないでもない。ともかく萌え要素に埋め尽くされている昨今の商業アニメと、そこからあまりにかけ離れた文脈で消費されているストレンジなアニメ群(アートアニメって言われてたりする)、その間にある荒野を行きたい、という思いだけは伝わってきた。

『ケモノヅメ』では、作品を通して駆け落ちした二人の逃避行を描いている。そこで展開される「追いかけっこ」は、『トムとジェリー』などの往年のアニメ作品から脈々と続く伝統芸である。この定石化された(しかし最近はあまり使われない)演出の正面突破によって、アニメが本来持っている動きのポテンシャルが存分に発揮されていたように思う。

あとはエロか。エロ描写がかなり過激だった。あれは単純に椎名へきるにエロい言葉を言わせたかっただけなんじゃないだろうか…w それは邪推としても、キャラクターの造形的にヲタ属性な人に萌を喚起させるような図像ではないために、描写の過激さとは裏腹に短絡的な性的消費をさせていない。「女の子は可愛く描け」が漫画・アニメ業界の共通したお約束であり、その可愛さというのが定型化された萌絵を指している(僕はそういう絵を描くがw)。『ケモノヅメ』は、そこから半歩踏み出したところでエロを真面目に描こうとしていて、そういう試みはなかなかいいなと思った。その試みが成功しているかどうかは知らない。

以下、感想メモ。

第01話 初めての味

絵はかなり好み。前半ちょっと語り多すぎかも。後半は結構なエロシーンがあったが、この絵柄だとOKということなんだろうか? 昨今のアニメとはまったく関係ないアサッテの方向なので、とても楽しみ。ただし、浜辺のシーンで波の動画を丸々実写を使用するのはどうなのか。

第02話 辛酸の決別

愧封剣の師範であるトシヒコとその義理の弟カズマが跡継ぎ問題を抱えている。食人鬼との戦いが続く中、あろうことかトシヒコは、人間に化けた食人鬼に恋に落ちてしまう。そして、父親が食人鬼に殺されて死ぬ。最後に女が食人鬼であることが周囲にもバレたが、トシヒコは彼女と共に逃げてしまう。予想外の展開。いいねぇ。

第03話 しょっぱい新月の夜

二人の逃避行とその追っ手という状況を引きずった回。さてこれからどうするのか? どうなるのか? 女はトシヒコの前でも食人鬼になる。それでもトシヒコの愛は変わらない。トシヒコは二人で新しい関係を作りたいという。その一方で、カズマは愧封剣用のロボットを用意していた。展開的にはなかなかいい感じ。会話劇のところは少し『マインドゲーム』を引きずっている感じもするな。

第04話 過去の苦み

愧封剣と食人鬼にまつわるエピソードが開陳される。内容は結構面白いのに、他のTVアニメ同様に、今回はピンチの演出が少ないな…。

第05話 女の隠し味

国の一機関から独立して組織の拡大を目指す愧封剣の人たち。その一方で、二人の逃避行は続く。小さなドラマとしては、風俗嬢をしている食人鬼に恋をした愧封剣の男の話が合った。これはそのまま、本流の由香と俊彦の逃避行に被っている。被せていると言ったほうがいいのか。この作品、結構味わい深い構造していると思うがね。俊彦が裸の由香を手錠でベッドに縛り付けるという、かなり際どいセックスの描写もあった。

第06話 辛口バースディ

オープニングで民俗学が出てきたり、『バイオハザード』のような研究者の日記も登場。ノリがちょっと角川っぽい感じになってきた。今回は由香が俊彦に動けなくするツボを打つ展開から、一気に大ピンチに陥る展開がよかった。ああいうピンチの演出は大好き。監督には湯浅氏の名前がクレジットされている。こういうジェットコースターが作れるところに湯浅監督の凄さは潜んでいるのだろう。

第07話 利江の甘い香り

利江が本気出す回。シャワーでオナニーシーンとか、ゴンドラでセックスとか。二人の逃避行が思うように行かず、すれ違い続きだったために、その隙間を突かれたのだ。というか、今回は俊彦がハーレム状態。完全にエロゲ的展開になっとるがな…。ところで、もしかしたら一馬も食人鬼だったのか?

第08話 監禁は鉄の味

いきなりベロチューとかw そして、その後に惨殺。その切り替え具合が富沢ひとし風ですな。今回はかなり食人鬼と愧封剣の対立軸が明確になってきて、全面対決の色合いが出てきた。義理の弟は、まぁ…食人鬼なんだろうなぁ。

第09話 甘い夢

俊彦と由香の逃避行再び。旅の途中で車で旅をするおじいちゃんとおばあちゃんと出会い、一緒に行動する。そこで塩湖なんかが登場して、いい感じの演出。会話劇の中で、俊彦は由香に赤ちゃんがいることを知る。結局おじいちゃんもおばあちゃんも食人鬼で、俊彦らによって二人とも倒されてしまう。食人鬼に変身しておばあちゃんを食べた由香。シンプルな展開だったが、わりかし王道のプロットをしっかりつくってるよなぁ、このアニメ。『 カウボーイ・ビバップ 』っぽい演出。

第10話 人の不幸は密の味

話がオーラスに向かって進展。大場が黒幕で、ケモノヅメを利用して愧封剣をのっとろうとしている。そして、それは日本のキーパーソンになることでもある。俊彦は大場の子どもと協力して、大場の父を倒そうとする。そういう流れ。話は悪くないな。

第11話 その雨は苦かった

食人鬼のオリジナルは由香しかおらず、彼女は大場に捕らえられている。一馬が食人鬼だったことは予想通り。大場に捕らえられている柿の木刃の娘・利江も大場にそそのかされて人工食人鬼に。

第12話 珈琲味のキビ団子

いよいよクライマックスへ向かっている。大場との最終対決。柿の木刃で肩透かしをし、一馬もアッサリ敗北。で、俊彦ってわけなんだけど、クライマックスへ向かう道が一方通行にも拘らず、そのパワーが上手く結集されてない感じもある。シュールって言うか、少しメタ的にこういう作品のクライマックスを製作サイドが捉えているから、こういう風になっているんだろうな。白けつつのる…って感じが、ちょっとだけ寂しい。

第13話 味は関係ない

大場のルサンチマンから子どもには不幸な思いをさせたくないっていう流れでの暴走していったのか。このあたりも結構ベタな流れだったな。違うのはアニメの演出、キャラクターデザイン、など見せ方の部分が大半だった。ストーリーはそれなりに起伏に富んでいて飽きさせなかったが、成長物語的に何かが起きたわけではなく、むしろ事態はややこしくなって終ったという感じ。そういうどっちつかずの微妙な流れが現在風でもあるし、「そこそこ感」が募る原因でもあるんだと思う。二人は真実の愛を貫いて大団円ということなのだろうけどね。

Posted by Syun Osawa at 00:32

2009年11月06日

第50回 神田古本まつり

2009年10月27日−11月3日/神保町

第50回 神田古本まつり暇だと何となく行こうという気になるんだけど、行ったら行ったでこれといった収穫がないのが神田古本まつり。

一応、戦争画関連 の本を探すことをひとまずの目的にしているのだが、本当に古いもの(戦前のもの)はそもそも出ていないし、美術雑誌の戦争画特集の類は大抵買ってしまっている。以前読んだ、田中日佐夫『 日本の戦争画 ― その系譜と特質 』あたりが見つかると嬉しいんだけど、そういうピンポイントのものってほとんど見つかったためしがない。

本当に欲しいものはネットで探したほうが圧倒的に早いし、コストパフォーマンスもいいから、その手の目的で行くのが間違っていることは、随分前から気づいている。実際の話、僕の買う本やCDの大半は、新品・中古を問わずネット通販のものばかりだ(ヤフオクしかり、Amazonしかり…)。それでも行くのは、売られている本をチラチラ眺めながら立ち読みするという行為それ自体が、僕にとって勉強になるからで、浅い知識を横に横に広げたい人間にとっては、うってつけの場所でもあるのだ。

本が欲しいだけならネットには絶対に適わない。しかし、本は読むもので、読むという行為には時間と空間が伴う。だから、本を眺める時間や空間をいかに演出するかということが、こうしたイベントには求められているのだろう。そしてそれは、一般の本屋でも例外ではない。

最近は喫茶店や文具店が併設されている書店を多く見かけるが、読書に当てる時間や空間を積極的にプロデュースするというところにまでは至っていないように思う。例えば、1500円以上お買い上げの人はコーヒー1杯無料にして強引に喫茶店へ促すとか(もちろん本を読む空間の演出として)、本代+300円でオリジナルのブックカバーが貰えるとか、自己啓発系のカウンセリングや占いと関連本を組み合わせるなどして、積極的に本の外部を拡大させていかなければ、多くの人は読書などという行為にわざわざ時間を割いたりはしないのではないか、と思うのだ。

手に入れた本など

森卓也『定本アニメーションのギャグ世界』(アスペクト)
左巻健男『水はなんにも知らないよ』(ディスカヴァー21)

いろいろ書いておいて、買ったのはバーゲンブックw

Posted by Syun Osawa at 00:27

2009年11月05日

アイラミツキ・ライブ@MAU FOCUS'09

2009年10月31日/17:00−17:45/武蔵野美術大学

遅れたぁ…。

ポスト・ゼロ年代の批評をめぐって のイベントを途中で抜け出して渋谷から鷹の台へ。時間的にもいい感じと思ったのもつかの間、武蔵野美大って駅から遠いw しかも、校内で迷って時間をロス。結局15分くらい遅れて到着。うーん…しくじった。

で、会場の中に入ったら、アイラ嬢が『ニーハイガール』を歌っていた。最前こそ熱かったが、後ろの人達はこんな顔→(-_-)で見てる感じ。そんなアウェイ感漂う状況だったおかげで、結構前のほうで観れたのはラッキーだった。曲もけっこう数やってくれたし、僕が好きな曲も結構含まれていて満足。何度見ても『 BAD trip 』の 手を突き上げるところ はカッコいいねぇ。

『チャイナディスコティカ』と『プラスチックドール』では稲垣潤一よろしくドラムを叩きながら歌うパフォーマンスをやっていて、最初にやった『チャイナディスコティカ』のクオリティの低さに思わず笑ったw 生バンドでもないし、リップシンクなのにあのクオリティw みたいなところは、逆にいいんではないかな。そういうユルさのある場所にこそ、アイラの曲ってしっくりくるのかも。

というのも、何の曲か忘れたけど、途中でDaft Punkの「Technologic」を混ぜていて、あれなんてモロにYoutubeとかニコ動からのパクリなわけだ。インストアイベント でもBeastie Boys「Ch-check It Out」使ってたし、そういう意識を持っているのなら、IKZOとかミクとかアイマスとか東方とか、何でもやればいいんではないかと思ったりもする(ニコ動に上がっている『チャイナディスコティカ』とIKZOのマッシュアップはデートピアの自演だと噂されているが、あれは本当だろうか?)。

最近、元スーパーカーのフルカワミキが『サイハテ』をカバーしてるけど、こういう商売って、楽曲の良し悪しと別のところで、そこにあるアングラなカルチャーと如何に上手い関係性を構築するかってところが鍵になってくるように思える。ニコ生も含めて、あの空間には、商売に見えなければ見えないほど支持されるという、マスメディアとは逆のロジック、つまりパーソナルメディアとしての個人のロジックが割り込んでくるため(ニコ生の行方 参照)、友達のようなノリでユルさと適当さを強調しつつ、裏ではきっちり儲けていくという方法論を見つけていかなければならないのだろう。これは結構難しそうだ。…いや、こんなことでは絶対にマス的な支持は得られないので、止めたほうがいいかw

こうしたアイヲタ趣味に振り回されるのは、そもそも本意ではないはずだ。より大きく売れるためにはそういう閉じた空間を無視して別の文脈を探るしかない。個人的には、その方法は大衆に支持される楽曲を一つ作ること以外にないと思っているが、閉じた空間で自閉しているアイヲタの僕にはあまり関係のない話である。

(追記)
2ちゃんの該当スレにセットリストが張られていて、それを見るかぎり、一応全部見れていたみたい。開始時間が遅れたんだな…。

Posted by Syun Osawa at 00:43

2009年11月04日

ポスト・ゼロ年代の批評をめぐって

2009年10月31日/15:00−/タワーレコード渋谷 7F

ポスト・ゼロ年代の批評をめぐって凄いタイトルだなw

音楽のジャンル分けでポストロック系(と呼ばれるもの)なんてのがあるが、一体いつまでポストって言うんだよ?みたいな印象が「ポスト」という言葉にはある。既存の枠組みを超えている印象だけを与えるまやかしなわけだけど、TSUTAYA新宿のCDレンタルも、去年くらいからポストロック棚が別に設けられて、行くたびにその棚と、テクノ棚やロック棚とを往復している人を数人見かける。ポストロックという言葉自体が今や市民権を得て、一つのジャンルと見なしうるから棚を設けた、というのがその真意なのだろうか(そういうマニアな人たちの要望が強かったのかもしれない)。

そもそも、ジャンル分け自体が強引な制度化に他ならないわけで、そこにあえて超越的なジャンルを設けて、オルタナティブな領域さえもまた制度化するというのはいかがなものか…いや、これ全然関係ない話だった(しかも 同じネタ を以前書いたかw)。もう少しだけ関係ない話を続けると、これは一つのジャンルにしか区分けられない“ショップ型の想像力”に押し込められているヘビーリスナー達の憂鬱でもある(CDショップへよく行く人ほど陥りやすい)。今、ネットの世界では一つの作品にいくつものタグがつけられており、その作品の帰属先は複数性をもった曖昧なイメージとして受容されている。だから、オヤジ達の教養主義が見え隠れするロックを軸にして、ポストとかマスとか言い続けてしまうことには、どこか古めかしい特権意識を感じてしまうのだ。

全然関係ない話はさておき…。

このイベントのサブタイトルは「『ニッポンの思想』補講」となっていて、内容は『 ニッポンの思想 』の新聞・雑誌等での評判からネットでの反応までを受けて、それに応答するというものだった。何でも『ニッポンの思想』の中で、90年代は東浩紀の一人勝ちだったと書いたことに対して、各所から「それ違うだろ」的な突っ込みがあったらしく、その言葉は 早稲田文学 十時間連続公開シンポジウム で大森望さんが言った言葉を借用しただけだと弁明されていた。

特にネットでの反応については、山形浩生『訳者解説 − 新教養主義宣言リターンズ』の言葉をひいて、次のようなことを話されていた。今の多くの読者というのは、本を読むという行為に対して、未知のものに触れるというよりは、単純に出題頻度とか語調とかに反応しているだけで、それを自分の中に元々あるストーリーに押し込めて、既存のパターンで理解しているだけではないか。僕はあくまで客観的に書いたつもりだから、特定の言葉にただ反応しただけのような感想には首をかしげるものもあった、というような話(うる覚え)。よーするに、ちゃんと読めてない、ということなのだろう。

客観的な立場を強調されていたのは、東浩紀氏との関係で、立ち位置ばかりが強調されてウザかったというのもあるだろうし、本当に客観的な立場を目指して書かれていたのかもしれない。でも、誰だってそんなことは本質的に無理だろうと思ってるはずだし、著者だって百も承知だろう。

例えば、オバマ大統領はシカゴ大学で講師をしていたが、彼が大統領になった今、どれだけ中立で客観的な立場に立って法や倫理について語ったとしても、アメリカの国益を代表しているという立場からは逃げられない。それは既存のメディアでも同じだろうし、オルファ・ラムルム『 アルジャジーラとはどういうテレビ局か 』などを読むと、その立ち位置問題から逃れること自体、同時代に生きている限り不可能に近い。もちろん、そうであっても客観的な立場を貫こうという姿勢そのものが、彼のリテラシーなのだから、その点は真摯だなとは思えるが…。

とはいえ、僕ただの野次馬なので、少しはエンターテイメントとしての論プロも欲しい。『ニッポンの思想』という本は、ネットでも様々な反応があり、そのぶん違和感の表明も少なくなかったのだろう。しかしそれは、表現者として肯定的に捉えるべきではないのか。例えば、東氏などは、本を出すたびに各所から違和感を表明され、その違和感によって東氏の存在は強化されてきたと言っても過言ではない。それは宇野氏も同様で、彼のアンチ(噴き上がった奴ら)こそが彼の輪郭を形作っているのだ。だから彼の悪口は、元西武ライオンズの東尾が投げた内角高めのように、いわば生命線なのである。むろんそうしたパフォーマティブな振る舞いに陥らないように、努めてコンスタティブに書いたのが『ニッポンの思想』というわけだから、これもまるっきり逆なんだろうな…。

アイドルのイベント に行くために、途中でイベントを抜けたので、トークのオチは知らない。

Posted by Syun Osawa at 01:27

2009年11月03日

超シンプル図解術

永山嘉昭/2007年/すばる舎/四六

超シンプル図解術最近、図解にハマりかけている。それは多分、ネットにおいてTwitterのつぶやきのような言葉の断片が拡散している状況がOKなら、適当な図解で勝手なイメージを拡散させることもOKだろうと脈絡のないことを思ってしまったからだ。で、図解の本を調べると、これが結構たくさんの種類出ている。その多くは企業プレゼン用の図解の作り方を説明しているようだ。

この本もプレゼン用に使われることを念頭に置いて書かれているのだが、かなり基礎的なことが書かれていたので、シンプルに図解のスキルだけを身につけたい僕のような人間にとっても、導入本としてはまずまずだった。図解は「つなぐ」「囲む」「配置する」によって行うのだとし、フローチャート、マトリックス、ロジックツリー、デシジョンツリーとかなどの説明がなされている。いまどきフローチャートとか言ったら笑われそうだけど、図解一般を考えるとまだまだ有効だろうと思う。

図解のための図を作るとき、その作り方には2つのアプローチがある。1つは結論からイメージを膨らませて図解する帰納法的な図解で、この本ではそれが最良とされている。企業のプレゼンがメインであれば、その方法が最も目的に適ったものなのだが、僕はもう1つの方法にこそ図解の本当の面白みはあるのではないかと思うのだ。それは、考えながらイメージを膨らませていくという演繹的な図解で、頭の中に浮かんだキーワードを全部並べ、それを順に整理していくというものである。これは岡田斗司夫『 プチクリ 好き=才能! 』でも、似たような方法が紹介されていた。

頭の中にあるごちゃごちゃしたイメージをキーワードとして並べる。そこまでは小論文を書くような場合でも、今のようにブログに感想文を書く場合でも同じだろう。言葉だけの場合は、そのキーワードを並べ替えながらストーリーを作っていくわけだが、図解はそのキーワードをイメージの世界へ戻してやることになる。イメージは言葉と違って千差万別なので、それをベタに行うと10人が10人ともバラバラの図を作るような事態になってしまう。それはマズい。だから、そこに描かれているものは「状態・構造」「関係」「変化」を表すものであり、その状況を「つなぐ」「囲む」「配置する」によって説明するというルールに従っている必要があるのだ。そうすることで、そこに描かれたイメージは、ただの絵ではなく、図解としての意味を持つようになるのである。

この本にはいくつか演習問題がついていて、その最後の問題が、その方法をわかりやすく説明していたので、僕にはなかなか勉強になった。もちろん図解で表現できることには限界があるので、思考の整理学と呼べるほど厳密ではない。しかし、冒頭に書いたように、ネットにおける言葉の有り様を考えれば、イメージもまたそうであっても構わないという思っているし、言葉では表せない世界がもう少し違った形で広がっていくことも僕には面白く思えるのである。

Posted by Syun Osawa at 00:13

2009年11月01日

ニコ生の行方? ― マスとパーソナルの間で

いつものごとく、無駄話。別名を暇つぶしともいう。

『社会は存在しない』のイベントの感想文 あたりから、イメージ図をつくるのにハマっていて、最近少し気になった由無し事を図にしてみた。

【図】メディア・コミュニケーションの現在

左右は単方向と双方向の度合い、縦軸はリアルタイム(生放送だけでなく、同時間的という意味も含む)と、オンデマンド(いつでも見たいときに見れる)を表している。で、その真ん中くらいにあるスティッカムとかニコニコ生放送で、人気のある配信者がアンチの叩きにあって引退する…という流れが繰り返されているので、そのあたりのメディアの話でもしようかなと。今も相変わらず引退ラッシュが続いているし、特にスティッカムはニコ生への流出もあってか、「エンターテイメント」のタグに括れるような配信が減ってしまって、僕は寂しいのだw

で、上の図。

ようするに、ニコ生などのメディア(リアルタイムで、マスとパーソナルの間にあるメディア)は、テレビのように見る人と、出会いを目的に見る人の2タイプの人間によって、両側から挟み撃ちにする形で受容されているのだ。そして今は、パーソナルな側から受容している人が多くなっているように思える。喧嘩凸が持ち味のとあるピアキャスト配信者が、こうしたニコ生の現状を見て「どの配信者も出会い厨ばっかりだ」と嘆いていたが、この流れはどうやら避けられそうになさそうだ。

僕はニコ生やスティッカムの持つ両義的なオルタナティブ状況が好きで、しかもテレビの視聴者としての立場からこうした新興メディアを見ていた。例えばスティッカムを例に挙げると、今年の前半くらいまでは、テレビ的に楽しむ視聴者と、視聴者を意識した配信者とがカオスなエンターテイメントを演出していた。それが警察沙汰などいろいろなことがあり、次第にパーソナルな側面を強め、エンターテイメントの領域が左側へと押し戻されてしまった。上の図を見れば、もともとスティッカムはYahoo!チャット同様にパーソナルな側面が強いし、わいわいチャットなどのサービスが併設されていることも含めて考えれば、浅田彰的な投瓶通信よりも、もう少し個と個が向き合えるような通信を、多くの人が望んでいたということなのだろう。

しかしながら一時は、まさに海流の潮目というか、マスともパーソナルとも言えないような不思議な空間がそこにあり、配信者と視聴者が一体となってキ○ガイ的な熱狂をみせていたことも事実である。僕はその空間に、新しい世界を見つけ、テレビより面白いエンターテイメントを楽しんでいた。十年前とほとんどキャストが変わらないテレビよりも、目まぐるしく主役が入れ替わり、毎晩のように神配信者が生まれるスティッカムやニコ生のほうが一瞬のポテンシャルははるかに優れていたからだ。この新陳代謝の良さが、こうしたメディアの最大の魅力であったと思う。

ただ残念ながら、このオルタナティブ空間も、今、もの凄い勢いで制度化が進んでいる。ニコ生はまだギリギリ活気を保っているが、このたびのニコニコ動画のサービス改訂がコミュニティ重視のものであることからわかるように、ニコニコ生放送もパーソナルメディアとしての意味づけを拡大し、スティッカムと同じ運命を辿ろうとしている。

その遠因となったのが2ちゃんを中心に暴れているアンチの存在であろう。美人配信者や面白い配信者をひたすら罵倒し続けるようなアンチの存在が、そうしたオルタナティブ空間を急速にパーソナルメディアとして制度化させていることに、気づくべきである。なぜならアンチは、テレビ側から受容している人間なのであり、エンターテイメントを楽しんでいる人間のはずだからだ。そして、こうした制度化の結果、排除されるのは自分たち自身なのだ(もちろん、主役の入れ替わりという新陳代謝を促すためには、アンチ的な存在が意味がないとは思わないし、そもそもアンチ=嫉妬厨ならこの話自体成り立たないがw)。

もう一度、図に戻る。そして話もちょっと変わる。

図を見ると、マスとパーソナルの間を埋めるような新しいメディアが続々と登場し、気づけばメディア・コミュニケーションの空間はある程度埋め尽くされてしまったように思える。この図は僕が1時間で適当に描いたものなので、根拠も何もあったものではないが、近からずも遠からずというところだろう。こうした状況で、この空間にまだオルタナティブが残っているとしたら、右下の青い矢印で示した場所ではないだろうか。

オンデマンド放送であり、しかも双方向のコミュニケーションが可能なメディア。それは恐らく、Twitterの映像版のようなものではないかと予想する。Youtubeにも一部にそういう機能(投稿動画に投稿動画で変身ができる機能)があるが、ウェブ上級者が使っているのみで、一般化しているとは言い難い。おそらくこの場所がまだ開いている空間だとは思うのだが、この空間はそもそも限りなくパーソナルな場所であり、マス型のエンターテイメントを楽しむ場所には適していない。つまり、僕が求めていたマス的なエンターテイメントの新世界はもう無いかもしれないのである。

図に描いて考えるって、なかなか楽しいなw

Posted by Syun Osawa at 01:59