bemod
« 2009年11月 | | 2010年01月 »

2009年12月30日

E-TRiPPER 4

2009年12月21日/渋谷 DUO -Music Exchange

E-TRiPPER 4何だろう、この甘い感じ。

ナイナイ矢部が、EXILEのボーカルの一人が歌い始めると「わー甘い〜」と言い、もう一人が歌い始めると「こっちも甘いんかーい」と突っ込むというあのネタ。まさにそんな甘い感じのイベントだった。

特にラストに登場したQ;indiviのRin Oikawa嬢なんて、ほとんどクリスマスソングだしw 誰得?っていうねw まぁ、損してるの僕だけだったかもしれないけど、それはともかく、辛めな人たちもいたので、忘却録のために成分表示してみた。

こんな感じ↓

【図】E-TRiPPER 4の成分表示

個人的に熱かったのは、今回のお目当てだったレコライド(しかし入り口でレコライドって言うのを忘れるっていう…)と、初見にも関わらず強い印象を受けたLIPS IN LUSH(通称LIL)。どっちも今回のイベントではやや辛めで、それぞれ辛さのベクトルが違う感じ。

レコライドは、CutiePaiの前座 で見たときと変わらずのはっちゃけぶり。ギターが新たに加わって、かなりバンドっぽくなってた。「白鳥のプリズム」はかなりギターの音がでかくて、原曲と比べて超違和感だったのだが、あれでよかったんだろうか…。それ以外は神。ニューウェーブ歌謡曲。

LILは英語詞で、洋楽のポップチャートを賑わせているような感じの曲が逆に新鮮。「 MOSHI MOSHI RADIO 」なんて一歩間違えたら超歌謡曲で、僕はむしろこの感じが好きだな(結局、歌謡曲が好きなだけ)。ともかく熱かった。

Sweet Vacationは インストアライブ 以来2度目。日本語も上手いし、可愛いしで、まぁ…強いわな。会場的には一番人気だったのかも。そのほか、JacaPopとRin Oikawaも初見。この3組はいずれも甘い感じで、素敵オーラが出まくっていた。今回の五組は似たようなところを走っているようで、ちゃんとそれぞれの個性を追求してる。だから、それぞれのバンド、ないしコンビが粒立っていて、なかなかお得感のあるイベントだった。

ところで、彼らをつなぐバズワードとして、世間では「エレクトロ」なんていう言葉が用いられているが、彼らの曲を完全に「エレクトロ」としてしまうと、本来使われてきた言葉の意味がかなりぼやけてしまうんではないか? そんなことが、いろいろなところで言われている。僕も同感。Wikipedia を見ると、昔のエレクトロの解説は簡潔になされているものの、今流通している曲に「エレクトロ」とつけられていることについては、「テクノポップとしばしば混同される。」と書かれているだけで、こちらも何だか曖昧だ。

詳しくは知らないが、90年代にDMXクルーを聴いたり(第二次エレクトロブーム?)、00年代の初めにLadytronを聴いたり(エレクトロクラッシュ?)していたので、エレクトロはそういう流れの中にあるのかと思っていた。でもどうやら違うようだ。capsuleのブレイクで、文脈とは関係なく、みんなが勝手にそれを「エレクトロ」と言っているようである。だったら、何で端的に「フレンチ・エレクトロ」と言わなかったんだろうなぁ。そういや、「フィルターハウス」って言葉はどこへいったんだ? と思ったら、こちらは素晴らしいエントリを上げておられる方がいた。

第一回フィルターハウス再考会
第二回フィルターハウス再考会
第三回フィルターハウス再考会

話があさっての方向へ飛ぶが、僕はブレイクダンスが好きで、Youtubeの動画をよく見ている。そこで使用されている楽曲として、しばしば本来の意味でのエレクトロな曲が使われる。こうした曲はもはや「エレクトロ」とは呼ばれず、ざっくりオールドスクールな曲ということで取り込まれてしまうのかもしれない。これも時代の流れかな。

Posted by Syun Osawa at 01:18

2009年12月29日

ドキュメント高校中退 ― いま、貧困がうまれる場所

青砥恭/2009年/筑摩書房/新書

ドキュメント高校中退 ― いま、貧困がうまれる場所苅谷剛彦『 学力と階層 』を読んで、教育と貧困の相関が思いのほか高いことを知り、諦念と自己責任の関わりについて考えるようになった。僕の親などもそうだが、よく「最近の子どもは我慢強さがなくなった」と言うし、それが若者問題(ニート問題など)の本質であると捉えている節もある。僕もこれまではそれなりに同意していたのだが、貧困関連の本を読んでいくうちに、「我慢強さがなくなったのは、果たして子どもだけの責任なのだろうか?」と考えるようになったのだ。

この本は、底辺高校の取材を通じて、子どもがいかに諦めて、高校中退し、貧困層に固定化されていくかを明らかにしている。正直こういう実態を知ってしまうと、軽々に「自己責任」は言えなくなる。底辺校には、親から基本的な生活習慣の訓練さえ受けていないような子どもも少なくないのだ。

これに関連した例を一つ挙げる。

生活保護自給者が生活苦を訴えた新聞記事が、2ちゃんねるに晒されて話題になることがある。こうした記事が世間の注目を集めるのは、彼らの生活苦が気の毒だからではない。むしろその逆で、生活保護自給者でありながら、月額数万円の携帯電話代を計上していたりすることに多くの人が憤っているのだ。

このことについて以前、ホリエモンが、「節約するための知識がなく努力の余地がないのでは?」とブログに書いていたが、僕もその意見に同意する。ふざけた話だとは思うが、彼らの未成熟さを単なる個人の能力として処理してしまうのでは、新自由主義者が唱える「機会の平等」さえ与えられない若者たちの実態を、見逃してしまうことになりかねない。

こうした子どもを受け持つ底辺校の教師も大変である。

現場では、「家庭に問題があり、次々に事件を起こす生徒を守るか、低学力でも学び直したいという生徒を守るかの選択を迫られている。」そうで、どちらを選択しても、もう片方の生徒たちは放置されることになる。こうした選択は一般的な学校でもよくあるが、大きな違いは、底辺校から排除された場合、ほとんど行くところがなくなってしまう点ではないだろうか。そういう意味で、底辺校がセーフティーネットのような役割を担わされているとも考えられる。にも関わらず、底辺校に近づくにつれて、高校の中退率は上がっており、また貧困率も高くなっているのだ。

ではどうすればいいか?

この問題の解決は非常に難しい。著者は、こうした状況を克服するために、高校の無料化、義務教育化などを挙げている。素敵なアイデアだが、難しいと思う。僕は問題のある家庭に、定年退職した大人をボランティア補助員として配置することで、家庭環境を含めて底上げをはかる案が頭をよぎったのだが、実態を知らない理想論に過ぎない。単純な解決策として、奨学金や学費免除の割合を増やしてボトムアップをすればいいという声もありそうだが、こちらも金がかかる。しかも、問題行動を起こしたり、友達が辞めた程度の理由で学校を辞めるのは、世間から見れば自業自得だと思われるはずで、単なるDQNの甘えとしか受け取られない可能性もある。

では、放置するしかないのだろうか?

グローバル化した社会の中で、日本がこれからも強くあり続けるためには、教育水準の底上げは重要な課題だと思う。さらにまた、少子高齢化が進む中で、少しでも多くの労働人口を確保する必要があるので、ドロップアウトする人を減らし、またそうした人を再び社会に取り込んでいくことは日本全体の利益にもなるだろう。競争社会がダメなのではなく、競争が避けられないのならば、少なくともできるだけ多くの人を公平なスタートラインに立たせることが「機会の平等」ではなかったか。そう考えると、派遣か正社員かという問題も重要かもしれないが、それ以前のところで排除されている人をセーフティーネットの網にかけることは、実は最も緊急を要する問題なのではないかと思うのだ。

(貧困関連で読んだ本)

苅谷剛彦『 学力と階層
ムハマド・ユヌス『 貧困のない世界を創る
堤未果『 ルポ貧困大国アメリカ
湯浅誠『 反貧困
湯浅誠、堤未果『 正社員が没落する

Posted by Syun Osawa at 00:17

2009年12月26日

中野腐女子シスターズライブ@ねとすたまつり2009

2009年12月19日/18:30−19:10/富士ソフトアキバプラザ

ねとすたまつり 2009ねとすたシリアス に引き続いて参戦。カメラの台数が増えて、一気にテレビっぽくなった感じ。後ろのセットがなくなり、ガラス張りのステージになったので、関西でやっている『おはよう朝日です』という番組と、山田雅人の顔を10年ぶりくらいに思い出してしまった。そーいや、『おはよう朝日です』でもたまに歌やってたな…。

てなさておき…

中野腐女子シスターズはスザンヌが脱退するまでは、GyaOの番組をずっと見ていたのだが、スザンヌ脱退後は見なくなってしまっていた。その頃には、スティッカムやニコ生が台頭しており、メディアの状況がマス的なものからパーソナル的なものへ変化していったことも、彼女らを追わなくなった原因かもしれない。そういえば、音泉の番組もほとんど聴かなくなってしまったなぁ…(これはまた別の理由があるが、それはいずれ書くことにしよう)。

とはいえ、完全に興味をなくしてしまったわけではない。中野腐女子シスターズには、ネトアの乾曜子嬢がいる。彼女に関しては、ちゃぷ嬢やさちえ嬢がブイブイいわしていた頃からウォッチしていたので、今もアッパーに活躍し続けている姿にリスペクトしているし、また、キャラ的な意味できゃんちを愛する者としては、彼女らのオタトークだけは、Youtubeでかかさず見ていたりする。

さて。そんな中野腐女子シスターズ。

歌はほとんど初見に近い。以前、GyaOのイベント(歌ブロなんかと合同でやったイベントで、売れる前のオードリーが司会をしていた)で見たはずなのだが、ほとんど覚えていなかった。曲はパラパラあり、ざっくりしたアイドル歌謡あり、とバラエティに富んでおり、僕の好きな地下アイドルの匂いを感じさせてくれる。新曲も悪くない。ただ、客側ではオタ芸もMIXもなく、一部の曲でコールがあるだけだったし、MCもガチオタトークは控えめな感じ。そのため、ライブ自体は案外すっきりした印象だった。

ライブでは、彼女たち自らヲタ芸をダンスの中に取り入れており、そもそもユニット名として腐女子を名乗ってしまっている。そのせいか、彼女たちの消費のされ方も、地下アイドルとオタクというベタな関係を超えて、かなりメタ的なところからスタートしているのかもしれない(知らんけどw)。

てなわけで、去年、AKB48の『大声ダイヤモンド』のパフォーマンスを見たとき のようなズキューン感はなかったが、そういうストレートなアイドル路線より、ガチヲタ自意識バリバリの路線をさらに拡張して行ってくれると、個人的には凄く嬉しいかなと思ったライブだった。

あと、関係ないけど、いくらテレビ収録とはいえ、カメラマンが客席にガンガン入ってきて、ヲタ晒しするのはやめてほしいw こんな残念な人たちが応援しています…っていう様子をテレビに映しても、誰も得しないだろw

Posted by Syun Osawa at 02:16

2009年12月25日

neoneo展 Part2「女子」

2009年10月31日−12月27日/高橋コレクション日比谷

neoneo展 Part2「女子」今、熱い女性アーティストの作品を集めた展覧会。

少し前から大竹夏紀さんの作品が気になっていて、ちょうどこの展覧会に出品されていると知って観に行った。今回展示されていた作品は意図的に集められているはずで、そこにあるテーマ性は集めたキューレーターの意図が色濃く反映されているのだと思う。だから、この展覧会を見ただけで「最近の女子たちは…」なんて僕が書いてしまうのは、一面だけで全部を悟った気になるおっさんの悪癖でもあるんだろうけど、まぁ…そこは仕方ない(実際におっさんなのでw)。

入り口で貰ったペーパーの紹介文には、最近の女性作家たちを「元気な女の子たち」と書かれていた。それが今回の展覧会に集められた女性作家たちの作品にも反映されているのだろう。僕が全体を通して見て感じたのは、「ネガティブなのにPOP、ナイーブなのにPOP」という感覚だった。金太郎飴のようにどこまで切ってもポップな要素(これを元気と言い換えてもいいのかな?)しか見えてこないのに、その反面、自分たちから醸し出される「可愛らしさ」を見つめる視線は冷めており、また非常に鋭い。そんな印象だった。

恣意的にそういう印象を受けた作品を挙げると…

樫木知子《花》は、日本画風の平面的な絵の中央にうつぶせの女性が描かれている。その女性の様子は、疲れ果ててぐったりとしているようでもあるし、何かを思いつめているようでもあるのだが、つま先はしっかりと地面を捉えていて、そこに力を感じさせる。

ヒョンギョン《オチコボレ》が一番典型的かもしれない。中央にいる女性は鎖につながれており、日本刀や韓国の刃物?などでめった刺しにされている。右下にはマクドナルドの食いかけのポテトが散乱している。この状況は日韓問題やファーストフード文化にアイデンティティが揺らがされている女性の悲哀ようにも見えるのだが、近寄ってよく見ると、体は全部ふざけた絵の集合体でできている。この両義性が「ネガティブなのにPOP、ナイーブなのにPOP」という感覚そのものだと思う。

宮川ひかる《Cecile Belmont》は写真作品。女性のへその下あたりにクリップの形をした鎖の傷痕がタトゥーのように刻み込まれている。中学校のときに、僕のクラスの女子たちが、自分の好きな人の名前を手に彫ってたのを思い出した。そのとき彼女たちが、クリップやら名札の針なんかを使っていたこともあって、あのイメージが妙に重なった。

和田典子《fragranece of a murmur》は立体作品。壊れてゆがんだベット(木枠しかない)が会場の中央に置かれていた。その寂れた造形とは裏腹に、木枠部分はすべて花で埋め尽くされている。

もちろんそういう作品ばかりではない。奇想の王国 だまし絵展 を観に行ったり、谷川渥『 図説 だまし絵 』を読んだときに考えていたフレームの問題(作品と現実の境界の問題)を扱った作品もいくつかあった。

春木麻衣子《yell》などはその代表的な作品だろう。絵の中に額縁も描かれている。額縁の内部は黒一色で、その外側にある額縁は、下に行くほど黒くなって、内部の絵と同一化している。

竹村京《羽衣》は絵の中に森が描かれており、その絵の描かれたキャンパス全体にレースがかけれられている。そして、そのレースに中央部分に、絹布が配置されており、その絹布が、後ろ絵に描かれた木の枝にかかって見えるよう工夫されている。

僕の勝手な思い込みで、現代美術にはこの手(フレーム問題系)のコンセプトの部分で批評的な言葉を誘発する作品が多いと思っていたのだが、そうした作品はそれほど多くなく、あくまでイメージ先行で、自分の思想をダイレクトに照射している作品が多いように思った。ガイドの紹介文の言葉を借りるなら「元気な女の子たち」の作品ということになるだろうか。

次の作品はそれがよく出ていたと思う。

名知聡子《ポートレイト》の中央にでかでかと描かれた女性の顔は本人だろうか? 鈴木杏に似てて可愛いなw とか、そういう問題意識しかない時点で、僕の眼はすでに終わってるのだが…。

藤田桃子《タオ》は、何だかよくわからない生命体がキャンバス全体に描かれていて、その生命体の両端から女性の顔が出ている。中央部分は黒く脈打っている感じで、よく見ると鳥がいくつも重なっているように見える。鳥と女の関連性はよくわからないが、ともかく生命力がヤバい。

大竹夏紀《ひみつ》は今っぽい。趣味的に好きなのだが、その感覚が世間に引きずられて(まさに今っぽさに引きずられて)、気に入っているのか、それ以外の何かなのかはわからない。ともかく今っぽい感じがする。アイドルオタクだから、アイドルを描く絵画にひかれただけかもしれない。ともかく、アイドルを取り巻く花の創発的な広がりに、とてつもない生命力を感じたのだった。

これらの作品は、端的に強い感じがするし、見ていると気持ちをぐいぐい持っていかれる。そして、僕はそういうストレートな作品にめっぽう弱い。

PS.

絵の感想とは全然関係ないが、松井えり菜《しゃんぴにおん》は、最初に見たとき、雑誌『ユーロマンガ』で連載中のニコラ・ド・クレシー「BIBENDUM CELESTE」に出てくるロンバックスかと思った。空耳的な意味で超似てる。

Posted by Syun Osawa at 00:09

2009年12月23日

ねとすたシリアス@ねとすたまつり2009

2009年12月19日/18:30−21:00/富士ソフトアキバプラザ

ねとすたまつり 2009東浩紀、藤村龍至、宇野常寛、濱野智史による『ねとすたシリアス』公開収録? ねとすた関係は、ほとんどニコニコ動画でしか見てないので、いつものシリアスのメンバーではないこの面子で、なぜ『ねとすたシリアス』なのかもわからず。とりあえず当選したし、無料だし、NHKに感謝…みたいなw

驚いたことに、出演者も客席も全員男。この異常事態で「民主主義2.0」がテーマというのだから、その時点でヤバい感が漂っており、さらに客席ではPCを持ち込んで、Twitterで実況をしている人も結構いて、その実況に出演者が反応するという展開がヤバさに拍車をかけていた。なるほど、これが2.0的なイベントなんだな(知らんけどw)。

イベントで話されていた内容は結構面白く、勉強になることが多かった。中でも藤村氏が建築の分野で試みている超線形プロセスにおける「ジャンプをする/しない」という話はとても印象に残った。藤村氏の超線形プロセスの話はイベントでのプレゼンを聞いただけなので、上手く飲み込めていないが、僕なりの解釈をすると次の図のような感じになる。

【図】ジャンスする/しない

コンテンツ派とアーキテクチャ派を分けて説明されていたので、「コンテンツ派=ジャンプする=作家性」と強引に結びつけ、「アーキテクチャ派=ジャンプしない=作家性?」とした。藤村氏の話は図の下の部分に該当していて、アーキテクチャ派にあたる。Web2.0的というかGoogle的というか、創発的な活動が積み重ねられていくプロセスの先に作家性を見ているようだ。これは最近読んだアンドリュー・リー『 ウィキペディア・レボリューション 』とかジョナサン・ジットレイン『 インターネットが死ぬ日 』あたりにも通底するような面白い話だと思う。

一方、コンテンツ派の代表として宇野氏が話をされた。こちらの話もなかなか面白かったのだが、「自分探し」にまつわる話だけ少し引っかかった。宇野氏はロスジェネ世代のリベラル左翼とも関係があるらしく、彼らが「ロスジェネの運動をしても、集まってくるのは自分探しをしている人ばかり、だからそれでいくしかない」と話しているエピソードを紹介されていた。ここでいうロスジェネ世代のリベラル左翼な人が誰なのかは知らないが、『ロスジェネ』という雑誌の周辺だと想定するならば、自分探し君しか集まってこないのは、リベラルな彼ら自身が大きなジャンプをできていないことが最大の原因なのではないかと思う(大きなジャンプをすると言って、マルクスを読み返している場合ではないのではないかと思う)。

…という話は別によくて、引っかかったのはここから先の話だ。

とりあえずそんなロスジェネな人達がいるとして、自分探しをしていたとする。そのときに、自分達も小さなジャンプしかできないにもかかわらず、自分探しをしている人たちを嘲笑していてもしょうがいないのではないか。ここで、大きなジャンプをあきらめて、小さな領域で自己診断ツールを走らせることを目的にするのか、もう一度大きな放物線を描いてジャンプしようと試みるのか、このあたりで思想のベクトルというのは分かれていくのではないかと思う。

イベントの最後で、東浩紀氏と宇野常寛氏が中心となって会社を作ると発表された。これは彼らが2010年代に、大きくジャンプしてやろうという意思表示ではないかと思う。自分探しと派遣村を同値化してみたり、「靖国は趣味の問題」と言ってみたりと、イベントの中ではわりとラフな(雑な)議論もあったが、あまり細かいことは気にしないでおこう。とにかく彼らには、僕の想像を超えた地平まで大きく跳んでほしいと思う。そして、そんな熱い展開を期待したい。

Posted by Syun Osawa at 01:27

2009年12月22日

インターネットが死ぬ日

ジョナサン・ジットレイン/訳:井口耕二/2009年/早川書房/新書

インターネットが死ぬ日「肥沃なインターネット」って言いたいだけやろw

いやほんと。何回同じこと言うねん…って本。100ページくらいまで読んで、「あっ…これは違った…」と気づいていたのに、全部読まないと損した気持ちになるという貧乏性が災いして、結局、最後まで読み切ってしまった。こういう本に限って、460ページとかあるんだよな…。

ようするにこういう話だ。

これまでインターネットは、多くの人たちが労力を提供することによって、創造性に溢れたコンテンツやコミュニティスペースを作り出してきた。その過程でコンピューターウィルスや情報の漏洩、著作権などの問題が顕在化してきたが、そうした問題を先送りしてきた。なぜなら、それらの問題(リスク)よりも、肥沃なインターネットから得られるリターンのほうが大きいと考えられていたからだ。

だが今、その「リターン>リスク」の関係が崩れてきて、多くの人はリターンの増大よりもリスクの軽減を求めるようになった。その結果、オープンソースで、多くの人が自由に改変することの出来る肥沃なインターネットよりも、一部の制度設計者が強権を持って操作できるひも付きのアプライアンス型ネットワークを選択するようになったのである。これではインターネットはいずれ死んでしまうので、これまで先送りしてきた問題を、ひも付きではない形で上手く乗り越える方法を考えようということらしい。

言いたいことはわかる。ただ長すぎる。池田信夫『 希望を捨てる勇気 』と同じく、警鐘を鳴らすことが私の使命とでも思っているせいか、大衆の意識変革を強く促すような姿勢をとりながらも、「じゃあどうすんの?」という領域にはほとんど踏み込んでいない。アウトボクサーのように延々と本題の外側でサークルを描いているに過ぎない。

まぁ…それはいいか。ともかく、気になるところが二つあった。

一つは、iPhoneをひも付きのアプライアンス型ネットワークの代表例として挙げていたことだ。iPhoneアプリは多くの在野のプログラマーを巻き込んでいるし、ライバルのアンドロイドは、ウェブ2.0の象徴でもあるgoogleのプロジェクトだ。さらに、iPhoneの立ち位置は、ネットブックの小型化と携帯のPC化の潮目とでも呼べる場所に位置しており、今、いちばん緊張感のある場所にあるのがiPhoneだと言ってよい。よって、ひも付きのアプライアンス型という概念だけ読み込んで、それでインターネットが死ぬとまで言ってしまうことには違和感がある。

もう一つは、ひも付きのアプライアンス型ネットワークのイメージをハードウェアに置いていることだ。コンテンツを設計するのではなく、人の集まる場所そのものを設計をするという2.0的な考え方そのものが、ブラウジング環境におけるひも付きのアプライアンス型ではないのか。ブログが流行するまでの日記サイトはもっと自由な形式だったし、人々のコミュニケーションはこんなに定型の雛形の中に押し込まれていなかったはずだ。Youtubeやニコニコ動画にしても、動画の中身は自由かもしれないが、フレームや時間の不可逆性などは固定されてしまっている。また、視聴タイミングも画質といった視聴環境は、権力者のコントロール下にある(そうでないのはWikiくらいのものだろう)。

インターネットは所詮ツールであり、傘と同じである。傘の形状がほとんど変わらないのと同じように、インターネットもやがては、コミュニケーションツール、メディアツールとして、あるべき場所に静かにおさまるだろう。そのことを、肥沃なインターネットが痩せ細っていく状況に置換して、いつまでも駄々っ子のように問題を先送りしていてもはじまない。インターネットが死ぬのなら、その次のオルタナティブを求めて旅立つ。それくらいのパイオニア精神(風俗店魂と言ったほうが正確か)を持ち続けることのほうが、インターネットは肥沃であり続けるように思う。

Posted by Syun Osawa at 00:58

2009年12月21日

ジャンルイジ・トッカフォンドの誘惑

2009年12月12日/18:00−20:10/東京藝術大学 馬車道校舎

公開講座 馬車道エッジズ山村浩二氏による公開講座「コンテンポラリーアニメーション入門」の3回目。イタリアのアニメーション作家、ジャンルイジ・トッカフォンド氏の作品を、山村氏の解説を聞きながら見た。

トッカフォンド氏の作品は、僕が普段見ているアニメと比べて抽象度が高い。CMの類ならそれでも気にならないのだが(CMな時点で方向性を持っているので)、そうでない作品に関しては、山村氏の解説がなければ「何のこっちゃ?」と思うようなものも少なくなかった。

そして、その「何のこっちゃ?」が頭の中をグルグル回った後、僕はこれまで、イメージよりもストーリーに重点を置いてアニメを見ていたことに気づかされた。Youtubeで公開されているアニメ系MVを見るのが好きなので、イメージ先行(作画ヲタという意味ではない)で見るような作品も結構いけると思っていたのだが、どうやら違ったようだ。そう考えると、ストーリー性の弱いアニメ系MVも、実は音楽ありきで見ていたのかもしれない(いい加減やなw)。

彼は、作品の着想を、古雑誌から得ているらしい。

ゴシップ雑誌の猥雑な一枚の写真から立ち上がってくるストーリーを軸に作品を構成するというのは、先日の ナショナル・ジオグラフィック日本版 創刊15周年記念講演会 で聞いた、アイデアの出し方と近いものだった。『ナショナル・ジオグラフィック』の記者が、一枚の写真から浮かび上がるストーリーを軸に取材を開始するのに対して、トッカフォンドはその写真から浮かび上がる現実を、自分の中のイメージ世界へと落とし込んでいる。両者の表現の方法は対照的だが、いずれも現実を「ありのままを受け入れる」ことをスタンスとしていることは、興味深い共通点だといえるだろう。

このことから、次のように妄想してみる。

  1. 彼の作品は抽象的だが、それは現実の世界に対して「+1」された世界であり、具象絵画でよく描かれるような「本物らしい別の世界」を意味しない。

  2. 彼の作品を見たときに抱くざわざわした感じは、夢を見ているときに抱くざわめきに近い。また、夢がそうであるように、彼の作品も物語性や時間性が曖昧になっている。

よって、そこに映し出されているイメージの変化は、彼が社会との関わりの中で残した痕跡であり、社会の変化そのものである。

…なんていう話にもっていこうと思って、この文章を書き始めたけれど、そもそも抽象と具象の話なんていうものは、美術の世界では19世紀の前半に散々やりつくされているし、僕が知らないだけで、アニメの世界でもそういう話は過去のものになっているに違いない。だからこの手の妄想もありふれたものでしかないわけだ。

それでも、僕が今回、トッカフォンドの作品を見て福本伸行ばりの「ざわざわ…」感を抱いたのは(そっちなの?)、トッカフォンドの作品の抽象性が、いわゆる絵画を意識した抽象画の技法に由来していたからだろう。とはいえ、これだって、僕の観賞態度が、アニメなら物語に重点を置き、絵ならイメージによってかき立てられる感情に重点を置いていた、というだけの話である。

ところで、短編作品を上映する場合、複数の作品を一気に見せられることが多いが、今回は数十秒の作品であっても、一回一回区切って山村氏が解説をされていた。これはとても素晴らしいと思う(そういえば、JAWACON もこの形式をとっていたな)。メディア芸術祭などでは短編作品を十数本くらい一気に見せるが、あれは、自動読み上げ機でノンストップに俳句を読み上げているようなもので、余韻も何もあったものじゃない。そうなると、作品の内容とファーストインプレッションだけをメモしておいて、あとで思い出して考える…といった形になるので、できれば今回のような上映形式が標準のフォーマットになればいいなと思う(時間的な制約上難しいだろうけど…)。

Posted by Syun Osawa at 00:56

2009年12月19日

重婚のススメ?

少子化対策として重婚を認めてはどうかと、ふと思った。

Wikiで「重婚」を調べてみると、中東あたりの一夫多妻制や、チベットの一妻多夫制などが有名なようだ。ただし、ほとんどの国で禁止されている。倫理的な観点からみれば、1対1がまっとうな婚姻関係なのだろう(そりゃそうかw)。

ただ、世間では子ども手当などを実施しようとしていて、愛とかそういう浮付いたものとは関係なく、制度的に子どもの出生率を増やそうとしている。だったら、重婚もありなのではないかと思ったのだ。ふと思ったことを書いているだけなので、もしかしたらかなり危ういことを書いているかもしれないw

ひとまず、こんな状況だ。

【図】重婚のイメージ

図に描いて、即効で気づいてしまったが、問題点は女性しか子どもを生めないことだなw その最大の問題点はひとまずスルーして、僕のイメージは、「金持ちにぶら下がれ!」というだけの話である。だから、結婚相手を自分の扶養に入れるのは何人でもOKだが、自分自身は一人の扶養にしか入れないというルールを書き込んでみた。あと、重婚を認めるかどうか、認めるなら何人までOKかなどは結婚する段階の契約で決まるようにしておく。と、同時に浮気は厳罰化して(経済的なメリットが少ないから)、愛人はすべからく結婚させる。

貧富の差が広がっているのだから、金持ちには余剰の金があり、貧乏人には子どもを育てる金がない。だから再配分しようということになるのだが、どうやらそれま上手くいきそうにない。だったら、金持ちがいっぱい子どもを抱えるような仕組みを作ればいいと思ったわけだ。

重婚のもう一つのメリットは、確率的に出生率が上がることだ。一夫多妻制や一妻多夫制のような非対称にするのではなく、結婚していても他の人と結婚できるようにすることで、子どもができる可能性も増えていく。また、こうすることで、既婚者であるがゆえに一線を越えずに踏みとどまっていた関係の人や、恋人なんだけど結婚は考えられない人、二番手君なんかも結婚という制度の対象圏内に入ってくるのではないか。

まだメリットはある。家族という最小単位のコミュニティの規模がちょっとだけ増大することだ。これにより、親戚が少なく保証人がいない人とか、お一人様の老人なんかが転落しないためのセーフティーネットが少しだけ増えるとも考えられる。これは結構なメリットだと僕は思う。

税金とか相続とか、いろいろな面でややこしいことになりそうだが、e-Taxも一気に普及していることだし、お金の問題なんかはテクノロジーの助けを借りれば何とかなりそうな気がする。ただ、そもそも生まれた子が誰の子かわからなくなるという危険性も十分考えられるし、家族の価値観が根本的に変わってしまうかもしれないので、これは相当トンデモな話である。だから決して真に受けて、怒ったりしてはいけない。

そもそも愛の話は一切していないのでw

Posted by Syun Osawa at 01:13

2009年12月18日

希望を捨てる勇気

池田信夫/2009年/ダイヤモンド社/四六

希望を捨てる勇気池田信夫氏のブログはちょくちょく見ている。だから、わざわざ読む必要も無いかなと思ったんだけど、Zopeジャンキー日記 に「「時代を画するベストセラー」になるのでは」と書かれていて、たしかにタイトルも悪くないから、読んでみることにした。

書いてある内容は予想通り、池田氏のブログの延長線上にある。今の不況というのは、これまでのものとは異なるので、定番の金融政策も財政政策もあまり効果が無い。しかも、この不況に出口はなく、日本の経済は今の体制でいくとヤバいことになる。ところが、日本では、大企業の正社員や公務員になることが最もローリスクでハイリターンになるため、優秀な人たちは新しいイノベーションに掛けることも無く、既得権益にしがみついているのが現状である。それを労働組合(連合系)が下支えしてしまっている(この受け止められ方って、労働組合そのもののイメージが悪くなるので困るのだが、それはまた別の話)。ともかく、これではマズいので、雇用の流動化を推し進めて、リスクとリターンの関係をフェアにして、経済に刺激を与えつつ、この難局を乗り切っていこうというようなことが書かれている。

たしかにそう言われればそうかなとも思う。

2009年の新入社員のうち「今の会社に一生勤めようと思っている」社員の比率は55.2%と過去最高で、「社内で出世するより、自分で起業して独立したい」とする回答は14.1%と史上最低となっているらしい。こうした縮こまった社会状況では、それくらいのカンフル剤は必要なのかもしれないが、この本ではそういう大きな転換がどのような事態をもたらすかについては一切触れられていない。ぶっちゃけ、この本では「今は難しい状況だ」と言うことが繰り返し述べられているに過ぎず、経済学者としての具体性の伴った提言や、いくつかの実践を根拠にした私見が開陳されているわけでもないのだ。コンテンツ産業に関しても、

いま必要なのは、著作権を強化して既存のコンテンツ産業を保護・育成する産業政策ではなく、ネットに拡がる数千万人の著作者の想像力を生かすことだ。それをビジネスとして成立させる方法は、まだほとんど開発されていないが、そこにイノベーションの可能性もある。

といった具合で、アンドリュー・リー『 ウィキペディア・レボリューション 』等でも書いてあった一部の可能性を、誇大に受け止めて述べているに過ぎない。社会学者の稲葉振一郎氏が、Twitter上で「オポチュニストめ」と呟いていたが、まさにそのような印象を僕も受けた。

その一方で、池田氏はNHKのディレクター出身の学者だけあって、事実を利用して物語を作ることに長けており、その物語の演出として権威のある学者連中をバッタバッタと斬っていく様は、門外漢の素人には気持ちがいいものだ。だからこそブログは人気があるし、僕も面白いと思って読んでいる。役回りとしては、強めの内田樹ってことでいいんではないかと思うが、どうだろうか。

この本では、実質成長率と人口移動の間にある相関の話はとても興味深かった。似たような話が、講談社のPR誌『本 2009年11月号』に載っている。それは、電車の路線拡大と進学校の栄枯盛衰の関係について、原武史氏が書いていた文章で、都外から学校へのアクセスがよくなることで入学希望者が増えて、レベルも上がるという話だった。今はネットワークの発達によって、距離の概念が大きく変わっているが、この距離の変遷が成長率と高い相関をもたらしているのであれば、首都機能移転の議論はもう一度復活させてもいいような気がする。あと高速道路の早期建設(主に東京を迂回できる環状道路)とかね。そして、民主党のぶち挙げた高速道路無料かも、強引とはいえあながち間違った選択肢ではないと思う。

あとはバッファの話。

恐らくこれが一番重要な話だと思う。バッファという言葉は、湯浅誠『 反貧困 』で言うところの「溜め」とか、投資で言うところの「リスクヘッジ」と同じ意味で使われている。先行きがこれまで以上に不透明になっているのであれば、当然ニーズが増えるのはバッファをかせぐための方法論だろう。核家族化が自明となり、細切れのコミュニティが無限大に拡大している今の状況で、いかにバッファを確保するかは、僕のような底辺リーマンにとっては死活問題でもあるのだ。

ちなみに、「希望を捨てる勇気」という言葉は、皮肉で用いられただけで、「死ぬ勇気があれば生きろ」くらいの意味しかない。宮台真司氏の「まったり革命」を更新するような意味で使われているのかと思って期待していたので、この主題の肩透かしはちょっと残念だった。

Posted by Syun Osawa at 00:10

2009年12月16日

格闘技デフレ=ロックとは=自主制作アニメ=愛すべき曲

ここ半年ほどボクシングは熱くて、メイウェザー×マルケスに始まり、パッキャオ×コット、内藤×亀田など話題の試合が何本も続いた。パックのKO勝利以外は、僕の期待とは逆の結果になってしまったが、どれも面白い試合だったと思う。格闘技全般を見渡しても、ヒョードル周辺、DREAM、UFCはどこも白熱していい感じだったし、角田氏のご贔屓ジャッジで有名なK-1ですら、バダ・ハリのおかげで面白くなった。

ところが、書店へ行くと、格闘技雑誌のスペースはどんどん『TARZAN』系の雑誌に侵食されてしまって(あと自転車か)、純粋に格闘技を楽しむための領域は縮小する一方だ。ああいう自分メソッド(自分を愛さなきゃ他人も愛せないだろという前提によって駆動されるメソッド)全開のものばかりが増えていくのって、どうなんだろうな…。そーいや、今年は『ボクシング・ワールド』も休刊になって、ボクシング雑誌を見かけること自体少なくなってしまった。うーむ。

パッキャオが比下院選に立候補するらしい

そんな格闘技バブルの崩壊からなかなか立ち直れない日本の状況を尻目に、パッキャオはどんどんと本宮ひろ志的な(男一匹ガキ大将的な)道を突き進んでいる模様。

手に入れたDVDなど

『センコロール 限定版』(アニプレックス)
『アメリカン・カートゥーン RED』(シャフト)
『アメリカン・カートゥーン BLUE』(シャフト)
『ベティ・ブープ DVD-BOX』(宝島社)
『フィリックス DVD-BOX』(宝島社)

宝島社のDVDは多少の後ろめたさを感じつつも、全コンプしようと思っている今日この頃。あと、探していた『アメリカン・カートゥーン』のDVDは下北沢のビレヴァンで発見。まさかここにあるとはね…。

手に入れたCDなど

O.T.T『Blumenkraft』
Coldcut『Sound Mirrors』
Don Caballero『World Class Listening Problem』
Aphex Twin『Classics』
ROVO『NUOU』

O.T.Tばっか聴いてる。

手に入れた本など

京極夏彦『狂骨の夢』(講談社)
京極夏彦『鉄鼠の檻』(講談社)
京極夏彦『絡新婦の理』(講談社)
永沢光雄『AV女優』(文藝春秋)
中薗英助『スパイの世界』(岩波書店)

『風とロック 2009年11月号』に長澤まさみが出ていたので、貰ってきた(その前に貰ったのは矢沢永吉の出ていた号だったか)。その中で、俳優の中川晴樹氏が、「ロック」というお題のコラムで、9.11後のスーパーボウルでのU2のパフォーマンスについて触れていた。あれがロックだと言うわけだ。

たしかに僕も、実際にあのパフォーマンスをリアルタイムで見ていて、全身に鳥肌の立った一人である。ただ、ボノが革ジャンの裏地に縫い付けたアメリカの国旗を、曲の最後に見せたときの会場の盛り上がり方に、僕はほんの少し引っかかっていた。そのときの引っかかりが、その後のU2のLIVE 8などの活動を見ているうちに大きくなり始めていて、今に至っている。長い事U2のファンをやっているが、このモヤモヤはいまだに解消されていない。

でも今、7年ぶりにスーパーボウルでのパフォーマンスを見返してみると、イントロの演出からして神がかってるw 全然色あせていない。つか、これヤバすぎだろw

岩波書店のPR誌『図書 2009年11月号』で中野三敏氏が連載している「和本教室」で、和本の細部の名称について書かれていた。今でも使う名称としては「小口」があるが、今は「天、地、のど、小口」というように、「のど」の反対側の端を「小口」と言うが、江戸時代は四方の切り口を「小口」と言ったそうな。あと「奥付」という制度。これが義務化されたのは、享保の改革の出版条例らしい。明治以降の話ではないところがポイントですな。

GIFアニメ・リターンズ! 神は何度でも蘇る

自主制作アニメスレに張られていて知った。かなり有名な作品らしい。2002年ごろまでのGIFアニメの隆盛の最も高いところにのすさんやコザキさんらがいて、「このあたりがGIFアニメの最高点なんだろう」と思っていたら、まだそこを超えようとする人がいるわけだ。こういう新陳代謝が残っているところに、生命力とうか、クリエイティビティの底力を感じるよね。後付けの批評では絶対に味わえない感覚。

批評といえば…

大澤真幸氏の京大退職騒動を期に、その発端となった方のブログを静かにウォッチしていた。なぜなら、ブログの文章がやたらと良くて、Cotorich にも通じるような「在野にいる中二病で面白い人」感が漂っているので、愛読していたのだ。そこへ、案の定というか、某スレにワラワラと新参の野次馬がやってきて、書き込みまくっておかしなことになってしまった。

例えば、代々木公園で覗きを数十年やっている人がいたとして、そういう人の趣味は褒められたものではないが(僕はまぁいてもいいと思う)。そこへ、何かをきっかけにワーッと人が押し寄せて、みんなしてビデオ回してネットに公開して、個人情報を晒して…とやれば、当然そこにあった生態系は失われるわけだ。このような、破壊を目的とした「荒らし」とは異なるやっかいな存在を、アンドリュー・リー『 ウィキペディア・レボリューション 』では「トロール」と呼んでいた。トロールどもめ…。

500ドルで作った映画だそうだが…

ロケットニュース24 より。いやいやw 普通に無理でしょ。自主制作における制作費は、基本すべて持ち出しなわけで、その部分を制作費として考慮しないのであれば、まぁ…どうとでも言えてしまうわな。

自主制作アニメ「フミコの告白」は凄かった

いやはや熱い。もう各所で話題になりまくりなので、説明の余地も無いだろうから、ちょっとだけ冷静な突込みを…。僕がこれまで見たアニメーター養成所の卒業制作作品でも、同レベルのクオリティの作品をポロポロ見かけた。名前を失念したんだけど、後にカリスマアニメーターになった方の卒制作品も神だったし、このレベルのコンテンツ(つか卒制?)って、探せばかなりありそうな気がするんだけど、どうなんだろうか? 一旦火がつくと、ドーンとアクセスが集中する傾向というのは、もはやウェブの常識なので驚きはしないが、今回、みんなが過剰に食いついたポイントはどこにあったのだろうかね…。

そういえば、「 恋するネズミ 」も熱い。「自主制作アニメ」というくくりで、結構な数の作品がアップされているのね。

FALSHアニメ10年史を思う

JAWACONのサイトってまだあったんだ…。ビックリ。この10年史は2006年までのもので、その後、Youtubeやニコニコ動画、GyaOやYahoo!動画などによる、既存の映像作品の解放によって、自主制作アニメは端的に埋もれてしまった印象がある。批評の一部で新海誠の流れを吉浦氏や宇木氏に接続させてうんぬんするものも見かけるが、自閉的にそこだけに着目しても、自主制作アニメの見取り図にはならないだろう。

昔、アニメとアニメーションとか、アート・アニメーションとアニメーションというような、特権意識を自重できないマニア達による、本当にくだらない呼称争いなんかもあったようだが、もはや、アニメと実写といった区切りでさえ難しいし、そこに物語性を含むかどうかとか、抽象をどこまで許容するかみたいなところを踏まえれば、その極端にあるものはただの映像ということでしかなくなってしまう。その映像さえ、時間性と平面の変化によって規定されているわけで、そこを突破されると、映像という呼称すら危うくなるような展開もあるかもしれない。

商業系のアニメーションは、自らその場所にとどまることで明確にその輪郭を確保しているが、自主制作アニメを商業系アニメーションの同人版としてザックリ括らないのであれば(つまり現代美術のような広がりの中で規定するならば)、そこにあるアニメーションという言葉は、バズワードとしてウェブの大海の中に消えてしまうことだろう。射程は広ければ広いほどいい…なんてことは絶対ないよな。と、最近思うようになってきた。

…何の話やねん、これw

sleepy.abってメジャーデビューしてたんだ

昔よく見ていた LIVE cheers! で彼らのライブの映像を偶然見かけて、ちょっと気になっていたバンドがsleepy.abだ(北海道だったかな?)。その後、LIVE cheers! を見なくなって完全に記憶から消えていたんだけど、「 Melody 」という曲のことは、はっきり憶えていた。いい曲だねい。

レコライドの初PVか?

12月13日、レコライド、Aira、Saoriなどが出演した「EXTRA!!! vol.2」という神イベントがあったのだが、仕事で行けずに凹んでいた。しかも、その日仕事が終わったのが14時で、場所も吉祥寺だったから、本当は行けたと後から気づいて、さらに撃沈w 機転を利かせられなかった自分の低脳さ氏ね! 仕方ないので、「Baseball Murder」のPVを見る。「迷走感っぷりが熱い!」みたいな逆説ね。2ちゃん情報によると新メンバーのギターの子が可愛いらしいw

売春婦だった英科学者、当時をなつかしむ

こういう複雑さをどう受け止めるかってところには、未だに国柄みたいなものが反映されているように思う。上の大澤真幸騒動の一件を例に出すまでもなく。

シー・シェパードの未来型抗議船

カッコよすぎだろw

一澤帆布を従業員7人が提訴

これ、今かなりややこしい状態になっている。詳しくは Wikipedia でw 今言えることは、もしも信三郎氏の意向が通るのであれば、一度袂を分かった一澤信三郎帆布は、一澤帆布に統合されて無くなる可能性がある。そうすると、一澤信三郎帆布のマニア的価値が一気に上がる…ということになるので、次京都に帰るときは、一澤信三郎帆布を買うことにしよう。

Shareノード数、一斉摘発後に大幅減少

Shareって今も使っている人いるのね。一斉摘発→強制罰金(口座差し押さえとか)の流れを収益モデルにして、これを一つのビジネスにすれば、問題は解決に向かっていくと思うのだが…。

マードック氏にグーグルが譲歩

このニュースは2009年後半のかなりデカめの記事。ウェブ2.0の終焉を告げるような話。僕はマードックって好きではないのだが、好きではない彼が正論を言っているように聞こえてしまう状況が2000年代の困難さだったんだなぁと改めて思った。

Posted by Syun Osawa at 01:09

2009年12月12日

サンシャイン 2057

監督:ダニー・ボイル/2007年/イギリス

サンシャイン 2057宙博 2009 へ行った後、無性にSF映画が見たくなって、ダニー・ボイル『サンシャイン 2057』を見ることに。もともとダニー・ボイル監督作品は、『スラムドッグ$ミリオネア』がヒットした時に、『シャロウ・グレイブ』や『トレインスポッティング』の監督だと知って興味を持ち、話題作の『28日後...』等いくつかを見ようと決めていたのだ。

SFとか全然見ないくせして、この作品のSF考証にちょっとだけ引っかかってしまった(『 サマーウォーズ 』のときも引っかかってたか)。別に僕は科学に詳しいわけじゃないから、僕のひっかかり自体が間違っているのかもしれないが、太陽に核爆弾をぶつけるための宇宙船に、わざわざ人間が乗る必要があるのだろうか? しかも10人近くも…。人間が乗ることで、酸素、水、食料などが余分にいるし、温度も調整しなければならない。そもそも、どうやってマンハッタン島くらいの大きさの核爆弾を大気圏へ撃ち出したんだ? という根本的な問いで止まってしまうので、そこでようやくこの映画を見るにあたって、そもそもこういう問いが愚問であることに気づいた。

ストーリーはなかなか僕好みだった。

序盤は『 火の鳥 宇宙編 』のオープニングと似ている。で、この映画は宇宙船の漂流系SFなんだな…なんて軽い感じで見ていたら、イカロス1号が出てきたあたりから、一気にミステリー色が強くなって、最後に哲学的なテーマへと変遷しながらパニック映画のような雰囲気に。その流れ方が唐突というか、あまり予想していない方向にストーリーが進むので、ゆったりした作品ながら飽きさせない。こういう演繹的に見えるストーリーは、上手くいくと帰納法で構造的に組み立てられたストーリーよりも大きなドライブ感をもたらす。この作品は、演繹法っぽく物語を展開させることに成功した、一つの好例ではないだろうか。

そんなわけで、宇宙での無重力状態をどう描くかとか(これを描かなかったのも潔い)、そういうディティールの事を突っ込むのではなく、あくまでもストーリーで勝負している点が好印象。ダニー・ボイルっていい監督だね。

Posted by Syun Osawa at 01:25

2009年12月11日

宙博 2009

2009年12月3日−6日/東京国際フォーラム 展示ホールB

宙博 2009人多すぎw 朝から長蛇の列が出来ていて、入場までにかなり長い時間待たされた。公式サイトの入場者数を見たら、あんな狭いスペースに1万人以上来たらしい。超地味なイベントだと思ってたのに、会場内もかなり混雑していて、正直「何でやねん…」って思いが消えなかったのだが、どうやら学校でチケットを配っていたらしい。どうりで異様に親子連れが多かったわけか…。

でも、今回のイベントに参加していた団体は、宇宙航空研究開発機構、高エネルギー加速器研究機構、東京大学数物連携宇宙研究機構などで、展示している内容ははっきり言って超高度。ロケットの構造にしたって、加速器の話にしたって、電気の伝達装置にしたって、展示パネルに書かれている内容はかなり難しく、客と展示のレベルのギャップを微妙に感じていた。

イベント内で行われた久保田孝氏による講演「月惑星探査ロボットについて」を聴いていたが、あまり手加減してくれないので、「これは…子どもには厳しいんのは?」と思いながら聞いていた。すると、最後の質疑のところで、子どもが次々に手を挙げて、なかなか高度な質問をするではないか! これには驚いた。今回のイベントの展示内容が難しいなぁ…なんて思っていたのは僕だけなのかもしれないw 日本の科学少年恐るべしw

そんなわけで、一番情弱だった僕にとって、今回のイベントは初歩的なレベルで勉強になることが多かった。例えば、宇宙の膨張の話で、その膨張の速度が加速度的に大きくなっており、光速をはるかに超えているらしい。つまり、この先どれだけ地球が長生きしたとしても、光より早く膨張している空間からの光は永遠に地球へは届かないのだ。宇宙誕生から137億年しか経ってないわけだから、それくらい分量の光しか地球には届かないということになるのだろうか…?

他にも、超伝導送電などは地味ながら勉強になった。砂漠などに設置された太陽光パネルで得た電気エネルギーを、超伝導送電するときには、交流ではなく直流で運ぶらしい。僕はエジソンとテスラの直流・交流をめぐる戦いくらいしか知らないし、そのときは長距離を運ぶには高電圧で運べる交流のほうが適しているとして交流が電力供給のメインストリームになったはずだ。しかし、超伝導になると距離の概念を無視できるから、直流でも交流でも関係がなくなる。しかも、太陽光パネルの電気エネルギーは直流で得られるので、使いやすい直流のほうが採用されているということのようだ。

この二つの事柄を接続すると次のようなことが明らかになってくる。

地球上では科学技術の発達で、伝達スピードは向上し続けており、まずます距離に対する感覚がゼロに近づいている。しかし宇宙に目を向けると、宇宙は光よりも速いスピードで広がり続けており、もはや地球上でその端にある光を目にすることすら適わない(そもそも無理だという突っ込みはさておき…)。この極端な狭さと広さ、ゼロか無限かという状況は一体なんだろうか? こんな状況では、日々の生活の中で、コミュニケーションに対する圧力が高まり続けても仕方ないよな…と思わずにはいられない。浅田彰氏のいうスキゾキッズ達は一体どこへ逃げればいいのだろうか。

月面探査機(宙博 2009)

次回はこういうロボットをもっと集めて、大きな規模でやってほしい。

Posted by Syun Osawa at 00:49

2009年12月10日

ウィキペディア・レボリューション

アンドリュー・リー/訳:千葉敏生/2009年/早川書房/新書

ウィキペディア・レボリューションカッシーラー『 ジャン=ジャック・ルソー問題 』を読んだ後、ウェブ2.0に代表される創発的なシステムの構築に興味を持ったので、そのことを最もわかりやすく体現していると思われる Wikipedia の本(つまりこの本)を読んだ。

Wikipediaは企業の社員が作り上げたものではなく、膨大な数のユーザーが無償で手を貸すことによって作り上げられたコンテンツである。手を貸したユーザーは、その行為によって金銭的に得するわけでもなければ、注目を浴びて象徴資本を手に入れるわけでもない。にもかかわらず、多くのユーザーが参加するのは、「社会心理学的な報酬と快楽主義的な自己満足」を求めているからで、ベタな言葉を借りれば「One for all, and all for one」の精神が彼らを突き動かす原動力になっているわけである。

この力は大変強力で、ウェブにおけるコンテンツ構築の要にもなっている。しかし、ひとたび企業がこの力を利用しようとすると、たちまちその力は失われてしまう。過去にWikipediaでも広告の掲載を検討した時期があったそうだが、多くのユーザーから反発があり、広告収入による運営モデルは見送った。そういえば昔、livedoorブログで、ブログに書かれた内容をlivedoorが自由に使っていいという規約を設けたために多くの反発があり騒動となったが、あれなども似たような事例だろう。僕も含め、こうした創発的なコンテンツに参加するユーザーは、営利目的の匂いをとても嫌う傾向にあるのだ。

しかしまぁ…この手の「ウェブコンテンツは無料」といった価値観の押し付けに対する議論は、2000年代前半に散々やり尽くされた感があって、それほど目新しい話ではないだろう。そもそもWikipediaの情報というのは一次情報ではないわけで、どこかの商業コンテンツの情報をもとにしている場合がほとんどだ(つまり無料ではない)。悪い言い方をすれば、ウェブ2.0時代というのは、「いかにして既存の商業コンテンツや、ユーザーたちの無償の貢献を拝借して利益をあげるか?」というビジネスモデルばかりを追求しているため、たとえ枝葉の量が増えたとしても、それを支える根っこの強度は少しも上がっていないのである。

僕が興味を持ったのは、その次の話だ。

誰もが自由に参加できるWikipediaであっても、その情報量は無限に伸びていくわけではなく、必ずどこかで頭打ちする。この本によると、Wikipediaも少しずつその臨界点に達しかけているそうで、今後、減少していく可能性もあるようだ。もしも参加ユーザーが減少に転じた後はどうなるのだろうか。人がわらわらと集まってきているからこそ、創発的なエネルギーというのは生まれていたわけで、その「伸びている」という上昇感覚がなくなったとき、そのコミュニティはただの残骸と化すのだろうか。

現在は、Wikipedia上に間違った情報が書かれたら、早いタイミングで訂正を入れる人が現れる。しかし、人がいなくなればそうした細やかなメンテナンスは行われず、荒らしやトロールたちへの対応も疎かになるので、結果として信頼性は著しく低下することになるだろう。いまや超巨大コンテンツとなったWikipediaでさえ、創発的なエネルギーが奪われた後に、その力が維持される保障はどこにもないのである。

ここで強引に話をスイングバイして、カッシーラー『 ジャン=ジャック・ルソー問題 』あたりに戻ってみる(このエントリも無駄に長いな…w)。

この本を読むと、ひとくちにWikipediaと言っても、各国でその創発の状況が異なるようである。日本の場合は、大量の記事を執筆するウィキマニアの数が少なく、また、プログラムを利用した一括投稿のようなものもほとんど行われていないらしい。にもかかわらず、投稿された記事の数が世界でもトップクラスにあり続けているのは、多くの匿名ユーザー達がコツコツと記事を投稿し続け、その数を地道に増やしているからだ。

著者はこの状況を「神秘的」と表現している。このように匿名でありながら官僚のような統制力を発揮するのが日本の創発だと考えると、カッシーラー『 ジャン=ジャック・ルソー問題 』の感想文の後半で書いた内容(東浩紀氏と一般意思2.0の話)というのは、椹木野衣氏の「悪い場所」問題を迂回しつつ進む、かなりトリッキーな展開になるのではないかという気がしてきた。結構楽しみである。

あと一つ。この本の中でWikipediaの対抗馬としてたびたび言及されたマイクロソフトの「取り入れて拡張(embrace and extend)」という考え方は、フリーの概念とは別に、ゼロ年代に流行したもう一つの大きな潮流ではないだろうか(Youtubeに対するニコニコ動画なども含む)。サブカルチャー系の思想も、その考え方に大きな影響を受けたと思う。

東浩紀氏がゼロアカの動画の中で、「思想の社会学化が進んでいる」と言っていたように、現在、流行の思想というのは、新しい地平を孤独に追い求めるものではなくなっている。むしろそういう行為をはじめから放棄し、評価の定まった既存のものに食いついて、それを拡張することで優位に立とうという考えの人たちが、ゼロ年代の勝者になったのだ。

Posted by Syun Osawa at 00:08

2009年12月09日

ナショナル・ジオグラフィック日本版 創刊15周年記念講演会

2009年12月1日/18:00−19:00/東京国際フォーラムB5ホール

ナショナル・ジオグラフィック日本版 創刊15周年記念講演会ヤバいw 講演の進行が素晴らしすぎるw

ナショナル・ジオグラフィック英語版編集長のクリス・ジョンズ氏による講演会。わずか1時間ながら、自分の体験談あり、写真あり、映像あり、雑誌紙面の紹介ありと、その中身は非常に濃密で完成されていた。僕が 最近見に行った講演 の中で、ここまでショウ的な意味でクオリティの高い講演に出会った記憶はない。なるほど…これがアメリカ・クオリティなんだなw

『ナショナル・ジオグラフィック』自体は、過去に数年読んでいた時期があったが、公式サイト でも、結構なボリュームの記事が読めるとわかってからは、買わなくなってしまった。でもそれは僕の貧乏ゆえの問題であり、内容は今でも変わらずハイクオリティなままだ。特に詳細で美しい地図や図解は、日本の雑誌ではほとんどお目にかかれないくらいのハイクオリティなもので、同業者としても学ぶところが非常に多い。

今回の講演では、そんな『ナショナル・ジオグラフィック』の特集の中から、2008年に最も話題となった「 ゴリラ殺害事件の真相 」を題材にして、話が進められた。まず最初にキーとなる一枚の写真を、撮影者が送ってくる。それを編集部で吟味し、その写真の背後に濃密で取り上げるべきストーリーがあれば、そこから記事をつくっていくのだそうな。その取材の様子を、ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルの映像を織り込みながら話されていた(この演出も非常に上手かった)。一枚の写真から記事を起こすというのは、グラフ誌でもお目にかかれないようなユニークな取材方法だと思う。だからこそあの雑誌の写真は異様に際立っているのだろう。

一つ意外だったのは、『ナショナル・ジオグラフィック』は取材の方針として、政治を含めてすべての立場にも立たないということをポリシーにしていたことだ。今回のストーリーならば、ゴリラに対しても中立な立場で取材を行っている。例えばアフリカの原住民の取材をする過程で、その原住民のコミュニティの中に携帯電話が入ってくるなどして、その生活様式が変化していたとしても、そのありのままを伝えることを重要視している。もちろん写真を撮るために、何らかの要求をしたりもしない。これは当たり前のようだが、日本では慣例としてドキュメンタリーであっても「演出」が多く入り込んでいるし、実際の話、天下のNHKでも「これはダメじゃね?」的な演出をしていた事例を聞いたことがある。

そういうことをしない彼らの信念みたいなものは、アルジャジーラ にも通じるもので、それをクリス・ジョンズ氏は「ジャスティス」と言っていた。僕の中で、「ジャスティス」という言葉に感じるアメリカニズムみたいなものは、ディズニー的ご都合主義だと思っていたし、それを日本語の「正義」という言葉に換言しても、嘘臭さがつきまとってなかなかスムーズに受け入れられない。これは白倉伸一郎『 ヒーローと正義 』を読んだせいかもしれない。

しかしながら、「正義」ではなく「公正」という言葉に置き換えてみればどうだろうか。そすうると、彼らが写真から浮かび上がらそうとしている事実は、決してアメリカの利得を補うためのつじつま合わせではないのだなという風にも思えてくる。もっともそのことは、写真や記事が明瞭に語っているわけだが…。

Posted by Syun Osawa at 00:36

2009年12月08日

「実録!“漫画少年”誌」展

2009年10月24日−12月6日/文京ふるさと歴史館

「実録!“漫画少年”誌」展現代マンガ図書館長・内記稔夫氏の講演 の本体のほう。序盤の展示では、竹原古墳や虎塚古墳の壁画の写真パネルを持ってきていて、その後、鳥獣人物戯画(平安−鎌倉時代)から鳥羽絵を経由して、ポンチ絵(江戸時代)あたりまで流れを漫画の前史として解説していた。

こうした流れは、『 江戸漫画本の世界 』あたりで何となく理解していたが、改めて通して見てみると、なるほどポンチ絵あたりまでのタッチというのは、かなり似ている。そしてそれは、戦後の漫画と比べても、線の感覚についてはあまり変わるところがないように思える。唯一の違いは、西洋画的な立体感覚がどれだけ導入されたか、ということだけなのかもしれない。

この展示会のサブタイトルは「昭和の名編集者 加藤謙一伝」となっており、雑誌『漫画少年』を立ち上げた編集者・加藤謙一にスポットを当てている。加藤氏は小学館で『少年倶楽部』の編集長をしていたが、戦後、民間人でありながら戦争責任を追及され、公職追放の憂き目にあった。普通なら、ここで話が終わってしまうわけだけど、加藤氏はそこから学童社を立ち上げて『漫画少年』を発行する。このバイタリティが素晴らしい。

『漫画少年』は 内記稔夫氏の講演 でも紹介されていたように、多くの漫画家を輩出した。また、手塚治虫は学童社の近くにあるという理由でトキワ荘に住んだらしく、手塚氏にあこがれてトキワ荘に集まった面々も、学童社に近いことが幸いしてカット絵などの仕事を請けていたこともあったようだ。そう考えると、彼が戦後漫画に果たした役割というのは、かなり大きかったと見るべきなのだろう。

話は少し逸れるが、新潮社の『バンチ』はたしかアシスタントを一つの場所に集めて、複数の漫画家のアシスタントをこなすシステムを作っていた時期があったと思うが(今もあるの?)、これなどは効率主義の成果というよりは、『漫画少年』時代のそれに似ているような気がしないでもない。

さらに話は逸れて、文京区の主な出版社というところで、誠文堂新光社の名前を見つけた。雑居ビルの1階にあり、ペット雑誌や僕が買っている『アニメーションノート』などを出している小さな出版社だ。僕は、中央公論社や河出書房が潰れて中央公論新社や河出書房新社なったのと同様に、出版不況の中で潰れた結果「新社」になったのだと思っていた。実はそうではないらしい。誠文堂という出版社が、新光社を吸収合併して、現在の社名になったそうな。しかも、それは戦前の話(1935年)で、何気にこの出版社はかなり歴史が古い(1912年創業)。人は見た目によらないと言うけれど、出版社も出している本だけではわからないものだね。

Posted by Syun Osawa at 00:51

2009年12月05日

ターザン

監督:ケヴィン・リマ、クリス・バック/1999年/アメリカ/アニメ

ターザンディズニー作品を観たのっていつ以来だろ? 調べてみたら2006年に『 ファンタジア 』を観たようだが、アレは今の黄金期の作品だし、今のディズニー体制ということになると、2003年の『 ラマになった王様 』あたりが最後かも。もっとも、短編だけなら某上映会でちょくちょく見ているが…。

ストーリーはいかにもディズニーって感じ。ターザンを取り巻く動物達があまりにも人間に都合よく配置されすぎているところは気持ち悪いし、正義としてのターザンが悪いヒョウや悪人を殺すシーンは、ターザンが直接手を下すのではなく、戦いの中でアクシデント的に死んだように見せかけているところも気持ち悪い。そういういかにも偽善的なアメリカをガッツリ受け止めて観てしまうと、こういう作品はなかなかキツい。

ディズニー作品を僕の嗜好に合わせて楽しむためには、やはり演出や動きのほうに注目するべきなのだ。この作品の演出はなかなか見事で、ミュージカルのパートで時間の経過を一気にはしょって、ポイントとなる戦いのシーンだけは濃密に、しかもピンチの連続として描いている。この連続性と起伏の作り方が非常にダイナミックだと思う。こういう王道の演出は、ディズニー作品では定番なのかもしれないが、日本の作品となると宮崎作品くらいしかお目にかかれなかったりするから不思議だ。

動きのほうも見事。3Dとの組み合わせも凄まじくて、空間の使い方がとても上手い。こんなに素晴らしいスキルを持っているスタジオなのに、完全3Dに移行するとか、ディズニーも本当にバカなことするよなぁ。

ところで、宮崎駿氏が『熱風 2009年12月号』の中のインタビューで、キャラクターの動きを描くアニメーターと、波の動きなどの効果を描くアニメーターの分業が確立してしまっているので、面白みがないと話されていた。この映画などはまさにそれに該当するのかもしれない。

話は少し飛ぶが、そのインタビューで宮崎氏は、フライシャー兄弟の『バッタ君 町に行く』について、面白いとか面白くないとかはいいから、とにかくシーンとか動きを見ろと語っていて、その潔さにただただ感心するばかりだった。僕もそういうシンプルな気持ちでこの映画を見るべきで、ターザンと恋人がジャングルに残る事で、野生の生態系が崩されていく事への批評的な思いなんてものは、もはやどうでもいいのだw あの動き、スペクタクル。アニメはそういうものを楽しめればいい、というくらいの距離感を持ってるほうが本当はまっとうなのかも。

Posted by Syun Osawa at 01:56

2009年12月04日

考える技術としての統計学

飯田泰之/2007年/日本放送出版協会/四六

考える技術としての統計学冒頭に「統計学の教科書ではありません」と言いつつ、わりと丁寧に経済学の導入部分を解説してくれているあたりが今っぽい。飛行機は自動車より安全な乗り物だ、なぜなら飛行機はほとんど墜落しないし、日常的には自動車の事故のほうが多いからである…といった定説を真に受けていた僕には、この本はまずまずいい思考の体操になったと思う。

特に箱ひげ図(ローソクチャートみたいなの)の説明や、区間推計による95パーセント確実な予測の話などは面白かった。統計情報から読み取れるものがどれくらい確実なのかということについて、より具体的な数字で把握できるようになったのが嬉しい。これは将来を考えるときのリスクヘッジとしてなかなか使えそうだ。

とはいえ、統計技法というのは、どれも世の中にあふれる情報を縮約する方法なわけで、それらの情報を取捨選択している段階で少なからぬ量の情報を捨ててしまっているわけだ。計算式を用いた数値的な置き換えは、一見すると、そこに人為的な操作が入らないように見えるので、経済の事などまるで知らない僕などは、盲目的に信じてしまう可能性がある。

僕は投資を少しだけやっているので、これには気をつけないといけない。以前、よく読んでいた投資関連の本にも統計情報は当てにならないというようなことが頻繁に書かれていたし、この本でも経済学者自らが投資の役には立たないと書いてしまっている。まぁ…この本を読んだだけで、素人がデータを統計的に扱って投資を有利に持ち込むことなんてできるわけがないし、金融工学のプロに勝てるわけもない。そうなると、「この手の本を読む投資者は、この本を読んでいかなる感想を抱いたか?」という心理を読むことに注力したほうが、まだ少しは実りがあるだろう。

というわけで、投資にはあまり役に立たないらしいので、この本のもう一つのテーマである「考える技術」について考えてみることにする。こちらのテーマについては、著者の考え方に少し違和感があった。著者は、演繹法は正しさがあらかじめ保障されているから新しい予定調和にしか思考が進まず、新しい発想を生み出すことはできないと言っており、新しい発想を生み出すためには、帰納法から導かれるデータのうち、普通ではないデータに注目するのがいいと書いている。

手塚治虫氏は、この演繹法と帰納法の評価が飯田氏とはまったく逆である(仮説演繹法など論点は若干ズレているが…)。手塚氏は帰納法だと、ストーリーが構造的に作りこむために(例:オチから逆算して考える)、構造自体に面白さがあっても、キャラクターはそのオチに向かって動いていくわけだから、キャラクターは立たないと言っている。キャラクターが立つことが面白さに繋がるというところが、この本の発想法にはないまた別の論点なわけだけど、このキャラクターに宿る思考も無視できないのではないか。

てな具合に、手塚氏のキャラクター論に飯田氏の話を強引に接続すると、この本で書かれているところの「演繹法が持っている100%の正しさ」というのは、実は「100%の信念」みたいなもので、つまりそこにあるのは思いの強さだと考えることはできないだろうか。その強さが行き当たりばったりにドッカン、ドッカンとブチ当たりながら突き進むほうが漫画的には面白いものになるというのが、手塚氏の考えの一つでもあるのだろう。

また、漫画原作者の長崎尚志氏も トークイベント で、アンケートの集計結果から作品を作っていく方法論について、「何度かやってみたが上手くいかなかった」と述べており、その理由を「なぜだかはわからない。とにかく上手くいかなかった」としていた。以上のように、漫画界の重鎮たちが、作品を発想する思考法として帰納法より演繹法が採用しているのは、ロジックではなく経験則によるのだろう。僕自身も、手塚氏や長崎氏の考え方のほうが、実態を上手く表現していると思う。

とはいえ、発想が新しいということと、大衆に面白いと受け入れられるということはやはり違うので、この話は少々強引過ぎたかもしれない。でも、この本はビジネスマンに向けても書かれているし、新しい発想とうたわれている部分は、新しいがゆえに大衆に受けいれられるというニュアンスがこの本の主張にも含まれているので、あながち外れていない気もする。うーむ。そんなことを考えていると、結局のところ「新しい発想って何ですか?」っていうところに戻されてしまうので、またいつもの冴えないループを繰り返すだけなのであった。

Posted by Syun Osawa at 00:22

2009年12月03日

IAMASイキマス DSPの変 −HEN−

2009年11月21日/17:00−19:00/Apple Store Ginza

IAMAS イキマスDSPの変IAMASという岐阜にある芸術大学の学生さんによるプレゼンイベント。学生と言っても、他大学を卒業してから入学している人ばかりだったので、位置づけ的には学部生というよりも、もう少し上の位置づけなのかもしれない(知らん)。

内容的にも絵画を描くとかそういうのではなく、FLASHで言うところのAction Scriptのような言語を使ってプログラミングをしたり、そのプログラムを走らせるハードのほうも制作するといった感じで、妙に理系っぽい創作をやっていることに驚いた。

考えられたアイディアもなかなか面白くて、1日の生活をそのままフィールドレコーディングした音の波形を読み取って、その日のトピックとなる音だけを抽出し、1日の音として15秒にまとめるというアイデアを披露していた人がいた。そのあたりの流行といえば、まだiPhoneの「Tweet Mic」あたりだと思うし、あのジャンルは間違いなく映像メモのような形で進んでいくと思う。今回のアイディアはそうではなくて、あくまでその音そのものにスポットを当てており、波形から何やらをを読み取っていこうというところに、面白みがあるのだろう。

他にも実際にiPhoneのアプリをプレゼンしている人がいたりして、iPhoneアプリへの期待はかなり高まっているようだ。僕は未だにPHSを使っているので、どれくらいそれらが熱いのか全くわからない。ちょっと前までは携帯用のJavaやらFlashやらが流行していたように思うが(それすらやってない)、それらはiPhoneアプリに置き換わられてしまったのだろうか?

一見すると、iPhoneは昔のPDAと同じように見えるのだが、iPhoneはノートPCからネットブックという変遷の中で認知された事を考慮すると、ネットワーク環境を引きずったままの小型化というところが、これまでのPDAとは大きく異なるのだろう。iPhoneはPDAの代替物なのではなく、コミュニケーション用ツールの小型化、携帯電話の拡張化に他ならない。良い悪いは別にして、コミュニケーションの重要度がますます高まっている今の状況では、この流れはさらに強まっていくと思うし、こうしたコミュニケーションツールの覇権争いは、ついに携帯とPCの直接対決の様相を呈してきた…と考えていいのかな?

Posted by Syun Osawa at 00:25

2009年12月01日

『漫画少年』が後のマンガ文化に与えたもの

2009年11月21日/14:00−16:00/文京区男女平等センター

『漫画少年』が後のマンガ文化に与えたもの藤子不二雄の自伝的マンガ『まんが道』の初期にも登場した『漫画少年』という雑誌のことが知りたくて、現代マンガ図書館長・内記稔夫氏の講演会へ。講演会のタイトルは、この講演会の内容をあまり正確には表していない。マンガ文化がどうしたといったメタ的な話じゃなくて、ひたすら『漫画少年』の読者投稿欄に名前が掲載された人のうち、後に漫画家になった人を紹介するという史実一本勝負の内容だった(これはこれで相当に濃かったがw)。

僕は『漫画少年』に関しては、藤子不二雄『まんが道』での情報しか知らないので、トキワ荘グループを生んだ局所的にカリスマ感を出している雑誌だとしか認識していなかった。実はそうではないらしい。トキワ荘グループのほかにも、劇画工房から辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを、赤本漫画から桑田次郎、貸本漫画から梅図かずお、石川球太、漫画以外にも横尾忠則、筒井康隆、平井和正、小野耕世などなど、錚々たる面子が名前を連ねている。

こう書くと、入選した選ばれた者が後に漫画家になったと受け取られるかもしれないが、そう言いたいのではない。そもそも入選者として掲載されている人数が、膨大なのである。その中から漫画家になる人間がいても何ら不思議ではないという印象を僕は受けた。そして、それだけの人間が、戦後間もない頃に漫画を描いていたことになるわけだ。当時の人口から考えれば、今、コミケであれだけの人が同人誌を売るような下地は、この頃からすでにあったのだ。日本の漫画恐るべしw

他にも面白い話をたくさん聞くことができた。忘却録として書き連ねておくと、辰巳ヨシヒロ氏は当時劇画家と名乗っていて、クレジットのところを、映画っぽく脚本○○、演出○○などという風に書いていたらしい。でも本当はすべて本人だったわけだが、それを本当に分業してやり続けたのがさいとうたかを氏ということらしい。

さいとうたかを氏関連では、さいとう氏のアシスタントをやっている石川フミヤス氏もマンガ少年の投稿で入選していた一人なのだそうな。そんな凄い関係だったのか…。あと、当時の単行本は表紙と中身で描いている人が違うのだが、表紙絵を描いている人として頻繁に大城のぼるさんの名前が出てきたのはひっかかった。藤子不二雄『UTOPIA 最後の世界大戦』の扉絵を描いていることでも有名だが、こんなにたくさんの人の表紙を描いているとは知らなかった。

こういう楽しみができるのは、過去のものが残っているからだろう。

講演者の内田氏が「この名前は、実は漫画家の○○氏の本名でして〜」と嬉しそうに語る姿を見ながら、今のウェブ空間に浮かぶデジタルコンテンツでは、このような後追いが果たして可能なのだろうか? というようなことについて考えていた。

今、ネット上に存在しているデジタルコンテンツといわれるものは、数十年後に残っているのだろうか? 僕が90年代に楽しんでいたMODは幸運なことに scene.orgModArchive が存在しているおかげで、かなりのものが残されている可能性が高いが、それでも意図的に削除されたものや、何かの原因で消えてしまっているものは戻ってこない。僕が先日 taropeter 氏の楽曲を公開したのは、誰かがアップしなければそのまま消えてなくなってしまうと思ったからである(それだっていつまで続くかわからないが)。

漫画雑誌なら、物置の奥に放置されていて、それが数十年後に見つかるということもあるだろうが、ウェブ上に公開されたデジタルコンテンツのデータはサーバーが消えてしまえばそれまでなのである。たとえウェブ上にあったとしても、それはほとんど聴かれないかもしれない。しかし、そこにあれば誰かが聴く可能性がある。その出会いの可能性こそが希望でもあると僕は思うし、漫画少年の読者投稿欄をくまなく調べる内記氏の楽しみにもなっていると思うのだ。Wikipediaなどはそれを明確にやっていて、大変心強いのだが、クリエイターベースのデジタルコンテンツがそういう仕組みになっているかというと、どこのサイトもかなり怪しい。

昔からオンラインの曲なんてほとんど素人の曲で、ゴミばっかりと言われていたし、そうした見られ方はニコニコ動画になっても変わってないと思う。そう見れば別に消えたっていいのかもしれない。実際、僕自身も、昔はその言説についてそれなりに同意していた。しかし今は、そんなゴミであったとしても(もちろん、僕が公開しているアニメや漫画だってゴミの一つである)、そのゴミは時間を越えればゴミでない可能性も残されているのではないか。

ウェブ空間におけるデジタルコンテンツは、今も過渡期であり、またコミュニケーションのツールという側面が強くなりすぎて、作品そのものの力が弱まっている気がしてならない。だがそうであっても、scene.org のような形で残していくほうが、作品たちにとっても、そしてクリエイティブの未来のためにも幸福なんではないかと、ベタなことをこの講演会を聴いていて思ったのだった。

うーん、この文章、まとまりないなw

Posted by Syun Osawa at 01:31