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2010年02月28日

前田真宏と学ぶMacビギナーのための公開講座

2010年2月13日/13:00−14:00/アップルストア渋谷

前田真宏氏がMacに標準で入っているiMovieを使ってビデオコンテを作るというイベント。ビデオコンテというのは、絵コンテだと伝わりづらい場面転換や時間の流れをわかりやすく説明するために、カメラワークを加えた動画形式のコンテのこと。自主制作アニメではなく、ビデオコンテを作るというところが、ややマニアック過ぎな気がしないでもない。まぁ…僕得ではあった。

何しろ、前田氏のイケメンぶりにまず驚愕。映像では何度か見たことがあったので、事前に知っていたとはいえ、こんなイケメン紳士がシコシコアニメを作っているというのが凄いね。しかも、絵がめっちゃ上手い。ぶっちゃけ、Macを使ってビデオコンテを作るとかそういう動画のスキル的なものなんてどうでもよくなるくらいに圧倒的w これが見れただけでも、行った甲斐があったというものだ。

ところで、ビデオコンテなるものは、アニメ業界ではまだ広く使われていないのかもしれないが、FLASHなんかだとわりと当たり前になっているんではないだろうか。最初に絵コンテを描くのは同じだとして、その後、それをスキャナで取り込んでタイムラインにはめていけば、iMovieなんかを使うよりもかなり手軽にビデオコンテがつくることができる。FLASHだったらカメラワークだけでなく、絵なんかも追加できるし、Photoshopなんかを介してあれこれするよりも、ビデオコンテンツ作りにはFLASHが最適なんだろうと思う。

今回のイベントを見ていて、ふと頭に浮かんだことがある。

それは、「このアニメの制作過程そのものが商品にならないだろうか?」ということだ。ジブリが映画のメイキングをDVDで出しているが、あれのリアルタイム版をやれば面白いのではないか。ヨーロッパで80年代あたりから行われているデモ・パーティー(知りたければ、DEMO99 さん参照のこと)をショートショートのアニメを作る大会にしてしまえばいいわけだ。

これを制作会社対抗でやると金がかかるので、一つの制作会社の中でいくつものチームに分けて、作画で足りない分はアニメ専門学校の生徒で補う。プロ・アマ一体となったチーム編成にすれば、生徒にとってもいい勉強になるだろう。そうやって、数日間の合宿で短い作品を作り上げて、コンテスト形式で順位を決める。ここでつくられたショートフィルムもコンテンツなのだが、この一連の流れそのものもコンテンツになっているのが、デモ・パーティーのよさである。

海外の巨大デモパーティーであるThe Partyなどはリアルタイムで映像の配信を行っているほど人気が高い(他にもAssemblyやGatheringなどが有名)。DVDの売り上げも落ち込んで、打開策のないアニメ業界の一つの突破口として、どこかのプロダクションがこんなことをやってくれると嬉しいんだけど…。

なお、ワークショップとは関係ない話だが、このイベントの最後に民生用の3Dプロジェクターが初お披露目された。簡易の3Dメガネをかけて、その映像を見て驚愕。少し前に観た『 アバター 』も衝撃的だったのに、その衝撃がいきなり家庭で観れるレベルに落とし込まれているのだ。世界の進歩早すぎだろ…。

Posted by Syun Osawa at 00:07

2010年02月26日

合奏みだれ天国 vol.1

2010年2月12日/19:00−21:30/渋谷club asia

合奏みだれ天国 vol.1行くかどうか当日まで悩んでた。で、当日に会社で公式サイトを見たら、いつの間にか出演者にCOVOXが追加されていて、「ああ、これは行こう…」となったのだ。club asiaも行ったことなかったしね。

ライブの出演者は、De!nial、COVOX、オーラルヴァンパイア、レコライドで、DJはSEXY-SYNTHESIZERなんかがやっていた。この規模のイベントで外タレいるってかなり豪華w しかもどのライブも熱かった。De!nialは僕には少し難しすぎたが、COVOXはわりとまっとうなchiptuneで聴きやすかった。しかも結構テンション上がるグルーブ作るね、この人。COVOXのときに、やたら外人さんがいたのは、彼のファンだったんだろうか?

オーラルヴァンパイアに関しては、僕は全く知らなかったが、結構有名らしい。エレクトロと昭和歌謡のハイブリッドな感じ(エゴラッピンのエレクトロ版って言ったら怒られるか)。このユニットも熱かった。この熱さ(過激さ)のレベルは、E-TRiPPER 4 で見たLILに近い。なかなか好きな感じ。

で、一番盛り上がったのがレコライド。

曲を全部知っているということもあるが、何でしょう。最近の日本で呼ばれているエレクトロ(J-Electroっていうのかな?)にゆるく括られている一群の中では、一番楽しい。一歩間違えばコミックバンド風でもありつつ、それでいてパンクな感じもあり、ニューウェーブな感じも残ってる。踊れるバンドは最近いっぱいあるけど、楽しくはじけられるバンドは少ないので、個人的にはとっても貴重だ。痛快な感じを今後も続けていって欲しいと思う。

ところで、E-TRiPPER 4 のときに加入していたギターの女の子は、即効で脱退したのかな?

Posted by Syun Osawa at 23:04

2010年02月25日

メディア芸術祭 マンガ部門受賞者シンポジウム

2010年2月11日/13:00−14:45/国立新美術館

メディア芸術祭マンガ部門で大賞を受賞した幸村誠氏を迎えてのシンポジウム。なぜか漫画家のしりあがり寿氏が司会を務めていた。しりあがり寿氏って、僕の中では江口寿史、とり・みきとごっちゃになって、名前と作品が一致しない人だったんだけど、かなりジェントルマンな方だった。

この二人に東京工芸大学の准教授・細萱敦氏を加えた3人で、受賞作の『ヴィンランド・サガ』について語るというのが今回のシンポジウムの大まかな内容。まぁ…早い話が、ぐだぐだと作品の内容とか漫画制作の裏話なんかを語るトークイベントである。

幸村氏の話の中で興味深かったのは、かなりエンターテイメントを意識していたことだった。彼は多摩美卒でありながら、絵柄のオリジナリティを追求したり、抽象的な作品世界に入り込んでいるわけではない。むしろ逆に、オリジナリティをグッと押さえ込んだ汎用性の高い絵を描いており、それは読みやすさ、見やすさを意識しているという。ストーリーについても、大まかなストーリーは決まっていて、10話先くらいの話まではある程度考えてあるが、それでも目の前のストーリーは常に面白い方向に流れていくそうな。彼の作品はカケアミも多く、戦いのシーンも濃厚で、紙面から伝わる熱量はかなり高いが、それは人を楽しませるための技術として用いられており、そのため漫画家としての視線はかなり冷めているようである(プロ!)。

その一方で、「心は今でも14歳」というまさかの厨二病告白もしていた。だから、ロスジェネ世代特有の死生観というか、厨二病的感性が作品の裏側に通呈しているのか…。どうりで共感できるわけだ(え?)。あと、『 石の花 』の坂口尚さんに影響を受けたというとも話されていた。坂口尚にハマったってことは、世代的にもそのきっかけは『アフタヌーン』で連載されていた「あっかんべぇ一休」かな? だとすると、幸村氏もアフタヌーンっ子か(うたたねひろゆき氏が連載を始める前のアフタヌーン的な意味で…)。

イベントの最後に質問コーナーがあって、そこでの質問の多くがメタ的な内容ではなく、作品に寄り添ったものだったことも好印象。漫画ってやっぱりファンに支えられているんだよね。評論系のトークイベントとは違って、作品とちゃんと応答している感じ。何だか凄く正しい気がする。僕も『ヴィンランド・サガ』読まないとなぁ…。その前に、本棚の前に積まれている『プラネテス』を読むか(え?)。

Posted by Syun Osawa at 20:31

2010年02月24日

ホッタラケの島 〜遥と魔法の鏡〜

2010年2月11日/10:15−11:55/国立新美術館

ホッタラケの島 〜遥と魔法の鏡〜押井守作品や攻殻機動隊シリーズで有名なProductionI.Gが、宮崎駿作品を3Dでやったら快調に失敗した。世間の評価はこんな感じだろうか?

アメリカなどでは、今やアニメといえば3Dアニメになりつつあるが、日本ではまだまだ2Dが強い。そんな中で、ジブリよりも先んじて大衆を獲得するための3Dアニメを作ろうと試みたところは、とても素晴らしいと思う。しかも、ディズニーっぽいキャラクターではなく、あくまでも日本の伝統的な可愛らしい少女とかを出して御伽噺をやったわけで、結果的に微妙な内容になったとしても(失礼w)、『 ゼロ年代のすべて 』の編者である宇野常寛氏の言うところの「ハイブリッド路線」としては悪くないのではないか。もちろんこれは技法的な話。

技法的な話を続けると、表情の硬さとか、空気感のなさとか、一つ一つの動きを短縮しないがために起こる間延び感など、昔から指摘されている3Dの問題はあまり解消されていないようにも思った。カメラワークももっといろいろできるはずなのに、パンチラをさせないためかどうかは不明だが、主人公の女の子の動きが制限されている気がした。これなら、クラブ帰りとかにしてスカートの中に短パンでも履かせていた方が、まだ激しい動きをつけられたのではないか。

ストーリーのほうはもっと突っ込みどころが多く、『千と千尋の神隠し』にならって『不思議の国のアリス』を現代風にやろうとするも、最後まで手鏡とかポイントカードとかの根拠のなさが気になってしまった。

とはいえ、キャラの造形に関してだけは別で、かなり萌える感じに仕上がっていた。これはたんに、僕が3Dの映像を見慣れてきただけなのかもしれない。先日読んだ、アシモフの『鋼鉄都市』では人間そっくりのロボットと人間の軋轢が描かれていたが、3Dで作られたキャラクターの硬い表情に慣れ始めると、これが現実化(ロボット化)したときに、人はもしかしたら違和感なくそれらを受け入れてしまうのではないかという風にも思った。この感覚は『鋼鉄都市』が描かれた頃にはなかった想像力だろう。そう考えれば、3Dアニメが今果たしている役割というのは、後にくるかもしれないロボットと人間の共存という未来にとって、かなり大きいな役割を担っているのかもしれない。

Posted by Syun Osawa at 01:04

2010年02月23日

THE VOC@LOiD M@STER 11

2010年2月7日/時間13:00−17:00/大田区産業プラザPiO

PiOに行ったのは、文学フリマ 以来か。文フリの10倍くらいの人がいて超満員。M3とか含めてたまに行く会場だけど、あんなに人が入っているPiOは初めてだった。コスプレありだったことも関係しているのか、半分以上が女性だったし、なるほどボーマス(通称)ってのはこういう人口構成比で形作られているんだな。

今回のイベントで一番感動したのは、ライブステージがあったことだ。僕が昔たまに行っていた音系の即売会って事前にネットでチェックするか、当日ヘッドフォンでエアチェックするかするかだったので、実際のライブをやってブースに引き込むという展開があまりにも真っ当で、その進化の正しさにJ-POP業界の低迷の原因を見てしまったほど。

ライブステージではミクのカバー曲や本人たちの作ったミク曲を演奏したり、踊ったり、歌ったりとかなり熱いパフォーマンスが展開されていた。そこには、「Just Be Friends」とか「炉心融解」とか「恋は戦争」なんかが共有されている世界がある。しかもそれらの曲の多くが、ボーカロイド自身を自己言及的に歌った曲が多い。こういう不思議なコミュニティの一体感が音楽イベントでありながら、それ以外のもので支えられている気がしてそのことを少し気にかけていた。

例えば、東方系なら多様とはいえゲーム音楽へのオマージュが通呈しているが、ミクに関してはそういうものがかなり希薄になっている。今回のライブでもアクセスのようなスタイルのユニットから、ギター&ボーカル、ジャスバンド、ミクスチャーと音楽も形態もさまざまだったし、根本的にジャンルの枠で縛られていない。さらに凄いのは、ボーカロイドシリーズは後ろ側に物語を持たない(ゲーム的なリアリズムもない)。

そのことが幸いしてか、多くのライトなコスプレーヤーやミュージシャンを呼び込んでいて、「ボーカロイドであれば何でもOK」という不思議な空間を作り出しているのだ。これは近年のロックフェスがジャンル横断的にやろうとしつつも、結果的に島宇宙化(ジャンル化、邦楽洋楽の分離)していることとは少し違う傾向である。

この不思議な一体感はいつまで続くのだろうか?

僕の場合、自分の欲望に素直に従ってしまうと、ミクトロニカオンリーイベントなんかを期待してしまうのだが、それだとロックフェスの島宇宙化と同じ道を辿るだけである。それが決して悪いわけではないが、今の超スーパーフラットに繋がっている状況こそがとんでもなく先鋭的な気もするので、この空間をもう少し楽しんでいたいという気持ちも強い。とはいえ、ミク曲としてアップされた曲を歌ってみたの人が歌うという状況とか、メタにメタが重ねられていくような状況について考え始めると、頭がかなり混乱するのでこのあたりでやめておこうと思う。

音楽の話からは少し離れるが、個人的に「踊ってみた」タグが好きなので、ライブ会場で「魔法のリリック」なんかのダンスが見れたのはよかった。ダンスロイドの振り付け役でもあるYumiko先生は「踊ってみた」を一つの文化に押し上げた本当の功労者だと思う。あと、エロ的な意味では、生で見た みく16歳 はヤバ過ぎたw

Posted by Syun Osawa at 00:56

2010年02月22日

ゼロ年代のすべて

宇野常寛、東浩紀、宮台真司 他/2009年/第二次惑星開発委員会/A5

ゼロ年代のすべて宇野氏が編集長を務める『PLANETS』の別冊。コミケではこの他に、東&宇野共同編集による『Final Critical Ride 2』も売られていたのだが、前作 でお腹いっぱいになったので、こちらの別冊だけを購入した。

ゼロ年代の総括本は各所からちらほら出ているようだが、僕がゼロ年代に読んだサブカル系批評関連の本は、ほとんど東浩紀関連のものだけ(残念ながら…)。他に何かを考えるためのパースペクティブを持たないために、とりあえずその界隈の批評のトップランナーである宇野氏の編集した同誌を読んで、ゼロ年代を俯瞰した形で眺めておきたいと思ったのだ。

ゼロ年代の流行に全然乗れなかった僕にとって、この本はかなり熱い内容だった。ページ数は128ページと少ないものの、フォントを極限まで小さくし、文章を圧縮して詰め込んでいる。だから情報量がとにかく凄いのだ。宮台真司氏と東浩紀氏の対談、脚本家の大森美香氏やアニメ監督の谷口悟朗氏のインタビュー、小説、映画、漫画、アニメ、ドラマ、音楽などの各座談会と、ゼロ年代に流行したポップカルチャーを網羅して語りつくそうという野心に溢れている。何よりその情熱がよかった。

この同人誌の中からあふれ出る固有名とその固有名につけられたタグ的なコメントの集合体から醸し出される空気感は、たしかに僕が経験したゼロ年代の空気に近かったような気もする(そこで指摘された問題点なども含めて)。ただ、それでも「まぁ…そうだろう、しかし…」的な気持ちが残ってしまうのは、例えば、昨今の「正社員化か? 流動化か?」みたいな議論で、「流動化やむなし!」みたいな展開に大筋で同意しながらも全乗っかり出来ない気分と少し似ている。

流動化は避けられない事態だということもわかるし、またそれらが、僕達自身によって選び取られた未来の果てにある現実だということもわかるのだが、未来への道標として導き出される思考のベクトルが、「その激しい波を如何にゲーム的に乗りこなすか?」という曲芸的な作法の過激さにすり替えられているような気がしてならないのだ。

こうした事態に異議を唱えようと立ち止まっても、意思を持たない流動化の波は立ち止まってくれないので、すぐにその異議の声は飲み込まれてしまう。ロスジェネ論壇なんてまさにこれだろう。だから、何かしらのメッセージを発するためには、サーファーのようにその波を乗ることを前提とし、海面に浮上し続けていなければならない。そして、そのための技術が「コミュニケーション」なのだと勝手に言い換えてみると、コミュニケーション力を駆使して流動化の波を上手く乗りこなしている人の動きというのは最先端のように思えるし、「思想のラディカルさ」というのは、いかに過激に乗りこなすかということに直結されて理解されそうな勢いもある。

ただ、世の中にはマーシャ・ガッセン『 完全なる証明 』に登場するペレルマンのような人もいて、そういう人は海底深くに潜っている。こうしたコミュニケーションでケリをつけない人々が、大きなポテンシャルを秘めている可能性を無視することはできない。上手くバランサーを働かせて、ハイブリッドに時代を乗り越えていくというスローガンはまったくその通りだが、「でも、しかし…」というエクスキューズだけは、「ミステリー小説家が、根拠はないけど後に必要かもしれないので、とりあえずここに複線を立てておこうとして書きこまれるネタ」くらいのノリで(どんな比喩だw)、残して続けようと思う。回りくどい文章だなw

Posted by Syun Osawa at 01:01

2010年02月19日

Saori@destinyインストア・イベント

2010年2月6日/15:00−15:20/タワーレコード秋葉原店

秋葉原にタワーレコードがあったとは…。しかも小さい。そらわからんわなぁ。ステージらしいものもないし、ちょっと開けたスペースに人集めてやりましたって感じだから、普段はやってないのかも。ホームページを見ても、Saoriのイベント以外、それらしいイベントをやっている形跡がない。

幸か不幸かそんな状況だったので、かなり間近でパフォーマンスが見れた。今回の新曲「エスニック・プラネット・サバイバル」の衣装は、今までの中では一番可愛い気がする。ジュリ扇(かつてジュリアナ東京で使われていた扇子)とか持っていて、90年代への目配せも強くて、まさに「俺得!」って感じではあるのだが、こういうのはおっさんヲタへの配慮なのだろうかw

今回はラストの曲が「ケミカルソーダ」だった。新宿のイベント ではラストが「EZ DO DANCE」だったので、90年代のハードハウス系列の王道クラブシーンみたいなものを経つつ、アンダーグラウンドなハードコア路線へグラインドさせてるのかと思って感想を書いたけど、そうでもないっぽい。まぁ…ぶっちゃけどうでもいい話ではあるのだが、どうもデートピア商法としてはそういう過剰さも売りになっているようなので、それはそれで生暖かく見守りたい。個人的な趣味としては普通に「ケミカルソーダ」が好きだけどね。

ところで、今年に入ってから(というか新曲から?)路線変更があったのか、パフォーマンスの際にシンセサイザー使いがバックに2人参加している。彼らが使っている機材は、RolandのJUNO-GとYAMAHAのMO6?で、ハードハウスっぽいジャンジャカしたリフを人力でやっていて(まさかの当てぶり…ってことはないよね?)、そのあたりの派手な感じは悪くない。が、中央で歌っているSaoriのリップシンクに、僕自身が少し飽き始めていることに気づいた。

僕はリップシンクでも構わないと思っているのだが、2010年代はせめてマイケル・ジャクソン的な生声とリップシンクのハイブリッド型(リップシンク2.0的な?)を目指して欲しいかも…。マイケルってライブ観ると、実は結構歌ってないし、かなり省エネで声を出している。そりゃあれだけ踊ってるんだから当然なんだけど、それでも部分的には歌ってたりするわけで、そのライブ感の演出が、「映像だけでなく、ライブでもいけるマイケル」を形作っている。

…なんて、さらにどうでもいい話がパフォーマンスを見ている途中からボヤーッと頭に浮かんできたのだが、そのあたり話は、2月14日の中目黒Solfaのイベントの感想で書くことにする。

Posted by Syun Osawa at 01:56

2010年02月18日

はなたれ小僧は元気な子〜さよなら滝平二郎〜遺作展

2009年12月19日−2010年2月3日/逓信総合博物館

はなたれ小僧は元気な子〜さよなら滝平二郎〜遺作展予想以上。子どもの頃の滝平二郎体験が一気に蘇ってきた。彼の代表作でもある絵本『モチモチの木』は、ストーリーのほうはすっかり忘れてしまっているのに、絵のほうは今でもはっきりと覚えている。シンプルな線で構成されているにもかかわらず、独特の雰囲気を漂わせており、しかも素朴で強いのだ。いやー,まいった。

滝平氏ははコラムもたくさん残されいて、今回の展覧会ではその文章もいくつか公開されていた。その中で、滝平氏が「自分の絵は物語りすぎる」といった内容の話を書かれていた。たしかに絵が物語っている。絵本で使用された絵が多く展示されていたと言うこともあるが、文字を追わなくても話の意図がわかるし、一枚の絵であっても田舎の子供達の遊ぶ姿が空気感を伴って立ち現れてくる。物語不在と言われる時代に、ポテンシャルの高さに学ぶべきところは多いように思う。

切り絵という技法も僕には新鮮に映った。黒い紙を切り抜いて作っているから当たり前なのだが、黒い部分が大胆に取り入れられている。そういえば、子どもの頃はこの黒い部分が闇のように感じられて少し怖かったことを思い出した。

そのほか、切り絵はカッターで切り抜くために直線的でシンプルな絵になる。そのため、この過程において、情報がかなり縮減されることになり、滝平氏は、この情報の縮減過程において、非常に豊かなイメージを抽出している。

さらにまた、切り絵の特徴でもあるすべての線が繋がっているという制約を非常に上手く利用しているようにも思える。そこから、世界が繋がっているというイメージや村落社会のコミュニティの姿まで透けて見えると言ってしまうと言いすぎかもしれないが、それくらい絵の中に「繋がり」みたいなものが感じられて、そのあたりも含めて今に無いものを感じさせてくれる作品群に圧倒されっぱなしだった。

Posted by Syun Osawa at 01:43

2010年02月17日

英語の授業で少子化を食い止める方法

以前、重婚のススメ? として少子化問題を考えてみたが、今回は日本の高校生がどうやったらリアルな英語を学ぶことができるのかを考えてみた。正確には、こんな風だったら僕も少しは英語が身についたかな? という妄想である。

これは凄く単純だ。とりあえず図にしてみた。

【図】英語の授業で少子化を食い止める方法

「英語教師としてイケメン&美人の交換留学生を迎えて、授業ではひたすら愛の告白の練習をする。」…これだけである。

よって、授業内容も至ってシンプルだ。図にあるように、授業はマンツーマン形式で行い、男子生徒は女子留学生に、女子生徒は男子留学生に英語で愛の告白をする。最初は「I Love You」しか言えないかもしれないが、導入の会話のネタを留学生の側から振るようにしておき、そのネタを事前に告知しておけば、少しずつ語彙も増えていくだろう。関係代名詞を最低一回使用するなどの縛りを儲けても面白いかもしれない。

これには、日本語なら恥ずかしくて言えないことも、英語ならば言うことができるという効用がある。また、その経験が実体験にもフィードバックされる可能性もある。つまり、英語を学びながら実は愛も学んでいるというね。…いかにも非モテ(死語?)が考えそうな恋愛シュミレーションネタだなw

Posted by Syun Osawa at 01:43

2010年02月16日

「躍動するイメージ。」展

2009年12月22日−2010年2月7日/東京都写真美術館

「躍動するイメージ。」展驚き盤の見せ方がいい。驚き盤の実物をはじめて見たのは、イントゥ・アニメーションで山村浩二さんが作ったものだったと思うんだけど、あれは手でクルクル回す可愛らしいものだった。今回は美術館での展示だけあって、ちょっとだけ大掛かりになっていて、アニメーションが立ち上がる瞬間のハード側からのアプローチが強く推し出されていた感じ。ハード好きな僕向けの方向性で、好印象。

今はアニメーションを見るときにハードの事を意識することなどないけど、アニメーションの黎明期には、シネマトグラフ映写機、キメーラ、シネトスコープなどいろいろあったのだ。僕が小学生の頃にも、京都の近鉄デパートの屋上にあったゲームセンターには10円を入れるとアニメが見れる機械があった。ゴーグルの形をしたレンズを覗き込むと、中でアニメーションが上映されるしくみで、今回もそれに似た機械が展示されていた。ハードの変遷はアニメーションのもう一つの楽しみであるはずなんだよなぁ、本当は…。

展覧会のサブタイトルが「石田尚志とアブストラクト・アニメーション」となっている。ようするに抽象絵画と同じ意味で、抽象的なアニメーションが展示されていたわけだ。抽象的なイメージをアニメーションでやるというのは、今回の展覧会を見る限り、ラースロー・モホイ・ナジ、マレーヴィチ、カンディンスキーらが活躍していた19世紀の初頭にすでにいろいろなことが試みられていて、ぶっちゃけやり尽くされている感が否めない(それを唯一突破したのは、CG技術くらいのものだろう)。そういう意味でも、今、抽象表現をアニメーションでやることの困難さみたいなものがあるのかもしれない。

それに、抽象表現をアニメーションという時間性のあるものに持っていくと、一気に時系列の方向にベクトルを持ってしまって、見通しがよくなり、抽象絵画の持つ平面性が失われるような気もするのだが、それはまた別の話。置いておこう。

ともかく、そんなやりつくされた感のあるアブストラクト・アニメーションに石田尚志氏は果敢に挑戦している。一つの作品に費やされた原画の枚数に圧倒されるという人間力のほうも凄かったし、特に《海の映画》という作品は、そうした抽象アニメーションが内在している批評性みたいなものを取り込んでいて、僕にもわかりやすい感じでよかった。

《海の映画》は映写機とスクリーン、そしてそれらが置かれた空間という位置づけをメタ的に捉えなおしていて、その枠組み(領域)が侵食されるというテーマになっている。これは だまし絵 的なフレーム問題(作品の内側と外側の問題)を取り込んでいて今っぽい。しかもそれが、閉塞感→崩壊→侵食→痕跡→溶け出すという感じで演出されていて、日常の中に潜む無限ループしているという感覚を上手く取り込みながら、作品化していた。

Posted by Syun Osawa at 01:28

2010年02月12日

完全なる証明

マーシャ・ガッセン/訳:青木薫/2009年/文藝春秋/四六判

完全なる証明ペレルマンという人のことはずっと気になっていて、NHKの特番も見たけれど、よくわからないままだった。

この本では、ペレルマンのエピソード以上に、ソ連におけるユダヤ人の問題と数学のエリート教室の話が面白かった。とにかくユダヤ人という人種は凄いのだ。ソ連の中でわずかに数パーセントしかいないにもかかわらず、何の対策も施さなければ、エリート校のほとんどユダヤ人になってしまうらしい。そのため、民族の人口割合に対して人を割り当てるというわけのわからない理屈でもって(これぞ社会主義的)、ユダヤ人のアカデミズムへの進入を制度的に阻んでいるのだ。

中でも幾何学者・ザルガラーのエピソードは悲しい。ユダヤ人は大学進学もままならず、大学院進学ともなるとほとんど可能性がない。ユダヤ人5人が大学院への進学を希望していたが、認められたのはザルガラー一人だけだったので、ザルガラーは大学院への進学をやめた。

ソ連には天才養成機関のようなものがあるらしく、ペレルマンはその一つであるルクシン・クラブという数学教室に通っていた。ソ連およびロシアでは、国際数学オリンピックで70個以上のメダルを獲得しているそうだが、そのうち40個以上をルクシン・クラブの出身者が獲得しているというのは驚きだった。日本でも宮本算数教室みたいなのがあるが、さすがにそこまでじゃないしなぁ。

で、肝心の「ペレルマンは何を証明したのか?」ということについて。これについては、当然のごとくわかるはずがない。そういう本ではないのでw ただ、ペレルマンがこの問題の解決に果たした役割が、どのようなものであったのかは少しだけわかった。

数学者の世界における最上位の知的エリートは、新しい地平を切り開き、かつて誰も問うたことのない問いを発する人たちだ。それより一段低いランクは、そのような問いに答える方法を考えつく数学者たちである。このランクに属するのは、いずれは第一のエリート集団に加わる人たちの、若き日々であることも多い。たとえば、博士号を取得してからまだ数年という時期に、自分の予想を作り出すに先だち、他人の予想を証明して定理にするようなタイプだ。そして三つ目のランクに属するのは、きわめて稀なタイプの数学者たちだ。彼らは証明への最後の一歩を踏むのである。一つの事にこだわり抜き、緻密で、忍耐づよく、他の人たちが夢に見て、選び抜いた道を、最後まで歩き通す。私たちの物語では、ポアンカレとサーストンは第一のランクに、ハミルトンは第二のランクに、そしてペレルマンは仕上げをする第三のランクに属するといえよう。

ペレルマンが一躍有名になったのは、クレイ研究所によって1億円の懸賞金がかけられた7大難問の一つ「ポアンカレ予想」を証明したからだ。しかし、それと同じくらいに多くの人の関心を抱かせたのは、彼の行動がとても奇妙に思えたからだろう。

彼は自らの証明を査読付きの学術誌ではなくネット上に公開した。そして、その証明が認められた後、多くの大学からの誘いをすべて断り、すべてのコミュニケーションを拒否した。人文系の物書きが、今の時代はコミュニケーションの時代で、その連鎖から逃れられないと書いたりしているが、ペレルマンはそういうゼロ年代的な要請とはまったく逆の方向に舵を切ったのだ。ペレルマンが世間との関係を立った理由。著者はそれを、出版社と作家の関係の比喩で簡潔に説明している。

出版社が作家を招いてこう言う。私はあなたの作品はどれも読んだことがありません。実を言えば、どの作品であれ、最後まで読んだことのある者は我が社には一人もいないのです。でも、あなたは天才だそうですから、契約書にサインしていただきたいと。

この手の悪い冗談をペレルマンは許さなかった。ゼロ年代の日本は、まさに「こういう状況が不可避であるから受け入れろ」とアジられていた時代でもあった。バトルロワイヤルの連環からは抜けられないのだから、肯定的に受け入れて乗り越えろというものだ。そういうコミュニケーションで何でも決定されてしまう事態を完全に拒否したペレルマンの態度は、僕にはとても興味深く映っている。

そしてそれは、彼が完全に拒否したがゆえに世間の話題になったということが、「別のコミュニケーションの回路を開いてしまっているじゃないか!」という突っ込みを受けてたとしても、そんな嘲笑を軽く一蹴するほどに強い態度だとも思った。

Posted by Syun Osawa at 01:54

2010年02月10日

Saori@destinyインストア・イベント

2010年1月23日/14:00−14:30/タワーレコード新宿店

そうかー。「EZ DO DANCE」路線に舵を切ったのか。

2008年にイベントへ行ったときの感想 を見返すと、「古典的なCulture Beatの『Mr. Vain』並みの下品な音」って書いていて、僕はそういう部分に惹かれた記憶がある。今回のイベントを見る限り(つーか前回含めて)、そこからさらに進んで、初期エイベックス経由のハードコア系の路線につき進む模様。そう捉えれば、この流れは肯定するべきなのかな?

さらに、HMVの記事 を読むと、本作は“ファンキー・コタ”なるものを取り入れているらしく(何だそれ?)、下のほうにレオパルドンの名前があった。つまり、初期エイベックスからさらに進んで、90年代のテクノ傍流というかMODとも近接しているナードコア的な路線まで一気に上書きしていくつもりなのかもしれない。シャープネル・プロデュースとかそういう方向性まではないにせよ、もはや誰得なのか、僕にはわからない事態だw

「ネオサブカル」というネーミングからしてそうなのだが、新しい地平を見つけるというよりも、「取り入れて拡張(embrace and extend)」という今風な戦略に大きく傾注しているところがゼロ年代的なのかもしれないし、普通のキャラ属性の本人と曲の過剰なギャップに何やらを見つける人もいるのかもしれない。とりあえず、イベント会場に吉田豪氏が来ていたという事実だけが、唯一サブカルであることの裏づけなのかもしれない…w

個人的には、リフが強調されて、メロディラインが弱くなったのが少し残念(メロディの弱いアイドル歌謡曲が売れたことなんて一度もないはずなので…)。とまあ、よくわからないことをツラツラ書いてみたが、結局、僕は過剰なサブカル的消費よりも、ノーマルなのが好きなんだ…というだけの話である。

Posted by Syun Osawa at 00:37

2010年02月09日

灰羽連盟(全13話)

監督:ところともかず/2002年/日本/アニメ

灰羽連盟(全13話)安倍吉俊氏の同人誌から生まれたアニメ。何か伝説化しているらしい。

灰羽の不思議さって、灰羽がどこからやってきたかっていう出自があきらかになるところでストーリーを引っ張って、最終的に世界の全貌を開陳するのかと思っていたら、そこは何だかぼんやりしているところだと思う。罪つきっていうのがどういう罪なのかもやっぱりぼんやりしていて、しかもその罪ってのが、灰羽になる前ではなく、灰羽時代の罪っていうか、そういうものだった。

この辺が奇妙なんだよな。不思議な世界の出自そのものではなく、不思議な世界を前提とした上での功罪の話になっている。セカイ系的な手つきなんだけど、空気系でもあるという不思議なアニメだった。

以下、感想メモ。

第01話 繭 空を落ちる夢 オールドホーム

いきなり落下してくる人。本編と関係ないけど、これ見てピンッと来た。これって、ITS Cartoonsという中国のFLASHアニメチームが作った「角色RPG」という作品のオープニングとかなり近いものだった。なるほどねぇ、あれってこれをモチーフにしたのか。そういや、PleymoのMarc Maggiori氏のパクリ疑惑の一件とかどうなったんだろうねぇ。

てな与太話はさておき、第一話は灰羽という謎の生き物が住む世界の紹介。天使の輪がついているので、死後の世界なのかな?というのは単純に想像されるが、はっきりとしていない。今わかっているのは、女の子がいっぱいいて、萌え要素がいっぱいだ…ということくらい。

第02話 街と壁 トーガ 灰羽連盟

空から落下してきたからラッカというのはなかなかいいネーミングセンス。彼女がコミュニティに受け入れられていく様子を描きつつ、その過程で灰羽の住む世界を紹介していくという回。事件も何もなく、ただ紹介していく感じが今っぽいのかも。19世紀後半のイギリス郊外という感じの街で、灰羽連盟は秘密結社っぽい雰囲気もある。壁に囲まれている街から彼女たちは外へ出ることは出来ない。にしても空気だなぁ。もしかして、全盛期のジャンプ世代のおっさんが見るには辛いアニメなのかな? ヨコハマ買出し紀行的な…。

第03話 寺院 話師 パンケーキ

レキが結構ナイーブなキャラだということがわかる。ラッカはヒカリと一緒に寺院へ。寺院と言いながら人里離れたところにあって、誰も近寄らないという。どんな寺院やねん。ともかく、そういう世界ですよってことが、静かに説明されている感じ。このまったりした空気感そのものが、この作品の見所なのだろうか。

第04話 ゴミの日 時計塔 壁を越える鳥

いろいろな灰羽たちの仕事の様子を見て回るラッカ。みんなはやりたいことを仕事にしているけれど、自分はやりたいことがわからないと悩み始めている様子。壁に囲まれた世界の中で、まず働かなければいけないという前提があって、そこに自分探しのロジックが加わってくる。超現代社会(しかも日本)のナイーブなところが練りこまれていて、そういうところも女子たちに受けた理由なのかな? 今のところよくわからない。

第05話 図書館 廃工場 世界のはじまり

図書館に居場所を見つけたラッカ。レキは不良グループとつるんでいるという情報も。しかしネタとしては、これくらい。この作品の命はやはり、空気感の演出にあるのだから、普通の会話激に終始するというよりは、動画枚数を減らしても背景とか、背景の動きとか、空気のざわめきとかそういうことにもっとスポットを当てるべきだったのではと思う。なんか見ていて惜しい気がする。

第06話 夏の終わり 雨 喪失

あまりに空気過ぎて、何と書いていいかわからないw そういえば昔、『ハチミツとクローバー』というアニメが深夜にやっていて、だいたいその時間はPCの前に座っているから、音だけを聴いていた。絵は見えなかったが、会話劇が中心だったので、話は大体わかった。まさにそんな感じ。後半はクーが西の壁に一人で行ったという事で、少し緊張感が上がってきた。やっぱドキドキ感はないとね。壁に囲まれているっていう事だけが唯一の緊張のポイントだからね。

第07話 傷跡 病 冬の到来

だんだん興味関心が薄れてきた。うーむ。ビジュアルメインなのにビジュアルが弱いせいだろうか…。カラスの伏線が少しだけ生きてきた回。

第08話 鳥

ラッカが猛烈な自分探し病を発症した。「私なんていなくなっちゃえばいいのに…」とか言ってしまって、これは厳しい。なんで厳しいと感じるかというと、彼女は元々所在の無いところから登場しているわけで、何者かもはっきりしていない。一方で、見ている視聴者たる僕たちは人間として生きているわけで、ある程度所在がはっきりしている。その状態でなおかつ自分探ししている人もいるわけだ。この場合、両者は自分探しという言葉だけで単純に共通事項としてしまっていいのだろうか?

第09話 井戸 再生 謎掛け

森の井戸に落ちるラッカ。自分探しが止まらない。うーん。重い。悩むことが悪いんではなくて、悩むなら悩むなりの表現があるはずで、いわゆる普通のセルアニメとストーリー展開の中でただ鬱々としているのでは、空気アニメと評されても仕方ないかと…。最近は空気アニメもOKという雰囲気があるらしいけど。

第10話 クラモリ 廃工場の灰羽達 ラッカの仕事

この世界を覆っている「壁」と灰羽が背負っている「罪」ってのが一つ重要な要素なのか。空気系のアニメとは思っていなかったし、ここまで静かに世界設定を開陳していく話だと見るのがなかなか辛い。どこかの回の感想でも書いたが、たぶんこの作品の勝負どころは背景美術であったかと思う。それと世界観。そこが普通のアニメとして処理されているから、なんかズレた感じがするんだと思う。

第11話 別離 心の闇 かけがえのないもの

暗いなぁ。灰羽って結局、自分探しから抜け出して壁の向こうへ飛び立つってところが、話の核になってるのか。だから、羽を落としてその世界へ留まろうとするレキのアイデンティティの揺らぎが、逆に物語を生んでいてるわけだな。これは完全にセカイ系の論法を踏襲しているじゃないか。うーむ。

第12話 鈴の実 過ぎ越しの祭 融和

暗い。そして重い。なんで、そんななのか全く理解できない。これ監督もあまり理解してなかったから、こんな感じになってしまったんじゃないか。ともかくあと一話だ…。

第13話 レキの世界 祈り 終章

最後までしんどかった。暗い絵ばかり描いていたレキが明るい絵も描いていてほっとした、というくだりがあるが、そんな感じなんだね。自分の殻に閉じこもっていたレキが最後に巣立つのだが、巣立ったからOKということで本当にいいのかな? オールドホームが好きだったレキがいて、しかしその生活にしんどさも感じていた。そういうレキがその世界の中で葛藤しながら上手い居場所を見つけるのではなく、別の居場所にまさに旅立っていってしまったわけだから、これでは要するに超越的な解決ということになってしまう。

Posted by Syun Osawa at 00:58

2010年02月08日

劇場版 名探偵ホームズ

監督:宮崎駿/1984年/日本/アニメ

劇場版 名探偵ホームズ見よう見ようと思って全然見ていなかった、名探偵ホームズの劇場版。監督が宮崎駿氏だし、「劇場版」と書いてあるから、楽しみに取っておいたのに、45分くらいの微妙な長さの作品だった。

つか、Wikipediaを見ると、この作品自体がテレビシリーズの第5話と第9話をつなぎ合わせたものらしく(そうだっけ?)、テレビ放映される前に、ナウシカと同時上映されたのだそうな。テレビシリーズで宮崎氏が演出をつとめているのは、全26話中5話。残りの3話も気になるなぁ。

宮崎駿監督作品にしては、展開はわりと大人しめな感じ。ホームズの声も僕が記憶していたものとは少し印象が違った(こんな声だったっけ?)。あと、ホームズって少しおちゃめな紳士って感じの印象があったんだけど、机の上に足ずっと乗せていて、結構態度悪いなw

内容的には、少年に扮装した少女といった宮崎作品っぽいモチーフもそこそこ登場している。描きにくい群集(モブ)をバリバリ登場させるのもいいし、3D風の奥行きのあるアクションシーンとか、難しい事もガリガリやっていて、僕はこの東映アニメーションから連綿と連なるアクションの系譜がやはり好きなのだと思った。

この劇場版を見て、テレビシリーズのほうも俄然見たくなったんだけど、何気に犯人が毎回決まっているので、ミステリーの要素はほとんどない。昨今の『コナン』や『金田一』とはそこが違う。青山剛昌も『マジック怪斗』のときと『コナン』のときでは違うから、この手の探偵モノの手つきが、この手の探偵者の手つきが、80年代から90年代で大きく変わったという事なんだね。ライバルで見せるのか、ミステリーで見せるのかっていう意味で、演出は後者のほうに重点が置かれていったと…。そして、世界観の開陳をミステリー仕立てに見せてていく手法がメソッド化して今に至るという感じだろうか。

Posted by Syun Osawa at 01:12

2010年02月02日

CYBORGじいちゃんG ― 21世紀版(全2巻)

小畑健/2001年/集英社/四六変型

CYBORGじいちゃんG ― 21世紀版会社の同僚から『BAKUMAN』が面白いと聞いた。何でも漫画家をネタにした漫画らしく、漫画業界の裏側などがわかって面白い、とのことだった。『まんが道』や『 吼えろペン 』などの漫画家漫画が好きなので、これは読むしかない。そう思って読み始めたのが、『CYBORGじいちゃんG』だ(え?)。

小畑健氏の名前は、1998年に連載された『ヒカルの碁』のヒットで一気に知られるようになったと思う。その後、ネット上で作画担当の小畑健氏が、実は『CYBORGじいちゃんG』の作者だったということが話題になり、結果として、この作品にも再びスポットライトが当てられることになった。『CYBORGじいちゃんG』は僕が学生だったころにリアルタイムで読んでいた漫画でもあったので、『BAKUMAN』を読む前に、ともかく読んでおきたかったのである。

今の小畑氏の絵のタッチとはかなり異なっているが、ともかく絵がヤバい。それはもう圧倒的と言えるほどで、サイボーグのメカニカルな部分も丁寧に描き込まれているし、連載当時、若い頃の爺ちゃんのカッコよさ(特に最初の登場シーン)に鳥肌が立ったことを今でも覚えている。週刊誌でこのクオリティを維持していたことが、にわかに信じ難い。しかも当時まだ20歳くらいだし、やはり天才っているもんだねぇ。

画力がパネェことはわかりきいているので、ストーリーの話。

この作品のストーリーを学生時代の僕がどのように受け止めていたかは憶えていないんだけど、それなりに日常コメディ的なものを楽しんでいたように思う。が、この歳になるとさすがにちょっとドラマが弱いような気がした。爺ちゃんのサイボーグは戦闘用になることを拒否した上での農業用だったというエピソードとか、設定的には僕の好きなものも多く広がる感じもあるのに、ドタバタに終始している感じ。ライバルも最後までキャラ立ちしなかったのも痛い。

そんな中で唯一、案山子が女子高生に恋をするというストーリーは結構いい感じだった。この話は連載時に読んだ記憶がはっきりと残っていた。それくらい印象深かったのだ。そして、この作品だけなぜか最後のコマの横のところに「GUEST NOBUHISA TSURUOKA」と書かれていた。これは漫画家の鶴岡伸寿氏がストーリーに協力したという事だろうか? だとすると、小畑氏が最初に原作と作画という体勢で漫画を描いた最初の作品がこのエピソードという事になるのだろうか? 詳細はまったく不明。

PS.

爺ちゃんの孫に当たる小学生の男の子が、何から何まで『幽遊白書』の主人公にかなりそっくりだったのだが、あれは当時のパロディ的なものだったのだろうか? それとも偶然だったのだろうか? 前田太尊だったのだろうか?

Posted by Syun Osawa at 01:33