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2010年04月23日

バニラビーンズ?

バニラビーンズ

あまりに似てなくて、それでも何とか頑張ったけど、どうにもならず。最初のラフからずっとダメだったので、そこからちゃんとやるべきだった。体の線も相変わらず硬いし、アイラミツキを描いた ときから進歩ない。もっとたくさん描かないとダメだね。そういう年にしよう、今年は。

Posted by Syun Osawa at 00:16

2010年04月21日

『BSフジLIVE PRIME NEWS』放送1周年記念シンポジウム

2010年3月28日/14:00−17:00/パークタワー東京

『BSフジLIVE PRIME NEWS』放送1周年記念シンポジウム第一部は、富野由悠季氏、市川真氏、宇野常寛氏、濱野智史氏、ラリー遠田氏が登壇。特に富野氏が面白かった。逆に富野氏がいなかったら、「マジメかっ!」というくらいに空気を読んだぬるい内容になっていた気が…。

それはともかく、富野氏の面白いところって、自分の思い描いていた未来とは少し違ったところで多くの人に愛される作品を残しているところだろうなぁ。何となく、文芸をやりたかったのに漫画をやらされた漫画編集者(ジャンプの西村編集長など)や全共闘世代の予備校教師などとも通じるところがある。

夢はある。しかし生きていくためには自分のやりたいことをやりたいようにだけやっていては生きていけない。この屈折した感情が持つ強いエネルギーを市場に流通するコンテンツに注ぎ込んだことによって、戦後日本独自のオリジナリティ溢れるコンテンツが作られていったのだろう。

あと、ニコニコ動画で跋扈する高度な技術を備えたアマチュア達の作品を富野氏が斬りまくっていたのも素敵だった。僕自身、FLASHでアマチュアとして作品を作っており、この場合、富野氏に斬られる方だから怒るべきなのかもしれないが、彼の話はすべてもっともだと思った。また、この手のアマチュアの作品群がプロの作品を駆逐していく話については、自然科学の領域で、クライマックス(森は最後にはすべて草原になるという話)と絡ませていろいろ考えているので、それは別の機会に書こうと思う。

第二部は、宮台真司氏、橋本努氏、水無田気流氏、速水健朗氏、宇野常寛氏が登壇。社会学者が3人もいて、その3人の言葉を宇野氏がまとめるっていう流れはかなり面白かったけど、でもやっぱり社会学者3人っていうのは役割が被りすぎていて何か変な感じだった。第二部で面白かったのは、社会学者3人のよくわからない教養勝負と、それを強引にまとめようとする宇野氏の頑張り。

内容的には、家族や会社以外の中間共同体が必要だって話に尽きていて、僕もこのテーマにはかなり興味を持っている。村落共同体が崩壊し、イデオロギーによって結ばれた社会運動の団体も大きな力を持っていない今、何が趣味で集まる友達以上の吸引力をもって、共同体を形成しうるのか? 未婚の人が増え続けている今、この問題はかなり重要なテーマだと思う。

そんなわけで、かなり興味深く聴いていたのだが、そもそも彼らのいるレイヤーではそういう共同体を必ずしも必要としてないので、議論が全部また聞き程度に空転していたのが寂しかった。まぁ、これは仕方ないかも。

Posted by Syun Osawa at 00:39

2010年04月15日

大観と栖鳳展 ―東西の日本画―

2010年2月6日−3月28日/山種美術館

大観と栖鳳展 ―東西の日本画―googleマップを信じて山種美術館へ行ったら、全然見つからなくて、一度は挫折。別日に公式サイトを見たら、移転しているらしく、実際には渋谷の近くにあった。気づかないうちにgoogleマップに全幅の信頼を置いていた自分の甘さを反省。wikiもそうだけど、そこそこ正しいことが書かれていることに慣れると、そこに警戒心を持ち続けることが難しくなる。こういう問題はこれからどんどん起きるんだろうなぁ。

で、展覧会の中身の話。

このタイトルなら横山大観と竹内栖鳳の絵がいっぱい見れると思うやん! たしかに数は少なくはなかったが、多くもなかった。特に栖鳳の絵が好きなので、動物の絵はかなり楽しみにしていたのだが、これはほとんどなかった。まぁ、近くに東京国立近代美術館があるんだから、そっちに行けば国宝級の絵がぞろぞろ見れるわけだから、別にいいんだけど…。

ただ、大観と栖鳳の弟子達の絵から、東京と京都の二つの派閥をちょっとだけ俯瞰できたのはよかった。川合玉堂《雲海》なんかは味があって好きな感じ。あと、ぼんやりとした主線で動物を描く山口華陽の絵もわりと好き。この人が京都派の人だとは知らなかったなぁ。

他にも学ぶところが結構あって…というか、朦朧体という表現は、当時の画壇が彼らの絵を揶揄したときに使われた言葉だとも知らなかったわけで、僕の場合、学ぶところだらけである。明治の頃の日本は、西洋画よりも日本画のほうが圧倒的に強かった。僕はその頃の(つまり近代の)日本画が持っていた権威とそれを打ち破る想像力がどのようにせめぎあっていたのかはとても興味がある。また、日本画が西洋で強く意識され、日本の美術が西洋のコンテクストに組み込まれ、再発見されていく「日本」みたいなものについても、美術が好きなら勉強する必要があるんだろうな、きっと。

その手のコンテクスト話は本で読むとして、単純に絵を見た感想としては、やっぱり僕は栖鳳の絵が好きなんだと実感。何といえばよいだろうか、絵に描かれた対象の「存在感」と言えばいいのか、それがとにかく凄い。展示されていた《蛙と蜻蛉》という絵もカエルを描くために、部屋にカエルを放ったらしいし、物自体へまっすぐに接近し、そこで格闘しているところに、強さを感じるのだ。

常設展のほうでは、上村松園《牡丹雪》がかなり大胆なカット割り印象に残った。左隅にバストアップで小さく人物を手法は、後のアニメでも用いられるような手法だ(なかむらたかし氏とか)。この手のカメラのフレームアップっぽい手法が、日本画の世界では早い段階(カメラがない時代)から大胆に導入されていたことはとても面白いと思う。

Posted by Syun Osawa at 00:54

2010年04月06日

第13回 ロボットグランプリ 大道芸ロボット競技

2010年3月27日/13:00−16:30/科学技術館

第13回 ロボット グランプリ日本機械学会が主催しているロボットコンテストの大道芸ロボット競技部門を見に行った。この部門は、ロボット製作の技術もさることながら、それを大道芸としていかに見せるかということもポイントになっており、その点が、最近興味のあるメディアアートの文脈でも楽しめるかも…と密かな期待を寄せていた。

素朴な感想としては、有名大学の大学生でもロボットを作るのは難しいんだなと…。特に重量の壁はなかなか厚そうで、ロボットのサイズが大きくなればなるほどモーターが悲鳴を上げている感じだった。原因不明のトラブルで実演が途中で中断されることもしばしばで、コンピューターの中のCGとはそういった部分が決定的に違うことを実感した。

メディアアート的な視点で観れば、メディア操作(見せ方)のほうはやや弱い印象を受けた。これは技術屋の宿命みたいなものかもしれないが、例えば北欧で20年以上前から活発に行われているメガデモのパーティーでは、プログラマとデザイナーとサウンドクリエイターが一つのチームを組んで作品作りに取り組んでいる。そのため、完成された作品はどれも技術面とビジュアル面の両方から底上げされており、技術的に弱くても作品としてはそれ以上の価値を持つものが少なくない。

日本でも、企業のものになるとデザイナーが入ってビジュアル面や打ち出し方といったコンセプトに力が入っているのだが、学生レベルになると途端にそうした部分が薄くなってしまう。ソフトはソフト、ハードはハードという時代ではないので、ハイブリッドした大会が少しずつでも増えていってくれたら、観客としては嬉しいんだけどね。

ハイブリッドといえば、結局ゼロからロボットを組み上げるのは何かと難しく、そこに技術的な障壁が毎度つきまとう。どこかのチームがIH調理器を利用していたが、ああいった形ですでにある機械を改造して、アイデアを1つプラスする形で作品を作っていくような形式(プログラムで言えば、オブジェクト志向みたいな感じ?)にすれば、2010年代のロボット競技もさらに外側に開けていくんではないかと思った。まぁ、学生さんが技術を学ぶ大会なんだから、そもそもそういう話ではないのかもしれないけど。

Posted by Syun Osawa at 00:19

2010年04月02日

ベーシック・インカム入門

山森亮/2009年/光文社/新書

ベーシック・インカム入門最近、いろいろな場所で語られているベーシック・インカムについて、Wikipeidaよりも少し踏み込んだことが知りたいと思って読んだ本。入門と書かれているわりは、専門用語がポンポンと出てきて、ちょっと堅苦しい感じだった。

この本によると、「ベーシック・インカム」という言葉で名指されていたかどうかは別として、似たような制度を考えていた人は古くからいたようだ。しかし、多くの場合、あまり大きな話題になることもなく立ち消えになった。その理由は様々だが、ザックリ言ってしまえば、これまでは産業が右肩上がりに発展し続けていたたため、ベーシック・インカムをわざわざ持ち込まなくても、働けば何とか生活が向上するという神話が成立していた。そのため、多くの人がこのシンプルな保障制度に目を向けなかったのだ。

これからの社会では、産業が今までのように発展して、それが僕たちの生活をどんどん向上していくとは考えにくい。情報産業分野ではフリー化、デジタル化の余波を受けて、人余りがより一層進んでいる。加えて、日本では高齢化が進み、デフレを克服することもかなり難しい状況にある。そんな中で、セーフティーネットを考えるとき、今までのような生活保護政策では、生活保護を受けられない低所得者層から不満が噴出するであろうことも十分に予想できる。

これは明らかにお門違いな不満なのだが、そうであってもこの不満が日に日に大きくなっているということには留意しておく必要があるだろう。在特会の運動が活発化していることも、こうした流れとは無縁ではない。

ベーシック・インカムはこれらの諸問題を何一つ解決するわけではない。しかし確実に「不公平感」だけはなくなる。この見えにくい感情の問題をガス抜きするためにも、ベーシック・インカム的なシンプルでわかりやすい政策が今後必要になってくることは、多くの人が感じているところだと思う。

ただ、そうなると、生活保護受給者の収入は確実に下がることになる。この点についてはこの本では扱われていなかったが、本来なら最も社会的弱者に位置する人たちが、現在の保護政策によってフリーターよりもいい生活をしているという転倒が、さらに転倒して、本来の意味で社会的弱者に陥ってしまう。果たしてこれでいいのだろうか? このあたりは僕にはわからない。

また、生きているだけで支払われるベーシック・インカムは、労働の意味を大きく変えてしまうので、この思想の変革にはかなり大きな障壁があると予想される。昔は、オール機械化されて人間が労働から解放されることは素晴らしいことだと言われていたはずなので、いよいよそんな社会に近づいてきた今、「働かざるもの食うべからず」といった強い主張をどう切り崩していくかが、ベーシック・インカム実現の大きな鍵となるのだろうね。

Posted by Syun Osawa at 00:53

2010年04月01日

サイバーアーツジャパン展 ― アルスエレクトロニカの30年

2010年2月2日−3月22日/東京都現代美術館

サイバーアーツジャパン展 ― アルスエレクトロニカの30年アニメ関係の東京国立近代美術館の ウィリアム・ケントリッジ展 、東京都写真美術館の 躍動するイメージ。展 と、名の知れた美術館でアニメ関係の展覧会が続いている。国立新美術館で毎年行われているメディア芸術祭も少しずつ動員数を伸ばしており、これまであまり大衆の目に留まることのなかった現代美術の世界で、「メディアアート」という一つのジャンル(?)だけが突出して注目を集めていることは面白い現象だと思う。

たしかに現代美術が苦手な僕も「メディアアート」と呼ばれるものには興味があって、これまでもちょくちょく展覧会に足を運んでいた。それでも、そこで展開されている作品のコンテクストがよくわからなくて、毎回「うーん…」と唸るだけだったのだが、今回、サイバーアーツジャパン展を見て、そのコンテクストが何となくわかったように思った。それをサックリ書いてみる。

メディアアートのコンテクストは、「ネト充のままリア充になるか?」ということなのだと思う。つまり、メディアを通じて情報として流通した作品から、いかにして身体性を呼び起こすか、ということである。これは、東工大のシンポジウム で宮台真司氏が言っていた「現実の虚構化/虚構の現実化」とは違う話だということに留意しておきたい。「ネト充/リア充」という対の概念ではなく、東浩紀氏が小説『 クォンタム・ファミリーズ 』で書いた、並行宇宙の世界に近いものだと考えている。

このように考えると、『 アバター 』という作品は、メディアアートとしてかなり優れた作品だったと言えるのではないだろうか。『 アバター 』は「ネト充・イズ・リアル」といった話で、最後に主人公の男性がネト充な生を受け入れる。そのため、この話だけを受け取ると、宮台氏の言っている「現実の虚構化/虚構の現実化」になってしまうのだが、この作品は3D映像によって、僕たちの身体性へ明確に作用しようとしている。

東工大のシンポジウム で、黒澤清氏が『 アバター 』の3D映像を古臭い表現と言っていたが、その古臭い表現をもってきた意味(実際には古くはないのだが…)というのは、このコンテクストをキャメロン監督が正確に捉えていたからではないだろうか。今回のサイバーアーツジャパン展でも、身体へのアプローチに対して、多くの作品がポジティブな印象を受けた。

ところで、岡崎乾二郎氏が、先日行われた、メディア芸術祭のシンポジウム で、「メディアアートはメディア批評を含んだ作品である」という定義づけをしていた。僕はこの話を聞いたときに、「たしかにそうだな…」と思ったのだが、メディアを通じた身体性の獲得をメインに考えるのならば、こちらはあくまでメタコンテクストとして位置付けられるべきだろう。メディア芸術祭で優勝した作品は、たしかにメディア批判を含んでいるが、身体へのアプローチも強く、コンテクストおよびメタコンテクストの両方をを十分に満たした作品だった。

というわけで、「メディアアート」のコンテクストは「いかにして身体性を呼び起こすか?(ネト充のままリア充になるか?)」で、メタコンテクストは「メディアアートはメディア批評を含んでいるか?」だと思うことにした。そう勝手に定義付けることで、メディアアートの楽しみが少し膨らむのなら、僕得なんだからいいでしょ…というだけの話である。

Posted by Syun Osawa at 00:43