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2010年08月30日

寿町フリーコンサート 2010

2010年8月12日/14:30−20:45/寿町職安前広場

寿町フリーコンサート 2010何だかんだの付き合いで見に行っているフリーコンサート。日本のオールディーズなテンションに突き動かされているような音楽が、普段、僕が聴いている音楽とは少しズレていて、それゆえに新鮮な感動を貰えるイベント。

会場が寿町の職安広場ということで、社会のマイノリティの人たちを元気にしたいという思いも強いのだろうか(僕は経緯とか知らないのでそのあたりは不明)。今回、会場まで一人で来たこともあって、少しだけ会場周辺を歩いてみた。日雇い雇用者のための安宿が多く目につくが、外国人バックパッカーの利用者が多く、英語で書かれた看板も多く見かけた。立地条件からしても、超都心にあるわけだし、その利用のされ方もかなり少しずつ様変わりしているのかね。

曲のほうは、昨年一昨年 よりもかなり真っ直ぐな印象だった。ロック的なアプローチとしても、リトルキヨシトミニマム!gnk!とか、桃梨とか、シンプルにカッコいいのが目立った。最後も、民謡とロックを混ぜた感じのバンド・寿[kotobuki]で、気持ち良く大団円。いいね。

音楽とゼロ年代ってところを俯瞰すると、ラストの寿が毎年歌う曲の中に、坂本九の「上を向いて歩こう」のカバーがあるのだが、歌詞を「涙がこぼれないように」のところを「涙がこぼれてもいいじゃないか」と歌い、「一人ぼっちの夜」を「一人ぼっちじゃなかった夜」と言い替えている。このあたりにゼロ年代の風景を見てしまいそうになるんだけど、キャリアの長いバンドだから、あんま関係ないかな。いずれにせよ大団円。毎度の事ながら、いいライブだと思う。

Posted by Syun Osawa at 20:53

2010年08月29日

コンテンポラリーアニメーション入門 第4回

2009年12月12日/16:00−20:30/東京藝術大学 馬車道校舎

コンテンポラリーアニメーション 第4回山村浩二氏による東京藝術大学の公開講座。アニメーションの無料イベントとしては、この講座の右にでるものはない気がする。いやマジで。

今回はプリート&オルガ・パルン氏の作品の上映とトーク。作品は『ガブリエラ・フェッリなしの人生』と『雨のダイバー』が上映された。上映前に解説が配布されていたので、そこに書かれている解釈を補助線にしつつ見ていたのだが、どちらもなかなか難解な作品だった。

『ガブリエラ・フェッリなしの人生』は、男と女の関係性を巡る話で、その二人の間に様々な人や生き物や出来事が差し挟まれる。正直言って、1回見ただけではどういうことが言いたいのか釈然としないのだけど、愛の問題も、二人の間のことだけでは決して完結しないという「セカイ系アニメ」とは逆の回路で作られているような感じの作品だった。

それは、『雨のダイバー』にも言えることで、海岸近くで沈没していく客船の中に最愛の女性がいる水夫が、一刻も早く海に飛び込まなければいけない状況であるにもかかわらず、ゆっくりと準備を進めて前に一歩踏み出す様子がない。また、海で起きている大惨事の後ろ側の道路では地味な交通事故が起きていたり、救助する側の人間が災難に巻き込まれたりと、こちらも主題以外の余剰を取捨選択するという基本的なストーリーの方程式に従っていない。

しかし、だからこそ見えてくる距離感というようなものもあって、それぞれの小さな物語に対してどこか人事で冷めた感じ残る。パルン作品の凄いところは、そんな作品の中にユーモアを差し込んでいるところで、決して突き放すだけの作品にもなっていない。その微妙な距離感が何とも不思議な印象を与えていた。

上映後のトークも素晴らしかった。同時通訳つきで山村氏とパルン夫妻の対談で内容に踏み込んだことも語られていたように思うが、あまり記憶に残らずw 二人ともエストニア在住で、その地域に根ざした作品作りをしているようだが、妻のオルガ氏はフランス出身なのかな? ちょっとそのあたり曖昧だけど、オルガ氏のほうが雄弁に語っていたように思う。

Posted by Syun Osawa at 01:47

2010年08月28日

ストンプ・ザ・ヤード

監督: シルヴァン・ホワイト/2006年/アメリカ

ストンプ・ザ・ヤードアメリカでスマッシュヒットしたダンス映画だそうな。タイトルに「ストンプ」と入るので、僕はてっきりモップとか使って音を鳴らす話なのかと思ったら、ちゃんとした今風のダンス映画だった。

とはいえ、その中で展開されるダンスは、いわゆるストリート系のダンスというわけではなく、大学に伝統的にあるオールドスタイルのダンス(日本だと何だろう? ちょっと想像がつかないが…応援団っぽいノリも一部にある感じ)がメインになっていた。ストンプのダンスチームは大学にいくつもあって、一番優れたダンスを披露したチームが優勝となる。

これだけなら、まぁ…いわゆるストンプの映画なわけだけど、ゼロ年代のダンス映画はすべてハイブリッドすることが前提になっているらしく、この映画の中でもストリートダンスとの融合が一つのテーマになっている。

ストーリーは次のようなものである。

ストリートでダンスバトルを繰り広げる主人公の兄が対抗するダンスチームのメンバーに殺され、それをきっかけにして主人公はストリートから足を抜けることを決意する。そして、叔母の住むアトランタで大学に入学し、そこでストンプに出会う。その後、主人公はあるチームに加わるのだが、そのチームは常に2位に甘んじるチームであった。ここ何年もの間、ライバルチームに勝つことができずにいたのだが、この主人公がストリートダンスの要素を取り入れることによって、チームを優勝に導くというわかりやすい展開だ。

この展開はダンス映画の王道で、しかもコンテスト形式のダンス大会を、同点決勝でストリートのダンスバトル形式に持っていくという流れは、『 ユーガット・サーブド 』とまったく同じだったw しかも大事なのは仲間であり恋人であるというテーマも同じ。この時点で、ゼロ年代のダンス映画は恐ろしいほどテンプレ化しているのだなと思ったわけだけど、映画の見所はもちろんそこじゃない。

ダンス部分が圧巻で、ストリートの要素を取り入れつつもあくまで総合芸術としてのダンスに主軸を置いた演出になっていた。しかも、それぞれのチームのダンスにはちゃんとしたコンセプトがあって、ただ音楽に合わせて踊るダンスとは一線を画していた(ストーリーの無いライオンキングみたいな感じ?)ただ、ダンスのカット割り細かくしすぎるなど、無駄な演出を過剰に取り入れていたために、他のダンス映画と比べて、ダンス本来の良さが失われてしまっていたのが残念だった。

ダンスの最前線がどこにあるのかなんてことは、僕には知る由も無いが、少なくともゼロ年代に起こっているダンスの状況はとても興味深いものになっている。特に僕は、90年代に激しく細分化されたダンスが再びハイブリッドされ始めたことと、ダンスを踊る&見る場所(あえてバトルフィールドと呼んでもいいがw)が姿を消した後に、それを映画の中で新たに作り出している点に着目している。他にどれだけダンス映画が作られているのか知らないが、ともかくチビチビと見ていくことにしたい。

そーいや、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』もダンス映画だっけか。

Posted by Syun Osawa at 02:09

2010年08月26日

ナショナルジオグラフィック日本版創刊15周年記念セミナー

2010年8月3日/18:30−20:30/東京コンファレンスセンター

神イベントだった 前回 に続いて今回も参加。東京コンファレンスセンターというバカでかいセミナールームが満席で、ナショナルジオグラフィックの力を改めて思い知らされた。会場に来ている人も多様だったし、科学雑誌っていろんなクラスタの人が読んでるんだねぇ。

今回のテーマは「ワールド・イズ・ブルー」で、どんな内容かと思いきや、いきなりGoogle Earthの話になった。 Google Earthは当初、地上だけをカバーしていたが、今回登壇したシルビア・アール博士の指摘により、海の中も扱うようになったらしい。たしかに、これは凄い。

何が凄いって、その説明を米グーグルの副社長がしていたことで、さらに、そのGoogle Earthの海の部分の補足説明を生物学者の高井研氏が行うという豪華さだった。出版不況が叫ばれている中で、この勝ち組感は何なんだろうかw ありがたい。

ところで、今回のセミナーを聴いていて一点だけ気になったことがある。

それは、生物の多様性を調査するという学術的(?)な話が、そのままダイレクトに環境問題の話に結びついてしまう点だ。それが悪いといっているわけでは決してないのだが、最後の質疑応答での観客の質問などを聞いていても、海洋生物の不思議よりも、この地球をどのように守っていくかということに多くの人は関心があるようだ。

Posted by Syun Osawa at 00:18

2010年08月25日

PR誌地獄w 2010年3月号−5月号

THE RAY vol.6

音楽のフリーペーパーって多すぎて、正直どれ読んでいいのかわかんないんだよなw しかも、毎月同じタイミングで手に入れられるのって『bounce』だけだったりするし。そんなイエス・マガジンズのフリーペーパー。この雑誌でVampire Weekendの存在を知る。僕がポップ・ミュージックの全体性を捉えることなんて、絶対無理だな。

relations. 06

結構なレベルのグラフ誌。このレベルの雑誌がフリーペーパーで出てるのが驚き。そりゃ、既存の雑誌が休刊になるわけだよねぇ。この号では椎名誠氏がロングインタビューに応えているんだけど、定形の「今の若者は〜」論を展開していて、ちょっとジェネレーションギャップを感じてしまった。

Acid 2010年2・3月号

ボブ・ディラン特集「ボブ・ディランはボブ・ディランではないのか!?」とある。彼くらい長いキャリアを持っていて、その時々にメタファーを混入させ続ければ、それを受け取って解釈する側はどんどんわけがわからなくなるというね。難しい時代だな。

図書 2010年3月号

瀬名秀明氏が「二一世紀に作家が目指すべきもの」というコラムの中で、コミュニケーションは物理環境と完全に切り離すことはできないと書いている。このコラムは「小松左京試論」という熱い副題が付いていた。

図書 2010年4月号

小野耕世氏の連載は 戦争と芸術 絡みで追っている。これは多分、本としてまとまってから読むと思うので、今一生懸命連載で追うことはないんだよね。最近、歴史を読むことにかなり興味が湧いていて、その観点から鷲見洋一氏の「「世界図絵」から「いま、ここ」へ」というコラムはなかなか面白かった。これは時系列に1つのカテゴリの歴史的事実を並べるタイプの通時性ではなく、ある瞬間を切り取ったとき、それを他ジャンルを含めた横の広がりの中に歴史を読むタイプの共時性の話で、近年のサブカルチャーの歴史本のマッチポンプ感を突破する一つの手がかりになる気もする。

熱風 2010年4月号

PR誌の中で、唯一捨てずにストックしているのが『熱風』だったりするのだが、最近は増えすぎて、かなり邪魔な存在になってきたw 今号の特集は「歌舞伎」。うーん、一度見に行かなきゃとは思っているが、あまり興味ないんだよなw 篠山紀信氏が寄稿していたのがなかなか新鮮だった。

一冊の本 2010年4月号

このPR誌は巻頭の対談とか特集だけが魅力的。僕的には。今号では、巻頭で萱野稔人氏が「深刻な労働市場のミスマッチ」というコラムを書いている。この人も前田塁氏と同様によく名前を見かけるのだが、恐ろしく当たり前のことを言ってるんだな。現状を現状のまま言って、嘆いているというね。本人はプチマッチョのナルなんだから、もうちょっとそういうところで何かないのかね(え…)。

本 2010年4月号

今号は東浩紀氏の連載は休み。でも、阿部和重氏、竹内薫氏、木田元氏など豪華な顔ぶれだった。その中で、稲葉稔氏の「江戸の警察」というコラムが面白かった。僕は時代物の小説をほとんど読まないので知らなかったのだが、江戸の警察の人数ってめっちゃ少なかったのね。

UP 2010年4月号

東京大学出版会のPR誌なので小難しいものが多いと思いきや、案外普通に面白いコラムが載っている。中でも佐藤康宏氏の「日本美術史不案内」が面白く、毎回読んでいる。ただまぁ、今回のべらんめぇ調はネタとはいえ、若干やっちゃった感があるなw

図書 2010年4月号

岩波書店のPR誌。僕が読んでいるPR誌の中では最も堅苦しいので、読むところはちょびっとしかなかったりするのだが、大江健三郎氏が連載してたりするのでチェックしている。根号では伊藤比呂美氏の「ゼロから始める『歎異抄』」が勉強になった(面倒くさい内容だったけどw)。何せ僕は「歎異抄」を「たんにしょう」と読むことすら知らなかったからね。初見に優しいコラムは好きw

scripta no.15

紀伊國屋書店に行くと、必ず置いてあるPR誌。書店が展開するPR誌にしては、内容が硬すぎるだろと思うんだがw でも、森達也氏、速水健朗氏、都築響一氏などのコラムが載っていて個人的には好きだったりする(必ず手に入るというのもあるが…)。最近は速水健朗氏の「トーキョーβ」という連載が、わりとベタに東京の都市計画を扱っていてs面白い。

熱風 2010年5月号

特集は「リユース」。冷泉彰彦氏がコラムを書いていた。この方って村上龍氏のメルマガJMMによく寄稿している人だっけか。それにしても、リユースと経済成長を同時に推し進めるというどう考えても困難なことに立ち向かっていかなければいけない今後って一体…みたいなね。

ちくま 2010年5月号

伊達宗行氏のコラムが面白かったので、彼の著書『 「理科」で歴史を読みなおす 』を読んだ。「理科」って感じではなかったけど。斎藤美奈子氏のコラムは勝間和代的価値観と香山リカ的価値観の間で考えざるを得ない「女の幸せ」に言及していて、なかなか面白かった。どーでもいいことだが、斎藤美奈子氏って独身なのかな? ググッてみても、そのあたりが出てこない。

scripta no.16

速水健朗氏のコラムは「『男女7人夏物語』に見る隅田川とウォーターフロントの再開発」だった。繰り返し取り上げられているモチーフだが、このタイミングで都市計画を絡めて語るのはなかなか新鮮。あと、上野千鶴子氏の「ニッポンのミソジニー」が最終回だった。彼女の文章を読むのはこのコラムだけだったのでちょっと寂しい。連載の途中では、結構「何だかなぁ〜」的なツッコミを入れつつ読んでいたが、ラストはなかなかカッチリとした感じだった。

本 2010年5月号

東浩紀氏の「一般意思2.0」という連載を読むために、毎号ちゃんと読んでいるPR誌。今回は公的な議論が成立するような場がを作ることすら難しくなっているという話。だからルソーの一般意思を省みようという話につながっていくんだろうね。

Posted by Syun Osawa at 00:47

2010年08月24日

英語が1週間でいとも簡単に話せるようになる本

西村喜久/2008年/明日香出版社/四六

英語が1週間でいとも簡単に話せるようになる本何を思ってかは忘れたが、ふと「英語でも勉強しようか…」と無謀なことを思いつき、最初に手に取ったのがこの本だった。この本をチョイスしている時点で、すでにダメな気がしないでもないが、これまで英語がまったくできなくて、学校での必修科目から外れたら二度とやらないと決めていた僕が、再び英語を学習するにはこのレベルから始めるしかなかった。

読んでみるとこれがなかなか面白い。一つの単語を上手く使いまわそうという発想は、僕がこれまで勉強していた英語の発想にはなかったので、その実用的な考え方にモチベーションがちょっとだけ上がった。英語は僕にとってハードルが高いので、このモチベーションというヤツをどれだけ上げられるかが結構重要だったりするのだ。

何だかんだで、表題に「1週間で〜」と書かれているにもかかわらず、読み終えるのに2週間もかかってしまった僕にとって、英語はかなり先が長い道だ。とりあえず今は、次のステップとして海外の映画を英語字幕で見ることにした。同じ映画を何度も見るという体験が僕にどういう影響を与えるかはわからないが、ともかく僕にとっては一番有効な気がしている。

あとは、twitterか。英語で呟く用のアカウントを取得したので、そちらで中二レベルの英語を呟いている。これも続くかどうか微妙だが、まぁ…やらないよりはいいだろう。ただ、それでも残る根源的な問題は、「そもそも英語は必要なのか?」ということなのだが、そういうことも考えず、ともかくやろうと思う。

Posted by Syun Osawa at 01:52

2010年08月23日

ギャング・オブ・アメリカ

監督:エレイナ・アーチャー/2006年/アメリカ

ギャング・オブ・アメリカうーん。もう少し面白いかと思ったんだが…。アメリカで作られたギャング映画の歴史をザッとおさらいするようなドキュメンタリー作品。『ゴッドファーザー』シリーズからギャング映画にハマって、学生の頃にはちょくちょく見ていたので、最近の作品に関しては見ているものも多かった。

ギャング映画の歴史はかなり古くて、戦前からかなりの数が作られていたようだ。勧善懲悪の割とわかりやすいギャング映画に始まり、ギャング=悪者というイメージが転換して、ギャングスター的なカッコよさを帯びていく。そういう部分が戦後のヘイズ・コード(倫理的な引き締め)によって一旦は抑制されるも、また復活した。それだけ要望があったということだろう。

僕がギャング映画(マフィア映画)が好きなところは、結末が死であることが多いことだと思う。シルヴィオ・ピエルサンティ『 イタリア・マフィア 』等を読むと、現実のマフィアも他人を簡単に殺すし、自分も簡単に死んでしまうという破滅型の美意識に貫かれている。つまりギャング映画は究極の自己完結型物語なのだ。

また、彼らの脱法行為や違法行為を見ることで、どこか帳尻を合わせている部分もあるのかもしれない。僕達が選択している社会は、ルールに則って正しく回れば回るほど、閉塞感を漂わせる。資本主義は真綿で首を絞められるようなやり方で勝ち負けをつけるし、マジメに生きたからといって幸せが保証されるわけではない。そんなやるせなさを共産主義革命とは違った形で突破しているように思えるのがマフィア映画だったりするのだが、それはちょっと言いすぎか。

ともかく、以前見たと思うのだがすっかり内容を忘れてしまった『ブロンクス物語』、『カリートの道』、『グッド・フェローズ』を見ることにしよう。

Posted by Syun Osawa at 01:09

2010年08月22日

ステップ・アップ 2 ザ・ストリート

監督:ジョン・M・チュ/2008年/アメリカ

ステップ・アップ 2 ザ・ストリート前回の『 ステップ・アップ 』に続き、続編も見た。

今回は、前回あった「不良=ストリートダンス=成り上がり」といったベタな展開を抑制して、芸術専門学校?の生徒の学生生活を中心にした現実路線の話にシフトしていた。日本で言ったら「ハチミツとクローバー」的な? いやいや、そこまで内省的な方向ではないが、ともかく社会的なバックボーンを下支えにした物語というよりは、あくまでダンス好きな若者が自分たちのやりたいダンスを追求するという部分に焦点が絞られた内容になっていた。

そのため、ダンスはかなりカッコいい。前作はストリートダンスの経験者がバレーなどのアカデミックなダンスの世界に飛び込んでいくというものだったが、今回はその逆で、芸術学校に通う学生がストリートに出てダンスバトルをするという内容になっていた。そこで繰り広げられるダンスは、ストリートの中に自分達のやってきたクラシカルなダンスを取り入れるというもので、前作同様にハイブリッドな演出がなされている。

ここで面白いのは、前作がクラッシックなダンスがストリートダンスのような自由な踊りを取り入れられないことに対する批評が含まれていたのに対して、今回もストリートダンス自体が社会的な出自やそこで共有されている「クールなもの」に固執して、ステレオタイプに堕していることに対する批評が含まれていることだ。そして、いずれの作品もその乗り越え方としてハイブリッドを選択している。この乗り換えた方は、『ユー・ガット・サーブ』でも『ストンプ・ザ・ヤード』でも同じである。

で、そのハイブリッドな乗り越え方がいかなるものであるか? そこが、これらのダンス映画を見る上でのポイントなのだということが、最近ようやくわかってきた。でも、何だかこれって、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』で、セカイ系の後に決断主義が来て、その想像力をどう超えていけるかを問題にしていたこととかなり似ている気がする。うーむ、それもうどうなんだろうかw

この作品に寄り添った感想をもう少し続けると、この学校に通っている生徒達の中で、優れたものはプロのダンサーになる。しかし、彼らがプロで行うダンスというのは、アイドルのバックで踊ったりすることである。学校では堅苦しい踊りをやらされ、プロになった後もアイドル用に設えられた踊りを踊るのだ。では、彼らが本当のパフォーマンスはどこで発揮されるべきなのか? その場所はどこなのか? ゼロ年代のダンス映画は結構そこに頭を使っているような気がする。そして、その場所の問題がダンス映画を見ている中で一番熱いトピックになってきているのだが、この話はどこかでまた考えることにしたい。

Posted by Syun Osawa at 00:11

2010年08月20日

exPoP!!!!! vol.40

2010年7月29日/19:00−23:00/渋谷 O-nest

日本のインディーズシーンに対する知識とか皆無な上、音楽雑誌をチェックしつつ、ディスクユニオンとかで一生懸命音を拾うようなモチベーションもなくなってしまった僕にとって、いろいろなバンドの音をピックアップして聴かせてくれるイベントは大変ありがたい。

今回はちょっと遅れて行ったし、すでに酔っていたこともあって、今となってははっきり思い出せないんだけどw、多分、あなた、どうして、Clean Of Core、COMA*、ホテルニュートーキョーの順で見たと思う。文章で書くと文節が分かれて意味不明な文章に見えてしまう「あなた、どうして」は、生バンドにラップだったり、ボーカルにディレイのエフェクトをかける感じが今風でかっこよろし。最近、妙にラップ好き(この表現どーなのw)なこともあって、わりとテンションが上がった。

次のClean Of Coreはあんまり記憶なし(酒のせい?)。インストだった記憶が。未だに中二病を患ってしまってる僕の記憶に残ってないって事は、わりとエモ感が薄めのバンドだったのかも。

最後のCOMA*とホテルニュートーキョーはちょっと似た感じで、どちらもアーバンって感じのオシャレ感が漂ってた。特にホテルニュートーキョーはアーバン&沿岸沿いって感じ。ビートもガッツリ重めでかなり僕好みだった。もう少しサイケ色、オリエンタル色が強ければ、僕の好きなOttの『Skylon』みたいなPsybient方面に手が届いてしまいそうなくらいの勢いも感じる。まぁ、テクノではないのでそっち方面には行かないだろうけど、いずれにせよ大満足。音源も手に入れて、もうちょっと深く聴いてみよう。

Posted by Syun Osawa at 00:27

2010年08月18日

「アニメーションの先駆者 大藤信郎」展

2010年7月24日/15:00−15:40/東京国立近代美術館フィルムセンター

「アニメーションの先駆者 大藤信郎」展津堅信之氏によるギャラリートーク。津堅氏って今、京都精華大学准教授なんだねぇ。知らなかった。

今年は何故だか東京国立近代美術館フィルムセンターが大藤信郎をプッシュしている模様。何でこのタイミングで大藤なのかはわからないけれど、フィルムセンターに大藤氏関連の映像が結構な数で眠っていたらしい。個人制作でアニメを作ってきた人のアーカイヴとしてはかなり充実した内容になっていた。

中でも凄いと思ったのが、大藤氏がアニメを製作現場を映した映像がカラーで残っていたこと。彼はアニメの制作を脚本から作画、着色、撮影まですべて自分で行っており、その様子が鮮明なカラー映像で映し出されていた。これは、戦前のアニメの制作環境というだけでなく、個人制作系のアニメが戦前にどうつくられていたかという意味の資料としても貴重なんじゃないかな?

当時のアニメが主にどのような体制で作られていたかはよくわからないが、大藤に限って言えば姉の協力を借りながらほとんど家内制手工業的に制作を続けていたようだ(二人とも独身だったらしい)。また、技法として、影絵、セル、色セロハンなどを使ったり、材質に千代紙を使うなど、アニメ制作会社のルールに則らない制作スタイルを確立していて、そのため海外での評価が高かったらしい。まさに、今の個人制作系アニメ作家のパイオニアとでも言えるような存在だったのかも。ただ、それにしては彼の名前が冠された大藤信郎賞の受賞作品を見ると、受賞作品のチョイスがいまいちよくわからんなぁw

個人的な興味としては、彼が戦中に作っていたプロパガンダ系の作品が 戦争と芸術 絡みで気になった。今度上映会があるので観に行こう。日本の戦前のプロパガンダアニメだけを集めてたDVDとかないものだろうかね…。

Posted by Syun Osawa at 01:08

2010年08月16日

「理科」で歴史を読みなおす

伊達宗行/2010年/筑摩書房/新書

「理科」で歴史を読みなおすある特定領域の分野を歴史と絡めて解説するという本は、以前から結構な数が出版されている。僕はこの手の本(ゼロ年代批評になぞらえてハイブリッド型とでも言えばよいか)がわりと好きで、最近だと、美術と日本史を絡めた並木誠士『 図解雑学 美術でたどる日本の歴史 』を読んだ。

並木誠士『 図解雑学 美術でたどる日本の歴史 』は、日本史の流れに沿う形でその当時の美術の隆盛を説明するシンプルな解説本になっていたが、今回の本は少し趣が異なっている。例えば、数学がどのように体系化してきたかを、国内外の事例(魔方陣など)を挙げながら筆者の視点で解説しており、教科書的な歴史観に捉われない感覚がなかなか新鮮だった。

本書によると、日本は昔、世界随一の金の産出国だったと書かれている。しかし、日本人はその価値を軽く見ていたために海外へ多くの金を輸出してしまい、今はほとんどなくなってしまったらしい。他にも銀や銅なども採れたそうだが、これも枯渇してしまった。こうした金属の流通を過去の帳簿から追うことによって、科学的に当時の世情やその後の各国の勢力図を見ていくと、単なる物語ではない歴史が見えてくる。

そういえば、僕の会社の先輩にも大学院で史学を専攻していた人がいて、そこでやっていることのほとんどは帳簿等の当時の文献をひたすら読み込むことだと言っていたっけ。だから歴史を読むというのは、本来そういうことなのかもね。

タイトルに「理科」でと書かれてあるが、ようするに科学的な知見で歴史を見ようという話で、僕が当初想定していた科学史の話とはニュアンスが異なる。でも、数学に関しては少しだけ科学史っぽいネタが書かれていて、こちらもなかなか面白かった。こちらは同じ著者の『「数」の日本史』という本にまとまっているようなので、次の機会に読んでみようと思う。

Posted by Syun Osawa at 02:18

2010年08月14日

ゴダールシンポジウム vol.2

2010年7月17日/17:30−21:30/早稲田大学 小野梓記念講堂

ゴダールシンポジウム vol.2菊地成孔氏と佐々木敦氏によるトークイベント。ジャン=リュック・ゴダールについて語るイベントなのに、『ゴダールの探偵』しか見たことがない僕が、それでも行ってみようかなと思ったのは、サブタイトルが「10年代に来るべき音楽のためのゴダールレッスン」となっていたからだ。

この話のオチは一発で説明がつくんだけど、ひとまずこのイベントの雰囲気について書いておくと、ともかく人が多い。ゴダールファンなのか、菊池ファンなのか、佐々木ファンなのかはわからないけれど、みんななんかシュッとした感じだった(キモいの僕くらいw)。

それはともかく、ゴダールに関する部分はスルーするとして(何せ見てないので…)、菊地氏のプレゼンで取り上げられていた映像と音の同期の話は面白かった。例えば、ファッションショーのモデル達のウォーキングは音楽のリズムと完全に一致しているわけではないが、人間はその微妙なズレを上手く補正して、リズムと同期して歩いているように感じてしまうらしい。海外映画の日本語吹き替えなども同様で、日本語と英語がリップシンクでピタリと合うはずもないのに、観客はそれを違和感なく脳で調整してしまう。

そういう補正機能があるために、映画に合わせる映画音楽は、実はどんな音楽であってもだいたい合ってしまうという話だった。たしかにそうかも,『ヱヴァ』のクライマックスシーンであえて「今日の日はさようなら」を持ってくるという演出も、それはそれで効果として受け止められるのは、観客がそれを上手く調整しているからなのだろう。

僕が一番楽しみにしていた「10年代に来るべき音楽のためのゴダールレッスン」に関して、「来るべき」のところが掘り下げて展開されることはなかったが、二人の話の中で「圧縮」という言葉が出てきて、そこにちょっと引っかかった。誰もが音楽を作ってネット上で公開されるようになった時代、この膨大な音楽をすべて網羅的に聴くことは不可能である。その膨大な音楽(しかも、この瞬間も加速度的に増大し続けている!)をどうやっつけるかという方法論として、何となく「圧縮」というやっつけ方は面白いなと思ったのだ。根拠ゼロだけどw

その圧縮の典型的な例として、菊地氏がゴダールの新作の予告編(4分バージョン)を紹介していた。冒頭に一発でオチがつくと書いたのは、以下の映像のことである。とりあえず、これを見ておけば何となく、わかった気になれますw

最後に、冗談として「80年代は坂本龍一、90年代は小西康陽、00年代は菊地成孔」って言ってたけど、これも映画音楽の話と同様、どんな人が入ってしまう便利な器だ。例えば、「80年代は安全地帯、90年代はB'z、00年代はラルク・アン・シエル」でも、「80年代はプリンセス・プリンセス、90年代は大黒摩季、00年代はチャットモンチー」でも、「80年代はNew Order、90年代はOasis、00年代はThe Killers」でも何でもいいわけだ。だからこそ音楽の抽象度は限りなく高くて、その捉え難さが僕は好きだったりもするのだが。

Posted by Syun Osawa at 00:44

2010年08月07日

ナショナリズムと芸術生産 第2回「展覧会を通して考える」

2010年7月20日/20:00−22:00/荻窪ベルベットサン

CAMPの企画による女子美術大学教授の杉田敦氏とキュレーターの崔敬華氏のトークイベント。イベントのタイトルに「ナショナリズム」と「芸術」という言葉が入っていたので、自分がチマチマ勉強している 戦争と芸術 と関わりがあるかも…と思って参加。内容的には、僕の支持している考え方とはちょっと違っていて、そうであるがゆえに考えさせられるイベントだった。

僕の支持している考え方というのは、村上隆的な現代美術のコンテクストの読み解き方で、アメリカのコンテンポラリーアートに乗っかった上で日本の独自性・固有性をオタクやアニメに還元しつつ現代美術に組み込んでいくというもの。これは村上氏が自身の著書『 芸術起業論 』 だったり、ニコニコ生放送の番組「芸術実践論」の中で言っている話で、好きとか嫌いとかはひとまず置いて、アートの市場はそこにあるというものだ。

今回のイベントでは、そういう流れ(例えば、国が推し進めるクールジャパンに乗っかっていく手立ても含めて)に違和感を感じている立場からの意見が表明されていたように感じた。僕はこの違和感にも同意したい。というのも、村上氏の超強引なコンテクストに多くの現代美術作家が全乗っかりしていく状況ということにも、妙な違和感を感じるからである。ただし、その違和感の先にあるものが、村上隆氏がニコ生の「芸術実践論」の中で指摘していたように「芸術活動を通して自由になりたい」ということであるのならばちょっと寂しい。やはり、今回のイベントのように、例えばナショナリズムと現代美術の共犯関係を指摘した上で、そこに別のオルタナティブ(もしくはコンテクストの読み替え)が提出されるような類の違和感であって欲しいのだ。

で、その「ナショナリズム」ってことなんだけど、実はこのイベントの冒頭、僕はこの言葉でいきなりつまずいてしまって、あとはずっと「うーん…」って唸るだけになってしまった。僕はこの言葉を上手く飲み込めなかったのだ。

そもそも日本という国は、日本人であることと日本民族であることを同一視している傾向が強いが、アメリカなどではアイルランド系アメリカ人とかイタリア系アメリカ人といったように、国民性(ネイション)と民族性(エスニシティ)が分離しているケースも少なくない。また、宗教がどの程度その人の帰属意識に食い込んでいるかなども含めると、単純に「ナショナリズム」と言って話が片付くわけではない(塩川伸明『 民族とネイション 』)。

暴力的に僕の意見を推し進めると、このイベントで言われている「ナショナリズム」というのは、太平洋戦争以前の日本で共有されていたナショナリズムのことを指していたのではないかと思ったのである。このナショナリズムは、もともと世界というものを知らないまま何となく日本に暮らしていた人々が、明治維新後に急速な近代化と日清・日露戦争によって、日本人であることと日本民族であることを同時に意識するようになったという大文字の物語である。

そして、横山大観などの芸術家は日の丸や桜などの単純な図像を描くことで、その意識をより強固なものにしようとした。戦争画が果たした役割も同じようなものである。つまり、「みんなで築いた日本のナショナリズム」という物語があったわけである。もっと妄想力を生かして言ってしまえば、この時代の日本の美術家のコンテクストは、内部的にはいかにして日本を形作るかだったとも言えるだろう。

それに抗った人間がいないわけでもない。例えば、松本竣介などがその代表格であろう。彼らは戦時下において、多くの画家たちが戦争を主題とした絵を描く一方で、それとはまったく関係のない絵を描き続けた。つまり、自分の描きたい絵を描くというスタンス(自由であること)を貫いたわけだ。他にも非合法時代の共産党に入党して、地下活動を続けながら明確な抵抗を示した人もいたのだろうが、この時代に画家が「抗う」ということは、はっきり言ってしまえば戦争とは関係のない絵を描き続けるということだった。

で、現在。

僕が今回のイベントで「うーん」と唸って考え込んでしまったのは、今の美術業界の中にある「ナショナリズム」ってものが、この当時のまま更新されていないのではないかという疑問が涌いたからだ。たしかに、クールジャパンのオタク文化の押し売りとそれに乗っかっている美術家の振る舞いは、当時の日本の姿に重なるように見えるかもしれない。しかし、その抗い方として、松本竣介のような立ち位置を求めるのだとしたら、その構造自体がすでにステレオタイプに堕してしまっていると言えるのではないだろうか。

かつての「ナショナリズム」は日本国民が一丸となって作り上げた物語である(もちろん、それに抗うということも含めて)。未だにこの物語を更新しないままなのであれば、それは昔の資産を食い潰しているだけのような気もする。いやいや、ナショナリズムの話ってのは、そういう話じゃないだろ…っていう突っ込みのほうがまともなことはわかるのだが、『 靖国 YASUKUNI 』における参拝者の迷走振りなどを見ても、やはり複雑化、重層化するナショナリズムを捉えることの困難さや、故にそれに抗うことの困難さが現在にはあるわけで、そこを放置したまま「いかに抗うか」ということを考えるのであれば、日本の中の堂々巡りが反復され続けることになるのではないか。

うん。何を書いてるかわからなくなってきたぞw

ともかく、そういう前提の話をすっ飛ばして、ナショナリズムに「抗うこと」の難しさというのは、ナショナリズムを高める装置に「単純化」が用いられる一方で、それに抗う装置として「複雑化」が用いられるからなのだろう。単純化=ポピュリズムには人は集まりやすく、複雑化すればするほど人は離れていってしまう。

こういう問題を超えて、それでも複雑化する方法を考えるとするならば、ニコ生やUstreamのような誰でも放送局や、Pixivのような誰でもギャラリーのようなアーキテクチャは、その現象自体は一見すると複雑化しているように見えるので、それなりに有効なツールとして機能するかもしれない。しかし、ワールドカップ時のニコ生を見ると、どの配信もワールドカップ一色に染まっていたから、自体はそう簡単なことではないのだろう。

そんなわけで、僕の考えは少しもまとまらないのだが、ナショナリズムと現代美術を考えるいいきっかけにはなったと思う。戦争と芸術 についての話は奥が深すぎて、僕にはわけがわかりませんw

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:27

2010年08月06日

ステップ・アップ

監督:アン・フレッチャー/2006年/アメリカ

ステップ・アップYoutubeでブレイクダンスの動画にハマって、最近ではダンス映画にも手を出し始めている今日この頃。いい歳して、自分でも踊りたい欲望を抑えきれないままに、今日もダンス映画を見る。

僕はGEOで偶然見かけるまで、この映画の存在をまったく知らなかった。すでに2も出ており、2010年の夏にはアメリカで3D版の新作が公開されるらしい。日本でそれほど話題になった記憶はないのだが、アメリカではそれなりに流行ったということだろうか。アメリカ人はやたらとダンスが好きだから、この手の映画は鉄板なのかもね。

内容は、黒人文化で生きる貧乏な白人青年が、夢を見つけてその一歩を踏み出すまでの青春グラフティといった感じ。ストリートにいる若者がどうやって芸術学校の人間と接点を持つかというところが最初の鍵になるのだが、そういったあたりは上手く工夫されている。芸術学校に通うヒロインの卒業発表で一緒に踊ることになっていたダンスパートナーが怪我をし、急遽代役が必要となる。そこで奉仕活動のために学校にいた主人公が急遽第百を引き受けるという流れだ。当然のごとく、ダンスパートナーとは恋仲になるし、あれやこれやとトントン拍子に舞台が整えられていく。よくも悪くもハリウッドらしいカッチリとしたプロットである。

しかし、そんなプロットの練りなどはこの映画においてはあまり重要ではない。この映画の魅力はストーリーよりもダンスにあって、ご都合主義で整えられていく舞台はすべてダンスのための演出に在るといっていいからだ。本作では、中盤のクラブでのダンスと、最後の卒業発表のダンスはバレエとストリートダンスをハイブリッドするというゼロ年代対応のダンス(適当w)が展開されていて、ここを見れただけでもレンタル代の元はとったなとw まぁ、Youtubeにはこの映画のダンスシーンだけを上げている人がいっぱいいるので、それだけ見とけばいいじゃないかと言われればそれまでだが…。

ところで、この映画で一点だけ気になったのは、ストリートダンスでありながら、主人公が白人男性だったことだ。黒人コミュニティの中に生きる白人がのし上がるというストーリーの典型はエミネムだと思うのだが、このストーリーを受け入れているのは黒人の若者だろうか? それとも白人の若者だろうか? 今はそういう区分けは関係ないのかもしれないが、何となく白人が黒人の文化(ストリートダンスやヒップホップ)を上手く自分達のコンテクストに引き入れるための手段として、こういう階層の人を主人公にチョイスしている気がしないでもない(他にそういう映画がたくさんあるのかどうか知らないので、適当な話です)。

あと、ブレイクダンスに限って言えば、今は世界中に愛好者がおり、黒人だけがやっているわけではない。Youtubeの動画を見るかぎり、むしろ黒人は少ない。だから、ストリートダンス=黒人文化なんて感覚で見てしまうと、僕みたいなおっさんはどんどん取り残されていってしまうのかも。うーん。

ともかく、2を見よう。

Posted by Syun Osawa at 01:07

2010年08月04日

西洋絵画のひみつ

藤原えりみ/画:いとう瞳/2010年/朝日出版社/A5

西洋絵画のひみつアーティストの村上隆氏がニコニコ生放送の「芸術実践論」という番組の中でオススメしていた本。村上隆氏による現代美術解釈の洗脳にあって、最近めっきりコンテクスト厨になってしまったので、その流れで読むことにした。

最初にちら見した段階では、「絵が多い! 文章がわかりやすい! しかも本が薄い!」…と、新書などと比べてもあまり内容を期待できない絵本風の本だったにもかかわらず、これがメチャメチャ面白かった。キリスト教圏の西洋画をキリスト教(正確には旧約聖書と新約聖書)一本で説明してしまう豪腕っぷりにただただ感心。

ルネッサンスによって、これまで禁欲的に守られていた「偶像崇拝の禁止」という条項を、「イコン」という言葉で乗り越えて、聖書の中の登場人物を描いて描いて描きまくる状況が生まれた。イメージ化、キャラ化され物語に彩りを加えられていく。それが文化の厚みというものだろう。

その後、絵画は物語を喚起させるための装置としてだけではなく、独自の展開を見せていく。聖書の物語がなくなり、そこにある風景や人々の暮らしがただ描かれるようになる。つまり現実を描こうとする欲望が大きくなっていくわけだ。ところが、写真の登場で現実を切りとるだけの絵画に早くも暗雲が立ちこめたため、現実の捉え方のほうに焦点が移っていく。

絵画は超現実を描いたり、抽象化されたり、アクションペイントなど絵の外部との距離にその現実を見出したりと、より複雑になって現代に至る。…と、かなり適当に書いてみたがw、ようするにこの本では複雑化する前の西洋絵画の楽しみ方について書かれているのだ。

この本を読んでしみじみ思ったのは、やっぱり僕は物語を換気する装置としての絵画が一番好きかもしれないということだった。戦争と芸術 なんかも、結局そういう雑な話で説明できてしまう程度の趣味である。そんなわけで、雑誌『PEN』別冊「キリスト教とは何か。」増補版を続けて購入した。結論、物語は楽しいw

Posted by Syun Osawa at 00:01

2010年08月02日

マンガ統計学入門

アイリーン・マグネロ、ボリン.ファン・ルーン/訳:井口耕二
/2010年/講談社/新書

マンガ統計学入門最近の若い批評家は急速にマジメになっていて、ことあるごとに「統計!統計!」と言うらしい。たしかに景気の低迷が長期化し、先の見通せない状況では、何かの方向性を決める際のリスクを最小限に抑える方策として、統計学が力を発揮するのかもしれない。

少し前に読んだ飯田泰之『 考える技術としての統計学 』で統計について少し興味を持ったこともあって(考える技術として使用することにはあまり同意できなかったが…)、ゼロベースで少しだけ知識を積み上げることにした。

そのための導入本がこれw

統計学入門というよりは、統計学の成り立ちというか統計学史みたいなものがイラスト入りで簡単にまとめられた本、といった印象だった。統計の歴史は僕が思っていた以上に浅く、数式でうんぬんするような統計の読み取り術もピアソンのような天才の職人芸に拠るところが大きいようだ。で、本の最後のほうにようやく出てくるのが標準偏差(テストの偏差値でお馴染みのやつ)。

え? もっとハイテクな数式操作とかあるんじゃないの? 結局、学生時代によく目にした標準偏差のグラフに行き着いてしまってちょっと腰砕け。まぁ…導入本だからこのあたりでオチをつけたのかもしれないけど。

佐々木敦氏が『 ニッポンの思想 』で「東浩紀氏の一人勝ち」といったゼロ年代の言葉には、統計的なものがあまり付随していなかった。テン年代はどうだろうか? 統計的なセンスが今まで以上に問われてくるのかもしれない。

もちろん、その傾向により、飯田泰之『 考える技術としての統計学 』みたいな考え方が増えていくのならば、個人的にはあまり面白い流れではない。僕の場合、オルタナティブは常に僕の知らないところから突然やってきてほしいという甘酸っぱい思いが中心に残ってしまうため、マーケティング理論から面白いものが生まれるいう発想には賛同できないのだ。ただ、そういう中二病患者であっても、リスクを回避するための予防線は必要である。だから今は、引き裂かれた気持ちを抱えながら、地味に統計学を学んでいくという二重の戦略を続けていくしかない。というための導入本だった。次は、入門本を読もう。

Posted by Syun Osawa at 21:15

2010年08月01日

語りかける風景展

2010年5月18日−7月11日/bunkamura ザ・ミュージアム

語りかける風景チケットショップで安かったので思わず買って行ったんだけど、知らない画家が多かった。まだまだ勉強不足だぜ…って思いを抱きつつ、Bunkamura ザ・ミュージアム特有の微妙な企画ものに乗っかってみることに。

そもそも西洋絵画における風景というのは、絵画の主題となる物語の背景(世界観を表すためのもの)であり、その多くが聖書の物語に由来している。その背景は聖書に出てくる物語の時代を想像して描かれた風景かもしれないし、その絵を描いている自分の周辺の風景かもしれない。

その風景が、聖書の中の物語とは違った形で受容されるようになる。いわゆる、自然主義的な感性で描かれる風景は、「いま目の前に映っているもの」というありのままの風景である。この風景も最初は非常に写実的に描かれていた。当時、それを見た人には説得力のある絵だったと想像出来る。

ただ、そこに写真というテクノロジーが加わったことで、写実的にありのままの風景を描くことの意義が弱まってしまい、風景画は様々なロジックを用いてその姿を大きく変化させていくことになってしまう。個々の木々がデフォルメされたり、光を描くことを試みたりで、単純に目の前に映っているものというよりも、その前に映し出しているイメージの核心部分に触れるような描かれ方が流行し、抽象度が増してしまったのだ。

こういう風景画の変遷は、風景画以外の美術とも関連しており、19世紀後半の抽象画の隆盛に即した形で風景画の方向性も様々に展開することになる。これはたしかにまっとうな流れだ。しかし、それでも僕がこの企画展を見ながら抱いていた疑問は、「風景画は何を語りかけるために描かれるのか?」ということだった。

今、目の前に映っているものをありのままに描き出すこととをベタにやるなら、写真にはかなわない。だからと言って、イメージの世界に没入してしまうと、そこに描かれる風景が語りかけるものは、本来の風景が素朴に語りかけているメッセージを歪曲させてしまう可能性がある。よって、近年描かれる風景画の困難さは、わざわざ風景を絵にして、それによって語りかけなければならない風景画なんてものが本当にあるのかという困難さであって、その問題はこの企画展では一切解決されていない。

だから、「語りかける風景とは何か?」というシンプルな問いが、僕には最後までわからなかったのである。

Posted by Syun Osawa at 15:28