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2011年01月30日

コミックマーケット 79

2010年12月29日−31日/東京ビッグサイト

コミックマーケット 79今年は3日間で52万人も来たらしい。いつもと同じ時間に行ったのに、入場した時間はいつもより15分ほど遅かったのはそういう理由があったのだな。

コミケの来場者数が過去最高になったというニュースは数年に一度くらいのペースで耳にしている。これは単にオタクが増えたということではなく、本来なら来ないはずの人たちまでコミケに足を運んでしまっているという困難さがあるのだと思う(中野ブロードウェイもそんな感じだし)。

つまりこれは、オタクの問題ではなく、オタク以外の人の問題なのだ。そーいや、田中ロミオは『 AURA ― 魔竜院光牙最後の闘い 』の中でそんなテーマを微妙に取り扱ってたっけ…。

そんなコミケで手に入れた戦利品。

tabgraphics『tabgraphics traxx』(イラスト集)
鬼畜堂(ことみようじ)(イラスト集)
Festival『魂々』(ノベルゲーム)
vocalomemory『vocalomemory』(音楽CD)
N±『N±、同人誌もはじめました』(メモリアルブック)
ソシオグラフィ研究会『コンフィグ Vol.1 INTEGRAL』(批評誌)
フラクタル次元『エロマンガノゲンバ Vol.4』(批評誌)
音田楽『音田楽 2010-11 Winter. vol.8』(批評誌)

カタログを買わなくなって久しいので、ぬるいものしか手に入れられないのはいつものこと。そして、買った本もどんどん積読になっていくだけで、もはやこのムーブメントに対するお布施という意味しかないのかもしれない。とはいえ、夏と冬にこのイベントに行かないと何だか気持ち悪い体になってしまっているのは確かだ。

さらに、2010年の秋に入門用一眼レフを買ったこともあって、コスプレ写真を撮るということも復活してしまった。うーん、これがまた楽しいんだなw さすがに知らないキャラが増えすぎて、隔世の感はぬぐえないものの、あれだけ多くの人を一度に撮らせてもらえる場があるというのは本当に素晴らしいと思う。この趣味は今年はさらに加速していくことになりそう。

今年は僕も同人誌を作ろうと思っているし、何というか、僕のコミケに対する熱というのは何年経っても衰えることがない。飽きっぽい僕の性格を考えれば、これは本当に驚異的なことだ。コミケ恐るべし!

Posted by Syun Osawa at 12:25

2011年01月27日

催眠術のかけ方 ― 初心者からプロまで今日から使える

林貞年/2003年/現代書林/新書

催眠術のかけ方 ― 初心者からプロまで今日から使える一柳広孝『 催眠術の日本近代 』に続いて催眠術の本を読んだ。Amazonで催眠術の本を探してみると、プロの催眠術師が催眠術の方法をレクチャーした本は数多く出てくる。その中からあまり深く考えずにこの本を選んだのだが、催眠術のかけ方が超具体的に書かれており、なかなか刺激的な内容だった。Amazonのレビューでもなかなか評価が高い。

この本では催眠術のかけ方が経験的な知見によって書かれているため、「Aをすれば、Bとなります」と書かれていれば、ただ納得するほかない。ときどき、その方法に対する根拠を科学的に説明しているような箇所もあるが、「とにかくそうなるんだ」という経験のパワーの前ではそういう後付けの根拠はかすんでしまう。だからニセ科学的なアプローチでこの本を読んでもつまらないだけだろう。

むしろ僕が感心したのは、著者の催眠術のかけ方が極めて繊細で細やかなことだった。相手との信頼関係やコミュニケーションの度合い、緊張状態などを勘案しながら、相手が催眠状態になるように誘導していかなければならず、これは結構難しそうだ。よくテレビでタレントが催眠術をかけられているのを見かけるが、あれも本当にかかっている場合と、放送で使ってもらうためにわざとかかった振りをする場合があるようで、こういったものを見極めながら、相手を催眠状態にもっていかなければならない。著者はそうした擬似催眠状態についても留意しており、相手がどの程度催眠状態にあるのかを確認するためのチェック項目をいくつも設けながら、深い催眠に誘導していた。どんな状況でも相手を催眠状態に持っていくためには、かなりの熟練の技が必要なようだ。

で、僕の関心領域である「依存ビジネス」と催眠術の手法がどの程度関わりを持つということについてだが…。こちらはまだちょっとよくわからない。というのも、催眠術というのは、その人の無意識に働きかける術で、自分では気づいていないけれど本当は思っていることを引き出すことに主眼を置いているからだ。人の無意識をどうして他人がわかるのかよくわからないし、テレビだと「あなたはアヒルになります」とか言って動物の動きをさせているから、必ずしも本人の願望が表出しているわけでもないようだが、ともかく催眠術をかけられている人の主体的なアプローチがないと催眠術は成立しない。

つまり催眠術は、かけられている本人が、自分自身に自己暗示をかけることで成立する術なのだ。お墓の近くを歩いているとき、「後ろを誰かがついてきているんじゃないか?」と考えると、急に怖くなってくる。これは自分で自己暗示をかけているわけだ。催眠術はこうした自己暗示を他者が誘導していく術だと考えていいのだと思う。よく悪徳商法なんかでも、相手の長時間にわたる説得によって、だんだんその商品を買わなくてはいけないのではないかと思ってしまう人がいるが、あれも同じような類の自己暗示を自分自身でかけてしまっているのだろう。

そう考えると、依存ビジネスと催眠術はわりあい近いところにあるのかもしれない。悪徳商法も、高級ブランドも新興宗教も、今だったらAKBのメンバーがオークションに出品する私物なんかも自己暗示といえばそうなのかもしれないし、そういったものに価値を感じる感情をシームレスに誘導してやるための技術として、催眠術は案外有効なのかもしれない。

ところで、この本を読んでいて素朴に思った疑問なのだが、催眠術によって相手の腕を上がらなくしたりすることに何の意味があるのだろう。そもそも「なんで催眠術をかけるのか?」というところは案外はっきりしていないため、結果的に、出てくる最適解がエロ目的になってしまうというのは仕方が無いのかもしれない。電気屋で売ってるビデオカメラだって、恐らくは子ども撮るか、旅行先の観光名所を撮るか、恋人同士でハメ撮りビデオ撮るかくらいしかほとんどの場合は使われていないだろうし、目的のないものってのは、大抵そうなるよね。

Posted by Syun Osawa at 16:34

2011年01月19日

マルサの女

監督:伊丹十三/1987年/日本

マルサの女伊丹十三という名前を聞いて、最初に頭に思い浮かべる言葉はおそらく「マルサの女」だろう。彼が手がけたこの作品によって、多くの人は「マルサ」という耳慣れない言葉の意味が国税局の査察部だということを知るようになった。エンターテイメントの力で観客をひきつけながら、監督が意図したテーマや知識を観客に強く記憶させるという技術は、『 お葬式 』からさらに磨きがかかっている。

彼の作品に登場するものは、人であれ物であれ、そのテーマに明確な輪郭を与えるための生々しさを持っている。その一番の要因が配役にあることは間違いない。例えば、山崎努の愛人はモデルのような美人ではなく、本当に場末のスナックで知り合ったような女性である。世の中をナイフでスッと切り取ったときに見える断面、そこに映っている人々をそのまま演者にしたような配役は素晴らしいと思う。

その一方で、彼の作品に登場する人物像はマンガのキャラクターのように記号性が強い。普通こうした記号性の強さは、生々しさの対極にあるものを浮かび上がらせるように思えるのだが、その記号性ゆえに余計な情報が排除され、作品のテーマがより明確になっている。

ミンボーの女 』の感想で少し書いたことでもあるが、伊丹作品を構成するものは、そのすべてのベクトルがテーマに向かっているため、教材ビデオ的な側面で見ると非常に優れている。今回の映画でも、ただ笑って映画を見ているだけで税金に詳しくなってしまった。

とはいえ弱点がないわけではない。あまりにテーマに寄り添いすぎているために、映画公開当時の時代性が強く反映されてしまうことだ。記録映画ならそれでもかまわないのだが、上で教材ビデオ的と書いているように、何かしらの処方箋としても機能する映画だけに、20年後に見るとさすがに古めかしい印象を受ける。この映画はコメディとしての側面も持っているので、笑いの同時代性がそうした印象を強めているのかもしれない。

そうした古さは、笑いと社会を扱った作品の宿命と言えるべきものだから、むしろ設定された時代がどこまで躍動感を持って切り出せているかを見るべきなのだろう。そして、そこから見えてくる普遍性(人間の変わらない罪深さとか)のほうに目を向けるべきなのだ。実際にこの映画はそうなっている。

伊丹作品から学べることは多いので、どんどん見ていこう。

Posted by Syun Osawa at 00:52

2011年01月14日

お葬式

監督:伊丹十三/1984年/日本

お葬式この映画は伊丹十三の監督デビュー作であり、出世作である。デビュー作にもかかわらず、いきなり完成度の高い作品で、すでに伊丹ワールドが全面展開されている。

僕はこの映画を見たのは二度目だと思う。かなり昔に見たので内容のほうははっきりと覚えていなかったのだが、山崎努が愛人と葬式を抜け出して、屋外でセックスをするシーンは強烈に脳裏に焼きついていた。あの愛人のだらしない体の生々しさは僕には相当衝撃的だったのだ。

しかも、セックスの最中、それを知らない妻の宮本信子が丸太で作られたブランコで揺られるというベタな隠喩をカットインさせるなど、演出が決め細やかで見応えがあった。

ミンボーの女 』の後に続けて見たこともあって、この作品のテーマとなっている「葬式」の優れた教材ビデオのようにも見えてしまった。事実、この作品では「葬式をどのように取り行うか?」という誰もが知っているようで知らない疑問に、ドラマを通じてこたえている。普通に映画を見ているだけなのに、しっかり葬式についても学べてしまうという実にお得な映画に仕上がっているのだ。

ただ、それだけでは本当に良くできた教材ビデオということになってしまう。でも伊丹作品は時代の空気感を上手く取り込んでいて、そこに醸しだされる人間の業の深さをよく映し出している。だから彼の作品には社会性があるのだ。香典のお金が風に舞い、それに群がる葬儀の参列者たちの振る舞いはその典型的な例だろう。あのシーンはコメディであるからこそできるベタな演出だと思うし、それを取り入れることで資本主義社会の無常感をより効果的に表現していたように思う。

ところで、この作品は葬式をするというだけの話なのだが、その舞台をなぜ山奥の別荘にしたのかはよくわからないままだった。逃げられない場の設定として帰納法的に選択された舞台なのかな?

Posted by Syun Osawa at 00:45

2011年01月10日

催眠術の日本近代

一柳広孝/1997年/青弓社/四六

催眠術の日本近代松尾匡『 図解雑学 マルクス経済学 』とか『 不況は人災です! みんなで元気になる経済学・入門 』あたりを読んでいる頃から、依存ビジネスについて考えることが多くなってきた。依存ビジネスという言葉に正式な意味があるのかも、またそもそもそういう言葉があるのかどうかも僕は知らない。それでも僕がこの言葉にこだわるのは、これからのビジネスが物の価値をベースにしたものよりも、心の価値をベースにしたものに重点を移していくと考えるようになったからだ。

…と言っても、僕がその心の価値がどのようにビジネスに還元できるのかを具体的に把握しているわけではない。しかもどういう方向でその問いに対して解を見つけていっていいかもわからない。仕方ないので、パッと頭に浮かんだ催眠術に関する本を読んでみることにした。この思いつきはあまりに単純で、「催眠術は心を操作する術である」と解釈したからにすぎず、それ以上の意味は何もない。

で、最初に選んだのがこの本だった。

日本における催眠術の歴史が書かれた本である。いきなり催眠術のかけ方の本を読んでも良かったのだが、ニセ科学フォーラム 程度には科学リテラシーを持っていたいということもあって、偽科学的な批判がある程度込められたものを読んでおきたかったのだ。

この本によると、催眠術は明治時代に西洋から伝わり、何度か大きなブームになっていたようだ。そして、日本の伝統的な幻覚の「術」とが重なり合いながら人々の暮らしの中に浸透していったようだ。今のように科学が発達していたわけでもなく、偽科学に対するリテラシーも低かったであろう当時に、これらの「術」が一般大衆の心を掴んだ事は想像に難くない。むしろ意外だったのは、当時から催眠術をいかがわしいと思っていた人がたくさんいたことだ。例えば、森鴎外も「魔睡」という小説でそのいかがわしさを描写している。この点については、明治時代も今も催眠術の受け止められ方に大差がないようだ。

こうした背景には、催眠術を使った性犯罪が繰り返し起きていたことが原因としてあるのだと思われる。今でも催眠術師は男の人が多いらしく、どうしても性的な欲望を満たすための技として用いられているイメージが消えない。しかし、そうした不純な動機からくるいかがわしさとは別に、催眠術の「術」としての魅力は残る。

その「術」としての催眠術が科学的にどのよう解明されているのかはこの本ではわかからなかったが、催眠術を巡る論争(千里眼事件など)やフロイトの登場などを契機にして、学者達は心理学などのより普遍的な領域へ関心空間を広げていったようだ。だから「催眠術とは何なのか?」という直接的な問いは曖昧なまま残り続け、今日に至ったということなのだろう。

よーするに、よくわからない催眠術という「術」としての謎は今もまだ有効であり、そうであるがゆえに数多くの催眠術師がテレビなどにも登場しているのである。これは人の心の依存度を扱った依存ビジネスの不明瞭さとも相性が良さそうだw 次はより具体的に催眠術師による「術」のレクチャー本から依存ビジネスについて考えてみようと思う(本当は催眠術を偽科学批判的に扱った本を先に読みたかったのだが、これといったものがなかった)。

Posted by Syun Osawa at 20:58

2011年01月07日

ミンボーの女

監督:伊丹十三/1992年/日本

ミンボーの女飢餓海峡 』を見た後、無性に日本映画熱が湧き上がってしまった。ヤクザ映画が好きなので、古いシリーズ作品などをまとめて見ようかと思っていたはずなのだが、なぜか伊丹十三監督の『ミンボーの女』を見ることに。

この映画はタイトルのとおり「民事介入暴力」をテーマにしている。そして、主人公は普通のホテル従業員だ。よくあるヤクザ映画なら主人公は警察かヤクザのどちらかで、そこには「ヤクザは一般市民には手を出さない」という前提があり、その任侠の美徳を1つのリテラシーにしてたりする。しかし、この映画ではヤクザを単なる迷惑な外敵としてしか描いていない。

ヤクザは記号的なキャラクターとして描かれており、その悪徳さだけが戯画化されている。この身も蓋もなさが、伊丹監督が実際にヤクザに襲撃されるきっかけを作ったのだろうということは容易に想像できる。逆に言えば、この単純な構造ゆえに、映画としてはちょっと物足りないところもあった。

その一方で、この映画を「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」の解説という視点で見てみると、極めて優れた教材映像になっていることに気づかれる。ストーリーの構成は明快で、記号的なヤクザがパターン化された嫌がらせを繰り返す。その一つひとつに一般市民はどのように対処していけばいいのか? その方法がエンターテイメントを通じてわかりやすく描かれているのである。

携帯小説のヒットが示すように、わかりやすさが人の関心を引くひとつの動機となっている今の時代、彼の作品のわかりやすさから学べることは多いように思った。そういえば、葬式を丁寧に描いた『お葬式』なんてのもあったな。伊丹作品を見返してみよう。

Posted by Syun Osawa at 01:37

2011年01月01日

飢餓海峡

監督:内田吐夢/1965年/日本

飢餓海峡「「在特会」の正体」と「同和と橋下徹」というルポに釣られて買ったノンフィクション誌『 g2 vol.6 』に三国連太郎氏のインタビューが載っていた。そのなかで、三国氏が『飢餓海峡』という映画について語っていて、そのストーリー展開にそそられるものがあったので見ることにした。

ミステリー仕立ての作品なのでネタバレの可能性あり。

僕がそそられたストーリー展開とは、誰が主役なのかいまいち判然としないままストーリーが展開していくところで、それがどのように映像で展開されているかが気になったのだ。謎の真相は樽見京一郎(三國連太郎)が握っていて、それを追いかける刑事(伴淳三郎)と娼婦の杉戸八重(左幸子)がいる。普通なら、刑事と八重のやり取りの中で犯人とされる樽見京一郎を追いかけていくことになると思うのだが、必ずしもそういう謎解きパズルのような展開にもなっていない。

むしろそうしたミステリーの手つき以上に、物語の舞台となっている戦後すぐの日本で、貧困にあえぐ人たちが必死で生きていく姿をリアリティを持って描き出すことに注力しているように見える。だからこそ、一人ひとりの登場人物の人間観がより深く浮かび上がっているように見えたのだろう。今の言い方だとそういう登場人物を「キャラが立つ」と言うのだろうか。

ただその一方で、この作品のストーリー展開は帰納的なストーリーに還元できるもののようにも感じた。手塚治虫は著書の中で、キャラクターは帰納的なストーリーよりも演繹的なストーリーのほうが立つというようなことを書いている。帰納的ストーリーとはオチから逆算してコマを配置していく方法で、緻密なストーリーを作れる一方でキャラクターがそのストーリーの置物のように配置されることでドライブが掛りにくいというマイナスの側面もある。それに対して演繹的ストーリーとはストーリーの展開が予測できず、緻密なストーリーは練りにくいが、キャラクターの動きがより際立ちドライブが掛りやすい。

この手塚の漫画制作の手法でこの映画を見たとき、杉戸八重の描き方は演繹的であり、樽見京一郎の描き方は帰納的である。そして、このパラレルなストーリー構成によって作品が成立しているのだ。この手法を選択した理由は、杉戸八重は樽見京一郎の秘密を知らず、樽見京一郎だけがこの作品にキーとなる事件の全真相を知っているからである。こうしたところにミステリーの強みが生かされているのだろう。とても上手いと思う。

Posted by Syun Osawa at 16:39