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2011年02月24日

グレンラガン(全26話)

監督:今石洋之/2007年/アニメ

天元突破グレンラガンこのアニメは主題歌もヒットしていたし、ネットでもわりとレビューを見かけたので、まぁハズレはないだろうと思ってみたのだが、途中ですっかり飽きてしまった。その原因はこのアニメにあるのではなく、僕がゼロ年代のロボットアニメに対して変な先入観を抱いてしまっていたせいだと思う。

その変な先入観というのは、セカイ系という言葉を生むきっかけとなった『 エヴァンゲリオン 』以降のロボットアニメを、セカイ系(およびその後の決断主義)をいかに乗り越えるかというコンテクストに基づいて検証していくというものだ。たしか宇野常寛『 ゼロ年代の想像力 』が出たあたりから流行りだしたと記憶している。

当時、セカイ系の流れに違和感を感じ続けていた僕は、この論法が妙に気に入ってしまい、ゼロ年代以降のアニメを見るときにいつもこのフィルターを通してしまっていた。しかも、本作は『 エヴァンゲリオン 』と同じガイナックスの制作である。『エヴァ』以降、『 フリクリ 』のような形で中二病に陥っていたガイナックスがどのような形で作品をブラッシュアップさせていくのか…などという、今考えれば酷く的外れなことを考えながら作品を見てしまっていた。そのため、本作の「何も無さ」に耐えられず、飽きてしまったのだ。

以下、感想メモ。まとめて読んだらかなりネガティブ発言が多いようですが、ファンの方ご容赦ください。

第01話 お前のドリルで天を突け!!

ロボットアニメの場合、一話目はどうやってロボットに乗るかって話なので、そこでだいたいその作品の雰囲気がつかめる。ロボット操作のところにはそれほど力点を置いておらず、キャラクターの動きや感情のほうにこだわっているようだ。前に見た『 キングゲイナー 』の場合は、ゲームチャンプだったからすぐに操作しても違和感なかったが、今回はそういう細かなディティールの調整も無視していた。

ドリルで穴を掘るだけの毎日に虚しさを感じている地下の住人。その閉塞感と地上の世界という対比を現代の日本を取り巻く状況の比喩にしている。それをどのように乗り越えるのかという、わりとわかりやすいゼロ年代問題のコンテクストを踏まえているんだね。なるほど。

第02話 俺が乗るって言ってんだ!!

2話目にして早くも失速か? いきなりドライブ感が減速した。宮崎駿なら絶対にこうはしないんじゃないかなぁ。4話目くらいまでピンチの連続を切り抜けさせて、そこで少しずつキャラクターに肉付けしていくと思う。ともかく何らかの敵との間で戦っているというバトルフィールドはすでにできていて、そこに主人公は加わっていく。これって、例えば日本が戦争していたら、その戦争のコンテクストそこそこに戦争に加わっていくという話と大差ないのではないか。だから虚構の物語ということか。

第03話 顔が2つたあ生意気なッ!!

人間掃討軍のビラル現れる。2本の矢からバトルの流れはかなりカッコよかった。有名なアニメーターさんが描いてるのだろうか。2つのガンメンが合体して、グレンラガンになった。その経緯として、カミナが「怖い怖い」と言っていて、その弱気を超えるシーンを描いていた。エヴァ以降よくあるパターンだが、今回はそれをあっさり乗り越えた。この作品にも「何か…」っていう表現が出てきた。うーむ、何かってなんだ。

第04話 顔が多けりゃ偉いのか!?

なんか妙に作画が崩壊してると思ったら、『ナディア 島編』みたいな内容だった。まだ4話だぞ。この展開は早すぎね? 普通はもっと引っ張って、10話以降とかで入れるような内容じゃないのかな? ともかく前回のビラルに引き続き、獣人ハンターの黒の兄弟が登場。このノリが続いていくんだとすれば、正直見続けるのが辛くなるなぁ。

第05話 俺にはさっぱりわからねえ!

顔神様が登場。いろいろな世界観が開陳されてきてる。地下では生きられる人数が限られているからか、50人を超えると、その子は地上に連れていかれるという掟がある。で、バトルって感じなんだけど、『 キングゲイナー 』同様に若い子向きの仕様になっていて、おっさんが見るにはちと辛い内容かも。うーむ。

第06話 てめえら全員湯あたりしやがれ!!

『千と千尋の神隠し』のパロディ回。で、風呂場での覗きのやりとり。まぁ…ベタっていうか、こういう流れはままあるでしょう。最終的にその風呂場自体がガンメンだってことで、バトルシーンも追加されるわけだけど、このくだりって結局仮面ライダーとかウルトラマンと同じで、次はどんな怪人や怪獣が現れるかって言う楽しみにおちてしまう。完全子供向け、グッズ販売を目論んだ作品ならそれは当然のことかもしれないが、普通のアニメヲタがこれをまともに見るとなると、もう少しハイコンテクストな味方をしないと苦しくなるんだろうな。今僕はちょっと苦しいw

第07話 それはお前がやるんだよ!!

移動型の超巨大ガンメン登場。どんどん強い敵が現れるという展開で引っ張っていて、そこに大きな強いドラマがあるわけでもない(実際にはあるのかもしれないが…)。アクションシーンのカタルシスはなかなかのもので、多分そちらの引きだけが全面化しているのだろう。絶体絶命のピンチで仲間が登場。昨日の敵は今日の友というジャンプシステムも採用されている。ところで、ガンメンの足が引きちぎられようとしているとき、乗っているパイロットも一緒に痛がっているというあのシーンはどう考えても不自然な気がするのだが、最近のアニメは一様にああいうシーンを描いている。この点については考えてもいいかもしれない。

第08話 あばよ、ダチ公

いつの間にかキスシーンとか。ダラダラ見てたから、そういう関係になってるの知らなかったw …と思ったら、シモンも同じこと思っていたらしく、嫉妬で心が揺さぶられる。とか思っていたら、カミナが死んだと思ったら、生きていた。獣人との戦いは、なんか序盤の大きな盛り上がりになってるけれど、相手の言い分とか全然無視した領土争いの感じなのが何とも。だからいいのかな? …とか、思ってたら、本当にカミナが死んだ。ええええ!

第09話 ヒトっていったい何ですか?

カミナの死で自暴自棄になるという展開。そこに四天王の設定が加わった。第二ステージ突入というところか。荒れているラガンのもとに、謎の美少女が登場。この「謎の美少女」という設定が、今のアニメ界にはびこる最も悩ましい設定なのだが、その話はひとまず置いておこう。

第10話 アニキっていったい誰ですか?

敵の娘が味方に加わる。で、その敵の部下が攻撃にやってきた際に、部下と敵の娘が対峙する流れ。そこで朗々と熱い語りがあるわけだけど、このあたりが90年代のガイナックスを引きずってるなぁとw 最後にバトルになるんだけど、こういう流れなら富野由悠季監督の『 キングゲイナー 』のほうが、敵一人ひとりにオーバースキルを割り当てたりして、かなり意図的にエンターテインしていたなぁと思う。心の問題にすぐ回収されてしまうのは、まだまだリハビリが必要なのかもね。

第11話 シモン、手をどけて。

カミナがいなくなった穴が埋められないまま旅を続ける一行。ドラマ的にはシモンの穴を埋めるように登場したニアの物語が膨らんでいく。人形として生きることを宿命付けられたニアに芽生える自我。なんか一気に中二感が増してきた気がする。一応、戦いを通してラガンが、前に進むしかないっていう気持ちになって終わった。ここでのウジウジを引っ張らないところが、ゼロ年代的なのかな? ようわかりませんけど。

第12話 ヨーコさん、お願いがあります。

一行が海へ。キャラクターの水着姿で興奮するいう性向はないので、まぁ…な展開。ナディアの島編みたいなもんか。ところで、いつの間にかカミナの抜けたポジションを、キタン・バチカが埋めている感じ。ちょっと抜けた感じだけど。カミナが生きていたときはちょっと被っているように思っていたが、そういう伏線もあるわけね。後半は魚雷に似せた顔面が登場。最後の銃で肩を撃つシーンは凄いけど、何だか緊迫感に欠ける。つか、この作品の戦闘シーン全般に言えることだけど、戦いがかなり子供向けに省略されてるので、おっさんには少し物足りない感じ。

第13話 みなさん、たーんと召しあがれ。

大グレン団結束っていうところに一つの主張が込められているのか。「すべてをつなげ」的な。壮絶空中バトルで、ちゃんと物語全体のミドルポイント(前半の総決算)はつくっているね。ただ、僕の集中力がなぜだか切れてきた。最後に螺旋王の「人間とは何か?」と問うたところで、後半のフックが出来た。世界観がいよいよ開陳されて、深い話になっていくのかもね。個人的には、望月峯太郎の『ドラゴンヘッド』のように序盤はひたすら地下の話で引っ張っても良かったとは思うが。

第14話 皆さん、ごきげんよう。

人間が地上に開放されて、7年後の世界。シモンがミアにプロポーズして断ったとかいう、非常にリア充なエピソードが展開されている。なるほど、そういう展開はありだな。前半でいわゆるベタな開放の物語を描いて、その後、平和が訪れてからのエピソードで人間の愚かさの部分に照射していくという感じになるのかな? 最後に「人類殲滅計画」なるものが示されて、後半の新しいゲームボードが設定された。

第15話 私は明日へ向かいます。

ひたすら後半の物語を駆動させるための燃料投入(というか、ゲームボードの設定作業)。人間と螺旋族、アンチスパイラルの関係が明らかにされた。なかなか入り組んでるな。で、3ヶ月後に月が地球に追突するという時間軸が設定されたことでゲームスタート。

第17話 あなたは何もわかっていない

どんな話だっけ?w

第19話 生き残るんだどんな手段を使っても

螺旋族と反螺旋族(アンチスパイラル)の戦い。月が地球へ落下。人間を地下へ。うーん。世界観を中盤でひっくり返して、オーラスへ向かって山場を作っていくというのはとてもまっとうだとは思うんだけどね、ややこしいね。キャラクターによるドラマの押し出しより、世界観を上手く説明するためにキャラクターが動かされている感じになってきた。こういう展開はエウレカなんかもそうだったけど、結構苦手なんだよね。

第20話 神はどこまで僕らを試す

本当に見るのが辛くなってきた…w 月が地球に落ちるまであと2週間。戦争責任を追求されるシモン。ゲームボードは完全に設定されていて、どこか日本の歴史を裏側で匂わせる内容になっている。で、地球を見捨てて一部の人間だけがノアの箱舟よろしく脱出する流れになるのだが、そこで「見殺しにするのか!」問題が浮上。政府とグレン団の蜜月は終わり、グレン団が地球を守る賭けに出るのかな? 途中グダッて見てたから、内容がかなりあやふや。でも、途中を少し見なかっただけで関係性が全然把握できなくなるってのもどうかなとは思うけどね。

第21話 あなたは生き残るべき人だ

子どものエピソードから。大きな戦い(当然、第二次世界大戦以降の世界の比喩としての戦い)の後、人々はどのように生きるかということを描いているわけで、今回もそういう世界観の中で子ども達の希望を描こうとしているのだと思って見たんだけど、結局戦いに持って行くところがなかなか難しいなと。シモンともう一人が牢獄から出て、ガンメン合体で次へ続く。

第22話 それが僕の最後の義務だ

螺旋族とアンチスパイラルの戦い。月の落下があと少しのところで、月も機会だったことが判明。その後、ミアとシモンのやり取りの中で「人間は絶望から何度も立ち上がってきた」というのがあって、まぁその後の奇跡に繋がって月衝突が回避されるという流れ。まっとうとしかいいようがない展開だが、月落下という事実によって起きた、その他様々な出来ごとをもっとドラマ化するべきではないかと思ったり。まぁ…うん。

第23話 行くぞ 最後の戦いだ

世界設定開陳大会。冒頭に延々と螺旋族やアンチスパイラルの関係を公表。つくりが子供向けのアニメなのに、設定をやたらややこしくして、それで子どもにちゃんと伝わっているのだろうかね。あと、セカイ系との繋がりでは、人間関係の方ではその要素は薄い。ただ、距離の面(ご都合主義的に距離の問題が解決される)ではかなりセカイ系の要素が残っていたように思う。最初の方はわりと楽しみにしていたんだけど、ゼロ年代のアニメとしてのプラスアルファを意識しすぎてか、単純に楽しめないのは僕が歳のせいだろうか? きっとそうなんだろうなw

第24話 忘れるものか この一分一秒を

アンチスパイラルとの最終決戦。

第25話 お前の遺志は受け取った!

アンチスパイラルとの最終決戦。その2。

第26話 行くぜ ダチ公

「昨日も明日も未来もない」という毎日から、「未来に怯えるも今を全力で…」とか「自分の信じた宇宙が…」的な内省的な決断力が人の成長の根拠になっている。うーむ。ともかく最終決戦、その3。話が設定あり来すぎて、複雑だなぁ。ゲーム的な複雑さというか。

第26話 天の光は全て星

「俺達の未来は俺達がつかむ」とか言いながら、最終決戦するわけね。どこを切っても「自分、自分、自分…」の展開だった。自信のない今の若者に勇気を与えたいという思いが込められていたのかもしれない。でも、何だかセカイ系の延命のようにも見えてしまったなぁ。うーむ。だって、前に突き進むことに対する根拠が「自分」にしかなくて、結局自分探しにお墨付きを与えてしまっているから。ゼロ年代に共有された「一旦否定されても、それを過剰に取り扱うことで乗り越える」というコンテクストをセカイ系でもやっていのだとしたら、つまり、セカイ系をさらに先鋭化させることでそこで指摘されていた問題を乗り越えようとしているのだとしたら、それは面白いのかもしれない。まぁ、考えすぎだな。ストーリーが複雑というより、設定が込み入っていて、なんかいまいち乗りきれなかった。残念。

Posted by Syun Osawa at 01:36

2011年02月17日

調べる技術・書く技術

野村進/2008年/講談社/新書

調べる技術・書く技術下北沢FMアイドル祭り vol.2 を見るために下北沢へ行ったとき、古本屋で本田勝一の『日本語の作文技術』を買った。昔から文章を書くのが下手だったので、白井健策『 文章トレーニング 』や福田和也『 福田和也の「文章教室」 』などを読みつつしこしこブログを書いていたのだが、一向に上達しない。最近は、文章が上手くなりたいというモチベーションも無くなって、ただただ思ったこと書いただけの文章の塊が、ネットデブリ(ネット上のゴミ)としてブログ上に放逐されていっているような状況である。

そんな残念な日常もわりと気に入っているのだが、今年は初詣で「今年は同人誌を作るぞ」などという柄にも無いような積極的な目標をお願いしてきた。おかげで、文章が上手くなりたい(少なくとも人並み程度には…)というモチベーションが少しだけ涌いてきている。

で、そんな気持ちを抱いていた時に最初に見つけたのがこの本だった。僕自身が上手くなりたいのは小説のような文章ではなくて、あくまでも頑張れば何とかなるような文章の技術を教えてくれる本がよかったので、ノンフィクションの書き方を扱ったこの本をひとまず選んでみたのだ。同じノンフィクション系の本田勝一の『日本語の作文技術』はひとまず次に読むことに。

タイトルに「技術」とあるとおり、かなり実践向けの内容になっている。ノンフィクションを書くに当たって、取材の方法から、構想のまとめ方、メモをもとにどのように文章を書くか、そうした一連の作業の流れが著者の実際に書いたノンフィクションを例にして紹介されている。しかも、このノンフィクションが大変素晴らしく、僕もこの著者のやり方を踏襲すれば意外にいけるんじゃないかと思えるような導線のひき方も上手い。

この本を読んだからといってただちに文章が上手くなるとは思わないが、文章のトレーニングの方向性だけは、わりと鮮明になったと思う。あとはひたすら自分の目指したい文章を真似て、書いて書いて書きまくるのみである。

Posted by Syun Osawa at 01:08

2011年02月08日

第1回 萌えメイドクィーンコンテスト

2011年1月8日/14:30−18:00/AKIBA_SQUARE

第1回 萌えメイドクィーンコンテストよくわからないイベントだった。いや、僕の目的が不純だったからよくわからなかったのか…。

このイベントは、秋葉原のメイドのNo.1を決めるために行われたのだが、それだけだと客を呼べないので、ゲストパフォーマーとしてみるきぃほーむず、SUPER GIRLS、腐男塾が出演することになっていた。客席に駆けつけたオタの顔ぶれを見る限り、どう見てもそっち目当ての客が多かったように思う。

運営の側からしたら、ゲスト目当ての客は、ゲストが出た後すぐに帰る可能性があるので、できるだけ出演を先延ばししたいのはわかる。でも、14時半開演のイベントでゲストの出演が17時過ぎってどうなのよw 事前にプログラムが配られていたわけでもないので、いつ出演するかわからない。そんな状態でずっとメイド達の審査を見させられたのは、さすがに厳しかった。

それでも、その審査が面白かったらまだ許せる。

でも、メイドの審査なのに、1本の綱の上に対面でメイドが乗って、最後まで乗っていたほうが勝ちという対決(それ何なのよw)をする意味がわからない。例えば、メイド喫茶を模した舞台で、候補者がどのように振舞うかを見るとかね、メイド喫茶に行ったことのない僕でも思いつくような対決なら見れたと思う。方法はいろいろあったはずだ。

そんな大人の事情だけで開催されたとしか思えないやっつけ感が漂うイベントで、ゲストのためだけに待ち続けるというのはなかなか大変で、僕の心も何度か折れかけた(実際に待ってられずに途中で離脱するオタもかなりいた)。17時過ぎから行われたゲストのパフォーマンスが結構充実していたからよかったものの、おっさんにはなかなかしんどい現場だった。まぁ、おっさんがそういう現場にいることのほうが問題だ、と言われてしまえば、その通りなのだけど。

あと、開演前にスパガが私服でリハーサルしてるところが見れて、これは思わぬ収穫だった。さおりーぬ嬢のガチキャバな雰囲気がとても素敵で、2011年にしてなお90年代風味のエイベックステイストが残っているところが彼女達の魅力のような気もする。もっともエイベックス的には、AKB48のファンを横から奪っていったももクロのような流れを踏襲したいのだろうが、それならもう少し明確なコンテクストが必要だろう。ももクロを牽引する川上氏は、メタ化したオタク達のアイドル消費への照準の合わせ方がとても上手いと思う。

なんだこの感想w

Posted by Syun Osawa at 00:51

2011年02月01日

アウトレットブルース

川村勝/2007年/ぴあ/四六

アウトレットブルース中学生の頃に喧嘩でブイブイいわせてた不良が、ヤクザになり、刑務所へ行き、更生し、組を抜け、大学へ行き、ライターになった半生を描いたノンフィクション。

何のきっかけでこの本を読み始めたのかははっきり覚えていないが、たしか2ちゃんねるのアウトロー板あたりを巡っていたときに、「井上雄彦の『リアル』にそっくりなノンフィクション本がある」という書き込みをみつけて読んでみたくなったんだと思う。

読んでみると、たしかに『リアル』によく似ている。ヤクザをやっていた川村氏が組を抜けて堅気になるというストーリーと、同じ時期に事故で片足を失った川村の友人が失意の中で車椅子バスケットに出会い、希望を持って生きていくというストーリーの併走感がとても『リアル』っぽい。しかも、ノンフィクションだけあって『リアル』よりリアルだ。

そのリアルさは、たんにノンフィクションだからという理由にとどまらない。昔からよくある不良の更生本にありがちな、よく出来たストーリーに自分自身を重ね合わせていない点でもリアルだった。本の最後のほうで著者自身が書いているとおり、堅気になってから何かを成し遂げたということはないし、車椅子バスケットでオリンピックを目指していた友人もオリンピックに行っていない。もちろん、大検に受かって大学へ行ったというのは、成し遂げた何かに相当するものには間違いないのだが、著者はその部分を大きくクローズアップさせていないのである。

ここからはあくまでも想像だが、もしもこの本を書いている段階で、友人がオリンピックに行ったとしても、著者はそのことを成功体験の一番の盛り上がりとして書いていなかったのではないだろうか。著者は大学合格といった社会にあらかじめ用意された成功体験の装置に対しては、どこか冷めた視線を送っているように思えた。

むしろ彼が大事にしているのは、心の部分なのだろう。この作品には彼の友人が数多く登場し、その友人達との出会いのエピソードが数多く紹介されている。仲良くなった例だけではなく、人間関係が上手くいかなかった例も含めて、人とのつながりの面をこの本では強調しているように思えた。この本の大枠は井上雄彦の『リアル』に似通っているが、この作品のほうがよりリアルなのは、社会における成功体験よりも人間同士の関わりに力点が置かれていたからだろう。

話は少し変わるが、著者は真っ当な家庭で育ったようだ。不良になる可能性は誰にでもあるが、そこから更生するかしないかには、親の家庭状況が大きく影響しているといわれている。この本を読んでいても、著者の親は最後まで息子を見放さなかった。子どもの教育においては過保護かどうかということがまず問われる傾向が強いが、むしろ子どもを最後まで見放すか見放さないかということのほうが、長い人生においてははるかに重要なのだ。見放していないからこそ、荒くた子どもたちの生活も、波の減衰のように少しずつ穏やかになり、やがてあるべき所へおさまっていくのだろう。

Posted by Syun Osawa at 01:18