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2011年05月30日

アメリカン・スクール・トリップ

監督:デイヴィッド・ミッキー・エヴァンス/2003年/アメリカ

アメリカン・スクール・トリップ童貞の高校生3人組が、童貞の童貞による童貞のためのポルノを作るために奔走する青春エロバカコメディ映画。ポルノ女優を登場させるという点では、前回見た『 ガールズ・ネクスト・ドア 』と似ている。

ただ、『 ガールズ・ネクスト・ドア 』はラブストーリーを主軸にしていたのに対し、本作は童貞喪失を主軸にしているため、ストーリーがポルノ一辺倒で、練られていない印象を受けた。日本でギャグ作品をつくるとこちらの方向に流れがちだが、ストーリーへ観客をグッと引き込むには、ただ童貞喪失をセックスへの欲望として描くだけでなく、ベタな愛についても描くことが必要なんだと思う。

その一方で、童貞感(そんなものがあるかは知らないが)を共有する友達同士の友情については、少しだけ踏み込んで描かれていた。グループの中に一人イケメンがいて、そいつだけは恋人ができて上手くいく。これにより、3人でポルノ映画を撮ることがおざなりになり、恋人をとるか、友人をとるかといった展開をみせる。

この展開自体はよかったのだが、友情の描き方が単調だった。さらに、説明的な台詞が多く、この手の作品に必要なピンチの演出も弱い。B級グルメにここまでマジめなダメ出しするのもどうかと思うが、素材が悪くないだけに、もうちょっと上手く料理して欲しかったなと思った次第。最後のオチだけは悪くない。

Posted by Syun Osawa at 20:44

2011年05月29日

ガールズ・ネクスト・ドア

監督:ルーク・グリーンフィールド/2004年/アメリカ

ガールズ・ネクスト・ドア隣人が同級生でしかも超美人、でも彼女は元ポルノ女優だった…という、わかりやすい設定。作品の構造はエリート少年とポルノ女優の関係というある種の階層差を描いていて、『プリティ・ウーマン』なんかの構造と同じだと言えば同じかも。

この作品には、Amazonのレビューがたくさんついている。『24 -TWENTY FOUR-』にキム役で出演しているエリシャ・カスバートがヒロイン役を演じているせいなのだろう。僕は『24』を見たことがないので、「あの『24』のキムがポルノ女優役を!」みたいな興奮を得られずちょっと残念。たしかにエリシャはかなりの美人だと思う。

僕の感想の大半は、ぶっちゃけエリシャのビジュアルに尽きていたりするのだが、演出面について少しだけ引っかかるところがあった。最初に述べたように、この作品の主人公とヒロインは階層差があるので、ラブストーリーであると同時に、その階層差の問題でもドラマを展開しなければならない。そのため、二人が恋に落ちるという展開はかなり早めにオチがつく。そこから、彼女が元ポルノ女優であることが明かされ階層差のドラマへ移行するのだが、それも中盤くらいでかたがつき、また恋の物語に戻ってしまった。

その展開自体は決して悪いとは思わない。ストーリー的に弱いと思われるところを補強していったら最終的にああいう形になったのだろう。ただ、最初に用意された童貞男とポルノ女優という最も引きの強いキャラクターをぶつけたときに起きる大きな化学反応はなく、淡々とプロットどおりに話が展開していったという印象は否めなかった。この印象は、恐らく童貞やポルノというものに対して、日本人のほうがアメリカ人よりはるかに強い意識を抱いているからだと思われる。

あとは、この手の青春エロバカコメディを見ていて毎回思うことだけど、アメリカの若者にとって、いかにルールからはみ出したイカれた行動をとれるか? みたいなところがクールの対象基準になっているのだろうか。そのくせ、セックスに関しては最後の一線だけはなぜか守っている。みんな露出が高いし、キスやペッティングまでは簡単にいくのに、その先となると急に拒むという。それは宗教のある国だからそうなのか、そういう演出をすることで映画会社が若者を戒めているのか、その価値基準が僕にはサッパリわからないが、ともかく日本の事情とはちょっと違う感じはする。

Posted by Syun Osawa at 20:37

2011年05月27日

アメリカン・パイ

監督:ポール・ワイツ/1999年/アメリカ

アメリカン・パイアメリカの青春エロバカ学園コメディ(と言うジャンルでいいのかどうかはわからんが…)の中で、ゼロ年代のメインストリームを築いた映画が『アメリカン・パイ』シリーズなんだと僕は勝手に思っている。まだこの手の映画を見始めたばかりのくせにいきなりこんなことを書くのは、TSUTAYAの棚でシリーズ化して並んでいるのは、このシリーズと『最終絶叫計画』シリーズくらいしかないからだ。

映画の特典インタビューで出演者の一人が、今のハイスクールのリアルな日常を描きたかったと語っていたので、僕にはどぎつく感じられるようなことも、アメリカではまぁ当たり前の事なのかもしれない。

そんなアメリカの若者文化の中で、僕が最も感心したのは、クラスメイト同士のセックスシーンがインターネットを通じて流出したときの生徒たちの反応だった。童貞の高校生が外国からの留学生(?)とのセックスを友達だけにネット中継しようとしたところ、誤って学校中の生徒に向けて中継してしまったのである。日本でも恋人同士のセックス写真が流出してしまい、それにより大きな被害を受けるという事件がいくつもあった。そんな大事件が、アメリカではちょっとした事故程度の笑い話として処理されているのである。

日本だったら、青山真治氏あたりが、薄暗いトーンで少女の悲しみを淡々と描くような素材を、単なる笑い話の一つとして処理しているアメリカのパワーはやはり凄まじい。そういえば、パリス・ヒルトンのセックスビデオが流出したときも、パリスは平然とした様子で、そのビデオの売り上げの一部を渡すように要求していたっけ。

僕が驚いたのはそれくらいで、あとはまぁ、プロムで童貞捨てるのに情熱を燃やす若者の青春群像というわかりやすいストーリー展開。テンポもよくまずまず楽しめた。僕はプロムというものがどういうものなのか、この映画を見終えてもはっきりわかっていないのだが、プロムで童貞を捨てるということの裏側には、高校生の間に童貞(および処女)を捨ててないとかっこ悪いというコンテクストがアメリカの若者文化の中には浸透しているのだろうか。

ともかく、ゼロ年代の青春エロバカコメディの導線を引いた作品だけあって、退屈せずに見れるまずまずの佳作だったと思う。

Posted by Syun Osawa at 02:07

2011年05月26日

exPoP!!!!! vol.49

2011年4月21日/19:00−22:30/渋谷 O-nest

いやー、今回はかなり僕得なライブだった。

…と言っても、この感想を書いているのは、ライブからおよそ1ヵ月後だったりするので、それほど鮮明に音を記憶しているわけではない。それでもexPOPのホームページで出演バンドの名前を見た瞬間、脳がいい感じに反応していて、いまその心地よい気分を逆算しながらこの文章を書いている。

サンクスの脇にある小汚いエレベーターを上がっているとき、耳に飛び込んできたLo-Fiの音がまず気持ちよかった。僕の好きなダウンテンポなビートに、これまた僕が好きなバラエティに富んだ演出(民族的だったり、ブルース的だったり)が加えられている。

次のFragment×leno(術ノ穴)はヒップホップ畑の人らしい。もちろんその手の音楽に疎い僕は、埼玉から来たというだけで『SRサイタマノラッパー』を連想してしまう情弱野郎である。実際には、彼らの音はインスト多めだし、かなりハードコアなので、あの映画とは随分とかけ離れているのだが、勝手に「この人たちは頑張っている」というわけのわからない思いを抱きながら見ていた。

続いてのMaNHATTANもいい。もうアーバンって感じw この表現の貧困さは、彼らの問題ではなく僕の問題であって、実際に彼らの演奏も素晴らしかった。僕はダウンビートのインストでダンスミュージックにアプローチしている人たちが無条件で好きなのだ。

で、最後にL.E.D。まぁ、ROVOを思い出すよねぇ、方向性は全然違うんだろうけどさ。何というか、単純にレベルが高くて、音に圧倒されっぱなしだった。その前の3バンドも熱かったけど、それを全部引き受けてそれをさらに上に持ち上げるようなパワーがあったように思う。6月にライブがあるとアナウンスされていたので、すぐにチケットを買った。

今回わかったのは、僕の一番好きな音って、ダンスミュージックを前提としつつも、それをただBPM120以上のテンポで処理していくのではなく、もっとゆったりしたところで下地を作りながら、臨機応変に上げたり下げたりするような音なのだ。それをロックでダンスミュージックをやるとか、そういうアプローチではなく、あくまでベースにダンスミュージックがあるから、アンビエント風のアレンジになってもドローン系にはならない。そのあたりの音をバラエティ豊かに聞かせてくれた今回のライブは、まさに僕得なライブだったと思う。

Posted by Syun Osawa at 00:01

2011年05月22日

シーズ・オール・ザット

監督:ロバート・イスコーブ/1999年/アメリカ

シーズ・オール・ザット主人公は『 プッシーキャッツ 』の子だった。これは完全に偶然。昔から、同じジャンルだったり、その映画の中で気に入った俳優さんが出演している他作品を数珠繋ぎで見るのが好きだったので、こういう偶然はとても嬉しい。これでレイチェル・リー・クックの名前は忘れないと思う。

昔だったら、トム・クルーズ主演の『ザ・エージェント』に出演していたレニー・ゼルウィガーに一目ぼれし、『エンパイアレコード』やB級スプラッタ映画の『悪魔のいけにえ』などを続けて見たことがあった。彼女はその後、『ブリジット・ジョーンズの日記』で遅咲きのブレイクを果たし、妙な感動を覚えたものだ。

それはさておき、中身の話。

開始12分でストーリーの全体像がすっかり説明される。冴えない女の子が女子力を鍛えて、美女へと変貌を遂げ、プロムで主役になるというお決まりのストーリーだ。これだけだとあまりに平凡なので、そのストーリーを駆動させる装置として、イケメンの男子が賭けの対象として冴えない女の子にアプローチし、美女になるようプロデュースするという展開が用意されており、そこは少し毛色が違っていた。

ただ、この映画で冴えないとされている女の子は、オタクっぽく眼鏡をかけていて、天然ボケで絵が得意という、日本のヲタク的観点で見れば、しっかり萌え属性を持っている。そんな彼女がプロデュースされることによって、平凡でリア充な女性になっていく過程というのは、ヲタ視点から見れば少しつまらない。

序盤でビーチに行くシーンがあり、そこで彼女が実は巨乳であることが明かされる。こうした隠れ属性も高レベルの萌えポイントである。こういう属性をすべて捨て去り、彼女がプロムで主役になっていくことが、アメリカの若者にとってハッピーエンドなのだとすれば、それを逆張りのコンテクストで消費する日本のヲタクというのは、アメリカ文化のカウンターとしてしっかりとした足場を築いているということだ。そのことを実感したストーリー展開だった。

ただ唯一アメリカ文化のほうが凄いと思うのは、プロム(卒業記念ダンスパーティー)の存在だ。これに該当するものが日本にはない。モテも非モテも混在するあの祝祭はとても興味深い。おそらくこれからプロムに関するB級コメディをたくさん見ることになると思うので、そのあたりのことを考えつつ見ていこうと思う。

Posted by Syun Osawa at 22:03

2011年05月21日

プッシーキャッツ

監督:ハリー・エルフォント、デボラ・カプラン/2001年/アメリカ

プッシーキャッツ前から英語の勉強をしようと思っていたのだが、なかなか踏み切れずにいた。その一番の理由は、やり始めてもすぐ飽きるということだ。この飽きというのは恐ろしく、例えばNHKのラジオ講座などを聴き始めようものなら、1か月もしないうちに飽きてしまう。英語への意欲が、簡単に飽きに屈してしまうのは、僕にとって英語がそれほど重要ではないからなのだが、それでも身につけられる年齢としてはギリギリかなと思うので、見切り発車で始めてみることにした。

で、最初に決めたのが、映画はエロバカコメディを見るということだ。これならどんなB級映画でも飽きずに見れそうだし、使っている英語にしたって見る客の層に合わせて簡単なはずだ。僕はこれくらい程度を下げないと英語学習の飽きを克服できないと思う。

てな具合に、非常にレベルの低い決意で最初に見始めたのがこの作品だった。少し前にダンス映画にハマっていたこともあり(この趣味は今でも継続中であるが)、それに類似するものとして手に取った。ギャルバンもので、日本のギャルバンとの比較で何やら面白い発見があるかもしれない、そんな期待もあった。結果的には、その淡い期待は裏切られ、本当に可もなく不可もなくというような内容だったわけだが…。

サブリミナル効果を使ってポップ・ミュージックを量産している秘密結社という設定も悪くないし(音楽業界へに対する批評性を持っているとも言えるので…)、それを中盤まで伏せた形で、途中まで冴えない田舎のギャルバンの成長物語として描いていたところも僕の期待していたところだ。ただ、何と言うか、あと一歩ドライブ感が足らなかったようにも思う。設定をどの程度リアル系でいくか、SF系でいくかと考えてできた折衷案がこの中途半端な感じだったのかも。

日本で流行の空気系ドラマでもギャルバンものは多いし、そうした文脈でアメリカの郊外に住む女の子達の青春群像として見れるかと期待していただけに、そちらはあっさりスルーされ、非常に安易なSF設定(これはこれで馬鹿っぽくてよかったが…)と、これまた安易な恋愛に話が流れていったのは少し残念だった。あと、もう少しエロが多いとよかったのだがw

Posted by Syun Osawa at 13:11

2011年05月20日

ザ・ファイター

監督:デヴィッド・O・ラッセル/2010年/アメリカ/新宿ピカデリー

ザ・ファイターボクシング映画がアカデミー賞をとったという噂を聞いたので、レンタルではなく、劇場に観に行くことにした。アカデミー賞受賞作品なので、それなりに人が入ってるかと思ったら、ほとんど客がいなかった(平日の最終回ということもあるが…)。その時点で少し嫌な予感がw

ストーリーは、プロボクサーのミッキー・ウォードとディッキー・エクルンドの実話に基づいている。過去にレナードと世界戦戦ったことのある兄ディッキー・エクランドは、敗れはしたもののレナードからダウンを奪った男として街の英雄になっていた。しかし、その後、ドラックにおぼれ、犯罪を繰り返す。一方、弟のディッキー・エクルンドは、兄の影に隠れながらも着実に勝利を積み重ねていき世界チャンピオンになる。

最近は、マイケル・サンデル『 これからの「正義」の話をしよう 』とかジェラード・デランティ『 コミュニティ ― グローバル化と社会理論の変容 』を読んだこともあって、この作品世界の中のコミュニティのことを気にしながら見ていた。

まず彼ら兄弟は絆が強い。さらに、家族の絆も強い。弟のミッキー・ウォードから見れば、兄も母親もろくでなしなのだが、それでもちゃんと家族と向き合い、一族のコミュニティを大事にしている。もしも、今の日本の都心部のように家族の絆が弱ければ、そもそもこういった作品は成立しないわけで、そうした意味でも強いコミュニティ意識が物語を駆動させていると言えるだろう。さらに街も田舎街らしく、顔見知りが多く、兄のディッキー・エクルンドは街の英雄として多くの人が意識しており、グローバル化とは対照的な牧歌的な街の様子が古きよきコミュニティへの郷愁を誘っていたように思う。

この映画から感じられる良さはほとんどその点に尽きていた。

ミッキー・ウォードを演じたマーク・ウォールバーグは、この映画のためにトレーナーを雇って肉体改造をしたらしく、かなりいい体をしていた。だから、ボクシングシーンもそれなりに様になってはいた。ただ、スピード、カウンター、一発のパンチの緊張感などボクシングのリアルさを追求する要素は少し足りず、コミカルな演出でごまかされていたように思う。そこがリアル志向だとより楽しめたのだが…。

Posted by Syun Osawa at 01:49

2011年05月17日

コミュニティ ― グローバル化と社会理論の変容

ジェラード・デランティ/訳:山之内靖、伊藤茂/2006年/NTT出版/四六

コミュニティ ― グローバル化と社会理論の変容サンデルの『 これからの「正義」の話をしよう 』を読んで、コミュニティについて考えるようになった。というのも、正義本によって、僕の考え方はコミュニタリアニズムとリベラリズムの中間くらいにあるなと思ったからだ。

コミュニタリアニズムというのは、古きよき共同体幻想を復活させようという主張ではなく、行き過ぎた功利主義に対して、共同体の重要性を尊重しようという主張だと理解している。で、そのときに持ち出される共同体(コミュニティ)について考えるとき、それが実に多様な姿をしており、また時代と共に大きく変わっていることに気づかされる。例えば、インターネットの登場によって、仮想空間にも人々がコミュニケーションを取れる場所が広がっており、実際に会ったことのない人同士でもコミュニティを形成できる状況が生まれている。

この本では、そうした多様なコミュニティの姿を、高所から俯瞰し、わかりやすい形で分類している。分類された個々のコミュニティへの言及がなかなか難解だったため、社会学の素養のない僕には少しハードルが高かった。だから、哲学的な考察などはスルーし、この本に書かれているコミュニティの歴史的変遷を追いながら、「コミュニティとは何か?」という素朴な問いについて考えていた。

それは次のようなことだ。

グラウンドに知らない者同士の10人を集めたとする。あなたもその1人だ。そして、5人ずつに分かれる形で仕切り線を引く。たったそれだけのことで、自分のいる側の4人に対して、あなたはコミュニティ意識を抱くだろう。さらに、その4人のうち1人が自分と同郷だとわかった。これで、その1人とはさらにより強いコミュニティ意識を抱くはずだ。

そうこうしているちに、グラウンドの向こうから別の10人がやって来たとする。おそらく前からいた10人は、その瞬間に10人の間に強いコミュニティ意識を持つのではないだろうか。この意識に何か高尚なロジックがあるわけではない。何となくそのような意識を抱くという話である。

しかし、そうしたコミュニティ意識も20人が一群となり、打ち解けていった後には少しずつ薄れていくことになる。そして今度は、気の合う者同士のグループがいくつか生まれるはずで、さらに、それらのグループに属すことができない1人ぼっちの者もあらわれるだろう。

そのように考えると、コミュニティには先天的に偶発性によってもたらされるものと、後天的に自らの力で獲得していくものの2つがあるように思える。そして、今の時代は前者が弱くなり、後者の重要度が増しているように思える。つまり、友達がたくさんいる人、知り合いとの繋がりでビジネスパートナーを多く獲得していける人などは、より強いコミュニティを持つことになるわけだ。

上で示したコミュニティの成り立ちをふまえて、少しネトウヨについて考えてみたい。

マイケル・サンデル『 これからの「正義」の話をしよう 』の感想でも少し触れたが、彼らは在日朝鮮人や創価学会を徹底に叩くことで、自分たちが日本人であること、愛国者であることを強く意識しようとしているように思える。また、ノンフィクション誌『 g2 vol.6 』に掲載された安田浩一氏によるルポ「在特会の正体」を読むと、彼らがそこに自分たちの居場所を見つけているようにも思える。

この事を、上のグランドの例につなげて考えると、彼らはこれまで偶発的(例えば戦争など)にもたらされていた切断線を、自ら引くことで強引にコミュニティを作ろうとしているように思えてならない。それが良いか悪いかは別として、もしも今の時代、切断線のなくなった世界で、自らのコミュニケーション能力を生かしてコミュニティを築き上げていことがより重視されているとすれば、その能力に劣る人たちは静かに排除されていくことになる。

そのこととネトウヨを直ちに直結するつもりはないが、もしもそうした人たちがコミュニティを獲得するために、強引に切断線を引き始めたとすると、ここで見えてくるのは社会から静かに排除されている人たちのささやかな抵抗のようにも思えるのである。

だから「排他主義もOKでしょ」と、僕は言いたい訳ではない。切断線がなくなるということは、単純に言えば世界が一つになっていくことであり、それは戦争が繰り返されていた時代には理想とされていたものだ。しかし、グローバル化の元で、急速に切断面がなくなっていくと、今度はそのことによって排除されるコミュニケーション弱者が生まれる。それはなぜか? 人間は集合性を持った生物だからであり、そこにも自然淘汰の法則が働いてしまうからだと僕は考えている。では、そこで生まれた弱者をどうするか? 特に左翼はどう考えるのか? 僕がコミュニティについて興味があるのは、ほとんどその一点のみである。

ノンフィクション誌『g2 vol.07』で、安田浩一氏が在特会ルポの続編を書いているので、それを読んでまたちょっと考えてみようと思う。

Posted by Syun Osawa at 23:50

病気になりたくない人はこうしなさい!

山田豊文/2009年/アスコム/四六

病気になりたくない人はこうしなさい!僕は朝食に毎日パンを食べていて、そのとき必ずパンにマーガリンを塗っている。そのマーガリンに含まれるトランス脂肪酸を大量に摂取し続けると、ガンになるリスクが高まるらしいことは、随分前から知っていた。ただ、その程度のリスクは無視できるレベルだと思ってほとんど気にしていなかった。毎年受けている定期健診の結果も良好である。

本来ならこの手の本を読む必要はないのかもしれないが、ここ数年ほとんどの食事が外食になったことと、高カロリーの食べ物を食べ過ぎているせいで、食事に対する不安が少しだけ強くなっている。外食をすぐにやめるつもりはないが、自分が食べている食事の中のリスクを把握しておきたい。そんな風に思ってこの本を読んでみることにした。

かなりアジっぽい文章の連続で、読み始めるとすぐに「こりゃやべぇ!」という気持ちになる。僕の場合は、松永和紀の『 メディア・バイアス ― あやしい健康情報とニセ科学 』を先に読んでいるので、この手のアジを額面どおりには受け取らなくなっているものの、それでも著者のアドバイスを実践しようという気持ちになった(ひとまず、油を新しいオリーブオイルに変更w)。そういう意味では、この本は不安に対して一定の処方箋を与えくれるのだろう。

ただ、この手の話は原発の放射線の話とも同じで、何が安全で何が危険なのかがよくわからないことからくる不安である。怖がるのは大事だが、怖がりすぎて判断がつかなくなるのは問題なのだ。著者は安部司『食品の裏側 ― みんな大好きな食品添加物』の内容がよく取り上げられていたが、松永和紀氏は同書を批判的に取り上げており、そういう意味でも「食品添加物=悪」というイメージを単純に思い描くだけではいけないのだろう。

Posted by Syun Osawa at 00:22

2011年05月13日

exPoP!!!!! vol.48

2011年3月31日/19:00−22:30/渋谷 O-nest

3月11日の地震の影響で、ライブなどのイベントは軒並み中止になっているそうな。そんな音楽屋には厳しい状況下で、このフリーライブは開催されたようだ。ある出演バンドのボーカルの人が、今回はチャリティライブだと言っていた。今ライブをやれば、自動的にチャリティの流れになるのは避けられないのだろう。

とはいえ、お世辞にもたくさん儲けているとは言い難いバンドのライブを、チャリティライブと銘打たなければいけないのは、少し気の毒な気もする。だったら、僕がやっているような底辺リーマンの仕事も、すべてチャリティということで一部を還元したらいいじゃないかという話なわけで、もちろん僕はそんなことはしない。チャリティイベントによって得られる象徴資本が彼らのプラスになってくれることを祈るばかりである。

それはさておき、今回もだらだら夕飯を食ってたら、最初のバンド(多分、メトロオンゲン)を見逃した。で、会場到着後、すぐに始まったのが、THE UNIQUE STARだった。聴き始めてすぐに「凛として時雨?」と思ってしまうのは、僕がたくさんの音楽に触れていないせいである。男女のツインボーカルで激しめの曲をやるバンドと言えば、凛として時雨かHYかバービーボーイズしか思い浮かばないという貧しい脳みそを何とかせねばいかんな…。

…なんてことを思ってたら、wooderd chiarieが始まって、こちらは一転まったりした雰囲気に。このフリーライブに行くときはたいてい仕事帰りなので、まったりした曲が続くとつい眠くなってしまう。特にアルコールも入っているので、スタンディングじゃなければ、かなりいい感じに寝れたと思う(もちろん悪い意味じゃなく、心地よいという意味で)。

その次が、お目当てだった踊ってばかりの国。個人的にはツボなんだけど、若い人はどういう風に彼らの曲を聴いているのだろうか。僕の友達(もちろん、おっさんだ)にもこの手の曲が好きな人がいるので、誘えばよかったなと。

で、最後にカフカ。凄いバンド名つけるよなぁ。日本大学くらい堂々としている名前がすがすがしい。こちらのバンドもTHE UNIQUE STARと同様に男女のツインボーカルだった(流行ってるの?)。男女でボーカルを分担するスタイルは、受け入れられるかどうかはさておき、確実に音の幅を広げるよね。曲はキャッチな感じだったので、おっさんの僕にも聴きやすかった。

Posted by Syun Osawa at 00:40

2011年05月07日

切りとれ、あの祈る手を ― 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

佐々木中/2010年/河出書房新社/四六

切りとれ、あの祈る手を ― 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話佐々木中氏の名前はライムスターの宇多丸氏の何やらで知ったのだと思う。で、気になって彼の処女作『夜戦と永遠』をジュンク堂で手にとって見たが、かなり分厚く、内容も難しそうなのでそっと棚に戻した。まぁ…頭がいい人がヒップホップをやるというのは、いとうせいこう氏やライムスターがすでにそうなので驚きもないため、僕としては、ヒップホップの流儀を文章の世界にターンバックさせてきた人なのだな…くらいの認識で終わっていた。

それが少し前、東浩紀氏がtwitterで佐々木氏に過剰反応をしているツイートを見かけ、再び彼の名前を思い出した。何でも『切りとれ、あの祈る手を』という本が売れているらしいと。しかもそれが、あの狭い島宇宙の人たち(これは文芸批評を読む読者層を指しているのかな?)の溜飲を下げているらしいと。東ウォッチャーの僕としては、これは読まないわけにはいかない。ジュンク堂でチラ見したところ、僕にも読めそうな文体で書かれており、とりあえず読んでみることにした。

いつものごとく長い前置きを書いているのは、これといった感想が浮かんでいないからだ。読んでいて気持ちのいい本だったとは思う。かなり熱気があり、読んでいるうちに僕の気持ちも熱くなってくる。そんな本だった。熱くなったんだから、それでいいじゃないか、という気もしないではないが、今の僕がそれを求めているのかな? と自分に問うてみれば、素直に「はい」と言いたくない気持ちも残る。

この気持ちのモヤモヤは、恐らく彼の言葉の中に古い左翼の教条主義の変種を見てしまっているからだろう。偉人達の言葉も美の捉え方も、その内容自体に異議があるわけではない。彼の言うロマンチックな〈革命〉に心躍らされている自分もいる。でも、僕が生きている現実の中で、彼の言葉の役割について考えると、少なくとも僕にとっては、心の処方箋としての機能しかないように感じられた。

もちろんその機能は必要だ。僕がやり直し系の物理なんかをやるときも、入門書ではなく導入本(例えば漫画教材とか)を読んでモチベーションを上げるし、それが最も根源的な一歩と言われればそうかもしれない。ただし、神様は非情で、いくら古典を読み返したところで、目の前の現実をどうにかしてくれるわけではないのもまた事実だろう。この本では、その困難な現実を力技でマッピングして乗り切ろうという言論人(社会学化の流れを助長している人たち)を、巧みな形でディスっていて、そこで流されている言葉の軽さを諌めているようにも見える。

しかし、これでは最初の一歩がなかなか踏み出せないのではないだろうか。なぜなら、その一歩が軽薄な一歩のように思えて、踏みとどまってしまうからだ。そして、次の一歩が決して軽薄なものにならないように古典を学び、モチベーションを上げていく。しかし、学べば学ぶほどハードルが上がり、ますます一歩が踏み出せない。こういうおかしなループ状態に陥ってしまいそうな気がして、なんだかスッキリしない読後感が残ってしまったのである。

まぁ、そんな風な印象を持たれることは、この本の本意ではないだろうな。うーむ。この著者は小説なども書いてるらしいので、次はそちらを読んでみるかな。

Posted by Syun Osawa at 15:58