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2012年08月30日

賭けの考え方

イアン・テイラー、マシュー・ヒルガー/訳:フジタカシ
/2011年/パンローリング/四六

賭けの考え方朝1時間早く起きて本を読むことにした。

これまでは会社帰りに立ち寄ったベローチェで1時間ほど本を読んでいたのだが、仕事の疲れで本を読みながら寝てしまうことが多くなったため、仕事前に読むことにしたのである。始めてみたらこれがなかなか快適だ。朝のベローチェ(結局ベローチェというのが悲しいところだ)はまわりも静かなので、集中して本を読むことができる。もっと早く気づくべきだった。

で、本の感想。

この本はポーカーのプロとして生きていくための方法論が書かれている。日本で言えばパチプロとして生きていくための指南書みたいなものだろうか。僕はポーカーをやらないので具体的なゲームの話はサラッと読み飛ばしつつ、相手との駆け引きとか、勝負の肝の見定め方といった、心理的な側面について書かれている部分を読んだ。

その要旨がAmazonの本の紹介文に完結にまとめられていたので、そのまま引用する。ぶっちゃけ、ポーカーをしない人はこの部分だけ理解しておけば本を読む必要はないようにも思う。

・さまざまな現実を理解し受け入れる
・長期的視野でプレイする
・金を儲けることよりも正しい決断を下すことを優先させる
・金への執着を捨てる
・自尊心を持ち込まない
・あらゆる感情を決断から排除する
・分析と改善のサイクルを継続的に繰り返す

まぁ、もっともだと思う。中でも特に納得させられたのは「あらゆる感情を決断から排除する」という箇所だった。感情というのは、自分の内側で起きる何かであるが、それをコントロールすることは難しい。にもかかわらず、人が何かを決断するときに感情に左右されてしまう。正確には感情によって左右された決断を、後付けのロジックで根拠付けている。このことを念頭においておかないと、自分が選んだ選択が正しい決断ではなく、ただの願望によって決断していることに気づかなくなるのだ。

だからこそ自分がどういう感情を持ちやすいかを客観的に知っておく必要があるし、それをコントロールするための方法についても検討しておかなければならない。これはとてつもなく難しい課題だが、少なくとも湧き上がる感情は僕にはどうすることはできないということを知っているだけでも全然違うし、その感情をできるだけ客観的に受け入れながら、次の展開を模索するだけでもグッと心にゆとりができてくるはずだ。

ポーカーの勝ち負けはともかくとして、未来の見えない日本社会を一人たくましくサヴァイブしていくためにも、心を強くすることの重要性を切実に考えさせられた本だった。

Posted by Syun Osawa at 23:44

2012年08月28日

戦争がつくる女性像

若桑みどり/2000年/筑摩書房/文庫

戦争がつくる女性像サブタイトルは、「第二次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ」。長いこと読もう読もうと思って、ずっとテレビの前に積まれていた本をようやく読んだ。最近はアイドルを追いかけすぎて、自分のライフワークの一つである 戦争と芸術 に関する勉強をまったくしていなかった。そのため、何を主軸に書いていいのかもわからないのだが、とりあえず忘却録のために今思っていることを書いておきたい。

この本は第二次世界大戦時の日本における戦争と美術の関係、特に女性を戦争に誘導したプロパガンダ美術とその影響について具体的な例を挙げながら考察を行い、戦時中に作り出された女性像を明らかにしようとしている。僕が追いかけていた戦争記録画のほとんどが戦場で活躍する日本兵士を描いた絵だったこともあって、戦時下を生きる女性や子どもにスポットを当てた著者の視点はとても興味深いものだった。

著者は戦争記録画に描かれている女性が「強さ」と「優しさ」を兼ね備えていることを指摘している。男性が戦争に行っている間、女性が留守を守らなければならないため、これまで男性がやっていた仕事も女性が請け負わねばならなかった。そのため、戦時下において女性は優しくか弱い存在ではいられなかったのだ。その結果「強さ」の意味が拡大解釈され、女性の社会参画が進むことになり、当時の進歩的な女性たちも積極的に戦争に協力したという話である。

戦争が女性の社会進出を促し、それを絵画やポスターに描かれた女性像が日本の女性のイメージを補強したと考えれば、たしかに絵はプロパガンダ芸術としての役割を帯びていたのかもしれない。ただし、プロパガンダと言うだけであれば、敵国の兵士に女性が蹂躙されるような絵のほうがはるかにプロパガンダとしての効果はあっただろう。戦前のプロレタリア映画のように社会に蔓延する苦しみを映し出したほうが、多くの国民の感情が喚起されるからだ。

また、2005年に見に行った ベトナム近代絵画展 では、ライフルを持って戦うたくましい女性ゲリラの絵が展示されており、日本の戦争画よりもはるかに女性の強さが描かれていた。社会進出という意味では、こちらのほうがはるかに強い女性像を描いており、欧米の戦争画に近い印象を受ける。そういう意味で、女性の描かれた戦争画の多くは家父長制度を乗り越えておらず、規範的なイメージに留まっていたように思った。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 23:46

グループアイドル進化論 〜「アイドル戦国時代」がやってきた!〜

岡島紳士、岡田康宏/2011年/毎日コミュニケーションズ/新書

グループアイドル進化論 〜 「アイドル戦国時代」がやってきた! 〜wikipediaの焼き直しみたいな内容だった。もちろん悪い意味ではなく、結果論というか、そうなった事実の断片を羅列しただけのように見えてしまった。恐らくそう感じたのは、石井光太ノンフィクション講座 第2回 に参加したせいだろう。

ノンフィクションとして書き起こすならば、それなりに自分でコンテクストを構築する必要があり、そこに作家性も生まれるはずだ。そこが曖昧なまま、ネット(はっきり言ってしまえば2chの狼板など)をかなりのレベルで参照しながら出された後出しじゃんけんにどれほど意味があるのかは僕にはわからない。少なくとも進化論と名づけるのならば、勇気を持ってその進化の部分を論じて欲しかったと思う。

ただ、インタビューの部分はなかなか面白かった。TIFのプロデューサーのインタビューの中で、第1回の2010年当初からハロプロは参加の意向を示していたと書かれており興味深かった。残念ながらハロコンとの兼ね合いで参加は叶わなかったが、この前の 第2回 アイドル横丁祭!! 〜生バンドスペシャル〜 に℃-uteが出演したレールはすでにこの頃から敷かれていたわけだ。

ハロプロはAKBと同じで外部をあまり参照せず、内向きの共同体を拡大させていくことで生き残りをはかっていたように思う。僕はこれはかなり成功していると思う。ただ、それによってできた他のアイドルグループとハロプロとの間にある溝がかなり深まってしまったことも事実だ。

その溝を埋めて同じゲームボードに立つのがいいのか、それともオリジナリティを保つためにあえてその溝を残して住み分けたほうがいいのか、このあたりの判断はとても難しいと思う。少なくとも2010年以降のハロプロ(というかUFA)は、その溝に数本の橋をわたして、他のグループと同じゲームボードに乗っかる機会をつくっている。このあたりの戦略は、ヲタが思っている以上にずっとセンシティブなのだと思う。

Posted by Syun Osawa at 01:04

2012年08月25日

サムスン式仕事の流儀 5年で一流社員になる

ムン・ヒョンジン/訳:吉原育子/2012年/サンマーク出版/四六

サムスン式仕事の流儀 5年で一流社員になるモーレツすぎる。

ビジネス書はたまに読む程度だし、読むとしてもいかに厳しい雇用状況の中でサヴァイブするかといった本しか読んでいないので、この本に書かれているような直球ストレートのボールに対して僕はただ立ち尽くすのみだった。このボールをガチコーンと打ち返せるような人って、僕と違って大学卒業当時から有名メーカーに勤務していて、わき目も振らずに仕事に没頭できるような人なのだろう。

もちろん、これはアジテーションのための本なので、わざとどぎつく書かれていることは百も承知なのだが、それでも大した能力もない一平卒がサヴァイブするための本としてはあまり適切ではないと思った。まず第一に、仕事に全精力を傾けられる心理状況を作るのが難しい。第二に、もし仮にそういう心理状況を作り、仕事に没頭したとして、それに答えてくれる会社であるかどうかも疑わしい。

著者のいたサムスン電子は今や韓国の枠とを飛び越え、世界的な一流メーカーである。そして、サムスン電子が大きくなる過程と、彼がモーレツに働いた時期が上手く重なったからこそ語れる話なのではないだろうか。日本でも、高度経済成長時代に各新興メーカーが大きくなっていく姿を追った『プロジェクトX 挑戦者たち』というドキュメンタリー番組が過去にシリーズで放送されていて、あれとほとんど同じような話のようにも思える。

いずれにせよ、ちょっと読んでみたらとんでもなく熱いことが書かれていて、仕事へのモチベーションも薄く、できるだけ波風立てずに静かに生きたいだけのおっさんには刺激が強する本だった。

Posted by Syun Osawa at 00:33

2012年08月23日

絶望の国の幸福な若者たち

古市憲寿/2011年/講談社/四六

絶望の国の幸福な若者たち彼の文章を最初に読んだのは、講談社のノンフィクション誌『 g2 vol.6 』に書かれた「ポスト1991・27歳天才起業家の物語」という記事だったと思う。これが自意識全開のつまんない内容だったので、ファーストコンタクトはあまりよろしくなかった。

ただ、彼が宇野常寛さん、荻上チキさん、濱野智史さんといった、これまで若手評論家と言われたポジションの人たちのさらに下の世代として登場してきたこともあって、彼の言葉がメディアでよく取り上げられていた。ファーストコンタクトはどうであれ、若い子の言葉は若い子から聞くしかなく、僕にとってもいつしか無視できない存在になっていたわけだ。

…という、長い前置き(言い訳)の上で読んだのがこの本だった。彼は宇野さんのように「サヴァイブ、サヴァイブ」言わず、世間は世知辛いけどそれなりに幸せに生きていこうというささやかな論を展開していて、『 g2 vol.6 』の時と同様に読後感はかったるい感じではあった。ただ、僕が最初に抱いた自意識の面倒臭さみたいなものは、筆者のほうでも十分に理解しており、そこは上手く脱臼させていた。むしろ、その脱臼のさせ方にこそこの人の真骨頂はあるのかもしれない。

ただ、まぁ…なんだろうなぁ。感想も思い浮かばないやw

Posted by Syun Osawa at 01:38

2012年08月21日

石井光太ノンフィクション講座 第2回

2012年3月25日/14:00−17:30/青山シナリオセンター

シナリオ・センター

さくら学院の卒業ライブに行けなかったから、その代替イベントとして参加したわけではもちろんない。ノンフィクション誌『g』に掲載されていたルポで石井さんの文章が好きになり、そこからこの講座にたどり着いたのである。しかも今回は『 ドキュメント戦争広告代理店 』の高木徹さんと写真家の藤原新也さんとの対談形式の講座で、かなり僕得だった。

石井浩太×高木徹

最初はNHKディレクターの高木徹さんで、『 ドキュメント戦争広告代理店 』が書かれるまでの話をされていた。この本では、コソボ紛争においてアメリカのPR会社がセルビアを悪玉に仕立てていく様子が克明に書かれていて、その取材力の高さに驚かされる。その充実した情報量の背景には、PR会社に勤めていたジム・ハーフ氏から入手した大量の関連資料があったらしい。この資料を手に入れた瞬間に高木さんは「勝った」と思ったそうだ。

とはいえ、それを本にするのは大変な労力があったはずだ。書籍化がもともと決まっていたわけではなく、本人が直接出版社へ持ち込んだことで実現した。しかも、最初の1章は2週間で書き上げたそうな。平日はNHKでの通常業務をこなしながら、週末に文章を書くというのはかなりの労力が伴うはずで、そのバイタリティは凄いと思う。

対談の中で、どういったことを本にするのかという話になったとき、石井氏が「最初の先入観が裏切られたことを本にする」と言ったことに対して、高木氏が「先入観なしで単純に驚いたことを本にする」と言っていたのが興味深かった。

石井浩太×藤原新也

続いて、写真家で作家の藤原新也さん。藤原さんのことは 新風舎騒動 のときに知ったくらいで、あまり詳しくない。それでも、少し遅れて会場入りした藤原氏をひと目見て、すぐにこの人だとわかるような独特のオーラがあった。

講座の内容は藤原氏が処女作『東京漂流』を書くまでの話がメインだった。感心させられるのは藤原さんの行動力だ。サラリーマン特有の帰納法的な考え方で動くのではなく、自分の思うまま行き当たりばったりで演繹的に動く。これは、同じ東京藝大出身の村上隆さんと通じるものがある。物書きとしてデビューする経緯も、写真家としてデビューする経緯も、結果そうなったとしか言いようがなく、しかし、その結果を呼び込んだのは彼の豊かな感性とまっすぐな行動力に他ならない。これは目の前にある成果を掴むための最も重要な要素なのだと思う。

藤原さんはほとんどメモを取らないらしく、取材後に自分の中で組み立てたストーリーを軸に文章を書くのだそうな。記憶を掘り起こして、想像によってクリエイションしたほうが、結果として真に迫ることがあるのだ。

これを「脚色」として批判する人もいるのかもしれないが、ノンフィクションにおける脚色については今回登壇した全員が肯定的に捉えていた。というのも、事実は断片でしかないため、それを繋ぎ合わせて再構成しなければノンフィクションにならず、その構成に脚色が入ることは避けられないからだ。もしかしたら、ノンフィクション作家としての作家性はそこにこそ宿るのかもしれない。

Posted by Syun Osawa at 00:02

2012年08月17日

社会の真実の見つけ方

堤未果/2011年/岩波書店/新書

社会の真実の見つけ方 なんとこの本、ジュニア新書から出ている。

にもかかわらず、彼女の著書『 ルポ貧困大国アメリカ 』や湯浅誠さんとの共著『 正社員が没落する 』と比べても、子ども向きといった内容ではない。おっさんの僕が読んでも十分にためになる本だった。

この本では、大阪の橋下市長が教育現場に競争現場に持ち込もうとしていることについて、アメリカの教育現場を例にとって批判している。橋下市長は好きな政治家の一人だが、この点に関しては堤さんの意見に同意したい。というのも、ひと昔前に流行ったフィンランド・メソッドに代表されるように、競争のあり方そのものを見直す方向にも学力低下改善の糸口があるように思うからだ。

競争原理が子どもの教育に上手く作用すればいいが、その競争原理が教育現場を荒廃させる可能性は否定できない。だからといってゆとり教育を推し進め、心の教育のような曖昧な教育を前面化することにも賛成できない。ではどうすればいいのか? 僕はこの問いに対して明快な意見を持っているわけではないが、岡本薫『 日本を滅ぼす教育論議 』あたりに書かれているように、何でもかんでも教育現場で解決しようとしないことが肝要なのではないかと思う。

本来、僕らが教育と呼んでいるものは学校現場だけで実現されるものではなく、家庭や近隣住民の中間共同体を含めた場所で実現されるものである。学校以外の部分で失っていった教育の機会をどのように取り戻すか、そして、学校にかかる教育の負担をどれだけ軽減するか。教育に対する視野を学力以外にも広げるのなら、そうした問いに立ち向かうほうがはるかに建設的だと思う。学びの環境を整え、教師の生徒指導の負担を減らし、学校では勉強することに専念してもらう。こうした方法でも学力は向上すると思うがどうだろうか。

Posted by Syun Osawa at 00:59

2012年08月16日

ジャクソン・ポロック展

2012年2月10日−5月6日/東京国立近代美術館

ジャクソン・ポロック展ジャクソン・ポロックの絵に向き合ったのは12年ぶりだ。

12年前、大学を卒業してすぐロンドンに行った僕は、テート美術館で開催されていたジャクソン・ポロック展を見に行った。その頃の僕は抽象画があまり得意ではなく、唯一楽しんで見れるのはカンディンスキーくらいだった。そのため、テート美術館自体を満喫できればそれでいいや、という気分だった。そもそも僕はジャクソン・ポロックを知らなかった。

テート美術館内に入ると絵なのか何なのかわからない色の塊りが巨大な壁に張り付いていて度肝を抜かれた。そして、一瞬にして彼の絵の持つパワーに飲み込まれてしまった。何かが描かれているというよりは、目の前の平面からエネルギーが放出されているような強いインパクトがあり、巨大なキャンパスに飲み込まれそうな不思議な感覚を抱いたことを覚えている。また、めちゃめちゃにぶちまけられた様々な色の流線に、必然と偶然の間を行き来するような妙な美意識を感じたりもした。

あれから12年、僕もいろんな絵を見て、抽象画についても少しだけ知恵をつけたように思う。村上隆『 芸術起業論 』あたりを読んだころから、少しずつ現代アートも見るようになったし、その裏側にある美術マーケットについて意識するようになった。そういう視点で今回展示されたポロックの作品を眺めると、12年前とは違ったポロックが見えてきた気がする。

一見、不規則に落とし込まれたように見えるペンキの線はもちろん無意識によって落とされたものではない。恣意的にその場所に落とされている。館内で上映されていたドキュメンタリー映像を見ると、ポロックは何度も筆で塗り直しもしており、完成した絵のコンポジションを重要視していたことが伺える。

絵を描いているという描画行為そのものを見せるアクション・ペインティングという手法を採用したのも、当時の美術マーケットの流行が大きく影響しているのだろう。こうした点から、彼は美術界でいかに勝つかを考え続けていた人なんだな、ということを思った。

今回の展示会の目玉である《インディアンレッドの地の壁画》(テヘラン現代美術館所蔵)はえんじ色の下地の上に白いペンキが全体を覆っている絵だ。黄色と黒のアクセントが素晴らしく、非常に緊張感のある画面構成になっている。そこには無意識の感性よりも、強い意志が感じられる。ここに彼の抽象画の肝があるのかもしれない。

抽象画という素人の僕には理解し難いスタイルの裏側には美術界のコンテクストがあり、それが表裏の関係で密接に結びついている。そして、そのルールをベタに引き受け、愚直に格闘し、成功したのがジャクソン・ポロックだったのではないのか。そんなことを思った。

Posted by Syun Osawa at 09:42

2012年08月01日

すべてのアイドルはアイドルヲタになる

アイドル好きを公言するアイドルが増えて久しい。AKBグループの中にハロープロジェクトのファンを公言するメンバーがたくさんいることはよく知られているし、ハロプロの中でもBerryz工房の熊井友理奈さんを推すスマイレージの福田花音さんなどは有名なヲタアイドルである。

最近では、モーニング娘。の9期メンバーの生田衣梨奈さんが同じグループの5期メンバー新垣理沙さんをファンであることを公言し、新垣さんのバスツアーにファンとして参加して話題になった。僕も2chの実況スレをリアルタイムにチェックし、その目新しい行動を楽しんだ一人である。

そうした状況に対して、モーニング娘。の新リーダーになった道重さゆみさんはアイドルは「ステージの側にいてほしい」と言っている。道重さん自身、同じグループのメンバーである鞘師里穂さんを溺愛し、常にブログでその心情を吐露しているため、「お前が言うな!」的な突っ込みは免れないとはいえ、あくまでネタとして通用できるところに留めているが彼女なりのさじ加減と言うべきなのかもしれない。

この話にオチはない。

…というよりも、オチを決めて書き始めていないので、結論がまったくどこへいくかもわからないのだが、ともかくアイドル業界というコミュニティの中で自己完結するようなコミュニケーションが増えているようには感じられる。芸能界全体を見渡せば、歌の上手い歌手はたくさんいるし、踊れるダンサーもいれば、女優もいる。にもかかわらず、あくまでアイドルという領域の中に目指すべき目標を設定するのは、なぜだろうか?

アイドルとは何か?

この素朴な問いには明快な定義などないが、10代の頃に青年誌やアイドル雑誌に出ていたような人も、タレント、女優、歌手といった肩書きの中で活躍するようになる。アイドルグループの場合それは顕著で、アイドルグループを卒業した瞬間にアイドルというタグが静かに外され、別の肩書きがタグとして貼り付くことになるのである。

そうであるならば、アイドルとはあくまである一時期の通過するべき何かなのであって、そこが最終的な目標ではないはずだ。しかし、多くの子はアイドルに憧れ、アイドルを目指す。このマッチポンプ的なクローズドコミュニティは、芸能界というコミュニティとは少し異なる輪郭を持っているように思える。

うーむ。考えがまとまらない。

インディーズで活動するアイドルを含めて考えれば、彼女たちの大半が学生であり、アイドルとしての活動から得られる収入も極めて少ない。当然のことながら、それを職業とすることは出来ないため、学生という属性から離れた場合、親元でそれを続けるか、バイトをしながらそれを続けることになる。

…いや、この方向でもないな。

「人はなぜ彼女たちをアイドルと呼ぶのか?」

こっちかもしれない。いや、違うかもしれない。タイトルだけ決めて書き始めれば、考えがまとまるだろうというのは甘い考えだったようだ。僕はいま酷く混乱し、何を考えて書き始めたのかもわからなくなってしまった。足りない脳みそを無理にフル回転させるからこういうことになるのである。考えたいのはアイドルを取り巻くコミュニティについてだ。しかし、僕にはハードルが高すぎた。

Posted by Syun Osawa at 02:55