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2014年11月19日

B BOY PARK 2012

2012年8月19日/18:00(途中参加)−20:00/代々木公園 野外ステージ

HUB I SCREAM

ベルサール秋葉原 から代々木公園野外ステージへ。さすがに客層が全然違う。ただし1点だけ共通してることがあって、それはアキバ系のヲタもB-BOY系のヲタもみんな歳を取ってるってことかな(苦笑) 般若もMCで業界の世代交代や低年齢化が必要だと訴えていたし、この問題は日本の文化コンテンツ全般に言えることなのだろう。

僕が来たときにちょうどHUB I SCREAMがやっていて、そのあとNIPS、高木完、GK MAYAN、DABO、SEEDA、DELI、西成、般若、キングギドラと続いた。西成と般若の掛け合いが凄く良くて、ここが本日の見せ場だと思ってたからかなり高まっていたら、そこにキングギドラが出てきた。この2段ブースターは秋葉原での記憶が吹き飛ぶほど凄かった。熱狂というのはまさにこういうことをいうのだ。

西成、般若

西成、般若(裸はデフォですね)

キングギドラ

キングギドラ(レア!)

あとはSEEDAの「花と雨」がこの日のライブで一番泣けた。

最初に触れた高齢化の話に戻す。90年代から00年代前半にかけて日本のトップチャートにヒップホップグループが名を連ねていたことを考えれば、日本のヒップホップを取り巻く環境は少しずつ厳しくなっている。新しい世代のグループが古い世代のグループを淘汰していくという新陳代謝があまりみられないことも一つの要因だろう。

また、ゼロ年代はマスを捉えるような音楽が快調に下火になり、音楽のタコツボ化が一層すすんだと言う人もいる。そのときにヒップホップのタコツボよりもアニメ系など他のタコツボのほうが大きかったことが露になっただけなのかもしれない。

ヒップホップのコミュニティがどういった意思で形成されているのかを僕は知らないが、あえて恣意的に捉えるなら「自分たちの主張はハイエンドであるという自意識と、常にマイノリティでありたいという選民意識が共存しているコミュニティ」といったところだろうか。そうであれば、コミュニティを単なる数字で考える思想は貧しいし、そう捉えるべきではないのかもしれない。

そんなまとまらないことを考えていた。ヒップホップ・コミュニティは家族や仲間を大事にしているようなメッセージに溢れているが、一方で少し排他的な選民的自意識で成り立っているような印象も常にある。というようなことを、相変わらず思ったりしていた。

Posted by Syun Osawa at 01:38

2014年11月10日

バーン・ジョーンズ展

2012年8月19日/10:00−17:00/三菱一号館美術館

バーン・ジョーンズ展

最終日に参戦。初めて訪れた三菱一号館美術館は東京駅近くのビル群の中にあった。19世紀後半のイギリスで流行したクイーン・アン様式で建てられた外観も美しかったが、それ以上に中庭が美しく、外部の高層ビルや喧騒とのギャップがとてもいいコントラストとなっていた。東京駅近くでデートするなら、ここでコーヒーを飲むのがオシャレなのかもね。

そんな三菱一号館美術館で開催されていたのが、ラファエル前派の代表的な画家・エドワード・バーン=ジョーンズの展覧会だ。川村錠一郎『 世紀末美術の楽しみ方 』を読んで以来、象徴派やラファエル前派あたりの絵画に興味を持つようになった。

これらの絵画は、抽象画へと向かう19世紀末の絵画の流行に反するかのように、架空の世界が細密な描写で劇的に描かれた。そのため絵画技法に対するこだわりがない僕のような素人にも十分に楽しめるのだ。

手塚治虫などが作り上げたキャラクター漫画と1950年代に辰巳ヨシヒロが提唱したストーリー重視の「劇画」とが溶け合ってできた今のマンガ界に倣って、バーン・ジョーンズの絵画と日本の現代美術が強引に接続されていれば、もしかしたらリアリズムを重視したキャラクター絵画という世界が立ち上がっていてもおかしくなかったなと…そんな妄想が勝手に膨らんでしまった。

Posted by Syun Osawa at 01:35

2014年11月05日

コンテンポラリーアニメーション入門 第10回

2012年8月18日/15:00−19:00/東京藝術大学 馬車道校

第10回講座は『ピンスクリーンの伝承』と題して、ミシェル・レミュー氏を迎えての特別講義だった。毎度の事ながら無料とは思えない豪華さで、ただただ東京藝大と山村浩二氏に感謝。残念なことに FREEDOMMUNE 0<ZERO> A NEW ZERO 2012 でメガネをなくして、その後まだ新しいメガネを受け取っていなかったため、映像をじっくり堪能できなかったのが悔やまれる。

ミシェル・レミュー氏は絵本作家として長く活躍されている方で、2003年に公開された『ストーミー・ナイト』が初めてのアニメーション作品とのこと。自分の絵本を自分でアニメにするという手腕に驚かされる。日本だと個人製作系のアニメ作家が自分の作品を絵本にすることがあるが、あれはいわゆるメディアミックスの手法だ。この手法に倣うなら彼女の作品はアニメの制作会社がアニメ化していても不思議ではないのだが、自分の力でアニメ化してしまうところに彼女の凄さがあるのだろう。まさにクリエイターである。

しかも第2作目となる『此処と大いなる何処か』は画風を一気に変えて、ピンスクリーンによる作品だった。ピンスクリーンというのは針で埋め尽くされた平板で、針の高さを微妙に調整することで陰影をつくって絵を描いて動かす手法だ。CG全盛の時代に気の遠くなるような手法をあえて選べるところも凄いし、元々優れたイラストレーターであるにもかかわらずサクッと技法を変えられるところも凄い。

彼女の作ったアニメーション作品以前にその作品を作る前にある壁の高さにたじろぐことなく、グングンとその壁を駆け上がって作品を作っていくその姿勢に作家としての魂を見た気がした。

Posted by Syun Osawa at 21:13

狂骨の夢

京極夏彦/1995年/講談社/新書

狂骨の夢姑獲鳥の夏 』、『 魍魎の匣 』と読んできて3冊目の京極本。小説をあまり読まない僕にはちょっと長くて複雑すぎたかな。

新本格というジャンルは謎解きの部分をがっつり引き受けているので、そっち向けのファンを納得させるためにはさまざまな仕掛けが必要なのだろう。そういう意味では3冊目にこういう複雑な設定をもってきたのはファンへのコール&レスポンスとして正しいのだと思う。

僕の場合は他の本を途中に挟みながら読んでしまったこともあって、何度も複線を見失ってしまった。何の話かを思い出しながら読むという体たらくでは、この本の良さを十分に体感できたとは言えず、読書そのものに対する反省ばかりが募った本だった。

しかしながら、そんなぐずぐずな読書でも最後まで読ませてしまうところが京極夏彦の凄さなのかもしれない。パズル的な楽しさをゲームのように全面展開するのではなく、表出されているのはあくまでドラマのほうであって、艶のある文章でストーリーを引っ張ってくれたため、小説をあまり読まない僕でも十分に楽しめた。いつものメンバーがあまり登場しなかったのはちょっと物足りなかったけどね。

Posted by Syun Osawa at 21:04