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サブカル「真」論 2 メモ

ローテクの新人類、中森明夫、宮崎哲弥、宮台真司の三人で行われた、最も「今」っぽいトークショー。キャパ300人くらいの小ホールでしたが満員でした。結構楽しい内容でしたので、少しだけ内容を。メモの羅列ですので雰囲気だけお楽しみ頂ければと思います。詳細については後にウェイツから発行されるであろう本で読んでください。

(サブカルの問題点)
今のサブカルはタコツボ化しており、80年代に何となくあったはずの共通言語を持ちえていない。

【宮台】
「豊かだけどどつまらない」現実について。
80年的なものとしてハルマゲドン待望論があり、その中にオウムもあった。
豊かなことだけで満足できないのは、僕達が大人になりきれていない(もしくはロリコンやマザコン)ということなのか? サブカルの再構築を模索することは傷をなめあうだけのことなのかどうか? 一般論として通るのか?

小林よしのりは「サブカルチャーと言いながら、すでにメインが無い」と言い、サブカルは横並びの戯れでしかない現実がある。では何を復権するのか?

【中森】
『朝日ジャーナル』でフリーライターとして活動していた頃。紀伊國屋新宿店のサブカル棚の名称は「スーパーエッセイ」だった。
当時、新人類と言われていた事について。当時はフリーで食っていければいいやという程度の気持ち、そして82年に友人とコミケットに行きショックを受ける。差別的な意味で「オタク」と名付けた。ロリコン雑誌『ブリッコ』で大塚英志によって中森の連載が打ち切られたことについて。(こちらは大塚の『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』講談社現代新書に詳しい)

【宮崎】
僕がサブカルを語っていいのかどうかは疑問。中森さんは僕が学生時代のスターだった。オウムのような非日常性(超越性)に対する憧れというよりは、ヘーゲル現象学と松本伊代が同列に並べられる暴力性に憧れた。何でも並列化。
「80年代に何となくあったはずの共通言語」とは、その当時まだ残っていた差別意識や排他性によって生まれた共同性のことか? それがサブカルか?

【宮台】
80年代半ばまでは確かにあった。後半からは消えていったように思う。厳しいチェックディスコ(よーするにダサいヤツは入れないということですな)として名を馳せ、芸能人や野球選手御用達の派手なディスコとして知られていた「トゥーリア」で起きた照明落下事件。この事件で亡くなったのは群馬や埼玉の人だった。(つまり、排他性のシンボルとして機能していたはずのディスコの排他性が喪失してしまった)この事件を契機に80年代的サブカルに引導を渡したいと思うようになった。

【中森】
「先端を行く」という姿勢、態度がジャンルの一つになってしまった。昔は前衛という言葉があったが、すでに「後衛」なるもは存在せず、歴史的事実としても多くの前衛者から転向が相次ぐ。(共感できます、はい。)

【中森】
まだ宅八郎と仲が良かったときの話(僕ですらタイムリーな世代ではないので、SPAからゴー宣あたりの経緯は、会場に来ていた人のほとんどはわかってないかも…)。田中康夫が岩波新書とヴィトンのバックが等価であるということを、岩波新書を読んでいる読者に対しやっていたことに対し、中森は宅に「岩波新書とヴィトンが等価なら、ヴィトンのバックと三平ストアの袋も等価だと言えばいい」とアドバイス。時代を眺めれば、そうした言葉すら現実のものとなり、ユニクロが流行。

【宮台】
自分達は全共闘世代の下の世代(40代)。反全共闘世代としての立場。団塊の世代に対してのサブカルが80年代(その世代が20代だった頃)にあった。思い出としては、70年代の後半、東大の学生だったときに一度は左翼運動に身を置いたこともあった。しかし、こいつらはただモテないから、そのルサンチマンでこんな運動をやってるんだと思うようになった。

【宮崎】
モテないからってのは、今もみんなそうじゃない?

【宮台】
今はそうではない。モテないということがルサンチマンではなくなった。(ちなみにルサンチマンとは「現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のこと」らしい。)

【中森】
自分達の世代について。
「世界の中心で愛を叫ぶ」の片山君も僕らと同じ45歳。そして皇太子もそう。1960年生まれ。ちなみに今、世界で一番愛を叫んでいるのは、間違いなく彼でしょう。

【宮崎】
東京の中心で。

【中森】
みんな同じ世代。三島由紀夫は45歳で自殺した。ちなみに彼も「世界の中心で〜」というのを書いていた。

【宮台】
エヴァについて。
タイミングはオウムの後。アダルトチルドレン(イタい人達)は、エヴァの主人公の碇シンジがそう。現実を上手く生きれない者に対して、超越的なものを求める意識。しかし、オウム事件がありその方向は閉ざされた。僕は「上手く生きろよ」と。

【宮崎】
宝島は昔は左系。しかし90年代に転向。今はどちらかと言うと保守系の会社に。保守系の論壇誌というのは、自意識の補完物である。だから、2ちゃんねると上手く作用する。保守系の論壇誌が2ちゃんを擁護し、革新系の論壇誌が2ちゃんを非難するのが特徴的。

【中森】
宮台真司は存在自体がサブカル。「終わりなき日常を生きろ」でCDデビューさせたい。そうすればサブカルの極点(笑)

【宮崎】
宮台さんが朝生(テレビ朝日『朝まで生テレビ』)に出てきたときは、サブカルだなぁと思ったよなぁ。
宮台さんが朝生で西部邁に席を立たせたシーンはある意味で極点。(ちなみに、宮崎哲弥は西部邁に見出されて評論家になり、『宝島30』で書いていたわけです。この「どっちでもない」振る舞いが朝生の司会に向いてる最大の理由かもしれませんね)

【宮台】
僕の最初のテレビ出演はNHK教育。少女漫画研究家としてだった。その後、ブルセラ学者として有名になったが、それはメディアに登場する方法を模索してのこと。(このあたり、本人は自覚的にイロモノをやっていたという風に話しているが、他の二人はそういう無自覚な部分も含めてイロモノと捉えているようだ)しかし、90年代半ばに変わってしまった。サブカルとしての立場をとることに意味を見出せなくなった。

エヴァという作品は、オウム後に登場。しかしながら、80年代サブカルの逆ではなく、否定的継承としてあった(ちなみに『エヴァンゲリオン』の監督である庵野秀明も1960年生まれ。彼らと同じ世代。竹熊健太郎も1960年)。それが逆転して、今はただの「ベタ」が横行している。(例えば、日本語ラップなんかで、家族や友達を歌ったりとか。気志團もそうかも…)

【中森】
朝まで生テレビの話。姜尚中(カン・サンジュン)の声はガクトの声に似ている。あの時間帯はいろんな人が見ていて、水商売のお姉ちゃんなんかは内容うんぬんじゃなくて彼のサウンドに癒されてる。ところで、東浩紀なんかは朝生に出ないんだろうか? 出ればいいのに。

【宮崎】
彼は出ないんじゃないかなぁ。彼は「特定領域の逆切れタイプ」だから。

【不明(たぶん宮崎)】
世界と個人の自意識を繋ぐところに「サブカル」の存在がある。文化左翼とよばれる人たちが作り出してきた傾向がある。(このへんは思想うんぬんになるとわからないけど、よーするに反逆分子、抵抗分子としての立場がサブカルには含まれているのでしょう。大塚英志も戦争に動員されるより、「私のお兄ちゃん」に動員されている方がいいと言っていたし…)

【宮台】
「すべてが虚構」なんてもっともらしいことを言うヤツがいるが、そんなものは最初からわかっていること。近代を構築しているもの。

僕は設計主義。自分が弱いとうことがわかっているから、弱い自分を管理し、それによって成立している。乖離的なパーソナリティは社会適応の手段。転向を繰り返すのもそう。今僕がアジア主義や天皇主義を言っているのは、社会が変わらなければいけないという思い。(このあたりは賛否両論あるでしょう。でも少なくとも彼が若者の未来を真剣に考えていることだけは間違いないです。いい悪いは別にして。形骸化した倫理観しか述べず、結局自分が良ければいいという本音を懐に隠し持つ団塊の世代(右翼・左翼両方ね)の発言よりは耳を傾けたいという気持ちにさせます)

【中森】
「80年代はスカだった」という言葉が力を持つようになってしまったのは、たんにバブルがはじけたから。野球の合併の話。野球というスポーツはメインなのか、それともサブカルなのか? メインならば、なぜ公的資金を入れなかったのか?

(このあたりから話が散漫になってきてメモも脈絡がないなぁ…)

【宮崎】
今はインターネットで(プチ表現者になることによって)うまくガス抜きできてるんじゃないかな。だから静かに実現できてるかもしれない。

【宮台】
80年代は豊かだった。実際にどれくらいお金があるかというよりは、気分の問題が大きい。

【中森】
今の若者について。いま学校で生徒に宿題で文章を書かせると、かならずインターネットでキーワード検索をして、切り張りする。たとえば「地球と私」とすれば、20人中19人は「宇宙船地球号」を書いてくる。間違って1人が「地球船宇宙号」を書いてくる。小説は終った。綿矢、金原の話。早熟というが晩熟でしょ。あの歳でぜんぜん本を読んでない。

【宮台】
乖離について。僕は何度も「転向」を繰り返している。「ラフ」が広がっている。メンタルヘルス系。地面があるからたわむれることができる。しかし、今はその地面を確認できない。自分のポジショニングが不明になっている。ゲーム盤(地面のことですかね)がないと楽しめない。(よーするに、ウソでもいいから激しくイデオロギーがぶつかり合うような社会を構築したいということか)

【宮崎】
そこまでして、ゲーム盤を作る動機って何?

【宮台】
ネガティブを取り除き続けていくことに意味があるのか? むしろカオスを残すべき。(戦時中、多くの人々は平和を求めたし、戦後もなお不便さなどのネガティブ要素を取り除き続けてきたが、その結果が「つまらない社会」をもたらしているということでしょうかね? このあたりニヒリズム全開です。ちょっとヒキます)

【中森】
2ちゃんねるや新宿のロフトプラスワン(FLASH★BOMBも開催された歌舞伎町のライブハウス)も、出てきた当初は刺激的だったが、たちまち退屈な場所になってしまった。今は待っている時期かもしれない。待望論。誰かの登場を待っている時期。(80年代の人の発想ですなぁw)

【宮台】
(刺激を)作り出してもすぐに飽きてしまう。だからまた刺激を作る。このことはもはやルーティンにならざるを得ない。僕は「あえて」今、カオスを作り出したい。アジア主義や徴兵制を言っているのもそのため。(そんなことのために徴兵制にされるのも嫌ですが…)あえて生まれるカオス。例え虚構であったとしても、僕は軋轢を起こしたい。だから今は政府関係者と一緒にいろいろやっている。政治的に動くことで、ゲーム盤を作っている。(かなりキてますw)

【宮崎】
一般人の目線で見ると、サブカルが衰退しているというのは不思議に思うんじゃないか? アニメは国家事業になり、どちらかというと盛り上がっているようにもとれる。

【中森】
サブカルが産業化の枠の中に取り込まれてしまい、もはや「抵抗」ではない。(つまり、サブカルチャーじゃないって事ですね。その通りだと思います。)

【宮崎】
宮台さんが言っているような「コアな層」は本当にたくさんいるのだろうか?(このあたりの宮崎の質問は僕は「いいな」と思ったんですが、アッサリ流されてしまいました。)

【宮台】
カオスや混乱に強制的に巻き込まれたい。(もはや漫画の世界です。「めぞん一刻」「ラブひな」レベルの欲望を声を大にしていっている気もします)

【中森】
待望論の続き。いま窪塚はサブカル。彼は9階から飛び降りて死ななかった。彼がメディアに復活してくれば、それは間違いなくサブカルだろう。

(窪塚待望論みたいなところで時間がきてしまい、シンポジウムは終了。わかったようなわからないような話が続いておりましたが、なかなか面白いイベントでした。)

おわり。