bemod

2004年09月02日

『動物化するポストモダン』とその周辺

動物化するポストモダンタイムリーな本じゃないんですけど、図書館で見かけたので拝読。内容を事前に人から聞いていたこともあり、想像通りの内容に驚きはありませんでした。非常にシンプルでわかりやすかった事が、僕でも知るくらいに有名になった原因なのかな?

「動物化」とは欲望に忠実になるというような事で、そんなオタク事情を区分けした上で、こんなようなことを言っております。

シュミラークルの水準で生じる小さな物語への欲求とデータベースの水準で生じる大きな非物語への欲望のあいだのこの解離的な共存こそ、ポストモダンに生きる主体を一般的に特徴付ける構造だと筆者は考えている。

この一冊だけでは何なので、東浩紀氏のホームページで公開されている原稿の中でアニメ関係のものをいくつか読んでみました。(『存在論的、広告的、スーパーフラット的』『存在論的、広告的、キャラクター的』『コンピュータ文化なき日本』『見えるもの/見えないものの対立軸では、もはや世界は見えなくなっている』『唐沢俊一氏の「悪口」について 』『新たな時代に向かって』『データベース型世界へ』『萌える世界、さまよう作家性』『静かな昆虫的世界』『新しい批評のために』『データベース的動物の時代』『社会が動物化している』『ゲームの名のもとに』『立ちから萌えへ』『味気ないが満足はできる社会?』『堤清二の子どもたち』『自由と天皇のあいだで:『憲法対論』の宮台真司』『不純さに憑かれたミステリ』)

格闘技はどうだろう? 今も昔も「ヤオ(八百長の意味)か?」という精神は存在しています。だからと言ってイラク武装勢力による人質首切りビデオみたいなリアルファイトが見たいわけではありません。

演歌はどうだろう? 「親父」「桜」「酒」などのキーワードや、特定のコード進行による「萌え」にも似た感情は昔から存在しています。

わかりやすいんだけれど、何と言うか俯瞰されている感じがオタクな僕には楽しくない気がします。「おたく」という言葉は登場し、僕らが納得する程度の具体的事例は登場するのだけれど、何か飲み込めない。東浩紀が作ったコロニーの中のおたくを外から勝手に眺めて、勝手に絶望している感じでしょうか。僕はそんなことにすら気づかずただ毎日を生きているわけですけれど、僕は彼のいう「おたく」に果たして該当しているんだろうか? そもそも彼の言っている「おたく」とは誰なんだろう? 僕にはよくわからない。

Posted by Syun Osawa at 11:18