bemod

2005年01月13日

美少女ゲームの臨界点+1

波状言論編集部編/波状ブックス

美少女ゲームの臨界点+1コミケ67で買った同人誌。『美少女ゲームの臨界点』が高かったので、安かった新刊『+1』を購入。DTPを含めかなりレベルの高い本に仕上がっていてちょっと驚いた(当たり前か)。

僕の美少女ゲーム体験といえば、『闘神都市』『同級生』あたりから『雫』『痕』『ONE』『アトラクナクア』までといった風なので、それ以外は名前くらいしか知らない。そして自分がプレイしたゲームの記憶もほとんどない。なぜなら本書で表現されるところの「掛け合い漫才」が苦ですぐに投げ出してしまったからだ(エロシーンを除いては)。ただし『雫』と『痕』はエロ以外のところに引かれ最後までプレイした(そしてビジュアルゲームを自分で作ってみたりもした)。

その当時は、たしかにネットで熱い議論がされていたし、SS(二次創作小説)の投稿がブームとなっていた。だが、これほど批評の対象となるような要素(本書ではメタ的と書かれている)のある代物だとは思っていなかったし、ぶっちゃけこの本を読むまでは無理やりに批評の対象にしているのだと思っていた。でもどうやらそうでもないらしい。そして東浩紀は本当に美少女ゲームが好きらしい。

ちょっと気にかかる点もあった。美少女ゲームがわからないので、ただ読んだだけの印象論であることを断っておくが、例えば前島賢氏の言葉。

「二次元のキャラクターは、その魅力がわからない人間には不気味なものにしか見えない。だから私達は、つねに、オタクをやめるか、オタクとして社会から排除されるか、あるいは、――現在のオタクたちが無意識に欲望し始めているように――この社会全体をオタク化してしまうか、という選択を迫られている。」

オタクが動物的に「欲求」していたら、知らぬ間に社会がオタク化していたというのではなく、美少女ゲームの価値観を会社の上司、異性の同僚、地元の友達、恋人なんかと共有できたらいいのになぁとオタクが主体的に欲望し始めているという事なのだろうか。そしてその選択がお前らオタクに迫られているんだと(ちょっとマッチョに)。そうかなぁ。

東浩紀=北一輝ではないにせよ、彼が「僕たちは、作品世界の外側=現実に生きるというその条件を変えないまま、虚構に生きるキャラクターたちとともに歩んでいくことができる。」という形の感情移入を肯定することにより、一部の熱狂した若者たちはその思想を支えに美少女ゲーム革命を夢みているような空気をどこか感じる。歴史を捏造してでも…というような妙なヤツが現れたりして。

でも、オタクって本当にそんなことを望んでいるのかな? ニトロプラスのシナリオライター虚淵玄氏は本書のインタビューの中でこんなことを言っている。

「自分がいま、ものを書き上げてる原動力というのは、『うわ、恥ずかしいことしてる! ウヒー!』みたいな、その気持ちよさではないかと思うときがあるんです。」

この自虐性はすんごく共感できる。僕はこのあたりの気持ちよさがオタクの大多数を(主張はしないが実際には)占めているんじゃないかと思っている。これは、スパイスガールズがイギリスで売れていた時、ブリティッシュアワードか何かで「どうして誰もスパイスガールズを好きだといわないのに、こんなにCDが売れてるんだ?」と言っていたのとちょっと似ている。ただしインタビューの中では、虚淵玄個人の問題として片付けられてしまった(うーむ)。

唐突なまとめ。僕はアダルトビデオのコーナーの一角にあったエロアニメのスペースが少し大きくなって、おっさんが「家庭教師」「人妻」「フェチ」なんかの選択肢の一つに加える、とった程度の進展が一番健康にいい結果だと思う。そしてたまに世の中に繋がる及川奈央みたいなスーパースターが登場したりすれば、それで十分でしょう。

Posted by Syun Osawa at 20:41