bemod

2005年12月19日

文展と芸術

夏目漱石/第6回文展評/明治45年10月15日−28日/東京朝日新聞

夏目漱石がたった一度だけ書いた美術評論らしい。かの有名な「芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終わるものである。」から始まる文章。実際には冒頭でこの一文を書いた後、それ自体を否定したり肯定したりしながら文章は展開していく。

美術評論と言っても、凡人には理解できないような哲学的で頭の良い文章ではなく、文展を友達と見にいったときの体験にそって、巡回した室内の様子をエッセイ風に書いている。そして、文章の大半が絵に向けられる批評や賞という名の権威そのものに向けられている。お前らの批評が何ぼのもんじゃ、権威なんて芸術にとって何のメリットもないんじゃ! そういうのは銭と名声のためでしかないんじゃ! と、夏目さんは言っているわけですね(批評についてはもう一歩踏み込んで話を進めてます)。

また、この文章から、当時の洋画壇の立場が読み取れる。

今の西洋画家は日本画家に比べてはるかに不利益の地位に立っている。彼らの多数は隣合せの文士と同じく、安らかにその日その日を送る糧すらも社会から供給されていない。彼らの政策の大部分は貨幣と交換されるべき市場に姿を現わす機会に会うあてもなく、永久に画室の塵の中に葬り去られるのである。

なぜ戦争画に西洋画が多いのかという事について、多くの著書でこの時代背景を指摘していました。でも夏目は彼らに優しいんです。

これほど窮迫の境遇におりながら、なおかつ執念深くパレットを握っているものはよほど勇猛な芸術家でなければならない。自分はこの意味において深く今日の西洋画家を尊敬するのである。

夏目漱石は熱い人なんですね。しかも、少しも権威的なところがない。自分が書いた批評に対しても以下のように締めくくっています。

審査の結果によると、自分の口を極めて罵った日本画が二等賞を得ている。自分の大いに誉めた西洋画もまた二等賞を取っている。してみると、自分は画が解るようでもある。また解らないようでもある。それを逆にいうと、審査員は画が解らないようでもある。また解るようでもある。

村田喜代子さんが『名文を書かない文章講座』の中で似たようなことを書いてたことを思い出しました。達観した人達の言葉は凄いですね。

Posted by Syun Osawa at 23:15