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2007年03月27日

思想としての全共闘世代

小阪修平/2006年/筑摩書房/新書

思想としての全共闘世代全共闘は面倒くさいということだけは確認できた。そして、その面倒くささは他人事ではない。結局は「どう生きるか」という個人的な問いが中心でくすぶっているから面倒くさいのだ。

という結論はありつつも、全共闘についてのイメージが少し変わった。僕の中で全共闘というのは立花隆『中核vs革マル』(講談社)で書かれているような、内ゲバな人たちだと思っていたからだ。全共闘と三派全学連では少しニュアンスが違うらしい。全共闘は緩やかで、党派意識も希薄。大学内の諸問題(学費の値上げとか)に対する運動が大きくなったものと捉えることができるようだ。これなんて、2ちゃんの大規模オフとそう大差ない。動物化しているかしていないかだけの差であり、「面白いことに参加して生きていることを実感したい」という雰囲気に動かされているところはよく似ている。

全共闘世代だけが特化して社会問題に関心があるなんてことはない。

なぜなら全共闘を経た後、みんな現実と折り合いをつけながら普通に生きている。それだけならいいのだが、なまじ自分たちが反権力的に振る舞っていたために、下の世代は面倒くさい思いをすることになる。その点については、当事者である著者も自覚があるようだ。

 たとえば多くの同世代にとって、現実に戻るとはとりあえず企業に就職することだった。そこにはとりあえず仕事という「現実的」なものが待っている。全共闘世代が体制を批判していたのに、ある部分では積極的な企業戦士になっていったからくりの秘密はそこにあったと僕は思う。
 これまで自分が批判していた現実を肯定するために、そこに強引さも生じる。無理をすればするほど人はイデオロギー的にならざるをえない。なまじ学生運動の経験があるだけに、声は大きいし政治的な駆け引きもできる。陰謀をたくらむこともできる。場合によっては労組つぶしなどもお手のものである。
 あるいは夜になれば、自分が昼の行動は昼間の論理で肯定し、夜の気分は夜の論理で肯定する二重基準に下の世代はずいぶんと迷惑したことだろう。これが悪名高き「全共闘オヤジ」の典型である。

Posted by Syun Osawa at 22:55