2007年12月29日
KY問題=匿名問題=著作権問題=輪郭線問題
年の瀬なのに我が家のガスストーブの調子が悪い。点火後しばらくすると止まってしまうのだ。どうも内蔵の温度センサーが怪しい動きているらしく、止まった後に温度を見ると30度くらいになっている。ガスストーブなんて単純な構造のはずなのに…まったく。
というわけで、買い換えた。こういう決断は早い方がよい。
(手に入れた本など)
G.ポリア『いかにして問題をとくか』(丸善)
赤間剛『フリーメーソンとは何か』(三一書房)
竹内睦泰『竹内流 超速【合格講義】日本史の流れ』(ロングセラーズ)
『アニメーションノート no.08』(誠文堂新光社)
『アニメーションノート』は創刊号から買っているが、一度も読んだことはない。それでも続いてほしいので買っている。パラパラ眺めていると「女子アニメーションの世界」なる記事が。どうなの?
宣伝誌『青春と読書 2008年1月号』(集英社)に上岡伸雄、大八木淳史、松瀬学による鼎談が掲載されている。テーマは「ラグビーが日本の教育界を変える」。大八木さんは老けたなぁ…。前はヤクザにしか見えない風貌だったのに、優しい感じになってる。上岡伸雄さんがラグビー小説を出したらしく、それはちょっと読んでみたいかな。
出でよ、新しき知識人
宮台ブログより、ちょっと引用。
日本のエリートに承認を与えたのは階級文化でも競争神話でもなく、村落の共同性でした。
ここだけちょっと、引っかかった。承認を与えていたのは難関大学の合格証そのものではないかと思ったので…。
昨今の「KY問題」が突きつけているのは、共通前提の崩壊がもたらした過剰不安と、不安の埋め合せへの過剰要求です。
同調圧力の解説はとても納得できる。例えば今年のM-1で、大竹まことがサンドウィッチマンではなくキングコングに最終票を投じたことから、2ちゃんねるやニコニコ動画で槍玉に挙げられているが、これなどはその典型だろう。誰が書き込んでいるのかわからないが、異なる意見がどうしても許せないらしい。もはや「ゆとり乙」と言うほかない。
池田信夫さんのブログにも 宮台さんに同調する意見 があった。
初音ミクとJASRAC
これは悲惨だ。
匿名/実名問題、どっちが正しい?
小谷野敦さんが 荻上チキの正体 というエントリを公開している。筑摩書房から本を出したというのが、公開の理由らしい。そういえば、x51.org の人も 世に倦む日日 の人も本を出したときに本名を明かしていたな…。覚悟の問題と言われれば、そうかもしれない。
赤木智弘さんの言及(後半部分)はあまり納得できない。特に最後のサリン事件と結びつけた話は好きではない。小泉=ヒットラーみたいな話と大差ないので。
匿名論争といえば、キングコング西野 2ちゃんねらー批判で「大炎上」 のようなことは相変わらず続いている。この手の話でいつも感じてしまうのは、匿名の側の屈託のなさである。僕も2ちゃんにはたまに書き込みをするが、匿名であることを前提にした発言と実名の発言の位置づけが異なることは自覚している(当たり前)。そのことに無自覚なのか、自覚しているけど意地悪でやっているのかはよくわからない。ともかく西野さんの言っていることは普通の話。キンコンが好きか嫌いかは別として。
宇多田ヒカルとしょこたんの違い
さすが常岡浩介さん。わかっている。
山室なつ子の生涯
小谷野敦さんが連載小説を始めた?
りんちゃんフィギュア、ヤベェ…
淡々と更新し続けるぞ雑記 より。ほぼ等身大とかって、出来が悪いイメージがあったけど、最近のは違うのね。欲しがっている自分が怖い。
輪郭線のモンダイ
これちょっと、よくわからなかった。逆を考えてみる。遠いものを太く、近くにあるものを細くすればどのように見えるか? 遠くにあるものと近くにあるものを同じ太さにすればどう見えるか? 最も漫画的に映るのは、すべてが並列な同じ太さのものではないだろうか?
普段着ダウン、自宅での洗い方
ダウンって洗うんだ。そうだよな。
ロシア宇宙局、2009年で宇宙観光旅行事業から撤退の方針
「宇宙観光旅行事業」ってのが凄い。
中国のブロガーは4,698万人
ITmediaの 15分で分かる2007年のブログ界 で「ブログ限界説」的な話が取り上げられている。テキストサイトの終焉やFLASHアニメの終焉と同じように、前衛的に誰かが牽引するという状態から、誰もが参加し拡大し透明な状態になったというだけの話。僕は今も昔と変わらずブログを読んでいるし、多くの人もそうだと思う。面白いブログの数も増え続けている。
希望としては、ブログアワードのような無意味な賞レースをするよりも、ブログのエントリ記事をメインに扱ったニュースサイトがもう少し成熟してくれれば嬉しいなと思う今日この頃。
ボーカロイド 「鏡音リン」なパソコン
もし僕の使うパソコンがこれになったときは、もういろいろなことを捨てきって、新しい形態へ進化したときだと思う。そうならないことを祈るばかりである。
Posted by Syun Osawa at 23:23