bemod

2008年11月23日

ゼロ年代の想像力

宇野常寛/2008年/早川書房/四六

ゼロ年代の想像力「あえて」の劇場型エッセイといった印象。予想以上に面白かった。

著者の宇野さんとは世代が近いせいか、彼の語る90年代以降のカルチャー史についてはそれなりに共感できる部分が多かったような気がする。そんなわけで、ちょっとだけ思い出話でもしてみる。

この本の中で重要な作品として挙げられている『エヴァンゲリオン』は、僕が高校から大学に上がる頃に流行していた。そして、エヴァという作品世界を覆っていた中二病的な感性は、当時の僕の中にもあるにはあった。ただ、受験シーズンの到来によってエヴァへの興味が薄れ、いつの間にかそんな感性からも卒業してしまっていた。また、僕の場合はエヴァよりも松本大洋あたりのちょっとドライな空気感にひかれていたので、当時も碇シンジのようなヤツはたまらなく嫌いだった。

思い出話を続けると、大学生の頃は「セカイ系」的な感性(残存したエヴァブームも含め)とは距離をとりつつも『雫』や『痕』にはそれなりにハマった口で、ノベルゲームブームに乗じて僕も『燃えて京都』という作品を作ったりもした(といっても第一章だけだが…)。

素人が作ったものなのでストーリーも単純。それは「学生生活を満喫できない中二病的な感性を持つ高校生が、好意を寄せる不思議ちゃんとのつながりを断念し、閉じた世界の外側へと飛び出そうとする」という話だったと思う(第一章はここまで)。

そして、主人公の男の子は修学旅行先の京都駅で脱走する。脱走の途中に三島由紀夫にあこがれる引きこもりの少年が金閣寺を燃やそうとすることを知り、その話に乗るか降りるかを考える。結果的には彼をソープで働く姉のもとへ返し、自分はひっそりと修学旅行の中へと戻っていくというようなことを考えていた。

こういう作品をジメジメ作っていたことからもわかるように、「どこかにいるかもしれない不思議ちゃん的な女性とのつながりが世界を救うという感性を捨てよう」という感覚は90年代後半にすでにあったことは確かだ。そして、その感覚を抱いていた人は、結構多かったように思う。そういう経緯もあって、宇野さんがゼロ年以降に肥大化した「セカイ系」を古い感性だと書いたことには同意できる部分が多かったのだ。

ただし、それ以外のところについては共感できない(もしくは理解できない)部分も多かった。

「安全に痛い」という話は、そもそも安全ではない漫画、アニメ、小説、映画などがどのようなものか僕にはわからないし、異なる価値観を有する島宇宙同士がぶつかり合う話も上手く飲み込めなかった。

特に後者のほうは、例えば民族紛争にしても、宗教対立にしても、領土の取り合いがベースにあり、最終的には住み分けることで事態は収束されていく。よって、すでに住み分けされている異なる島宇宙同士がぶつかり合うということには疑問を感じるのだ。

そうではなく、同じ土俵(レイヤー)でバトルできる島宇宙の中でのぶつかり合いのほうがより激しさを増すのではないか。そして、島宇宙がより小さな島宇宙へと住み分けられていくという風に考えたほうがスッキリすると思う。

宇野さん自身「鵺のような文章を書きたい」と語っている通り、この本で語られている歴史(のようなもの)はハッキリ言ってしまえば雰囲気芸で、その芸については現役の批評家たちを唸らせる達者ぶりだ。特に特撮ヒーロー物の話は、村上龍的に表現するならば「5分後の批評」といった感じでかなり面白かった。その手の楽しみは個人的にも好きなので、5分後の批評家としての彼の動きは今後も興味を持って追いかけてみたいと思う(酸っぱい葡萄うんぬんの話はあまり感心しないけど)。

PS.
彼が本の中で言及していた「生きてるだけで丸儲け」という言葉は、明石屋さんまの座右の銘として古くから知られている。

Posted by Syun Osawa at 00:14