bemod

2008年12月11日

「知」の欺瞞

アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン/2000年/岩波書店/四六

「知」の欺瞞僕の頭の中にあったぼんやりとした思いが少しだけ整理されたように思う。

本の要旨はシンプルだ。ポストモダン系の知識人がアナロジーとして使用する科学的な言説に対して、理論物理学者がその用法の誤りにマジレスした本である。ざっくりしたことを知りたければ、堀茂樹さんの「 きみはソーカル事件を知っているか? 」を読めばわかる。

僕は常日頃、理系と文系をバランスよく横断しながらものを考えたいと思っており、そういう意味でも今回の本はとても興味深い内容だった。ただ、残念なことに僕自身の能力的な限界があり、今回の本については文系的にもわからず、理系的にもわからないという有様だった。

そのため、僕には比喩として科学的な知識を用いる思想家たちの言葉も意味不明だが、マジレスしたソーカルたちの言葉も正確には理解できていないところが問題として残ってしまった。そうなると著者の意図した方向とは少しズレてしまい、後はどちらの言説を信じるのかということになってしまう。僕の場合は理系的な(という言葉が正確でないなら科学的な)自然観で世界を見ているし、経験と理論を交互に往復することでしかものを考えられないため、科学者のマジレスを信じることになる。

こう書くと、結局は「『どちらの主張を信じるか?』という社会的な要因で決着が図られるているじゃないか」ということになってしまいそうなのだが、そうではない。僕の頭が悪いだけなのだ。そして、言葉だけで決着をつけることにも違和感がある。その点は以下のように示されていた。

何らかの考えが論駁できないという事実だけでは、その考えを受け入れるべき理由にはならない

これは「うまいこと言ったもの勝ち」「話題性をつくったもの勝ち」といった価値観が肯定される時代の空気に対して、そうじゃないよともう一つの視点を僕に与えてくれる。そして、この本の最後に書かれた以下の言葉が、僕が今後ものを見たり、考えたりする上での指針になったことは間違いない。

われわれが望むのは、合理主義的ではあるが教条主義的でなく、科学の精神に則ってはいるが科学主義的でなく、諸々の意見にひらかれてはいるが軽薄でなく、政治的に進歩的ではあるが党派的でない知的な文化が誕生することだ。

Posted by Syun Osawa at 01:10