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2009年02月20日

シンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」

2009年1月28日/17:30−20:30/東京工業大学大岡山キャンパス

アーキテクチャと思考の場所東浩紀、浅田彰、磯崎新、宮台真司、濱野智史、宇野常寛という面子で開催されたシンポジウム。立ち見がでるほどの超満員だった。聞くところによるとモニターだけの別会場もあって、そちらも満員だったとか。

このシンポジウムの感想は、ネット上の多くのブログで読むことができる。まぁ、ぐだぐだっていう意見が大半なんだと思うけど、個人的にはかなり楽しいシンポジウムだった。そもそも無料なんだから費用対効果も高いわけだし、シンポジウムって「人が集まって何かが話された」といった記念的なものとしか受け止めていないこともあって、その場にいたということですでに満足なわけだ。

シンポジウムは、濱野&宇野による基調講演が先にあって、それを受ける形で討議が行われた。いきなり浅田が「目新しさを感じない」って言ったもんだから、一気にシンポがぐだぐだな方向に流れたわけだが、それなりにテーマに沿った話がなされていたようにも思う。

建築においてはある段階で必ず切断面(「ここで完成!」と決める瞬間)ができ、それが作家性を生む。しかし、ネットのコンテンツでは常に更新が繰り返され終わりがない。よって切断面がないために作家性が弱くなる。そこで持ち出されるのが、更新のログの話で、ある瞬間が記述されたログは暫定的な切断面とも言える。しかし、ネットには大量のログがあり、その切断面から作家性を読み取る人間は少ない。

さらに、ニコニコ動画や2ちゃんねるを見ると、コンテンツの生成が生物の生態系のごとく生存競争の中で複雑な進化を遂げている。それは全体の設計者の意図を超えた形で進化し続けている。もはや作家性も何もあったものではないが、そういう状況の中(ニコニコ動画など)で生成される公共的なものを意図的にアーキテクトすること、またそうした状況における批評家の役割について考えることが、シンポジウムの大きなテーマだったように思う(違うかな?)。

が、まぁ…そのへんはグダグダだった感じ。話の内容が突然難しくなったりしたこともあって、僕の処理能力を超えていたということもある。ただ、シンポの中で2ちゃんねるの元管理人であるひろゆきについて何度も言及されたものの、そこを批評的にうんぬんしてもしょうがないと思うわけだ。なぜなら、彼らのアーキテクトの最大の目的はユニークユーザーを集めることに集約されているからだ。僕的にはそういう前提を抜きにして、ひろゆきの批評性の「ある/なし」みたいな話がなされていたことが少々残念だった。

ぶっちゃけ、大半のネットのコンテンツの最終目標が「いかに人を集めるか?」ということにしかないわけで、当然人が集まればそこには公共的なものが生まれることは当たり前の話だ。あと、切断面=作家性の話に関しては、宮崎駿さんが『もののけ姫』の製作時に語っていたことを頭に浮かべながら聞いていた。映画制作の現場で大幅にコンピュータを導入したのが『もののけ姫』の時で、アナログのときと違って何度もやり直しができるから切断面をつくるのが難しいというような話をされていたからだ。しかし、それだって90年代の話だ。

浅田彰さんがイベントの冒頭で既視感があることを表明されていたが、それは当然のことだろう。そうした既視感を感じながらも、それなりに楽しみながら議論を展開していた浅田彰さんの振る舞いというのは、京都出身の僕から見ると共感できるものがあった。

その一方で、宮台真司さんが「このシンポジウムは失敗しているのでは?」と軽くジャブを打ったけど、それは違う。この日はこのイベントに1000人以上の客が訪れていたらしいからだ。繰り返しになるが、ネットにしてもリアルにしても、今は「いかにして人を集めるか?」ということを目的にしている場合が多いわけで、そう考えればこのイベントは大成功だったとみるのが妥当だろう。ともかく、東浩紀という人はゼロアカも含めて人を集めるという点において勝ちまくっていることは間違いない。そして、そういう動員ゲームが主戦場だったはずの宮台は東に敗北している。個人的には、そろそろ東バブルがはじけて

「あずまん、m9(^Д^)プギャー」

って言いたい時期ではあるが…。

Posted by Syun Osawa at 01:00