bemod

2009年03月14日

パレスチナ紛争史

横田勇人/2004年/集英社/新書

パレスチナ紛争史仔細な事件が時系列に沿ってゴチャッと並べられていたのでちょっと読みにくかった。昔、ユーゴスラビア現代史を研究していた方に、「歴史を見るときはミクロな視点とマクロな視点の両方で見ろ」と言われたことがあり、僕は読みながらそのことを思い出していた。

この本はまさにミクロな視点で書かれている。著者が新聞記者なのだから当然と言えば当然なのだが、マクロな視点でパレスチナ周辺の状況を捉えた記述がもう少し多ければ、僕のような門外漢にも親切な本になったように思う。

ところでこのパレスチナ問題は解決するのだろうか? この疑問はルワンダのツチ族とフツ族の争いは終わるのかという問題にも似ており、はっきり言って難問である。経済的なメリットデメリットを考えれば、争う必要など何もないからだ。ところが、特定の民族に偏った形の政策がとられることで、もう一方の民族が不満を爆発させるという連鎖は、一方の民族が圧倒的な力を持っている場合(中国の漢民族とチベット民族とか)は強いほうはそれなりのメリットがあるのも事実だ。パレスチナにおけるユダヤ人とパレスチナ人の場合もそうした視点で見るべき事象なのかもしれないが、よくわからない。

日本はどちらかと言うとパレスチナ寄りの報道が多いので、話が錯綜してしまうのだが、もともとあったパレスチナの領土を戦争によって減らしていったのはパレスチナ人である。戦勝国と敗戦国が同居している状態で、この状況は読み取りにくくなっているが、自爆テロがパレスチナ人の要求を有利に通すためのパワーゲームに使われているのだとするならば、そこで死んでいく人というのはたしかに戦士なのだろう。

こういう戦争の形態を解決する方法はあるのだろうか? 離婚調停をしている夫婦にいくら第三者が「もう一度仲良くしてみたら」と言ってもそれは無理な話というものだ。これは旧ユーゴスラビア圏も同様なのだが、こうした状況を解決する方法はもはや同居状態を解消する(別居する)以外に方法はないのだろうか。

ここまで書いて、ふとネット、民族、地域といったキーワードが頭に浮かんだ。もしもインターネットが地域性を越えたところで民族の結びつきを確保するのだとすれば、民族独立による国家の分裂という事態の緩衝材として有効に機能するのかもしれない。旧ユーゴスラビアにしろパレスチナにしろ、対立しあう民族の居住地が錯綜しているため、完全に分離するのは不可能に近い。上記のように、そうした状況では仲直りするか、殲滅するかしか道はないように思えるが、インターネットは地域性をもたない民族的結びつきから、国家に似た枠組みを確保するといった第三の道を提示する可能性を持っているように思う。

Posted by Syun Osawa at 12:08