bemod

2009年08月17日

学力と階層

苅谷剛彦/2008年/朝日新聞出版/四六

学力と階層この本の前半は、社会学の論文のように面倒臭い調査の結果から、わりとまっとうな(悪く言えば、当たり前すぎてつまらない)結論を導き出す展開だったので、少し退屈だった。

それは次のようなものだ。かつて総中流社会と呼ばれた日本にも階層差は確実に存在している。しかし、日本ではそれが見え難くなっているため、「機会の平等/結果の平等」といった議論の中でもその点が無視されているそうな。

子ども自身の「がんばる/がんばらない」という能力差だけが結果の不平等をもたらしているとすれば、それは機会の平等が先に与えられているのだから、それは「自己責任」だとする人は少なくない。しかし、もしも出身階層による差が子供たちの機会の平等という前提すら崩しているのであれば、その点については考えていく必要があるのではないか。

まぁ…そうだわな。最近も親の年収差が大学の進学率に影響していることがニュースになっていたし、小泉改革以降に明確に格差が拡がっている。そういう状況を考え合わせれば、今後、この問題が社会問題化していくことは避けられないと思う。

…というような話を、学者が地道な調査によって明らかにしたという学問的な内容だったので、一般の読者が呼んでも「まぁ…そうでしょうね。」としか思えないわな。実際その通りだという実感もあるし。

その一方、本の後半は、文芸誌に連載されていたものだったので、エビデンスwをあまり重要視していない分だけ話が回転して、普通に読み物として面白かった。僕の知らなかった社会の捉え方が展開されていたし、時代の空気に触れるという意味で結構な指標になったと思う。

特に社会的再帰性と個人的再帰性の話を日本の教育の話と接続させていたところがよかった。最近のアニメでも『涼宮ハルヒの日常』という作品で終わりなき日常のループを描いている「エンドレスエイト」問題なんかが話題になったけど、バブル崩壊以降の日本ではどんどん社会の再帰性が意識されるようになっている。

そうした社会では、

一部の人びとのみが情報を握り社会を統制するのではなく、多くの人びとが、社会のあり様を認識し、変化に応じて更なる変化を引き起こすような働きかけにかかわり合っていく。

これにより「個人と国家・公共とが「参加」のロジックでダイレクトに結びつく」ようなセカイ系的な社会になり、「民意の反映をそのまま直ちに、民主主義の実現と見立ててしまう「ためのなさ」」が「自己責任」を強要する。

社会全体が自らモニタリングしながら進んでいく再帰的な社会の中で、個々人が描く社会そのものが島宇宙化し、さらにセカイ系的な個人と社会の接続が政治的な実効性を持ってしまうとすれば、そんな社会は乗客全員の座席にハンドルがついたバスのようなものだろう。

たとえ乗客全員が運転免許を持っていたとしても、そして、全員がハンドルを付いている状況を理解していたとしても、恐ろしい状況になることは目に見えている。自分一人がレーシングドライバー並みの運転技術を持っていたとしても、僕たちの乗っているバスはあくまで一つなのだ。だからこそ、こういう状況下でいかに乗客全員の合意形成を図れるかが、大きな事故から身を守る重要事項であることは明白だ。僕らはそういう社会に生きていて、そういう意味で誰かのハンドル操作の誤りを自己責任として見過ごしてはいけないと思っている。

Posted by Syun Osawa at 00:46