bemod

2009年08月19日

奇想の王国 だまし絵展

2009年6月13日−8月16日/Bunkamura ザ・ミュージアム

だまし絵展チケットショップでだまし絵展だけがずっと高値だったので気になっていた。きっと話題の展覧会なのだろうと思って、開館直後を狙って行ったのに、それでもかなり数の人が行列をつくっていた。特にカップルが多い。美術館には行きたいけど、普通に絵を見るのは退屈…というカップルにはうってつけのイベントだったのかもね…。

で、だまし絵の話。

僕が最初に思い描いていただまし絵というのは端的にエッシャーみたいな絵だったので、今回、その予想は軽く裏切られた。一般的にだまし絵と呼ばれる絵は、絵の外側にある額縁やら壁やらを絵の中に描き込むことで、絵とその外部の境界を曖昧にしているような絵のことを指すらしい。

こういう絵がだまし絵と呼ばれるのは、絵というものは額縁の中におさまっているものだという固定概念があるからなんだろう。だいたいどの絵も、左上から光が当たっていて、右下に影を作っている。誰が決めたわけでもないんだろうけど、絵の外部にある立体のイメージもルール化されていて、その制度化された観賞方法を揺らがせることに面白みを見出そうとしている点は、とてもメタ的だといえる。

通常の絵の外部にあるものを絵の内部に取り込むことで、絵そのものの平面的な価値を浮かび上がらせる…みたいなことが作品の一つの目的になっていて、これを言葉にして読み込むとたしかに評論っぽく感じられる。ただ、絵を絵のままに見たとき、言葉を越えて伝わってくるような何ものかを感じることはなかった。

僕がこれらの絵で面白いと感じたのは、だましの部分ではなく、壁に固定された紐に差し挟まれた新聞や筆記用具などから当時の文化の状況が見えてくるところだ。絵の外部が描かれていることでその点がより鮮明になっており、絵の目的とは別のところで僕は結構楽しめた。

日本にもだまし絵は結構あるようで、今回の展覧会でも紹介されていた。日本画は洋画よりも平面的なので、平面的な絵が外側の世界との境界を曖昧にしているところは、西洋のだまし絵よりも過激な気がする。歌川国芳の絵だったり、鞘絵や影絵なども恐らくは西洋からの影響を受けているのだろうけど、日本が特有の記号的な処理がだまし絵の持つリアリティの窮屈さを解放している気がしたので、だまし絵としては日本の作品のほうが自由度が高いように思えたのだ。

展覧会の後半、ルネ・マグリットあたりから、ようやく僕の知るところのだまし絵っぽくなる。見た目も派手になって、手品で言うところのイリュージョン化がすすんでいる感じだ。パトリック・ヒューズ《水の都》などはその極点みたいな感じなのだが、もはや平面ではない。

視覚のトリックはたしかに楽しいので、掲げられている絵をただ漠然と眺めているだけでも十分に楽しめる。ただ、途中からはだまし絵が持つ「ダブルイメージ」の概念のほうが気になり始めていた。

特にエッシャーの作品はその点が明確である。しかも、ダブルイメージの中にアレゴリーが読み込めない。そこで提示されている絵は、ただただ機械的というか、工業的というか、二つのイメージがあるというだけなのだ。そうした冷めたところも含めて、彼の作品についてはかなりの興味を持った。だまし絵そのものにはそれほど心動かされるものはなかったが、エッシャーに対する僕の中での盛り上がりこそが、今回の展覧会での一番の収穫だったかもしれない。

Posted by Syun Osawa at 01:23