bemod

2009年10月05日

ゴーギャン展

2009年7月3日−9月23日/東京国立近代美術館

ゴーギャン展点数少なっ! さすがはゴーギャンと言うべきか、作品をかき集めるだけでも至難の業なんだろう。特に今回は《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》があったので、予算的に厳しかったのかも。まぁ、だからと言って「ゴーギャンとその時代展」とかにして、他の作家で水増しするようなことをしなかったのは、東京国立近代美術館のプライドなのかもしれない。

ゴーギャンは学生時代にモーム『月と六ペンス』を読んで以来、絵とは関係なく好きになった画家だ。彼は、30代半ばで家族を放り出してフランスからタヒチへ移り、現地妻をもらって絵を描いて暮らすという破天荒な人生を送っている。小説の中では、主人公はタヒチで死んでいるが、本物のゴーギャンはマルキーズ諸島で亡くなったそうな。

今回の展覧会の目玉となっていた《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》について。たしかに迫力はある。ただ僕の場合、先入観がありすぎて、「貴重なものを見た」という意味での感動を、実物の絵が越えていないようにも思えた。ジブリの宣伝誌『熱風 2009年8月号』で高畑勲氏がこの絵について、次のように書いていた。

とにかく題名がすごい。(中略)この哲学的コピーがあまりにも鮮烈でぴったりだったので、肝心の意味ありげな絵は、もはやただのタイトルバックになりさがるしかなかった。

僕も率直な感想として、このように思ったのだ。彼の描くタヒチの絵のタイプは、主線が強調されたものと色彩が強調されたものの2種類ある。前者はアルル時代などタヒチ移住前と晩年のタヒチの絵によく見られ、後者はタヒチ移住した頃の絵に見られる。僕はアルル時代の絵も結構好きなのだが、最も好きなのは主線が薄れて、色彩が強調されるようになったタヒチ前期の絵のほうである。女性の肉々しさが際立っていて、ボリューム感のある華やかなこの頃の絵は、僕に生命が湧き上がってくる瞬間の力強さを与えてくれるのだ。

残念なことに、僕の好きだったタヒチの絵は、当時は不評だったらしく、2度目にタヒチに移住した頃にはアルル時代のように主線が復活している。人物の荒々しさが消えて、初期の頃と同様に背景と人物が等価になっているのは、どのような心境の変化があったためだろうか…。

ところで彼は、印象派の画家たちと交流があったらしい。初期の絵は後期印象派というか外光派みたいなニュアンスが残っているのはそのせいだろうか。邪推すると、彼はそうしたアプローチが上手くできなかったのではないかと思える。そして、上手くいかなかったがゆえに、例えば光の扱いなどが独特のものになり、結果として西洋的ではないもう一つの世界(タヒチ)を映し出したのではないか。そしてそれが、アンチキリスト、アンチ文明的な彼のスタイルとリンクする形で、美術史の文脈の中で後に再発見されて、位置づけられたのだろうと勝手に妄想していた。

Posted by Syun Osawa at 01:40