bemod

2009年11月23日

ジャン=ジャック・ルソー問題

E.カッシーラー/訳:生松敬三/1974年/みすず書房/四六

ジャン=ジャック・ルソー問題東浩紀氏が講談社の宣伝誌『本』で「一般意思2.0」という連載を始めていて、ルソーにも少しだけ関心が湧き始めていた。そんなとき、東氏がtwitterでこの本がお勧めだとつぶやいていたので、とりあえず読んでみることに。僕もすっかり彼の読者だなw

ページ数が少なかったので、サクッと読み終えるはずが、一般意志と全体意志の話とか、両義的な彼の思想の勘所を理解するのが難しく、いつもより遅いペースで読み終えた。ルソーの思想って難しいらしいし、そもそもこの本だけで理解しようというのが無謀だったかw ただ、何というか、思想の深いところとは関係ない部分で、彼の思想(夢想?)の動力源となっている思いには、わりとベタに共感できるものがあった。パリにやってきたルソーは、繰り返される不遇な毎日の中で、次のようなことを感じていたそうだ。

一日にはたくさんの仕事がつまり、一日はその仕事により隅々まで規定されている。労働とさまざまな因襲的―社会的義務の一日であり、それらの義務の一々は特定の時間を占めている。こうした時間の規格化、客観的な時間尺度の固定性、これこそルソーが以後なによりもまず慣れてゆかねばならなかったものであり、かれの本質と疎遠なこうした要求とこそ、かれは絶えず戦ってゆかねばならぬことになったのである。

そして、「外部から与えられ、外部から強制される生活上の区分は、ルソーの目にはいつも耐え難い生活上の束縛として映った」らしい。とにかく彼は、誰かにやらされたり、束縛されたりするのが嫌だったわけだ。同じことをやるのであっても、「あれやって」と誰かに言われてやるのではなく、「あれやろう」と自分が思ってやることを、彼は重要視している。その感覚は非常によくわかるw

ただし、そこから出てくる一般意思の話は、どうにも夢想的というか、端的に「そら無理だろ」感が消えない。素人目に見ても、彼の思想には、原理主義的プラグマティズムというか、「感情的で自己矛盾をはらんだ全体主義」といった印象がつきまとってしまうのだ。だからこそ、問題化され、長らく議論の対象となり、この本の著者であるカッシーラーが両義的に彼の思想を捉えることで、何とかその問題を乗り越えようとしたわけである。その乗り越え方はなかなかスマートな印象を受けたとはいえ、では果たして現実社会でそんなことが可能なのか? と言われれば、「そら知りまへんがな」と返されるのがオチだろう。実際、そうした具体的なところまでは、この本では踏み込まれていなかった。うーん、残念。

そこで東氏の「一般意思2.0」ということになるのだろうか。すぐに頭に浮かぶのはインターネットである。様々なユーザーが情報を提供することで成立しているWikipediaだったり、もっとマクロ的に各階層で活躍するプログラマーの集合知によって成立しているブラウジング環境を思い浮かべれば、何となく繋がりそうな気もする。

しかしながら、その逆の事、例えばユニクロであったり、iPodだったり、ブログやtwitterによるビジュアルの統一化(制度化)などは、ルソーの夢想した方向とは真逆のベクトルを示しているようにも思える。たしかに便利で良いものかもしれないが、それによって人間の多様性や創造性がどんどん失われていっているような強制を僕は感じるのだ。そうした危機感は、次のような文章で書かれている。

社会のもっとも過酷な最悪の強制は、社会がたんにわれわれの外的な行動のみならず、内的な運動、われわれの思想や判断にも及ぼすところのこの力にこそ存する。判断のあらゆる自主性、自由、根源性は、この力によって損なわれてしまうのだ。もはや考え、判断するのはわれわれではなく、社会がわれわれの中で、われわれの代わりに考える。われわれはもはや真理を探究する必要はない。真理は鋳造貨幣としてわれわれの手に与えられるのである。

僕には、今の社会は、こんな感じの状況になっているようにも思えるのだ。もちろん、カッシーラーが書いているように、彼の思想が両義的なわけだから、結局は良いようにも悪いようにも読めるというだけの話かもしれない。あと、普通に考えたら、ルソーが夢想した先にある「真に人間らしい社会」って何やねん? みたいなところですぐに行き詰るので、結局のところ何が言いたいのか、僕にはよくわからんわけだがw

Posted by Syun Osawa at 00:58