bemod

2009年11月27日

海岸列車

室井大資/2009年/エンターブレイン/四六

海岸列車一気読み。

本書のタイトルにもなっている短編「海岸列車」を読んだのは、2000年、銀座三越の裏にあるコンビニだった。あれからもうすぐ10年になるのかと思うと、何か別の意味で感慨深いものがある。

「海岸列車」という作品のストーリーは、著者自身、あとがきで書いているようにかなりベタ。夫をヤクザの組長と間違われて殺された妻が、その復讐を果たすというシンプルな内容だ。もしもそれを、そのままやればわりとよくある読み切りになったと思うし、おばあちゃんとおじいちゃんのエピソードやら、いじめられている息子、生きる気力を失っている父親などのエピソードを丁寧に描いていたら32ページでは終わっていなかったとも思う。にも関わらず、この作品は、短編としてそれらのエッセンスをすべて詰め込む事に成功している。それが凄い。

10年ぶりにこの作品に触れながら、どうしてそれができたのかを考えていた。この作品にはまず主人公らしい動きをする登場人物がいないのだ。あるのは個々のキャラクターが今、どういう気持ちで生きているのかを示す生活の一部分が淡々と切り取られているだけなのだ。その切り取り方が説明臭くなく、散文的で儚い。そして、物語のB面からうっすら浮かび上がってくる家族の情景。

演繹的にキャラクターを動かすでもなく、帰納的にストーリーをいじくるでもなく、パッチワーク状に淡々と世界を描いているだけなのに、そこからちゃんと物語が輪郭を持って現れている。そして「それって誰にでもある人生そのものだよね」的な日常生活の中のちょっとした深さを演出できるのは、本当に才能のなせる技だなと思う。こうした描き方は、「キッス」でも引き継がれており、こちらも素晴らしい出来だった。

上記の作品が作られたのが2000年ごろ。そこから少し間が開いて『マーガレット』が発表された。この作品では、前作までのようなテイストは影を潜め、商業誌的なキャラクター中心の物語になっている。ここで唐突に思い出話をすると、僕が過去に出版社へ持込みを続けていたときは、編集の方からひたすら「魅力的なキャラクターを描け」「可愛い女の子を描け」と言われ続けていた。僕はそれが出来なくて、しかも才能がなかったために心が折れてしまったわけだが、それと似たような苦悩を、この作品からは感じ取ってしまった(プロの先生に素人の経験を当てはめるのは失礼な話だなw)。

もちろん上の妄想は事実ではないのだけど、漫画って演繹的ストーリーのほうが連載向きだし、キャラクターは立っているにこしたことはない。女の子も可愛いほうがいいに決まっている。しかし、そういうこととは関係ないところに漂っている漫画も、やはり漫画であって欲しいし、だからと言って、変にアヴァンギャルドだったり、批評家に目配せをしたような作品ではない「海岸列車」や「キッス」のような作品が、今後も商業漫画のどこかで変わらず漂ってくれたらいいのになぁ…などという中二病丸出しな願望が、この漫画を読んでいる途中、ずっと頭をめぐっていた。

Posted by Syun Osawa at 01:18