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2011年04月18日

これからの「正義」の話をしよう

マイケル・サンデル/訳:鬼澤忍/2010年/早川書房/A5

これからの「正義」の話をしよう ― いまを生き延びるための哲学この本は、「正しさ」の多様化によって価値判断がますます難しくなる現代において、自分の考え方がどのような主張に近いのかを知るのにとても有効だ。サンデルは、本の前半で様々な例を挙げていて、「あなたなら、このときどうしますか?」という問いを読者に投げかけてくる。そして、これを考えることによって、自分の考え方がリバタリアニズムに近いのか、リベラリズムなのかといったことがわかってくるのだ。

僕の考え方は恐らくサンデル本人の考え方に近いように思った。リベラリズムに近いコミュタリアニズムといった感じ。普段から新しいコミュニティの必要性を感じていたし、功利主義では補いきれない価値が必ずあるはずだとも感じていたので、サンデルが最後に宗教をあえて引っ張ってきたことにも納得したのだ。

とはいえ、アメリカと日本ではコミュニティの考え方も、宗教の取り扱いも大きく違うはずだ。さらに、特定の宗教に肩入れしていない僕としては、宗教が提供する倫理を超えた、もっと現代のニーズにマッチしたような普遍性を持った倫理みたいなものがあるべきだとも考えている。そこで政治思想みたいなものの中にそういうものを見つけようとするのだが、こちらも冷戦以降、複雑化していて見えにくい。宗教団体の創価学会と政治団体の共産党がともに支持層を広げられないことが、この事実をよく表しているようにも思う。

特に日本では、右翼と左翼の論争といったものが、サブカル的な意味しか持たなくなってきており、その空洞に入り込んだネトウヨ的な思想が、2ちゃんねるやニコ生などで拡散されている状況は見過ごせない。彼らがコミュニティの中心に据えようとしている偏狭なナショナリズムが、「日本」をさらに見えにくいものにしているようにも思うからだ。

ネトウヨなどのように特定の何かを徹底的に叩くことは、それ自体が見えにくくなった日本の価値基準を明確にするための方法であり、敵との相対化によって得られた場所にコミュニティを意識するための方法でもある。僕はこの特定のマイノリティを徹底的に叩くという方法には反対の立場だが、彼らが求めているコミュニティへの帰属意識にはコミュニタリアニズムの重要な要素が入っているようにも思う。

このあたりは、多様化、希薄化し続けるコミュニティについてもう少し勉強しないことには何とも言いようがない。ただ、ネットワークが前提の社会においては、同質の価値を共有し合うもの同士が感じるコミュニティへの帰属意識は、距離の概念を越えており、居住地域によって縛られるものではないと考えている。この点で、インターネットの登場は大きなパラダイムシフトが起きているはずだ。僕はこのあたりのコミュニティの問題が最近気になっている。次はジェラード・デランティの『コミュニティ』あたりを読んでみたい。

Posted by Syun Osawa at 22:41