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2011年05月07日

切りとれ、あの祈る手を ― 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

佐々木中/2010年/河出書房新社/四六

切りとれ、あの祈る手を ― 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話佐々木中氏の名前はライムスターの宇多丸氏の何やらで知ったのだと思う。で、気になって彼の処女作『夜戦と永遠』をジュンク堂で手にとって見たが、かなり分厚く、内容も難しそうなのでそっと棚に戻した。まぁ…頭がいい人がヒップホップをやるというのは、いとうせいこう氏やライムスターがすでにそうなので驚きもないため、僕としては、ヒップホップの流儀を文章の世界にターンバックさせてきた人なのだな…くらいの認識で終わっていた。

それが少し前、東浩紀氏がtwitterで佐々木氏に過剰反応をしているツイートを見かけ、再び彼の名前を思い出した。何でも『切りとれ、あの祈る手を』という本が売れているらしいと。しかもそれが、あの狭い島宇宙の人たち(これは文芸批評を読む読者層を指しているのかな?)の溜飲を下げているらしいと。東ウォッチャーの僕としては、これは読まないわけにはいかない。ジュンク堂でチラ見したところ、僕にも読めそうな文体で書かれており、とりあえず読んでみることにした。

いつものごとく長い前置きを書いているのは、これといった感想が浮かんでいないからだ。読んでいて気持ちのいい本だったとは思う。かなり熱気があり、読んでいるうちに僕の気持ちも熱くなってくる。そんな本だった。熱くなったんだから、それでいいじゃないか、という気もしないではないが、今の僕がそれを求めているのかな? と自分に問うてみれば、素直に「はい」と言いたくない気持ちも残る。

この気持ちのモヤモヤは、恐らく彼の言葉の中に古い左翼の教条主義の変種を見てしまっているからだろう。偉人達の言葉も美の捉え方も、その内容自体に異議があるわけではない。彼の言うロマンチックな〈革命〉に心躍らされている自分もいる。でも、僕が生きている現実の中で、彼の言葉の役割について考えると、少なくとも僕にとっては、心の処方箋としての機能しかないように感じられた。

もちろんその機能は必要だ。僕がやり直し系の物理なんかをやるときも、入門書ではなく導入本(例えば漫画教材とか)を読んでモチベーションを上げるし、それが最も根源的な一歩と言われればそうかもしれない。ただし、神様は非情で、いくら古典を読み返したところで、目の前の現実をどうにかしてくれるわけではないのもまた事実だろう。この本では、その困難な現実を力技でマッピングして乗り切ろうという言論人(社会学化の流れを助長している人たち)を、巧みな形でディスっていて、そこで流されている言葉の軽さを諌めているようにも見える。

しかし、これでは最初の一歩がなかなか踏み出せないのではないだろうか。なぜなら、その一歩が軽薄な一歩のように思えて、踏みとどまってしまうからだ。そして、次の一歩が決して軽薄なものにならないように古典を学び、モチベーションを上げていく。しかし、学べば学ぶほどハードルが上がり、ますます一歩が踏み出せない。こういうおかしなループ状態に陥ってしまいそうな気がして、なんだかスッキリしない読後感が残ってしまったのである。

まぁ、そんな風な印象を持たれることは、この本の本意ではないだろうな。うーむ。この著者は小説なども書いてるらしいので、次はそちらを読んでみるかな。

Posted by Syun Osawa at 15:58