bemod

2012年03月22日

さくら学院祭☆2011

2011年10月22日/18:30−20:30/渋谷 Mt.RAINIER HALL

長い間、アイドルヲタをこじらせている僕の目には、アイドルのライブの一つの完成形のように映った。

もっとも、ひとくちにアイドルヲタと言ってもその生態は様々で、アイドルのどういった部分にフェティッシュを感じているかは人によって大きく異なる。僕の場合は、もともとは雑誌のグラビアのビジュアルイメージからヲタに目覚め、SPEEDの登場以降、アイドルのライブパフォーマンスに惹かれていった。特にダンスミュージックが好きだったこともあって、ダンスのカッコよさにアイドルの可愛さを加えたパフォーマンスがとても光って見えたのである。

そのため、僕のヲタ視点はかなりパフォーマンスに重きが置かれてしまっている。昔はその傾向がより強かったせいもあって、ステレオタイプなアイドルをいかに超えるか? いかにプロのミュージシャンやダンサーの領域に近づけるか? もっと嫌な言い方をすれば、アイドルっぽくないか? …といったことを重視していた。いま思えば、何でそんなことをありがたがっていたのかわからないが、ヲタ視点のベクトルがおかしな方向に向かい、奇妙なロジックを組み上げてしまっていたのだ。

こうした思考をパフォーマンス主義と呼ぶ人もいる。2ちゃんねるやブログなどを見ていると、未だにこうした考え方で感想を書いている人も結構いて、ヲタの意見の少なくない部分を形作ってしまっているようにも見える。その結果、「なぜアイドルがパフォーマンスの向上に努める必要があるのか?」という素朴な疑問は棚上げになったまま、アイドルの定義が窮屈なところへ収斂されていくのだ。僕もずいぶん昔はこういう考えに固執していたように思う。

さくら学院は僕のこうした狭い考えを修正してくれたグループだ。それは単に「可愛ければ何でもいい」というある種の開き直りが、パフォーマンス主義を覆ったからではない。むしろさくら学院のパフォーマンスは学園モノのミュージカルのようなコンセプチュアルな仕掛けが強く、決してパフォーマンスを軽視しているわけではない。

ここからは僕のただの妄想だが、彼女たちの活動は、スキルの向上よりも「さくら学院」という作られたブランドイメージに貢献しているように見えるのだ。言い換えれば、「アイドルという枠組みからいかに超えるか?」ではなく、「いかにアイドルたり得るか」をマジメに追求しているグループに思えるのである。

さくら学院はコスプレ的に制服を着て歌うグループではなく、架空の学校の生徒であることを強く意識しているグループで、校内の活動の姿がそのままアイドルのパフォーマンスとしてフィードバックされる仕掛けになっている。さらに、校内の課外活動として、渋谷系を意識したバトン部やヘビメタを歌う重音部などの部活動も積極的に行い、今のアイドル業界で知名度を上げるための派手な演出も用意されている。

この派手な演出は、ももいろクローバーや私立恵比寿中学に代表されるように、新しいグループアイドルの一つの流れを形成しており、パフォーマンス主義とも親和性が高い。さくら学院の仕掛けが上手いと思うのは、そのエキセントリックな演出を放棄するのではなく、部活動というサブカテゴリにキープしつつ、メインにはあくまでも正統派アイドルのコンセプトを据えている点だ。

さくら学院が「いかにアイドルたり得るか」をマジメに追求しているグループに思えたのは、この点にあるのだ。なぜなら、サブカテゴリにおいてどれだけアーティストとしての側面を持ち上げようとも(こんなことをするのはサブカル的自意識のせいだろうが)、さくら学院というメインカテゴリがアイドルとしてきっちり回収してしまうからである。

また長文になってしまったw よーするに、アイドルからアーティストへという旧来型のベタなパフォーマンス主義が窮屈に思えていたので、そこに違った視点を提示してくれたさくら学院に感動したというだけの話である。

Posted by Syun Osawa at 01:42