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2012年07月31日

この世で一番おもしろいミクロ経済学

ヨラム・バウマン/画:グレディ・クライン/訳:山形浩生
/2011年/ダイヤモンド社/A4

この世で一番おもしろいミクロ経済学サブタイトルに「誰もが「合理的な人間」になれるかもしれない16講」と書いてあった。ここでいう合理的な人間というのは最適化された人間のことだ。人は常に自分の都合のいいように何かを選択しようとする。それは一見、他人に対して献身的に見える面倒見のいい人でも同様だ。その献身によって得られる他人からの感謝が自分への報酬になるからだ。

この本ではそうした最適化する個人について優しく解説されていた。学生時代に経済学を学んだことは一度もなかったので、僕にとってちょうどいいレベルだったと思う。そして、この本に書かれている最適化する個人という話が、僕が最近興味を持っているトピックスと重なった。それは次のようなものだ。

個人が自分にとって最適になるように意思決定を行っていくことを部分最適だとするならば、その個人が所属する集団が最適になるように意思決定がなされることを全体最適と言うことができる。このとき、部分最適と全体最適は必ず一致するとは限らない。また、他人の最適な意思決定が自分にとっても最適だとは限らない。

何となく当たり前のことを書いてしまっているが、何が書きたいかというと、各個人にとって最適な状態を実現するために、データベースが参照され、さらに最適化が加速していくのがネット時代なのだと僕は思っている。自分の最適化と他人の最適化がネットの情報を参照することで調整され、さらなる最適化が起こる。どんどん最適化が進んでいくのは良いことのように思えるかもしれないが、最適化が進めば進むほど息苦しくなってしまう。そんな事態が起こっているのではないかと思うのだ。

特に日本では、集団主義が効き過ぎて最適化が加速しているように思える。いわゆる「空気を読む」というやつで、その場の最適化が過剰なコミュニケーションによって進んでしまうのだ。しかし、その最適化が自分にとっての最適化であるとは限らない。にも関わらず、データベース的に「よい」とされる最適化に人々は向かい、よかれと思った進んだ結果、辛くなる。つまり、空気を読めば読むほどだんだん楽しくなくなるということが起きているんではないか。僕はそれを「最適化問題」と勝手に呼んでいる。

そして、この問題の一番のポイントは、自分が何を最適化しようとしているのかという中心の部分に確たる根拠がないところである。

Posted by Syun Osawa at 03:40