bemod

2005年11月03日

フジタよ眠れ ― 絵描きと戦争

菊畑茂久馬/葦書房

フジタよ眠れ僕が読んだ戦争画関連の本の中では一番面白かった(今のところ)。書いてる人が絵描きだからというのもあるかな? 難しい言葉でこねくり回してないし、わかりやすかった。

この本は戦後30年を経て書かれ、それをさらに30年経た今、僕が読んだわけです。30年前の段階ですでに、現代美術の語れなさを嘆き、戦争画の戦争責任みたいなものをバカと言ってるわけで、それを90年代に焼き直したってつまらなく感じるのは当然といえば当然なのかも。

さらに菊畑さんは、僕が国立近代美術館で「おおっ!」と思った藤田嗣治さんの『アッツ島玉砕の図』についても、非常に明瞭に絵に対する感想を述べています。

凍てついた氷の山を背景にした「アッツ島玉砕の図」は、地獄の怨霊までさむからしめる画面である。襤褄(ぼろきれ)のような生者と死体が波のうねりのように、たゆとうている。藤田は「決戦ガダルカナル」でもそうだがまず中心人物を描きあげ、一気に次々と周囲の人物を描いたそうだが、この玉砕の図は軍刀を持った山崎部隊長が主人公ではすでになく、その左の狂った猿のようになった兵隊を中心に展開している。山崎部隊長は、すでにこの画面の中では一番やさしい人物になっている。この方程式は藤田だけが得た最大のものであった。

さすがは絵描きの文章だなぁ。社会正義のフィルターをかけすぎて、もはや絵を見ることから遠く離れてしまったような反戦運動家だったり、戦争そのものをサブカルチャーの文脈に入れて語る現代美術の批評家(コンセプターでもいい)の戦争画の視点は気持ちにスーッと入ってこないんだけど、菊畑さんの文章は絵をまっすぐですんなり入ってくる。そして絵に対する愛も、作者に対する愛も、そして社会に対する愛も感じる。

この本、30年も前の本なのにそんなに古く感じなくて、たとえば漫画論の中で今でもたびたび繰り返されるリアリズム論争について、

「社会主義リアリズムの日本的導入による日本リアリズムの樹立。」「唯物弁証法的創造によるリアリズム芸術の実践。」「歴史的法則の正確な把握によるリアリズム芸術の展開。」
(中略)
ああみんなみんなリアリズムだ。芸術のリアリズムとは一体なんだろう。
このリアリズム信奉の中に、プロレタリア美術も、戦争絵画も、平和記念像も、万博美術も、百貨店の秀作名画も、みんな投げ込まれているのだ。

なんて書かれていたり、また現代美術についても、

今日の市民社会は人それぞれがそれに見合うだけの小さな人権と、小さな自由を確実に保有しているとみな一様に実感しているような社会である。それを保持するために、小さな豆粒のような自由の大群は、どこかで国家権力を支持しているのもまた事実だろう。市民は強大な国家権力のもとで、それぞれが平等で、中流で、人権と自由をほぼ保障されれていると信じている。現代芸術はこのような市民社会の現実にちょうど見合った形で存在している。芸術の想像力や技術が、よくも悪くもだんだん拡散しているのは、このような膨大な市民の平均的な意識によるところが大きい。無数のマッチ箱のような享受を満たす商品をもし現代芸術と呼ぶのなら、それから先はそれぞれが勝手にやれと言うしかない。

と書かれています。この本を読む限りにおいて、現代美術の世界ではこんな状況がズーッと変わらずに続いているということでしょうかね。そこで、新人類の現代美術家たちは卑下なるオタク文化を横からこそっと拝借して、オタク臭にファブリーズをかけた後、それを自分の手柄かのように世界へ打って出ようと思っているわけですか…。戦前にパリへ行って浮世絵行脚してた人達に似てますね。何となく。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:02