bemod

2005年11月09日

絵かきが語る近代美術 ― 高橋由一からフジタまで

菊畑茂久馬/弦書房

絵かきが語る近代美術昔、こういうじいちゃんから戦争の話とか聞いてたっけ。家から5分の病院の前にある家で…懐かしい。近代美術を取り巻く環境とか人間模様をおじいちゃんが面白おかしく語っています。画家だけあって、絵を中心に据えた語り口が新鮮。時代を中心に据えて絵を語る学者の話とかはアホな僕にはチンプンカンプン(これも死語か!)なことが多いので、菊畑さんの文章はわかりやすくてよかった。

この手の本を読む目的は「戦争画」にあるんですけど、近代美術の成り立ちそのものも面白いので、最近はそっちに引っ張られがち。菊畑さんの言葉の中にも明治から昭和初期にかけての激動の時代を体験できなかった悔しさみたいなのが滲み出てます。もちろんその裏側にはベッタリと戦争が張り付いている。時代に翻弄されながら生きている人間像。登場人物がキラキラ輝いて見えるんだからしょーがない。高橋由一も岡倉天心もフェノロサもみんな公務員みたいな人生送ってないんですね。

そんな中でも今回のひっかかりは黒田清輝の名言、夏目漱石の美術評、《アッツ島玉砕》とアナーキズムの3点。

法律を勉強しにパリに渡った秀才の黒田清輝が、悪いヤツら(画家たち)に影響されて画家を目指すことを決意する。その胸のうちをパリから父に宛てて手紙を送るんですが、画家を目指すいいわけをひとしきり書いた後の決めゼリフ。

貧富は只一世、死後の名に目を附るこそ男子なりと奉存候

カッコいいですね。僕みたいな無能の貧乏人が言ってるわけではなく、金持ちの秀才が言うからカッコいいんですね。もちろん金出してる父は激怒するわけですけど(当然です)。

もう一つ、夏目漱石がたった一度だけ美術批評を書いていたそうな。そしてこれがかなり素敵な内容らしい。ここにも名言がある。

芸術は自己の表現に始まって自己の表現に終わるものである。

彼自身、絵をたくさん描いていたそうで、そういう意味でもこの批評文は読んでみたいですね。

最後に藤田嗣治の名作《アッツ島玉砕》について。この死闘図の右下に描かれたヒメエゾコザクラと、戦前のアナーキズム詩人・秋山清の「白い花」という詩に登場するヒメエゾコザクラの奇妙な一致を指摘しています。

「白い花」 秋山清(1944年)

アッツの酷寒は
私らの想像のむこうにある。
アッツの悪天候は
私らの想像のさらにむこうにある。
ツンドラに
みじかい春がきて
草が萌え
ヒメエゾコザクラの花がさき
その五弁の白に見入って
妻と子や
故郷の思いを
君はひそめていた。
やがて十倍の敵に突入し
兵として
心のこりなくたたかいつくしたと
わたしはかたくそう思う。
君の名を誰もしらない。
わたしは十一月になって君のことを知った。
君の区民葬の日であった。

《アッツ島玉砕》は軍部に委託されて描かれた戦争記録画です。だから本来は記録だけしてれば良い。でも藤田はそうはしない。なぜなら彼は画家だから。この絵は戦争によって噴出した激情が良いも悪いも取り込んで表現されている。なぜだかわからない。

「ワーッ」と声を上げながら銃剣を持って突入する日本兵のあり様は、アメリカ人から見れば異様で、戦術的な面からはあまりに稚拙だった。それを意識していた兵士も多いだろう。しかし彼らは突入する。突入した兵隊たちは、ボロボロの背中に故郷を守りたいという強い思いを背負っていたからだ。《アッツ島玉砕》はその激しく複雑な感情がない交ぜになって、当時の戦争の様子を見事に表現している絵だと思う。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 23:11