bemod

2006年03月09日

漫画映画論

今村太平/1992年/岩波書店/新書

漫画映画論古い本なのに妙に新鮮な気分。

最初に発行されたのは1941年。その後で何度も再販が繰り返され、その際に修正と継ぎ足しがなされているようだ。そのため完全なオリジナルがどこまでなのかはよくわからないが、少なくとも初期ディズニーアニメを軸にして語られた「漫画映画」の在り方は、今もそれほど変わってない気がする。

原画あって、中割りがあって、背景美術があって、音楽があってと、作りは今も昔も多くの部分を人間が行なっているわけで、もしも今と違うところがあるとすれば、わずか5分間のアニメを作るのに7000枚の絵と300人のアニメーターの分業で作られたという驚きか。ディズニー・クラシックシリーズの神作品の裏側には上に挙げたような膨大な数の人間がまさに機械のように働いた成果だという事を再認識させられ、ピラミッドを今作れないのと同じような論理なのかなぁ…と思うに至る。

ところでこの本、漫画映画で使われる音楽についての文章が面白い。

録音技術の発達によって音楽を聴く環境が大きく変わった点を指摘し、漫画映画で使われる音楽がオーケストラに雑音を重ねているところに現代音楽の萌芽を見ている。

機械音楽は、楽器の音をゆがめることによって、今までの楽音のみの美音を否定し始めている。現代の聴衆は、つねにマイクを通して楽音を聞くため、楽器の生の美音を忘れ、それにたいしてしだいに感覚がにぶっている。
(中略)
したがってこの感覚の衰退は、楽音と雑音の結合した、新しい生活的な音楽にたいする、別の感覚を成長させている半面をともなっている。この事実を、われわれはシンフォニー・オーケストラの否定としての現代音楽の歴史の中に見出すであろう

まさにサンプリング音楽ですな。当時サンプラーなんてものがあるはずもないんだけど、どこかで通じている。さらには、映像と音楽、雑音などが一つになって初めて作品になるという感覚が、マイケルジャクソンの「スリラー」で極点になるのだとしたらなかなか素敵な本だと思う。

イデオロギー的な話も面白い。

一九二九年を境として、アメリカの歴史は二つの時期に分かたれる。一つは機械が未曾有の好景気を生みだした時期であり、一つはそれが、未曾有の恐慌を生んだ時期である。この恐慌によって戦後資本主義の一時的相対的安定は消えうせ、アメリカの永遠の繁栄が、単なる幻想にすぎないことがわかった。『ミッキーの移動別荘』の一瞬にかき消える美しい自然こそこの幻影であり、その後に現われた荒涼たる都会こそ、資本主義的現実である。アメリカのブームの消滅と、ヨーロッパ、アジアにおけるファシズムの嵐は、当然アメリカニズムの反省と資本主義そのものの批判とを生まざるを得なかった。

「機械技術の賛美、機械的合理主義の強調」としてのアメリカニズムの批判としてのディズニーは、プロレタリアにも大きな影響を与えている。このあたりは『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(平井玄/太田出版)を読んでないので据え置き。今村さんがこれを書いた1941年も「戦後」なんですな(そこ?)。

アニメーション表現について、今村さんは「漫画は写実ではなく観念の動きである」と捉えていて、その出自を日本の絵巻に見ている。自分の中で「観念の動き」はかなりヒット。たしかにその後の漫画でもアニメでもその部分がより細分化されているような印象を受ける。こっちの話は高畑勲さんが『十二世紀のアニメーション』という本を出されているようなので据え置き(こればっか)。

杉山平一さんの解説を読むと、今村太平さんというのは中学を中退したあと上京し、独学で芸術理論を拓いた人らしい。同世代の評論家や作家の悪口もないし、あくまでもディズニーアニメを中心とした漫画映画と日本の芸術を見据えた真摯な書き口でとってもわかりやすい。内輪ウケを狙ったような脚色もないし、文章もスッキり短い。こういう読後感爽やかなアニメ論って今も描かれているんだろうか。アート系と言われている小難しいアニメ論ではなく、漫画映画の系譜のアニメ論(ジャパニメーション論でもいいが)を読んで見たいなぁ。

最後に、ズガンとキた文章を引用。

静的なブロンディも動的なサザエさんも、社会について思考しないことはまったく同じと思うのである。だからこれらの漫画には深い諷刺は見られない。その笑いは表面的で無意味なスラップスティックに終始している。要するに新聞漫画はプチブルジョアの漫画である。プチブルジョアは中間的である。それゆえ笑いは無意味をねらう。無意味な笑いは社会的中間性の表現である。

アメリカの中流家庭の妻を静かに演じるブロンディというキャラクターと、日本の中流家庭の妻を慌しく演じるサザエさんというキャラクターについての言及が、それ以降の日本のエンターテイメントの方向性を示唆しているようでセンチメントの季節だす。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:12