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2006年07月14日

藤田嗣治展

2006年3月28日−5月21日/東京国立近代美術館

藤田嗣治展おなか一杯。

藤田嗣治関係の本をしこしこと読んできたこともあって、実際に生で作品を見ることができて妙な感慨に浸ってしまった。戦争画がらみで藤田さんの作品を見始めたこともあり、《アッツ島玉砕》を始めとする戦争画群についてはいろいろな思いはあるが、今回はそれとは別の「主線」と「子どもの絵」について特に注目して見た。

まずは「主線」について。

藤田さんが活躍した1900年代前半は、画家が海外に出る数は今に比べるとずっと少なかった。とはいえそれなりの数の画家が海外にわたっており、彼らは自分達のアイデンティティの所在を迫られ、海外で受ける浮世絵風な画風に安易に手を出すケースが少なくなかったらしい。当然、海外の批評家の中にはそれを厳しく批判するもの者あった。

そして、藤田さんがブレイクした乳白色の肌の絵も、面相筆で墨の主線を描いたものであった。そこに浮世絵の何やらがあることは否定できないし、僕には安易にそれに飛びついたようにも見える。今回の展示会で併催されていたトークイベントで、客の一人が「藤田は学生時代に日本画を学んでいたのか?」と質問をしていたが、講演者から明快な回答はなかった。

ちなみに、彼がパリで最初に自身の傑作だと思った《巴里城門》(1914年)には主線は存在しない。そして、彼は乳白色の絵のブレイクの後も、主線のある絵とない絵を交互に描き続けていくことになる。

実際に絵を眺めてみて、僕は彼は日本画をそれほど深く学んでいないように見えた。あくまで藤田のオリジナルの追及があったからこそ彼のブレイクはあったのではないかと妄想している。下書で主線を描いた後、着色の際に背景色と身体の色で下書の主線を塗りつぶし、その境目をなんらかの方法でぼかしている。その後、面相筆で主線を入れなおしている。彼の自画像を見ると、鉛筆立てにペン先も置いてあったので、もしかしたらペンも使っていたのかもしれない。

もしも藤田さんが日本画一般を深く学んでいたとしたら、当時流行していた「主線をあえて描かず、色と色の間をギリギリに空けることで主線を浮かび上がらせる手法」なども取り入れていたのではないかと思う。このへんの事情はまだよくわからない。当時の日本画と彼の絵の差をゆっくり比べてみたいと思う。

「子どもの絵」について。

晩年にたくさん描かれた、視点の定まらない子どもの絵と同系の作品が1920年にすでに描かれているのを知った。戦争画以降、その手の絵に取り組んだのだと思っていたので、ちょっと意外な感じがする。この点については、考え方を少し変えねばならない。ずっと生で見たかった《アージュ・メカニック》(1958-59年)を見ることができてよかった。

戦争と芸術 がらみで戦争画についても触れねばならない。ただ今回は触れないでおこう。戦争画については今描かれている戦争漫画なども含めもっと幅広く勉強してから、もう一度彼の作品に戻りたいという思いがあるからだ。彼の作品は世界の戦争画の中でもかなりのオリジナリティを発揮しているように見えるので、そのあたりも含めて課題という感じ。

ところで、藤田さんってピアスとタトゥーしてんだよね。
それが最高にカッコいい(そこ?)。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:32