bemod

2007年01月20日

なんとなく、リベラル(『文学界』2007年2月号)

小谷野敦/2007年/文藝春秋/A5

文学界 2007年2月号小谷野敦さんが「 悲望 」に続いて、再び小説を書いたというので読んだ。前回が自身のストーカー体験を赤裸々に語った高偏差値キモ小説だっただけに、今回はその続編かと期待したのだけど、今回はアカデミズムな人たちに対する当てこすり(?)のような小説だった。

とくに左翼系(共産党系?)の学者たちに向けての眼光が鋭い。タイトルのネタ元同様に多い注釈と平行して進行する「なんとなく、リベラル」な登場人物たちの像が、実際にいるかもしれない学者たちの本音の部分をついているように感じられるから不思議だ。

例えば、『戦争がつくる女性像』などでお馴染みのジェンダー学者・高桑みどりさん(小説の登場人物)が紫綬褒章をもらったことなどがサラッと書かれていて笑った。はてなの「若桑みどり」の項目を調べたら、紫綬褒章のくだりは小谷野敦さんが最後に編集していたことも判明。こうしたネットと小説の両刀使いっぷりもいい。

また、かつて左翼と言われていた人が国から賞をもらっていて、右翼と言われていた人がもらっていないという話も頷ける。快活でやんちゃなイメージの左翼な人を大人しくするには紫綬褒章とか与えておけばよいという国家戦略だとしたら、それに乗るのはあまりにもお粗末な話だから。そして、そんなお粗末な戦略であっても人間は権力の欲望を抑えることができないのだとしたら、右とか左とかいうものは、結局のところ登山で例えるなら「山頂までの道」Aコース、Bコースくらいの違いしかないのかもしれない。弱者の代表ではなくなってしまった後も、昔から少しも変わっていない自分を頭に描いているから、全共闘世代は面倒くさいのだと思う。あ…話がそれた。

ただ、こういう人(なんとなく、社会に問題意識のある人)がいま、大学教員の中にどれほどいるのだろうか? どっちでもない人(どっちでもいい人か)の方が圧倒的に多いのではないだろうか? そう考えるとこの物語に登場する人たちを、リベラルな学者が「なんとなく、リベラル」な学者に日和ったと見るのか、社会問題に無関心な学者が多い中で「なんとなく」でもリベラルな姿勢を貫こうと頑張っている学者と見るかで評価は変わるのだと思う。

とはいえ、岡山の大学を辞め、『エロイカ』などで嫌味な文章を書きちらかしている菰田から見れば、どちらでも同じとなるのかもしれない。そして、面白いことにワーキングプアな僕にも同じに見えるのだ。「なんとなく、リベラル」な学者の言葉がフリーターやニートたちに届かない理由はこのあたりにあるのだろうか。

Posted by Syun Osawa at 16:36