bemod

2007年01月25日

敗北の文学

宮本顕治/1929年/『近代日本の名著 7』(徳間書店)に収録

小プチブル(死語とかそういう問題じゃないなw)から抜け出せず自殺に至った芥川龍之介の文学を「敗北の文学」と言ってしまう潔さ。東浩紀さんの「ソルジェニーツィン試論」並みのサッパリとした印象は何だろうか? 若きインテリの瑞々しい感性か? 違う。なんか変なのだ。あんまり愛を感じないのだな。

何でも高校時代に文芸同人誌『白亜紀』を発行していた経緯があり、賞金の魅力も手伝って評論を書いてみることにしたらしいのだ。ただし本人は、この頃には文学よりも政治運動に熱中していたらしい。だから、芥川の文学に対して共感しながらも、アッサリとこう言ってのける。

私は、マルクス・レーニン主義の理論的正しさを信じていた。大衆組織には参加していたがまたプロレタリア前衛として全生活を革命運動に投げ込むには至っていなかった。自分に世俗的な希望を大きくつないでいる貧乏な両親のことが浮かぶときには、やはり重苦しい気分だった。晩年の芥川龍之介の語りかけた社会的生活的陰影の中には、中流、下層市民層に育ったインテリゲンチャに共通の敏感な苦悩が感じられた。彼は文学的なレトリックをある抑制を持って語っている。しかし、その本質は自分たち若者たちの当面している問題とつながっていることを感じないわけにはゆかなかった。ただ芥川は、肉体的にも精神的にも、その苦悩を生き抜くことで克服することができなかった。

そして、あえて厳しい。

我々はいかなるときも芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。我々は我々を逞しくするために氏の文学の敗北的行程を究明してきたのではないか。
「敗北の文学」を――そしてその階級的土壌を我々は踏みこえてゆかなければならない。

戦後まもなくして宮本は「『敗北の文学』を書いたころ」(『エッセイの贈りもの1』岩波書店)を書いた。軍国主義が敗れ、戦後民主主義がスタートした頃の文章で、自身の政治運動に対する強い信念と自信が感じ取れる。

「敗北の文学」に書いたこのむすびの言葉は実現されただろうかと私は自問した。そして数年間の革命運動の試練を経たこのときたんに注意としての方向にとどまらず、実践的感情としてためらいなくそれを肯定できると思った。

しかし、彼の政治運動は実らなかった。敗れたといっていい。だからこそ今、当時の彼のように政治運動に夢と希望を抱いている若者がいるとするならば、『敗北の「敗北の文学」』を書き、宮本を批判することでこれを乗り越えていくべきなのだ。それが敗れれば、『敗北の「敗北の「敗北の文学」」』を書けばよい。僕は、左翼は歴史に対して自虐的(自虐史観、受け)なのではなく、運動に対して自虐的な人たち(攻め)を指すのだと思っているし、その構造は右翼と同じであり、どちらもロマンティックなものなのだと思っている。残念なことに、僕にはそのロマンティックはないのだが。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 22:09