bemod

2007年02月01日

全体芸術様式スターリン

ボリス・グロイス/訳:亀山郁夫、古賀義顕
/2000年/現代思潮新社/四六

全体芸術様式スターリン難しかった…。

ロシア・アヴァンギャルドから全体主義芸術といわれるスターリン時代の社会主義リアリズムへの道筋は、戦争と芸術 を考える上で避けて通れない。そのため、難しい本と知りつつも、難しいままに無理やり読み終えた。フーコー、ドゥルーズ、ラカン、デリダなど現代思想系の哲学者の引用がちりばめられ、いわゆる構造主義とかポスト構造主義とかいう日本でもオタク文化研究でやたらと使用されている代物を道具にして話が進んでいくため、話が飛躍していて素人の僕が気軽に読むとわけがわからなくなる。わかりそうで、わからない。そんな状態がずっと続いている感じだ。

概観すると…

この本ではロシア・アヴァンギャルドのいきすぎた前衛主義がスターリン時代に台頭した復古主義としての社会主義リアリズムによって打倒されたのではなく、ロシア・アヴァンギャルドのさらなるラディカル化(政治体制および社会全体が前衛的、芸術的になっていくという意味で)の結果、スターリン時代に社会主義リアリズムが生まれたと言っている(…かどうかは、内容をあまり理解していないので自信がないが)。

新しい現実に関する統一的計画を作るというアヴァンギャルディストの正統的役割がこの政治権力に割り振られようとしているのである。全面的な政治権力を要求することは、アヴァンギャルドに内在する芸術プロジェクトそのものの当然の帰結ではあるが、それは本質的に、自分たちのプロジェクトを芸術的なプロジェクトとして承認せよという、現実の全体主義政治権力に対する要求にすり替わるのだ。

こうしてすり替えられた要求によって、アヴァンギャルドは敗北する。

 弁証法的史的唯物論というマルクス主義の教義を後盾としていた社会主義リアリズムにとって、社会主義革命は弁証法的発展過程の完成段階であり、その中間の段階はこの絶対的な究極の出来事の一種の原型であり、象徴であり、先取りであった。だからこそスターリンは弁証法に従ってアヴァンギャルドをラディカル化したのであり、またこのラディカル化によって「形而上学的」「観念論的」であるアヴァンギャルドは敗北したのだ。

敗北の後に生まれた社会主義リアリズムとは、もはや現実世界を描いているのではなく、ヴァーチャルな「セカイ」を描いたユートピア芸術だったのである。後光が差す怪しいスターリンが描かれた世界観はまさに楽園。もはや現実の社会を反映しておらず、現実が地獄であってもそんなことは関係ないのだ。これをナチ芸術やアメリカの広告芸術などもひっくるめてプロパガンダとひと括りにするのも悪くないが、もっとつまらない発想として「セカイ系」との関わりについてこだわりたい気持ちでいっぱいだ。

前衛芸術の抽象性は過去に対する強烈な否定という点で、現実のトンデモな出来事(戦争など)を無効化する方向にベクトルが向いていた。そのベクトルがより先鋭化し、別次元へと突き抜けた結果が社会主義リアリズムなのである(本当か?)。これはナチ芸術のように現実の中で前衛芸術とは逆向きにベクトルを働かせたのとは少し趣が異なるのだ。ヒトラーがフェルメールを愛したことからも推測できるように、ナチ芸術はあくまでも現実を見据えている。

もちろん社会主義リアリズムには、シュルレアリスムとしての側面(ダリに対して一定の評価があった)もあり、社会主義リアリズムのパロディとして生まれたソッツアートとの関係も含めて現実から剥離しているとは言い切れないかもしれない。この点については、とにかくもっと多くの作品を見ないことには何とも言えない。この本についても、いろんな意味で読めていない部分が多かったので、少し時間を置いてからもう一度トライしてみようと思う。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 22:22