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2007年05月18日

学校とテスト

森毅/1977年/朝日新聞社/四六変型

学校とテストゆとり教育が始まる前に「ゆとりを持っていきましょうや」といった教育論を展開している本。この本が出たずっと後、日本でゆとり教育が行われ、その弊害として学力低下が叫ばれて、全国一斉学力テストが実施された(←現在ここ)。

森さんの主張はアナーキスト的立場にあるので、彼の主張をそのままを教育現場に持ち込むことは不可能だろう。「絶対的な教育などありない、本来学校は無用である、であるがゆえに…」といった風に主論が常に逆説的であるからだ。僕はこの考え方を全面的に支持するのだが、ダメ風をふかしながら自嘲気味に自分を語りつつも、その語り口が常に遊び心にあふれており、人に優しく、それでいて学びに対して真摯的かつ有能であり得る人なんてほとんどいないだろうという思いもある。だって、それは森さんだから…というのはどうしても消えないのだ。

この本の前半では学力テストについてページが割かれている。

テストによる均質化が学力に対する考え方の動脈硬化を引き起こすという事態は、この本が書かれた70年代も00年代も変わっていないこと、そして、そうした偏差値幻想の根拠には「学力集団」への願望があり、それは今も昔も同じであることがわかった。

テレビで何度も語られる近視眼的な「最近の若い者は…」という主張は、自分たちが同質の学歴社会を生きてきたこと放置するものであり、その後の中途半端なゆとり教育が結果的に学力集団への願望をより一層強化してしまったことへの冷静な分析もなされない。

だからといって批判だけを繰り返し、ニヒリズムに浸っていればよいというのではない。ニヒリズムを通過した後が最も重要なのである。そして、その命題は今も昔も変わらないはずなのだ。

アホラシイからヤーメタ、といった短絡的傾向が増えてはいるが、〈アホラシイけどヤッテミルンダ〉というのは、きわめて人間的なとくに青少年期の特性とさえ考えられる優秀な資質に属する。人間文化なんてものは、概してそうした心情のもとに発達してきたのである。

この考え方は宮崎駿さんの『 風の帰る場所 』(ロッキング・オン)からも読みとることができる。

Posted by Syun Osawa at 23:06