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2007年07月01日

異文化とコミュニケーション ― オタク国家・日本の危機

島田裕巳/1991年/日本評論社/四六判

異文化とコミュニケーション島田裕巳つながりで読んだ。超流し読み。

80年代にオタクという言葉が使われはじめたときと、2007年現在ではその言葉が持つイメージは変わっただろうか? 変わったとも言えるし、変わっていないとも言える。ただし、オタクを一つの団体と捉えると、いろいろな価値概念を取り込みながら巨大な組織になったことだけは間違いない。

島田裕巳によると今から16年前の1991年、オタクは以下のようにイメージされていた。

オタク族とは、適当にバイトをしながら、親のスネをかじり、親の与えてくれた個室に鍵をかけて閉じこもって、自分の趣味の世界に生きる若者たちのことをさす。かれらは、一般の人間からすれば、そのおもしろさが理解できないこと――売れないアイドルを追いかけたり、昔のアニメのビデオにこったりといったこと――をマニアックに追及する。かれらは、話し相手のことを「オタク」と他人行儀に呼び、緊密な人間関係が生まれることを回避しようとする。このオタク族という言葉には、そういった若者たちを批判しようとする社会の姿勢が現れている。

このイメージは今も変わっていない。ただし、オタク族はオタク族の中だけで相互扶助しあえるほどに巨大になってしまった。

数が増えれば、カッコいいオタク、お洒落なオタク、金持ちなオタク、高学歴なオタクも出現する。そして、特に世代が下になるごとに官僚化が進んでいく。核となるオタクのイメージは今も変わらないはずだが、組織の巨大化によって、オタクのイメージは平準化され、一般人と大差なくなってしまう。そうするとオタクのコア部分がなくなり、団体としての吸引力が薄れてしまうのだ。これって『 創価学会 』で読んだことと妙に似ている気がする。というか、自然の摂理なんだよね。おそらく。

Posted by Syun Osawa at 23:18