bemod

2008年12月13日

ニセ科学フォーラム2008

2008年11月9日/学習院大学 西5号館 地下B1教室

今回は、現代思想や科学哲学の中に潜む怪しげな科学の話を『「知」の欺瞞 』の訳者でもある田崎晴明さんから聞く事ができた。特に相対主義に起因していると思われる理科教育界の怪しげな言葉に対する突っ込みは面白かった。

「科学が絶対ではない」という相対主義的な科学観は別に悪いことだとは思わないが、その行き過ぎには問題があるといった話だった。科学にできることに限界があることは自明であって、だからといって、全否定されるものではないのだ。そして、そういう解釈論めいたものを、理科教育の土台の部分に置くのもちょっと変なのだ。

例えば批評の世界などでは、現在の状況が「ポストモダンが自明となった世界」であるとして語られることが多い。そこでは、科学も一つの価値観に依存した世界観に過ぎないとみなされ、中には科学と疑似科学の対立でさえ別々の島宇宙同士での対立でしかないと言ってしまう人もいる。

たしかに科学と擬似科学の間にはグレーなゾーンが多いし、明確なラインなどあるわけがない。だからといって、何でもありというわけでもない。日常生活を通して経験した中から、合理的に取捨選択されているものが科学を形作っている。そのことを根拠に「結局は自然科学という考え方」とするのはかまわないが、既存の知見との整合性を図りながら論理的にネットワークが築かれてきたその考えを切り崩すのは、どんな天才哲学者にだってできるとは思えないのだ。

『水からの伝言』などの有名なニセ科学話は、個人的にはもういいやって気持ちもあるのに(最近はナノイーイオンですか?)、世間的には未だに教材として使われていたりするらしいし、ゲルマニウム関連の商売も繁盛していたりするから驚きだ。

これらの問題が深刻なのは、怪しげな話が科学的な装いによって真実味を帯びていることと、情報の流通段階でそれらの情報の怪しさをきちんと知らせることができず、メディア戦略次第でニセ科学情報が科学的な警鐘を上回ってしまうとが問題なのだろうと思う。

もちろん科学的に正しいことだけを流すように情報統制しようなどと誰も思っているわけではない。むしろ自由を守るため、何でもかんでもすぐに信用しないといった程度のリテラシーを育てることが、早急に求められている課題だと考えている。

Posted by Syun Osawa at 18:24