bemod

2008年12月30日

〈宗教化〉する現代思想

仲正昌樹/2008年/光文社/新書

〈宗教化〉する現代思想「それを言ったら何でも形而上学」というわけか。結構面白かった。同業者?へちょこちょこ嫌味を書いているのは、彼の芸風なんだろうか? 特に左翼系の思想家、批評家に手厳しい。

というのも、マルクス主義者は唯物史観なわけで、彼らは形而上学ではないと思っている。ところが、観念論×唯物論という対立軸でものを考えることそのものが、二項対立の図式であるわけだから、それが形而上学であると筆者はいう。

人は何か「真理」みたいなものを求めているとして、そのことは構わない。それは考えることであり、哲学といえるからだ。ただ、ある人が「真理」に到達したと述べたとき、そこには形而上学が入り込む。そして宗教的にならざるを得ないというわけだ。

で、そういう風に考えていくとですな、冒頭に書いたように「それを言ったら何でも形而上学」となる。

こういうやらしい態度でものを考えている人は現代思想の〈宗教化〉が引き起こす事態に翻弄されることはないのだろうが、仲正が指摘するように「二項対立的闘争を通して『歴史』が『週末』に向かって進んでいく」という世界観・歴史観によって哲学は新興宗教のような求心力を持つようになってしまう。これはちょっと危ない部分も含んでいる。

哲学という営みが、伝統的な宗教の影響が弱まって不安が高まっている社会において、宗教に代わって、人々に真理、理想を提供し、少しばかり安心させる機能を担っているからである

だからこそ、いつも問い続けることが重要で、相対的にものを見ることをやめてはいけないという発想が出てくる。先日、相対主義批判のソーカル『 「知」の欺瞞 』を読んだばっかりなのに、相対主義もありだなんて話になると、どちらの主張も納得できる話だったのでちょっと混乱してしまうなぁ…。

今回の本ではヒューム哲学の道徳の話がとても参考になった。

ヒューム哲学では、“道徳の法則”だと我々が思っているものは、自然界に“因果法則”が見出される場合と同様に、習慣を通して、つまり他の人間との相互関係における経験が生じるような振る舞いを、各人の「情念」が志向する様になり、それに伴って「善い振る舞い」が社会的にパターン化されてくる。この場合の「共感」というのはルソーの自然状態における「哀れみ」のようなものとは異なり、お互いの「情念」を自分のうちでシミュレーションすることによって、相互の振る舞いを調整する能力である。人間世界の道徳や法の“起源”は、各人の習慣が集積された「習慣 convention」なのである。

こういう経験則に基づくような話だったらすんなり受け入れられる。

Posted by Syun Osawa at 00:28